はてなキーワード: ブッダとは
なんかね、最近思うんだけど、急にスピリチュアルに行く人いるじゃない
しかも既存の宗教がとっくに通過したところをまるで自分が到達したみたいに自慢する人。けど用語は完全に自分の言葉だから一見違うけど聞いてるとあーあれね、ってなるやつ。
急に宇宙からのメッセージとか、何十何次元の人との更新とか、超能力とかに目覚めたら様々。
なんでかなと思っててなんかピンときた。
自分一人が正しくて他はみんな間違ってるのに気づかない。そうか、私はみんなより遥かな高みにあるからだ、よしそれに向けて理屈を考えよう。
だってガリレオだってそうだったじゃない。歴史上にそんな人は数限りなくいる。私もその一人になったわー、いやー、まいるわー
そんな感じかなと。
ただ、そういうのに信者がつくのもまた事実。なんか新時代の新たな思想体系(1年ぶりン千回目)とかを作り出してて、しかも先人を敬わない。
それってブッダの言ったアレと同じ?
いやいやそんなのと一緒にしないでください。むしろ10万年前の何かしかが言ってきたので、ブッダも同じこと言ってるかもしれません
的な
https://note.com/komatsuna777/n/nf684cf82dd5d
以前、この記事を見て、こんな人もいるだなー大変だなーと思ってたけど、自分もカウンセリング受けたら似たようなものだった件について。
さっきの記事ぽく言うと、
自分は少しの否定であっても、「普通の人」でないと思ってしまい、めちゃくちゃ落ち込むメンタルです。
問題なさそうに感じるかも知れませんが、私の中の「普通の人」の定義では、「普通の人」は一切批判されるようなことを言われない。「普通の人」は、ルール(毎日定時に登校して下校し遅刻しない、会社は辞めないというレベルから)に絶対に外れない。となっています。些細なことであっても一つでも外れた人は、「普通の人」ではありません。
一切批判されないということの定義ですが、例えば、冗談で言うお前ダメだなぁーもNGです。そんなことを言われた自分は「普通の人」ではありません。
「普通の人」ですが、それらから来る嫌味や好感を天啓に近い感じのことだと思っていました。「普通の人」以外(自分)は言葉が通じる動物だと思っています。
ここで更に詰まったのが、自分以外の存在は、「普通の人」という認知であったことです。自分以外の存在は、どんなに会話を重ねても周りの批評を聞いても、自分のこと以上には分からないので、「普通の人」であるかは、判断せず自分以外の全てを「普通の人」として見ていました。
で、ここまで読んでくれた人は察したと思いますが、そんな「普通の人」を達成出来る存在なんて、世界中探しても、ブッダであってもイエスであっても達成出来ません。そんなことを私は、カウンセリングをするまで気づかず、勝手に傷ついた次第です。
さて、ここまでの自分の認知になった訳は、多分、小学生からの同調圧です。まぁ、幼い頃って、ちょっと人と違うと揶揄われたり、最終的にはいじめの対象になる訳ですが。いじめという否定にあった自分は、自分の何かがおかしくてダメなんだと、ひたすら「普通の人」になろうとしてました。
そんなことよりブッダを建立しよう
昔は女性器のことをホトと呼んだそうです。古事記では秀処という漢字を当てています。くぼんだ土地にホトとついているのは、それが語源だとされることもあるそうです。東海道の保土ヶ谷も、そうした説があります。
それはそれで構わないのですが、仏ということばは「ホト」に「ケ」で陰毛という意味になってしまうのではないでしょうか。大変罰当たりで申し訳がないのですが、仏教を受容した飛鳥時代の日本人は、どうして「ブッダ」を「ほとけ」と訳したのでしょうか。
「ブッダ」と「ほとけ」は音が似ていなくもない気がするのですが、当時の日本人は、「ほとけ」という言葉を聞いて、淫猥な意味に聞こえなかったのでしょうか。上代特殊仮名遣いか何かで、別の音だったのでしょうか。
たいそう罰当たりで恐縮なのですが、仏教や古代日本語に詳しい方に、お尋ねしたく思います。
本当に下品で罰当たりでごめんなさい。でも気になっているんです。
アヤワスカ、という幻覚剤があります。今のところ、日本では合法です。古くは南米ペルーの部族が神聖な祭りに使っていたお茶であり、ウィリアム・バロウズがそれを求めてはるばる旅したという代物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%AF%E3%82%B9%E3%82%AB
