はてなキーワード: 証明写真とは
「証明」写真ってのは、本人かどうかを証明・照合するためにあるんだ!!!!!
お前の小さい目ん玉が、小汚い肌が、分厚い唇が、ボサボサの髪が!!!!!お前自身を特徴づけてるんだ!!!!!!!!!
それを加工したら本人かどうか、替え玉受験かどうかが分からねえだろ!!!!!!!!!!
目元が違いすぎて、試験中に「すみません、マスクをずらしてください」ってお願いして、マスクずらしてもらっても!!!!!!!!!!!!
口元がもっと違ってて、さらに分からねーーーーーーーーんだよ!!!!!!!!
15秒くらい受験票と本人を見比べて、結局本人かどうか分からないんだよ!!!!!!!!!!
なんでバチバチに加工した写真を貼り付けたお前が、気まずそうにしてるんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!アホか!!!!!!!!!!!!
今年の夏は生まれてから31年目を迎えた。前に「失業」してから4年経とうとしている。その失業した仕事は契約社員を2年、それ以前はアルバイトで4年近く働いてて一番長かった。どちらも複数の理由で辞めたけど、片方は天災も絡んで色々厳しかった。
失業元年は失業手当を受けとれた。東京の家賃が安い穴場に住んでいるが、感染症が蔓延したり、オリンピックが強行されたりして、公共交通手段を積極的に使うのは憚られる時期だったし、元々フットワークが重い方なのでその時期の生活には馴染んだ。
初めはいやな仕事場から解放された喜びが大きかったし、まずは通勤からの解放を噛み締めた。続いて自炊や家事、ライフラインの見直し、選挙に行く、体調に合った健康的な食生活=結果金がかからなくなったりとか、預金とか、やらないと損するポイ活に渋々着手とか。生活を色々変えてゆき、その余裕ができたことに恩恵を感じ(早く辿りつきたかった悔しさ混じりではあるが)喜びはあった。
その後、去年は貯金で旅行に行ったが、一度前日や旅先で眠れなくなって不調になり、戻ってからは11連勤の倉庫作業で金を稼いだ。それは電車で数駅、混雑と逆方面だったから、やればできてしまう早起きをやった。夏に冷房のない過酷な環境だったが、ウォーターサーバーや塩飴から配慮を感じられたこともあり、熱中症や指の痛みに耐え、残業も全部出た。最終日の帰りには酒を10杯くらい飲み路上に座る、という金銭面にも身体面にも代償を出してしまい、しばらくは自責の念が止まらなかったけど、今は喉元すぎて、場所の思い出になった。
久々に働いた勢いで、一度は試したかったチャリ通勤の範囲のアルバイトを半年やった。展覧会の監視業務。近所で落ち着いた環境で試しに働くことを重視して始めたが、何もせずに座ってる時間が多すぎたのと制服がないのにそれっぽい格好を求められるのが面倒で、ずっと続けることは考えられなかった。3ヶ月の休止期間に入ったこともあり辞めてしまった。
今年の春は催事に挑戦した。呼び込みが必要な食品販売は大学生の頃に事前講習で泣きを見て(大きい声を出すのが苦手)避けていたのだが、表情がマスクに隔てられていること、書類提出だけで済むことに背中を押された(そういう派遣は昔より増えたように感じる)。割りが良かったから二ヶ月半関わったけど、雇い主は高圧的で人生最悪の労働が発生したり、待機が長すぎたり。催事の性質上先が見えないこともあり途絶えてしまった。
