はてなキーワード: リバタリアンとは
中国共産党のトップがリバタリアン扱いってなかなか面白いジョークだよな。
リバタリアニズム(英: libertarianism)は、自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治的イデオロギーである。リバタリアニズムは他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える。日本語においてもそのまま「リバタリアニズム」と表現される場合が多いが、本来の思想から語意が変遷している「リベラリズム」と区別する意味で、単に「自由主義」と訳されることはあまりなく、完全自由主義、自由至上主義、自由意志主義、古典的自由主義など多数の邦訳が存在する。しばしば新自由主義、市場原理主義と同義で使用されることもある。またリバタリアニズムを主張する者をリバタリアンと呼ぶ。
上記URLでは、この方を良くも悪くもリバタリアンと称されている。
この方自身は個人で動く能力があって、以下のような発言となるのだと思う。
日本ではマーケットに評価されることの大切さを、理解していない人が多い。なので会社や業界の中で評価されることを気にしているけれど、マーケット……つまり部外者には「どうせオレのことなんか評価できないだろう」といった考えを持っていますね。しかし大切なのはマーケットに評価されることによって、「1人前」と呼ばれることだと思う。
ただ、その実は問題にフィルタをかけずに発言しているに過ぎないとも見て取れる。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111022
こうやってみると、世界の主要国はほんとにアホばかり!
さすがに新聞ではここまでは書けないし、週刊誌でもないとなかなか書きづらいのではと憶測します。
初めの、上記URLでは
鋭い洞察力には舌を巻く。
と絶賛されるが、斜めから見た主観的意見は酒場、駅、事務所、どこででも聞き取れる。
誰でも出来る事だ。
いずれにせよ、国がアホかどうか、についての私の意見としては、
とんでもない数の人間を収めなければならず、全ての行動に対して法が絡むため、
民間のように単純ごと(ブラック化)では済まされない、という思いです。
ちょっと国が間違った事をすると、新聞に載ったり、いろいろクレームが付けられやすい組織ですし、
そこを推してまともにやる(ブラック化)と、デモどころかテロやクーデターに発展してしまう。
まあ、国自体をブラック化させる事でいろいろ実現出来るものはあると思われ、
日本ではこれに成功した事例があり、これを真似して新興国がブラック化していっているのではないかと思われ、
ひいてはブラック化させまいとしてきた欧米(先進国)のタガが外れるかどうか、と言ったところではないかと思われます。
誰が何をしようとどうでも良いと思います。
誰か生き残るでしょうからね。
やはり、ここはサバンナであり、
全ての物事は「生きるため」に通じる。
全体で見れば「誰か生き残る」ということなのかと諦めが入ってきました。
リンクを大量に貼っているので、選択的に読むのがいいと思います。
このエントリは、私自身が問題意識を持った上で数カ月かけて、雇用問題・解雇規制についての記事を読んで、本質的だと思われる部分を簡潔に書いたものです。そのため、主張の根拠だったりその理由だったりそれに付随する問題点が多々ありますが、(量が膨大になるため)あえて書いていません。そのかわりに、私の意見を代弁しているブログ等にリンクを貼っています。その主張について疑問があったり詳しく知りたい場合はリンク先の記事を読んでみると、このエントリについてもさらに理解が深まるかと思います。このエントリに関して全体的に納得行かないっていう人もいると思いますが(問題意識を持っていない人は特にそうかもしれません)、少しずつでも、一日数個リンク先の記事を読んでいけば、もしかしたら、一、二ヶ月後は意見が変わっているかもしれません。
-----------------------------------
今、俺ができるだけ多くの人に知って貰いたいと思っていることは「世代間格差」★1だ。 →グラフ参照★2
え? 知ってるって? まぁ、今の年金制度が積立方式じゃなくて賦課方式であることと、将来の人口分布予測★3を知っていて、まともに考える能力があればわかることだよね。 実際、殆どの若者もそれに気が付いているみたい★4だしね。
世代間格差についてインターネットではたまに見たりするけど実際周りで話してるのなんか聞いたことない、って言われても若者は投票に行かない★5わけだし。 だったら世代別選挙区★6でも導入っていうのはかなり有効な手段だと思うのだけれども、残念ながら政治の世界も年功序列なわけで、老人たちがみすみす自分たちの首を締めるような真似はしないだろう。