最近、このアヤワスカを自宅で手軽にできる方法がまとめられた『雑草で酔う』という本が出版され、話題になりました。実践している人もかなり増えています。
著者の青井硝子氏(@garassan)は、日本でこれを広めた功労者です。それはすごいことだし、その功績は認めます。ただ、今は完全にスピリチュアルなアッチ系の人になっちゃってます。
私が言いたいのは、もしトリップの探求者になりたいのならば、青井硝子のスピリチュアルな体験記などの文章は一切読まないほうがいいということです。
青井硝子は自身の幻覚体験を「精霊」だとか「オーラ」と言った古典的なスピリチュアル用語で表現しています。別に、本人がそういうイデオロギーを選択するのは勝手なので良いんです。ただ、アヤワスカ=精霊やオーラなのかというと、断じて違う。
そもそも原-アヤワスカ体験は言葉で表現できるものではありません。イメージ、と言っていいのかすらわかりません。ただその体験には、その人が無意識のうちに秘めているトラウマや価値観が反映されます。そしてそれを各々、いろんな形で言葉にして体験記として表現しているに過ぎません。
もちろん、DMT(アヤワスカの成分)の傾向として、誰がやっても共通している部分もあると思います。意識と体が離れて別のところに行くとか、思考がとにかく本質的になるとか。
でもその根幹部分以外は、各個人の無意識の性質による影響が大きいと思います。それはある意味、各々のイデオロギーの発露です。それをどう解釈して、どう表現するかは自由だし、無限の可能性があります。
それなのに青井氏は、Twitterで、「精霊に会うよね」みたいに自身のイデオロギーを喧伝します。まあ、それは本人の勝手なのでやめさせる義理はないんですけど、それをやると「精霊に会う」という先入観で、幻覚の中で何かしらの存在のようなものに出会ったとき「これが精霊か!」と思っちゃうんですよ。
イデオロギーって伝染しますから。青井氏みたいに界隈で一番影響力のある人がそれをやっちゃうと、彼を見て始めた人の多くはそのイデオロギーに感染する確率が高いです。そうすると段々宗教になっていくかもしれないし(まあ悪徳なことしなければ別にいいんだけど)。
でも実際、幻覚体験を語るということは宗教家とやってることは同じなんですよ。キリストしかり、ブッダしかり。そしてそれらの宗教的イデオロギーの中で最も強度が高かったものが今日まで残っているわけです。
話が逸れましたが、なにより大事なのは、アヤワスカにはもっと無限の可能性があるのに、そういう偏ったイデオロギーで幻覚体験を誘導するのはもったいないってことです。
青井氏の界隈の内側に入って、体験を共有しつつ実践すれば、青井硝子的宗教観を探究することができるでしょう。でもアヤワスカはそれだけではない。
その人が信じているものや好きなもの、嫌いなもの、全てが影響して、その人自身の秘めたイデオロギーが反映されたヴィジョンが見えるはずです。
私は何度も飲んでますが、何かしらの存在のようなものを感じてもそれが「精霊」だなどと思ったことは一度もありません。むしろ哲学にどんどんのめり込んでいくばかりです。
なので、もしこれからアヤワスカやってみようという人がいたら、青井氏のTwitterやブログを見ることはおすすめしません。先入観を持たずにやってみることをおすすめします。
あ、ただし彼が運営している青井堂というウェブサイトの、アヤワスカを飲む上での注意点とかは読んだほうがいいです。というか、しっかり読んでください。その辺の事故への注意とかはすごくちゃんと調査して情報を共有してくれている人なので、その点は信用できます。
あと、トリップの探求とかは全然興味なくて、ただ日常生活で辛いことがあったりとかトラウマを克服するために飲んでみたい、でも自分でやり方調べたり準備するの難しくてわかんないって人は青井硝子がやってるお茶会に行った方がいいです。
やっぱり一番経験が豊富で事故の対策もちゃんとしてると思うし、ヒーリングの実績も積んでいるようなので。
アヤワスカは上手に使えば、自分の考え方を変えたりとか、生きる上で役に立ちます。でも、イデオロギーを刷り込むのにも使えてしまうわけです。青井氏はその辺、わかっててやってるのか無自覚なのか知らないですけど、スピに走りすぎてて、自分を客観視できてないように感じたのでこれを書きました。
アヤワスカをやる時は、先入観にとらわれずに自分の内側と向き合うのが良いと思います。青井氏以外にも色々と体験記を書いている人はいますが、あまり気にしないほうがいいです。落ち着いて自分の内面と向き合って、受け入れてください。