いまは月に10万も稼いでいない。業務委託の時間固定報酬で、国民健康保険に加入してて、将来貰えるかわからない年金は止めっぱなし。
現在の仕事の合間を埋めれるもので、且つひとつでも長所のある求人があれば応募しているけど、中々面接に漕ぎ着けない。履歴書の形式破りが悪いのかとか(大幅に手を加えてしまっていたが、過去に受かるものはあったので気にかけてこなかった)、8年前の証明写真の口元の歪み(静止して撮られるのが大の苦手だ)を素人レタッチしたりとか、こんなことで査定されたくない気持ちと、かといってこんなことで弾かれたらひとたまりもない気持ちが、長すぎる毎週末(土〜月)の間にそそのかしてくるから、最近は応募のたびにアップデートしてみてもいるが通らず。大学卒業後のいわゆる就職活動が嫌でやらずにきているから経験が乏しいけど、求人応募は「お祈り」の経緯が示されないから、一方通行で学びもなくてしんどいなと思う。
自分は今、図書館をありがたく思っている。電車通勤時はいつもすれ違っていたのに、今年まで利用することはなく、その豊かさを知らなかった。本を知って読みたくなったときには、その時に脈々と流れていたムードが発端だったりするけど、買わなかったり忘れたりする。図書館では値段とかどこで手に入るかとか気にせず、どんなジャンルの本から手をつけてもいいなんて最高の状況。高い住民税を払ってきた理由の一部をここには見出せる。
Podcastもバイトの休憩の食事時間を埋めるのに聴いたことから、触れる時間が増えた。集中行動が気まぐれなので、興味があるのに未着手のコンテンツはありあまっている。ちなみに自分はストリートビューが高校生の頃から好きで、それを含めたら手をつけていないコンテンツがありあまっているといえる。自分がたのしませてもらってる創造物の作者に還元できたらしてみたいと思うけど、それを中心に据えれば何してでも働くとはなれないし、働いていたときにどれだけ還元してたかと思うと失業する先を見越して、今より懐が狭かったようにさえ思うからあきれる。
お金があると、やりたいことは色々発生してくるし、それに付随して近視眼的にお金を使う。そして旅の休暇は短い。お金がないと、情報とか近所のもので満足してしまうようやりくり上手になるのかも。近所を観光するようになる。時間は余りがちで、金を要する欲望はどんどんしぼんでいる。いつか遠くの街や、別の住処に引っ越したいとか、いつかチャリ以外の乗り物を運転できたらいいねとか。確固たる「自分ひとりの部屋」は体験したいがそれさえ忘れがち。憧れも順位も大変ボンヤリしている。夢だとか何かを絶対やりたいって意欲的な感情はなく、希死念慮が老後の不安なんかは覆い隠している。実際に金をつくってやってみるしかないんだろうな。
多分そう。この生活を続けるのも、これ以上何もしないわけにはいかないんだろうなと立ち返る。また眠れなくなると辛いしたまに人に会うとき眠いと困るから、今ある服が入らなくなると面倒だから、週4日はまじないみたいにきんにくんの筋トレ(3年目)して体力を消費する。隙あらば「死にたい」と口にせずには生きられないし、これ以上健康体になってどうするのか、とも考える。一方で、自分は寄りかかってる人々に対して無責任すぎるのか、とも考えてみる。一人と折半で生活している、インフラ(という名のケア)の十分な都市に住んでいるという事実以外で、個人との繋がりは希薄で、日々老いていくなか孤立無縁を分散したり予防できてないから。さあ働くのかどうか。
この絵のどこが凄いのかわかるだろうか?