この年功序列・シルバーデモクラシー★1-1を崩すのはかなり難しいよね。
法律を変えることのできる政治家も、世間に大きな影響力をもつ大企業の経営者や幹部も年功序列で決まっちゃう。 テレビ・新聞も高齢者に迎合して、ルールや世間の潮流を作る側、体制側も年功序列で出る杭はガンガン打ちのめしているし★1-2★1-3、すでに高齢者に有利な世の中になってしまっている。 そう考えると、現在の日本の社会構造を変えるのはかなり難しい。
-----------------------------------
今の閉塞的な経済や景気に大きく左右される若者を中心とした雇用不安、サービス残業、ブラック企業が蔓延っている事などの原因を考えると行き着く先のうちの一つは厳しすぎる解雇規制★7★2-1があるだろう。 解雇規制が厳しすぎるので企業は簡単に正社員を首にできない。
また、年功序列型賃金であるため、ある程度年をとった職歴のない既卒者を雇い入れることが出来ない。 そうすると基本的に新卒からしか採用しようとしない。 新卒採用で正社員として採用され働くことが出来なかった人は将来、正社員に返り咲くということが極めて困難だ★2-2。
慣習として終身雇用であるために、新卒採用の時点でその人が生涯賃金(企業が支払う公的年金の分も含めれば3~4億以上)に見合うだけの価値があるかどうかの無茶な判断に企業は迫られるわけ★2-3。 当然、景気の良くない現在では特に企業は二の足を踏み新卒採用を絞る。 なので、生まれた年代と大学卒業時期の景気だけで、その世代の人は何も悪くないのに、特定の世代だけ格差が極端に大きくなり★1-4、組織の構成員の年齢分布も歪になる。 そしてそれが世代間格差をさらに広める。
これは、現代の奴隷制度・身分制度★8★9★2-4★2-5ではないだろうか。 驚いたことにカースト制度と酷似している★10くらいだ。 社会に適応できなかった人★1-5や新卒採用で漏れた人間は一生、ワーキングプアや派遣・フリーターの非正規雇用で暮らさなければならない★2-6。
正社員から非正規雇用者に成り下がることはあったとしてもその逆はありえない。 また、正社員職にあぶれて非正規雇用で働いている人だけでなく、新卒しか採用しないことによって、つまりは既卒者を締め出しオッサン達の雇用を守った上で若者世代に無職・ニートを作り出している。 正社員といえども一部の大企業以外では、ブラック企業★11、サービス残業つまり労働基準法違反が蔓延している。それは労働市場の需給バランスが異常で、恐ろしく買い手市場になってしまっているから。 終身雇用が前提で、どんなに酷い企業だとしても辞めたら他の仕事を見つけるのが難しくなる。 つまり、労働者が労働サービスを企業に不当に安く買い叩かれている★12からブラック企業なんかが存在し続けてしまう★2-7。
そういった問題に加え、人材流動性の硬直化によって、一企業内だけでなく社会全体として、新しい産業への人材移転が起きにくい。 太平洋の向こうでは、流動的な雇用のおかげで基幹産業を製造業からIT・金融へと変えて★13まだまだ成長し続けているバケモノもいる。
-----------------------------------
こういったことを変えるために、革命的な変化が世の中に起こって欲しい、そういう意味で戦争を希求する気持ちもわかる★14。すごくわかる。
今、日本は危機的状況にあると思っている。アジア通貨危機みたいな極端な経済危機がおきて、2013年とか2020年くらいに日本が凋落するっていう見方もあるらしいけど★15、そうならないとしても“今”変わらなければ、じり貧になってじわじわと衰退していく。それはKOされずにずっとボディーブローを食らい続けるボクサーのように。
民主党に政権交代したのは日本が変わらなければならない、と国民が感じているからに他ならないと思っている。むしろ変わらないといけないという危機感がないと本当に日本は没落する★2-8。民主党がまともな政治をできているのか★16は別として。
俺が、戦争を望むという思想、つまりある種の革命に共鳴するのは、社会がリセットされるからだ。ガラガラポンでリセット、再出発。解雇規制緩和から始まり、終身雇用、年功序列型賃金、年功序列型人事、新卒採用主義などを根こそぎ変えないと、日本に未来はない。ただ衰退していくだけ。反対する人の多いこの状況★1-6でこれらを自発的に変わらなければいけない。自発的ではなく強制的に変えざるを得ない状況に陥った場合というのは、もう一回日本が焼け野原になっている状況だと思っている。
-----------------------------------
今の日本人の目標ってなんだろう、日本人はどんな幸福を求めているんだろう、って考えると難しい。