前半より
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/post-12364.php
体罰の議論は悪く言えば物語的な説得に終始してしまうことが少なくないところ、この記事では体罰についての研究結果、それに基づいたアメリカ心理学会の声明、体罰に代わる指導教育方法の提示まであり、大変興味深く読みました。本発表の中から一つ読むならこれがおすすめです。
https://medium.com/@tumada/do-not-find-your-passion-a7b2f290b5a
「情熱を探そう」という指針への批判的検討を行い、「情熱ではなく、ちょっとした興味を見つけて、それを育もう」と呼びかけています。Web2.0時代への郷愁と共に読みました。続編の記事も良かったです。
iPhone等で使っているPocketアプリの読み上げ機能は未読処理の効率を大幅に改善してくれました。感謝。Pocketの同機能はiOSのそれよりも
・多数の記事を立て続けに読み上げてもらうことができる
・複数端末の連携が容易。スマホ、タブレット、パソコンから取り敢えずPocketにつっこめばいい
という点で優れています。
ただ、引用部分を2回読み上げる不具合(?)があり、治らないかなーと宙に念じています。
https://www.newsweekjapan.jp/yukawa/2019/02/50transtech-conference.php
悟りのような状態を「Persistent Non-Symbolic Experiences(PNSE、継続的非記号体験)」とし、その状態にあるという人たちに対してインタビューをした研究を大本とした記事です。通常の感覚と異なるPNSE状態の感覚の描写が興味深いです。さらにそれより考えさせられたのは、ブッダらの宗教家が仮にこの状態から教えを発したのだとして、その教えが常人とは異なる非人間的ともいえる程の感覚から出たものであることが知られないまま(PNSE状態の異質性の程度が認知されないまま)大衆に流布され、生きる指針とされているとしたら話が違ってくるんじゃないかという点です。そこに壮大なスケールのディスコミュニケーションがあるのではないか、とSF的な世界観の揺らぎを与えてくれたことに今年の大賞を授与したく存じます。
「また、ブッダとは歴史上に現れた釈迦だけに限らず、過去にも現れたことがあるし、未来にも現れるだろうという考えはすでに大乗仏教以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。三法印などすべての宗派に共通する教義も多々ある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
それブッダでいうと何巻に出てくる?
良いことは以下になる
清潔さに心がけ潔癖症だと言われる
挨拶やお礼を欠かさず行い冠婚葬祭は必ず参加し年賀状は老若男女全てに出す
人の目が気になるようなことは行わず建前で生き、家に戻ると本音になりグチグチ文句をいう内弁慶
素直さはバカ正直で1円を拾っても交番へ届ける。たとえ通勤途中であっても。
他人に気を使い、おもてなしの心などといって建前だけはしっかりとしており裏表のあるやつだと言われる
話し合いでしか解決できず閉鎖的な空間で命の危機がせまっても話し合いで!と一点張りでボコられる
ブッダ、キリストのような生き方をしているので尊敬できるが真似はできないなと言われ続ける
コンプレックスはない。
新興宗教だったりしたら、私が増田の知人友人なら全力で止めるけど、増田がどうしても宗教にすがりたいと言うのなら否定しないよ!
個人的なおススメは、なるべく穏当な、何千年も前からある宗教の方がいいかなと思う。入信する前に教祖についての本を読んだりして調べるのもいいよ!手塚治虫のブッダとか漫画で読破!のシリーズでも教典ものがあるからそれでもいいし。新興宗教だったとしても母体になってる宗教(池田大作教は大元は法華経あたりがベースだったっけ?)があることが殆どだからその大元の教典を読むと面白いと思うよ。神道系なら古事記でOKだし。
でも、宗教に進んでいくその前に、手の届く範囲にいる人(親や兄弟や学校や職場の知人、友人、私やその他色んな人)と、今より、もう少し良い関係を作るために、自分は何かできることがあるかなと考えてみるだけでも、全然変わるとは私は思うんだよね。