それは・・・
昔の庶民は字が読めなかった。字が読めなければ当然聖書も読めない。
牧師さんたちは字の読めない人のため、教会の壁に聖書の名場面を描き始めた。宗教絵画の始まりである。
親方、師弟制度、そして職人ギルド。絵を描くことで金を稼ぐ専門家集団。彼らは芸術家ではなく職人であった。
彼らの稼ぎのもう一つは肖像画である。昔の金持ちはよく肖像画を描かせた。我々が写真館で証明写真や753の写真を撮るように、彼らは自分や家族の肖像画を描かせたのだ。当時の絵描きは写真屋の代わりであったと言える。
写真屋から出発した西洋美術がよりリアルに、より精密に、表現が発達していくのは歴史の必然であった。
長い時が流れ1866年、「笛を吹く少年」エドゥアール・マネはあえて背景を描くのをやめた。マネは絵をデザイン的に捉え、少年の赤い服を魅き立たせる補色を背景に置いたのだ。
マネは写実主義から印象派へと人々を導いた。「印象派の父」として知られる。
『あえて背景を描かない』
現在では手抜き絵と呼ばれる
家の近くに証明写真機を置いてるところがなくて、30分あるいて駅まで行って一駅先が一番近い
便利な時代になったなあ
値段もたった300円、しかもシールプリントなので糊も両面テープもいらない
印刷された写真は画像データよりもやや白っぽく光で飛ばした感じにはなってた
証明写真に適する形式に微調整ということなんだろうけど まあ十分か
受験票の写真貼り付け欄に、裏面に氏名生年月日と受験番号を必ず記載せよとあり、いやシールだし…とそのまま貼り付けた
うちの会社の社内ポータルには投稿機能があって、営業部のイベントの宣伝とか役員のメッセージとかそういうのが流れてくる。
中には、ブログみたいに日記のようなものを投稿する人もいるけど、そういう人の中に「壊れちゃってる」人が結構いる。
要は、会社の制度に共感しきれないほどの怒りをぶつけたり、私怨のようなどす黒い感情をぶちまけたりしてる。
で、そういう壊れちゃった人たちになんとなく共通点が見つかったので、垂れ流してみたい。
そういう人たちから感じるのは、長いこと「所属している組織で、あまり良く思われていない」こと。
ものすごく嫌われているわけではないが、「ああ、あの人は・・・」みたいな扱いをずっとされてきたんだろうなあ。というのが伝わってくる。
その結果、本人が自分の周りと比べて「自分は評価されていない・不当な扱いを受けている」と感じ続けた結果、壊れてしまうというもの。
それは、退職を決意するほどでも、メンタルヘルスを害して休職に至るほどでもないが、ただ「ゆるく」さらされ続ける
手厳しく会社を糾弾する彼ら・彼女らが会社を愛していないのかといえば、むしろ逆で、「この会社で働いていること」を誇りに思っていたふしすらある。
この会社で働いていることは、彼ら・彼女らのアイデンティティの大部分を締めているし、自分が社内で発揮してきた能力に自身を持っている。
ただ、その「能力」はほとんどが過去のもので、現在の事業や社会においてはさほど役立つものではない。ようは陳腐化した能力なのだ。
このミスマッチ(と本人の資質?)からくる低評価をどうしても受け入れきれず、「可愛さ余って憎さ百倍」状態で、会社を批判する。
これは、まったく根拠がない決めつけだ。
上記の社内ポータルには、社員のプロフィール機能がり、(やろうとおもえば)自分の顔写真をプロフィールに登録することが可能である。
つまり、ここに書いている人たちの一部は自らの顔写真つきプロフィールを晒した上で、自分のような赤の他人に「壊れている」なんて評される投稿をしているのである。
そんな顔写真を見て、なにか得体のしれない違和感に襲われていたが、その違和感の正体が「目の焦点があっていない」というものだった。
あっていないというかは、「本来合わせるであろう場所にあっていない」というのが正しい。
顔写真なので、証明写真であっても自撮りであってもカメラマンに撮影されたとしても、カメラで撮影するので、カメラのレンズの場所を見るはずだ。人と正対して会話するときに相手の目を見るように。