二十数年前までは、所得倍増計画だ世界第二位の経済大国だジャパン・アズ・ナンバーワンだなんだ言ってたけど、今はそういう時代じゃないっていうのは誰の目にも明らかなわけで。そういった考えがバブルと一緒にポンとはじけて、目標を見失ってさまよい続けたのがここ20年なんじゃないの?もういっそのことイタリアみたいな国目指せばいいじゃん★1-7。 いやマジで。日本人がお互いに抜け駆けをを許さず無駄に拘束しあって★17疲れてんのが今の日本★18でしょ? ときには消費者★2-9として。 もしくは会社の同僚や上司や取引先として★19★20。 ゆっくりしていこうよ。 どうせ経済はこんな体たらく★21なんだし。
ただ、確実に不幸だと言えるのは、今まで父親は馬車馬のように働いて日本を経済成長させた代償として家族を大事にしてこなかったこと★22★23を“社会が”若い世代にも押し付けてくること★24★25と、 そして一昔前までは当たり前だったけど、今のこんな雇用環境では真っ当に働いて普通に結婚して普通に子供のを作って普通に暮らすということ★26が、ものすごく難しくなっていること★27★28だ。 え? 俺らが若い頃なんか終電まで働いて休日出勤も当たり前だったんだから、ちょっとやそっとのサービス残業くらい我慢しろって?ダメダメ! そんなこと言い出したら縄文人が勝っちゃう★1-8んだからw そんなことを言うくらいだったら、お互いの対立軸★1-9をハッキリさせましょうよ。 そうした上で建設的な議論をしましょうよ。
-----------------------------------
日本的雇用 -終身雇用・年功序列・新卒採用- を撤廃させるには、つまり雇用が流動化されるには少なからず混乱が起きるだろし、 落ち着きを取り戻したとしても決して全員の給料が良かった時代には戻れないだろう。 雇用流動化によって損をするのは既得権をもった人★29だ。誰も損をしない革命★30なんかありえない。 彼ら、いやあなた自身が血を流さなければ状況は全く変わらない★1-10。
収入が減ってもふたりで働けばいいじゃない。 専業主婦なんて一世代くらいしか続いてないわけだし★31。 家も買う必要はない。 ていうか、こんな激しい時代でん家買うなんてこたぁ無理★1-11。 いい意味で人生を諦めたほうがいい★1-12。 別に借りればいいじゃん。 モノを買わなくったって。 所有することが目的★1-13じゃなくて、使うことが目的なんだから。 持ってるとお金かかるだけだし★1-14。
企業の方も終身雇用を求めている★1-15っていう意見もあるけど、床上手な処女を求める★32★33のも凄く矛盾してるよね。 確かに、明日から解雇し放題ですよ、なんてしだしたら混乱するだけってのは重々承知なわけです。 意識改革をして解雇規制を試験的にでも導入★2-10する、それを実行する為の議論の素地を作ること、それが大事なんです! 変わるっていっても一朝一夕で変わるわけないんだから、少しづつでも変わんなくちゃいけないの! 時間ない★34んだから!
今変えない限り、未来永劫変わらないんだよ?そんな社会がいつまで続くと思っているの?
どの時代に生まれようとも、今ある社会を持続可能な社会として子供たちに引き継いでいくのが大人の役目でしょ。
書いてて思ったけど、明治維新や第二次世界大戦後みたいに外圧がないと変われないのかもね。
日本社会は、ある意味でもうかなりヤバい★38★39★1-16のかもね。
実際、老害の糞ジジィどもは自己中★1-1★40だしね。それが良い方に向かうか悪い方に向かうか知らんけど。
ただ一つ救いがあると思えたのは、真っ当な感覚を持って、真実を語ることができる政治家が(少なくとも一人は)日本にいるということだ。それは自民党中川秀直★41だ。そういった政治家が普通にみられるようになるためには、どれくらい時間がかかるかは……考えたくもない。
http://www.nakagawahidenao.jp/archive_qa2009_01.html 参考→★2-11
Question
今の政治についてのお考えは?人を助けるという政治であってほしいですね。仕事が無くなる、住む場所が無くなると言う現状を見ると、今こそ政治の出番では ないでしょうか?国民のために少しでも灯りが灯る政治に決断が必要ではないでしょうか?きっと、神様は悪いことばかりを与えられることはないでしょう。し かし、国民も努力をすべきだと思いますが、少しでも明るい日本にするために、中川さんはどのようにお考えでしょうか?自民党は貧乏人を殺してしまうので しょうか?お答え下さい。(島根県、63歳、女性)
Answer
