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NHKBS1
BS世界のドキュメンタリー「アフリカの少年ブッダ」[二][字]
アフリカ南部の国々に、中国語で中華思想をたたきこむ全寮制の学校が根付き始めている。学校側の思惑とアフリカ的な価値観の狭間で悩む少年少女たちの成長物語。
詳細情報
番組内容
アフリカに中華思想を根付かせることを目指し設立された学校では、貧しい農村部から家族が養えない子どもたちを受け入れて中国名を与え、数学などの基礎学習に加えて、仏教や少林寺拳法などの中国文化を徹底的に修練させる。一方で、学生たちの中には、アフリカ的な価値観が排除された教育に疑問を感じ、自分の将来進むべき道に悩みを持つ者も現れている。二つの文化や価値観の狭間で、多感な10代を過ごす少年少女たちの成長物語
~2019年 マラウイ/南アフリカ/スウェーデン THINKING STRINGS MEDIA/MOMENTO FILM制作~
どんなものに対しても、「これに意味があるんだろうか」「価値はあるんだろうか」と思考してしまう病に罹っていた。
まず、この社会で生きるということは、そういった価値判断を行いながら生きるということだ。
誰かが作った"良い"とか"悪い"とかいう価値の中にすべての物事を、もちろん自分さえも当てはめていくことだ。
人間はそうやって見出した価値を求めてきた結果、高度な文明を発展させてきたし、
それを否定するつもりはない。
多くの人はその事を良いことだと捉えているような気がするし、
それが人間の持つ知性の持つ素晴らしさであり、
そんな素晴らしい知性を持つ人間は素晴らしい存在だということを信じて疑わない人たちも多い。
でも、そういう"素晴らしい"とか、"良い"とか"悪い"は、あくまで人間が独断で決めたもので、
この世界の大半の存在にとっては、何の関係もない狭い世界の話だと薄々気づいていた。
ただ私もそんな価値判断が当然である社会に生まれ、気がつけばそれに染まり、あらゆるものに価値判断を行う癖がついていた。
物を認識した瞬間、"意味"とか"価値"を考えてしまう自分がいる事に憂い、苦しんでいた。
何より人々が作り出した価値基準の指標に、自分さえも当てはめていかなければいけない事に虚しさを感じていた。
大人になるにつれ、自分は社会の価値基準にそぐわない事がわかってきた。
自分は素晴らしいとされるような人間の一員になれる気がしなかったし、そもそもなりたくもなかった。
だが、素晴らしくない人間は生きるのが大変だ。
だから「死にたい」と思っていた。(これはもちろん「この社会では死にたい」という生への執着なのだが。)
でも、社会の価値観に既に染まっている私は「自殺」は社会に迷惑をかける"悪いこと"で、"無意味なこと"だと言われるのを知っていたし、
そこからとあるきっかけで『スッタニパータ』という、ブッダの死後100年程で作られ始めた仏教の経典の中で最も古いと言われている経典を読んで、
実際に価値判断の世界から"解脱"し、その方法を人々に示してくれたその人の言葉に勇気づけられ、納得させられて、
もう社会の価値に心理的に振り回されることはないという非常に軽い気持ちになった事を詳しく書こうと思ったんだけど、
この"疲れたのでやめる"という行為も、以前はできなかったのですが、そこに"善悪"の判断が必要ないと知ってできるようになりました。
神話や伝説中の人物であるとか伝説的な奇跡を起こしたとか戦争で伝説的な戦果を残したとか伝説のモンスターを倒したとか創作した作品が世界で圧倒的に支持されたとかの功績があるわけじゃないし。
あと近現代の人物は言動の情報が正確に残るため伝説化しづらいという不利もあるね。幻霊として何かぼんやりした黒い影か霧のような存在として十把一絡げに登場するならワンチャンあり?
ブッダらしきサーバントは"覚者(セイヴァー)"としてExtraにゲスト出演してるし、イエスも名前は出ないけど聖人系サーバントのエピソードで"あの人"などとして存在や影響が示唆されたりはしてるな。
Fateでいうところの反英雄とも違うのでは。神話や伝説等の中で「悪であれ」と人々に望まれ、その望み通りの悪となることで結果として人々を救ったり人々の望む神話や伝説を補完・完成させる者のこと、だったような。
アンリマユとかメデューサとか。反英雄がどんなものかはSNやHAをやらないとしっくりこないかもね。
ネタバレになるが、アンリマユなんて別に悪いことしてないのに生贄として選ばれて「この世全ての悪であれ」と人々に願われて魔術的・呪術的にそういう存在であるように霊基だか魂を書き換えられてしまった存在だしね。
世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。
ベネター
Julio Cabrera は出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始される。Cabreraは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れないと主張している
アケルマ
カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと―激痛、怪我、病気、死による苦しみ―を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。
ザッフェ
我々は満足させる事ができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならない。 Zapffeによると人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要がある
てめえが名前を挙げた学者の中に出産を肯定してるやつはいないんだが?
Hari Singh Gourは彼の本The Spirit of Buddhismの中で、とりわけ四諦とパーリ律の始まりを考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。
ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。
四諦そのものは反出生主義とは関係ない上に、この解釈すら、出生否定してる。
キリスト教 マルキオン派
wikiのマルキオンに反出生主義とあるだけで、実態に関するちゃんとした情報がわからなかった、あるんなら出してくれや
これを反出生主義と結びつけて考えるような記述はどこにも見当たらなかった、が、
そもそも、禁欲って、基本性交とかそこらへんに関するものであって、出生は関係ないだろ
マニ教的な善悪二元論を説く。人間の魂は、悪しき肉体に拘束されている、この世の物質的なものは全て悪魔(サタナ、ギリシア語でサタンの意)の手で作られたものである、救いのためには全ての物質的なものを否定せねばならない。
おめでとう、これが唯一の反証だよ、つってもこれも、死ぬ間際に(生殖含む)禁欲すれば、天国行けるっていう
生まれてくる子供の苦しみとかも関係ない、俺からしたら反出生主義って言っていいのかかなり怪しい代物だけどな
出産を控えるべきなのか?
出産を完全にやめるべきなのか?
みたいなこと言ってるやつは居ねえんだよ
つか、おまえ書き方からして、内容が少々違うってだけで、多様な解釈があるって捉えてんだろ。
まあ、カタリ派の例だけ持ってきて、ほら!条件付きで子供産める反出生主義者もいるじゃん!って言ってもいいけどな、まあ、そう言うなら、俺の負けでいいよ、俺はカタリ派が反出生主義だとは思わんし
もうカタリ派滅んでるけどな