だが、彼ら・彼女らの写真はなぜか「カメラのレンズに目を合わせている痕跡」がなく、もう少し先の別の何かに焦点があっている。
この現象が、本当に「壊れてしまうこと」と何らかの因果関係があるかは、調査してみたい。
散々書いてみたけど、別に彼ら・彼女らに何か不満や文句があるわけではない。乏しめたり同情する意図もない。
ただ、誰しもこうなることはあり得るし、本人は本人で悲しみや苦しみを抱えているのだろう。そういう想像力だけは持っていたい。
妹はイラストを見てもらいたくてTwitterに絵垢なるものを持っている
30になる妹は不登校で中卒でニート、実家暮らし、体重は90キロ、趣味はapex
描いてる絵はわざわざアカウント作るほどか?というクオリティで、ワンチャンプロになるのも難しいと思う。
さらに悲しいのがその絵の内容で、
8月の夏休みの絵日記風イラストなのに、なぜか冬服を着た女子高生が出てくる。
朝4時まで徹夜でapexやって有給使うか悩むイラスト、当日に私用で有給くれるバイトって無いよ。
冷凍庫を発掘してたらアイスが出てきた!のイラスト、ウチの冷凍庫汚いもんね。
すごく太ってる自分の体型が自然と絵に現れてて、絵のキャラもふくらはぎがストーンとしてる。
女子高生が証明写真を撮って働きたくね〜みたいなイラスト、そのままの妹の姿で悲しい。
apexで知り合った人が「うまーい!」とか何も知らずに褒めてて、「もうこの子完全に人生終わってるんです。褒めてハンパに寿命伸ばすのやめてください」って思う。
早く死んでほしい。
何度見ても不細工な顔だな…
モテた事もなく、老け顔だから自分の顔が嫌いだし、出会い自体にも億劫だった
どんなに頑張ったって異性から忌み嫌われる顔なんだろうなと思って見た目に気を使う事はしなかった
とはいえ、40歳が見え出してそんな事言ってたら本当に日の目を見る事もなく終わってしまう事が怖かった
最近運動で体を鍛え始めて少し自尊心が回復したのでその勢いで自分の写真を撮ってみたけどやっぱり現実は変わらないな…
簡単に画像をレタッチしていると、汚物を処理している気分になる
癖毛だから短髪にして櫛を通してもモコモコして毛が跳ねる…
目が細いから目付きも悪い
ほうれい線も目立ち始めた
まず書くと、俺は嫁を数年前に亡くしている。
そこの詳細は省くが、先日7回忌を終え気持ちに余裕があるので、おまいらにも同じ後悔をしてほしくなくて書くぞイ!余裕と書いたが別に元気だぞイ!
嫁は写真が嫌いだった。
会社の集合写真でみんな笑顔で!とか言われてたのに1人だけすげー変な笑顔で映っていたから上層部判断で嫁だけ外されたのは今でも義母さん達と話のネタになるぐらい、それぐらい写真に対して抵抗があった。就活の時は証明写真機の前で5時間ぐらい己の中の写真嫌いな気持ちと戦って撮ったらしい。
だから俺も嫁の写真は撮ってなかった、別に撮らなくても困らなかった。むしろあれだけ嫌がってるのに撮ろうという気にもならなかった、カメラを向けたら俺は殺されていたかもしれない(^_^)
俺たちは訳あって結婚式とかもしてなくて、嫁もウェディングドレス興味ないって言ってたし、まあ普通にいつも通り旅行行って、嫁の家族と食事会して、ぐらいで、だから写真が必要な時がなかった。ちなみに食事会の写真は嫁が撮った、結婚指輪持った俺と嫁の家族、何の写真なんだ。
嫁が死んだ時、遺影に使われたのは随分と若い時の写真だった、高校の卒アルだ。義母さん達と話し合った結果、これが1番まともに写ってるねとのことで。葬儀屋の方には何度も本当にこれでいいんですね?と確認されて、本人に聞いたらこれもダメって言われますよ、って答えた。こいつらヤバい奴らだと思われていたかもな。
こじんまりとした、知り合いだけのお別れ会みたいな感じで、高校や大学からの付き合いがある参列者の人達から、え?なんで?生前からの本人の意思なの?と聞かれまくって、いや実は嫁は写真が嫌いでして…って話をしたら、確かに嫁ちゃん写真映りたがらなかったねー!嫌いだったんだー!と言われて、嫁の好きな堅苦しくないお別れができて、それはそれで良かったのかもしれない。