厳しいご指摘をしっかりと受け止めたいと思います。いまは世界中が新しい社会に向けた転換をめざして、「産みの苦しみ」の中にあります。それは、「まとも な社会」への転換なのだと思っています。助けあい、いたわり合い、分かち合いの社会にするための政治でなければなりません。非正規雇用の方についてのご指 摘と思います。非正規雇用の方を切り捨てて守ろうとしているのは、経営者の利益だけではなく、実は正規雇用の方の雇用であり賃金です。つまり、ひとつの家 庭の中で、お父さんの雇用と賃金を守るために、お母さんのパートが切られ、新卒の子供が正規雇用につけないという状況が生まれているのだと思います。こん なことで、お父さんが首切りにあったらこの一家はどうなってしまうでしょうか。私はここ数年、正規雇用と非正規雇用の差をなくして、全員が職務給をもとに 働くべきだと思っています。この制度への最大の抵抗は「自分は若いときに安月給で働いたのだから、仕事以上の給料をもらう権利が私にはある」と思っている 中高年齢の男性正規社員の一部のみなさんです。しかし、それが青年たちの雇用を脅かし、日本社会全体を弱体化していることに思いを寄せていただきたいと思 います。一家の家計は、家族全員で分かち合いをしていくべきではないでしょうか。政府も、経営者も、正規社員の労働組合も、非正規雇用のために「三方一両 損」の努力をすべきと思います。オランダでもそうした合意をしたことがあります。なお、政府・日銀はすべての人が安定した雇用が維持されるように政策運営 をする使命があります。そのことを絶対に忘れてはいけません。
それは、正社員と非正規雇用者では給与以上の断然たる格差があるということ。 言い換えると、正社員という既得権★42に対しては手厚く保護されているが、非正規雇用者に対するセーフティネット等があまりにも貧弱、というかないに等しい。
まぁそれはわかるとして、今、非正規で雇われてる人で反対してる人っているの?正社員の人が解雇規制緩和に反対というのは心情的にはわかるけど、結局正社員の人が反対することによって格差を助長させるだけ★1-10じゃないの? 仮に今後ずっと反対したとしても一緒に潰れるだけ★2-12なんじゃないの?もしかして、非正規雇用者だったりワープアなのに、雇用流動化反対!!なんて思っちゃってる人は、規制すること★2-13★1-17しか頭にないんじゃないの? 賃貸住宅しかり★2-14、保育★43しかり。
(mojixさんは兎も角としてchikirinさんもそうじゃないかと勝手に判断してるんだけど)それは俺の思想的立ち位置が小さな政府を支持していて、リバタリアン★44的な考えにかなり近いから。 ここまで読んでそれがわからなかったらただの馬鹿。 馬鹿は言い過ぎかもしれないけど、少なくとも自分自身の思想的立ち位置は自覚してないんだろうね。 それをはっきりさせてから自分の意見を表明してください→★2-15★2-16★2-17
んな訳ないwこんな糞なげぇ文章を増田なんかに書いて、ちまちまリンク貼っつけるような時間があるのは俺が暇人だからに決まってんだろjk。 言わせンな恥ずかしい。 なんで、そんなニートが偉そうに、解雇規制が~ とか終身雇用が~ とかのたまってるのかって? そりゃ、全体最適化=オレ様最適化★1-18だからに決まってんじゃねーかよw 二年半前はこんなこと★45書いたら非難轟々だったらしい★46けど、もし今も変わらないようだったら本当にお先真っ暗ですわ。 話す前から頭ごなしに否定して罵詈雑言を浴びせるんじゃなくて、せめて雇用流動化の何がどういうふうに問題なのか建設的な議論がしたいですよね。
そういう話がないなら、これから議論すればいいじゃない→★2-18★47
このエントリを書こうと思ったきっかけは、某便所の落書きで自分の考えを書いていったときに、ある程度まとまったカタチで発信したいと思ったから。 自分自身で考えを総括したかったからっていうのもある。俺はブログもやってなくて丁度いいから増田に書く事にした。
宝くじでも当たんねぇかなぁ…。
ついった→ ★
http://anond.hatelabo.jp/20110129073446
http://anond.hatelabo.jp/20110206190916
自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム
bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
最近の有名ブロガー(笑)って基本的に、エスタブリッシュメント層が「戯れに下界に降りてきたぞよ」とか言ってるだけだよね。
この手のネットリバタリアンの主張・言動って恐ろしいほど似通ってるよな。
そして、既存のエスタブリッシュメント層の既得権益を打破するためにリバタリアニズムや新自由主義を持ち出している
池田信夫や城繁幸など(おそらく彼らは自らを所謂エスタブリッシュメントとは認識していないだろう)
