はてなキーワード: ゲーム脳とは
よく「論文が出てるだろ」とか言うけど、ゲーム脳だって論文が出てるし怪しいものだと思ってる
論文を書く人ほど「論文が出てる」というだけの情報には価値がないことを知っている
それでもマスクが無いよりはあった方がマシでしょ?とか言うけどマスクが免罪符になってライブで大声出されるよりはマスクなしで黙ってる方がマシなんじゃないかという風にもとれる
まぁ現実ではマスクなしで大声出されるのでマスクは必須なんだろうけど、空気感染するなら不織布マスクでOKな理由はどこにもなくなってしまう
じゃぁみんなN95マスクをするの?っていう話になるけど、それやるぐらいなら合わせて屋外での飲食も全面禁止とかしないとバランス取れないしあんまり現実的じゃない
効果的なことを重点的に要請しないと「100%なんて無理!」って言われて50%ぐらいの対策をやる人が多くなる
「80%でいいんで」っていうお願いをするためにも効果検証はしっかりしてほしい
例えばアマゾンから届いた荷物を受け取るときにも玄関でマスクをして受け取って玄関に戻ってからマスクを外す、という行為がどこまで効果があるんだろう
海外だとその辺のリスクはしっかり意識してメリハリを付けてる気がするけれど
日本は同調圧力が異様に強くてこのままマスクが文化になりそうな気さえする
「海外では土足が普通だけど、日本は土禁だよ」っていうのと同じノリで「日本に来たらマスクをしてね」みたいになるんじゃないか
ワクチン接種もコロナ根絶にはほど遠いということが分かったからには、ある程度のリスクは許容するような要請が必要なのに
「低リスクなマスクは必須、高リスクな飲食はOK」みたいな非効率なことをやりかねない、というか今既にやってるのがモヤモヤする
五輪の開会式でゲームのBGMが大々的に使用されていて好評を博していた。
世界中の選手が入場し、天皇陛下や総理なども列席するイベントの音楽にゲームBGMが採用され、アナウンサーは「日本が世界に誇るゲーム音楽」という感じで紹介していたようだ。
これ自体は文句なく素晴らしいことだし、開会式も思っていたより遙かにまともだった(事前のゴタゴタで期待値が低すぎたせいもあるが)。
しかしながら、末席ながらゲーム業界で働いている者の実感としては、なんというか違う世界を見ているような気分になったのも事実だった。
というのも、私の実感ではいつゲームが国家の一大イベントの音楽に採用され、「日本の誇り」と当たり前のように語られるようになったのか解らないからである。
思えばリオ五輪の閉会式でも当時の安倍総理はマリオのコスプレをしていた。これもまた画期的なことで、政府が世界に通用する、知名度の高いコンテンツとして実利的な観点からゲームを選択したと言うことだ。
しかし、日本政府はそこまでゲーム産業の知名度や競争力を理解しておきながら、ほとんど国家としては何の支援もしてこなかった(そして現在も特にしていない)。
クールジャパンという題目が掲げられて20年ほど経つが、その間についぞ政府の支援を受けてゲームが作られたという話を私は知らない(これは本当に無知なだけかも知れないが)。アニメ業界にも共通する、末端のクリエーターの低賃金、長時間労働は一向に解決されていない。
マリオの生みの親、宮本茂は2019年に文化功労者に叙されるまで何の政府からの表彰もなかった。人間国宝でもおかしくないだろうに。
世間の目も一貫して冷たかったはずだ。ゲーム脳等というオカルトが蔓延ったのはさすがに一昔前だが、今でもゲームというのは教育に悪いもので、映画や文学などの「芸術」とは違う、低級なモノという偏見は拭われていない。香川県では県ぐるみでゲームの規制が進行している。
そもそもゲームがお茶の間の話題になるのはせいぜい新型ゲーム機が発表されて電気屋に行列が出来たときか、任天堂からポケモンの新作が出たときくらいである。
例えば日本のゲームがGoTY(その年に発売された全世界のゲームの中で最も優れたゲームに贈られる賞)を受賞しても、それを大きく報じるのはあくまでゲームメディアだけで、一般のメディアには触れられさえしなかった。
国産ゲームがGoTYを受賞するというのは、その競争率や産業の大きさを考えれば「邦画がアカデミー作品賞を受賞する」「日本がワールドカップで優勝する」といったインパクトに匹敵する偉業といっても大げさではないと私は思う。
しかし全くニュースにもならない。ゲームというコンテンツを楽しむ人の数は映画やサッカーに全く負けていないはずなのに。
ちなみに日本は2000年代以降でもGoTYを3度受賞している。
このようにして、日本のゲーム産業というのは国から無視され、社会から蔑視されつつ、勝手に作品を作ってきた。予算の桁が一つ違う海外産のゲームにアイデアと日本独自のテーマなどを駆使してどうにか張り合ってきた。
そうしているうちに海外では評価されるようになり、今や一部の例外的なジャンルを除けば、国産ゲームの売り上げの大半を海外での売り上げが占めるようになった。
自分の認識している日本におけるゲームの立ち位置というのはおおよそ上記のようなものだ。
だから、オリンピックの式典のようなハレの舞台に唐突に日本のゲームが登場し、「日本が世界に誇る~」みたいな紹介をされているのを見るとパラレルワールドに来たような気持ちになった。
「今まで無視してきたのに都合良く利用するな」という憤りより、戸惑いの方が大きい。
ジャーナリスト、ノンフィクション作家として有名な立花隆。
「ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊」で、次のような予測を書いている。
滅びるどころか、テレビゲームは社会に浸透し、eスポーツとして社会に益をもたらしている。
前頭前野のβ波がα波に比べて低くなる。
β波が低くなった状態は、痴呆症(認知症)の脳波と一緒になる。
森昭雄の学説と実験については、ゲーム脳を支持した連中に負けないくらい、反論と批判が多い。
森昭雄が実験に使った「α波β波解析用携帯型脳波計」に問題があるとか、
さらなる問題は、ゲーム脳を肯定し、いい加減な結論を下した立花隆だ。
立花隆は2000年代前半に話題となった「キレる若者」についても、鵜呑みにしている。
「最近の若者は羞恥心がない」「若者の相当数は脳機能が低下してる」などの俗説を、無批判に垂れ流している。
考えなければならないのは、ゆとり教育で週五日制になった結果、子供たちがいちばんふやした時間がテレビゲームに費やす時間だったという事実だ。(P.329)
デジタルゲームとeスポーツの発展において、立花隆の言説は害悪だ。
死んで良かった。