(その後、嫁の友達からは微妙に1/3ぐらい嫁の写った写真や写真撮るの気づいて残像になってる嫁の写真など送られてきました、ありがたい)
遺影の話があったからか、嫁の写真ないな、と改めて思ったりした。旅行に行った先で撮った写真は数あれど、嫁が写ったものは全くない。(手とかはあるけど)
俺は怖かった、この先嫁のことを忘れていくんじゃないかって、けどその時、何をきっかけに思い出せるだろう。嫁の持ち物や、旅行の写真や、そういうもので嫁の顔や声を思い出すことができるんだろうか。
結果、まあ忘れていく。しょうがないよね。旅行に行ったことも、嫁とこんな話したな、ということも、あんなことあったな、こんなこと言ってたな、これ食べてたな、とかおおかた覚えてはいるけど、あの時嫁はどんな顔で笑っていただろうか、そう思うとなにもない。こんな顔で笑っていたな、と思っても、それはもはや俺の記憶の中でしかない、答え合わせがしたいんじゃなくて、もう何もないという事実に押しつぶされそうになったことが何度もある。寂しくて仕方がない。
嫁が死ぬの前提で写真を撮るって話はおかしいけど、演技でもないけどもう死んでるから、もし嫁が死ぬのがわかっていたら、俺は嫌がっても撮っていたかもしれない、それは俺の都合で、嫁は死んだ後にまで嫌いな写真があるのなんか嫌がるかもしれない、けど俺は、ああ1枚ぐらいはあればよかった。そう思ってやまない。
年齢的にももちろん気持ち的にも再婚は考えてないし、義母さん達とは普通に家族同然に仲良くさせてもらっているので、これからも俺は俺なりに生きていく。
嫁のことを細かいことも、場合によっては大きなことも忘れていくのは寂しいけど、まあ死んだ先できっと暇そうに待っている嫁が未来にはいると思うと、少し嬉しい、というか、早く会いたいって気持ちがある。お別れしないなら別に写真がなくてもいいから嫁も嫌がらないし。
別に死のうとかじゃないよ!今度義父さんとゴルフ行く約束もしてるしな!
パートナーがいる諸君、パートナーの写真は少しでいいから撮っておこう。毎日じゃなくても、何かあった時の1枚が積み重なったら生きてても死んでても、意義のあるものになると俺は思う。
あと、俺は俺の知らない幼少期の頃の、まだ写真が嫌いな嫁になる前の、嫁の写真をよく見せてもらう。小学生ぐらいまでの写真が山ほどある、嫁は唯一の子供だったから義母さん達が山ほど撮ってた。義母さん達の家の居間に置いてあるからご飯食べに行った時とかに適当に見ている。知らない頃の嫁だけど、それでもああ嫁だなと思う、っていう話も付け足しておこう。パートナーの幼少期の写真があって見られる人は是非見ておくといい、おすすめだぞイ( ^∀^)
ついに弊社にも某人事管理ツールが導入された。
「社員の顔を一目瞭然に管理する」と謳っており、システムのトップページを開くとずらりと社員の顔が並ぶ。
自分は顔色が悪く、真正面から写真を撮られると犯罪者か死刑囚のように見える。
青白い無精髭オタクの顔がボーナスの査定と紐づけられてしまっているのが気持ち悪い。
自分のような不細工の顔は仕事ができそうな誠実な人間とは程遠い気がしている。
仕事に疲れたら同僚の可愛い女性の顔を無意識にクリックしてしまう。
このシステムが導入されてからSlackでうざいことを言ってくる人間がどんな顔をしているのかをいちいち調べるという癖がついてしまった。
どれもこれも良くないことだろう。
ブランディングムービーも、ショッカーがお面を剥がして「個性が見える!」「仕事の効率が上がる!」とのことだが、顔面で測れる個性とは??全く謎である。
ルッキズムが〜とかいう話をしているのではなく、自分の幽霊みたいな証明写真をいちいち目にしなければいけないのがいちいちムカつく。
そもそも自分は営業とは違って外に出る仕事でないから、外見の云々は関係ないはずだし。
履歴書の写真添付が必要なくなってきた昨今、この「顔がわかる人事管理ツール」とは時代と逆行しているのではないか?
まず名前が「カオナビ」なのがイケてない。