表のメディアに出ている論者とは明らかに異なる。
切込隊長のブログ記事「なんかエコ活動とかやってる奴がいるけどさ」に、ブクマを見るとほぼ全面支持なのに驚いたのでちょっと書いてみる。「エコ」がこれほど不人気となると正直、日本や人類の未来は暗いと思わざるを得ないからだ。またその一方で、そうなるのも仕方がないのかなと諦観する気持ちもある。理由は、グリーンピースをはじめとする「環境保護団体」には確かに、隊長が指摘するような非合理性と偽善性がつきまとっており、一般人が不信感を抱いて当然だからだ。
なお、私は環境問題の専門家ではなく、市井の理工系の人間に過ぎない。ただ、多少の科学知識があればこの程度のことはわかるはずだということを示すためにこの記事を書いている。
隊長曰く、
なんかみんな、エコバッグ持ってたり、スタバとか逝ってマイカップ持ち込んで飲んでたり、してるけどさ。
本当にエコとか考えてるなら、風呂の回数減らせよ。一日おきでいいだろ。ドライヤーも使うなって話だ。マイカーでぶんぶん通勤してる奴が、得意げになって使用済み天ぷら油の再利用とか言ってて馬鹿なんだろうかと思う。
これは全くその通りと言わざるを得ない。ここでは話を単純化してCO2の削減についてのみ考えることにすると、生活の中でCO2を直接的・間接的に最も排出しているのは自動車と光熱費(特にエアコン)であるのは余りにも明らかなのだ。CO2は基本的に炭素を含むものを燃やしてエネルギーを取り出したときに排出される。そして、物理を少し学んだことがあれば自明のことなのだが、日常生活の中ではものを動かしたり熱したりというのが圧倒的にたくさんエネルギーを使うことなのだ。そして、50kgぐらいの人間1人を動かすために、1tぐらいの乗り物を使い、そしてゴムタイヤでアスファルトの上を走る自家用車というものがいかに、たとえば鉄道と比べればエネルギー効率が悪いかは明らかなわけで、エコバッグとかマイカップとかをやっていても車通勤をしているだけでおつりが来るぐらいのCO2を排出することになる。
つまり、個々人が「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」るような「エコ」活動は自己満足以外の意味はほとんどないのだ。
では、本当の「エコ」とはなにか。上に書いたことからおわかりだろうが、エアコンや冷蔵庫を高効率のものに買い換えさせ、人間やものが移動する必要を減らしつつ、できるだけ自動車に依存しないように路面電車の整備や業務のIT化を進めていくといった社会構造の改革をするほかない。同時に、エネルギー源をできるだけ化石燃料に依存しないように、その方面での技術開発も進めていくことだ。
要するに、「エコ」とはどこまでも今後のエネルギー・資源戦略の話であり、マクロ経済、都市工学、そしてエネルギー工学といった堅い分野の成果を積み上げていく話なのだ。本質的に、「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」たり、経済成長を否定したり、科学技術を悪と糾弾したりするような話ではない。
ちなみについでに言うと、温暖化CO2原因論に対する懐疑論も跋扈している(どういうわけか、池田信夫氏を筆頭にラディカルなリバタリアンは判をついたようにそうなのだが)が、化石燃料の枯渇を見据えればどのみち取らねばならない対策は同じである。だからそのことは考えなくてよい。
もう一つ、隊長の書いている
「環境を考えて、太陽電池パネルをつけました」とかさ。太陽電池パネルを生産するのにまず二酸化炭素やエネルギーロスがかかるっつーの。
はよくある誤解で、最近では太陽電池では余裕でエネルギーの元が取れるようになっている。
ではなぜ、このような誤った「エコ」のイメージとそれにたいする反感がここまで広まってしまったのか。それは、グリーンピースに代表される環境保護団体の姿を考えてみるとわかりやすい。彼らの中には菜食主義、呆れるほど不合理な反捕鯨運動、経済成長や科学技術や物質文明への否定的評価、そしてオカルトじみた「スピリチュアル」といったイデオロギーへの親和性が強く見受けられる。これは本来、上に述べたように「エコ」と必然的な結びつきはどこにもない。にもかかわらず、世間では「エコ」というと、もっぱらこうした偽善的で胡散臭い印象ばかりがはびこってしまっている。これはなぜなのか。
答えを書いてしまうと、これは近代現代欧米に特徴的な「ニューエイジ」と呼ばれるある種の疑似宗教的社会運動の産物なのだ。ダーウィンの進化論などの影響によりキリスト教的思想基盤が揺らいだ後、既存の価値観を否定し、オルタナティブを「東洋」に求める動きが西洋社会には発達した。それが「ニューエイジ」なのだ。西洋にはなぜか、日本のあらゆる事物を「禅」に結びつけ、むやみやたらと親日的な人(それでいて捕鯨のこととなると途端に北朝鮮まがいの反日戦士になる)が多いが、これも一つには「ニューエイジ」の影響である(日本がそれを利用した面も多分にある)。このほか、北京オリンピックへの反対運動の旗印がなぜ「チベット解放」ばかりで「ウイグル解放」ではなかったか、本質的に同じ宗教の分派であるイスラム教があれほど嫌われる一方で紛れもない異教徒であるダライ=ラマがなぜあれほど尊敬されるのか、そういったことにもこの「ニューエイジ」が背景にある。そしてついでに言えば、オウム真理教とか船井幸雄とかはたまた「水からの伝言」といった訳のわからないものは、日本にこうした「ニューエイジ」が「逆輸入」された結果であるといっても間違いではない(早い話、オウム真理教が伝統的な漢訳の仏教用語ではなくサンスクリット語やパーリ語をカタカナ書きした用語を使っていたのはこのためだ。これが「阿吽真理教」であったり、ホーリーネームが「マイトレーヤ」や「マンジュシュリー」ではなく「弥勒」や「文殊」だったらあれほど信者を集めたかどうか想像してみるとよい。オウムは仏教の原理主義でありつつ、伝統回帰ではなく伝統否定なのだ)。
少し脱線気味になったが、要するに「エコ」を敵視している人は戦う相手を間違えているのである。グリーンピースをはじめとする「ニューエイジ」運動がキモいことには何の疑いもない。ああいう偽善的かつカルト的なものは叩いておくべきだと私も思う。しかし、「エコ」全体を一緒くたに攻撃するのは誤爆もよいところなのだ。
鳩山内閣のエコ政策が嫌悪されたのはこう見ると当然の話だ。鳩山氏の「いのちを守りたい」というエコ政策は、本物の「エコ」のような国家戦略ではなく、もっとナイーブな感情に端を発していて説得力がまるでなかったからだ。鳩山夫人のオカルト嗜好ともども、これも「ニューエイジ」の影響の産物である面が多分にあり、国民が偽善臭を嗅ぎ取ったのはおそらく当たっている。
しかし、エコは本来国家戦略であり、未来にわたる豊かな生活を保つために不可欠である一方で、日本の国益にも繋がる可能性をも秘めているのだ。上に述べたように「エコ」のためには重工業の技術力が強く求められるのだが、これは日本の得意分野であって、中国や韓国といった新興国に対して優位を比較的強く持っている分野でもある。同様の事情を抱える独仏が「エコ」に梶を切り、オバマも「グリーン・ニューディール」を提唱しようとしているのはこのためなのだ。日本政府がこの方面に消極的なのは、重電産業に身を置くものとして実に歯痒いものがある。どうか、もっと事実を冷静に理解し、お涙頂戴物語としてではなく国家戦略としての硬派な「エコ」の推進の世論の形成に手助けをしてくれる人が一人でも増えて欲しいものだ。
俺ミソジニーじゃないけど、というかバトラーをフェミとするなら俺はフェミを名乗っていい。
法制度だけ作りました、後は知るかー民事不介入ー。
じゃダメっしょ。そもそも、「家庭」というのは法の介入以前よりあったイデオロギー。
法のイデオロギーより遥かに歴史性に勝るし、強制力の面でもある面では大きい。
それに対して、何かを変える制度を作るのに
法整備だけ変えました(自由を担保しました)では、明らかに不備ちゃうん?
もちろん、それ以降まで全部踏まえて「法の不備」ってんなら話は別だけど。
リベラリストっていうのは非常にいいんだけど。
均質化したリベラリストというか、個は個として自由であるべきだみたいな
リバタリアン的鉄則に引きずられて、現状を見ないまま
「自由を担保する法だけでいい」って考え方にすると
入れ物変えても中身変わんないし、そんなんほとんど無意味だよ。
インドのカースト廃止みたいなもんです。法以上に強いイデオロギーっつーのはある。
法は自由を抑制することに関しちゃかなりのモンだけど、自由の幅を広げる作用は結構持ちにくい。
少なくとも、それ以前にあったより強固な「家族」や「親族」みたいなイデオロギーにはまず太刀打ちできない。
まぁ、夫婦別姓論者はあくまで制度上の、「見かけを大事にする」「ファッション」なリベラリストなのかなー
ってことはよくわかったけど。やっぱアホじゃねーの。
僕は法の人ではなく、テクスト論の人でこの分野に関しては専門じゃないから
すごーくいい加減な理解でなんか書かせてもらいます、ごめんなさい。
ただ、戦略としては「ブン殴られる」とか「殺される」とか「奪われる」のような
「客観的危害」(だれがどー見ても危害加えてますよね?)というようなものに「危害」を留めず
「主観的危害」(見てるだけで不快だ、チンコ出すんじゃねえ!)に拡張する論調がメインじゃなかろーか。
これが行き過ぎた例が楳図かずお自宅騒動で、「不快原理」なんて言葉が使われたりもする。
「わいせつ」を規制する論理基盤はこの辺りだったおぼろげな記憶。
そして、「麻薬」だけれども。
ミルの流れを真っ直ぐに受け継いでいる一派、要するにリバタリアンと呼ばれる人々は
個人の使用に限って(麻薬の使用が「個人の使用」という限定された根拠で語れるか否かは別の論点)
麻薬を解禁すべき、という主張をしている。また同様に「売春」なんかもそうだよね。
この論点は「麻薬は社会にとって色々マズイ」とか「売春自由化するとエイズがマジヤベー」とか
その辺をぶっ飛ばしてはいるけれど、自由主義者の根底としては「麻薬はアリ」のはず。
ただし、社会の上で公共の福祉にどこをどーやっても引っかかってくるからやっぱり規制はしゃーねえか、
みたいなのが「自由主義者と麻薬」の間の関係で、麻薬に関しては例えば「アヘン戦争」を見てもわかるとおり
「公共の福祉」が規制の論理基盤に成り得ているんじゃないかと思う。
むしろ、この議論の場合中心的なイシューは「自殺」になるんじゃないかな。
すげえ自信ないんで誰かクリティックしてくれ。
そして、「他者の介在しない個人や、他者を越えた社会や集団・組織を対象にする倫理や法」
というものは、僕の知る限りカントが最後だった気がする。現在は構造主義以後の世界なので、
この手の「根本原理」とか「正義規則」みたいなものについては、「無い」と答えるのがわりと普通。
実在論としての法とか実存的法理論、みたいなものを研究してる人が全くいないわけじゃないと思うけれど。
とりあえず、現在の研究者は「人権」っつーものを横目にチロチロ見ながら、「文化は相対的ですよ、善悪なんかないですよ、ぼくにゃーなーんにもわかりゃしねーんですよ」とビール飲みながら学生に愚痴るのがデフォかなーと。
簡潔に言えば、BIは平等主義を起源に持つ制度であり、一方「負の所得税」はリバタリアン思想とつながりが深いものとされています。
詳しくは、Davide, Tondani. Universal Basic Income and Negative Income Tax: Two Different Ways of Thinking Redistribution. 2008.を参照してください(ネットで探せばたぶん全文が見られます)。
追記: その違いを除いても、小飼弾に代表されるBI神秘主義派はたぶん「BI=負の所得税」という認識を持ってないでしょう。彼らはあくまで「一定額の一律支給」というお題目にこだわる物と見受けられます。
ウェブ・アメリカーナ なぜウェブ上の主体はアメリカ的なのだろう
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100129#p1
いまのところ、ウェブ上の主体はアメリカ的である。楽観的、自由至上主義、反権威、反省しない、テクノロジーフェチ・・・サイバーリバタリアンなどと言われる。中国政府がグーグルに脅威を持つのは「小さな漏洩」ではなくウェブにおいて人民がアメリカ化教育されることへの警戒だろう。
なぜウェブ上の主体はアメリカ的なのだろうか。発祥がアメリカだから?ウェブがフロンティアだから?多民族だから?ウェブでは情報がコピーされることで自由化される?
いまのところ、このウェブ・アメリカーナに対して異文化圏を作りえたのは日本のケータイだけではないだろうか。ドコモが奇跡的に起こしたこの「ガラパゴス」では、主体は全く異なる風俗を生きている。当然、世界を作る気などない。保守的、反省的、つながりを求める。むしろ近代的な主体に近いように見える。
A:「獣は檻に入れろ」論は予防拘禁につながる!
B:「男はケモノ」と称して女性差別を容認する輩へのカウンターですよ
A:メタファーとかアイロニーは関係ない、人間を人間として扱わないようなことが問題なのだ。発言者は予防拘禁論者。
B:「女を犯して孕ませろ」なんて女性の人間扱いしてないゲームもありますが
B:はあ…
A:もちろん、作品に対して倫理的に批判するのは構わないよ、「サザエさんは家父長制度を再生産する構造的暴力装置だ!」というのはOK
B:ある種のエロゲが女性に対する性暴力をポルノとして消費しているのは問題ではないですか?
A:規制しろというのか?お前は自由の敵だ!
B:サザエさんは?
B:性暴力をエロとして消費する作品も女性抑圧という構造的暴力なのでは?これも倫理的な批判にとどまると思いますが
A:そうですよ。女性差別です。それが何か?
B:「表現の自由」の重要性を認めたとしても、それによって人権侵害が起こることはあるってことですよね
A:もちろん。それは織り込み済み((註:この時点で、訴状に上っている「差別表現」がフィクション内部の表現か否かは条件になっていない。文脈に即して言うと、現実の女性差別表現について述べたものである。))
B:女性差別を認めるという「表現の自由」によって女性の人権が侵害されるなら、「表現の自由」論者はその結果に責任を負うのでは?
A:「表現の自由」にヒモを付けるな!誰に石を投げるかは俺が決める。そもそも「表現の自由」は基本的人権なんだから、義務や責任とは関係ない
B:でもその結果、女性の自由、女性の人権が侵害されるわけですよ
A:基本的人権は尊重されるべき
B:で、ですよね?でも「表現の自由」に差別まで含めると、それによって人権侵害されるケースが
A:だから?
B:無条件の「表現の自由」を奉じてる方々が何かアクションを起こすのが倫理的な…
A:倫理でしょ?法律じゃないでしょ?名誉毀損や侮辱罪になるようなこと、俺は書いてないじゃん。だったら、俺には関係ない
B:でもその結果、強者ばかり自由を乱用して、弱い立場にある人が…
A:その非対称性は捨象すべきだな。何故なら俺がリバタリアンだから
B:……
アリだと思います。
リバタリアン的に、
保険に入りたい人だけが入ればいいじゃん、
という考え方はアリだと思います。
---
ただし、
これは「個人失業保険」みたいなもので、
保険というのはクジみたいなもので、
しかも失業保険は(他の保険に比べると合法的に)自分で当たりクジを引けます。
で、
(まあ、金額は正直よくわからない)
と、ご自分でも書いてらっしゃいますが、
保険料が結構高めに設定されてしまうのではないだろうか。
---
しかも、それに加入する人って、
「失業しそうな人」や「潰れそうな会社の社員」ばかり集まる可能性もあるし。
自分で貯蓄ぐらいするよね。
---
保険金の原資は保険料(から手数料や保険会社の儲けやその社員の給料を引いた残り)なわけで、
失業保険の場合は、
眠くて考えがまとまりそうにないからとりあえずここに投げる。
自由とは「多様性を許容する設計」である - Zopeジャンキー日記
本人の幸せは、本人にしかわからないのだから、本人に自由にさせればよい。
確かにそう思う。
確かにそう思うけどやっぱなんか違うよね。
今の世の中のgdgdってその殆どが、それぞれが自分の「幸せ」が何かっていうことをよくわかってないことからきてるものだと思うんだよね。
ハイ自由ですよって放り出されて「幸せ」でいられる人ってどれぐらいいるんだろか?もちろん「幸せ」を政府に決められるのはまっぴら御免だけど。
自由主義者の思い描く「個人」ってすごく強い。
同じ人の前のエントリー
http://mojix.org/2009/11/21/hitsuyou_sigoto]
わたしたちは店に行ったとき、欲しいものだけを買い、欲しくないものは買わない。それがあたりまえであり、自然な判断である。そのあたりまえで自然な判断が集まったものが「市場」である。よって、「必要とされていない仕事」というものは本来、市場に存在する余地がないのだ。
強いよね。パッキリ二分法。
欲しいもの→買う→買ってみたらやっぱりいらなかった→捨てられない→悩む
欲しくないもの→買わない→やっぱり必要だった→もう売ってない→悩む
欲しいか欲しくないかわからないもの→悩む→とりあえず買っとく→やっぱりいらなかった→悩む
→買わない→買っとけばよかったかな?→悩む
なんか個人ってもっと揺れていて弱いと思う。
弱さを掛け合わせていって、その答えがプラスになるならいいし、実際そういう場面はいっぱいあるけど、
マイナスの答えが出て来ることだってあるよね。それが怖い。オレは弱いから。
・・・だったらどうすればいいかって?
どうすればいいんだろ?いい案があったら増田になったりしないわな。
左翼がクスリに寛容なのは60年代の悪しき遺風。反権力は反権力として、クスリはクスリで駄目に決まってるじゃないか。宇宙飛行士の話だって、むしろ、宇宙飛行士にはクスリが投与されてる、非人道的! という文脈の扱いだって可能だろう。兵士の話なんてまさにそう。依存性のあるものを自己管理可能だから規制するなよ、ってのは、あれだ、アメリカのリバタリアンのあほな主張と似てる。要は、禁酒法は駄目! マフィアが肥える! オランダはうまくやってる! という見慣れたロジック。国家による規制に対して反権力の視点から反対なら、規制は要らない、じゃなくて、それこそ最近の「文化サヨク」の文脈でいうなら自治的なアソシエーション的連帯、とやらによる柔軟な規制を考えるべきだろう。保守のクソどもが道徳的な視点から規制しようとしてるのがむかつくからといって、つまりは敵の批判しているものだから擁護するなんてのはくだらない党派主義ではないのか。きみらは、自己責任論を、さんざん批判したのではなかったか。