はてなキーワード: グラデーションとは
これ「自分を攻撃する能力をもったものが、攻撃しないと証明できない状態にいる以上警戒するのはしょうがないよね」と、「攻撃する意思を示していないものを攻撃者だと扱うのは差別だよね」ってのの衝突なんだよね。
理性的な状態でも双方の意見を聞いたときお互いに「それはそうだね、でも・・・」みたいになる話。
俺は後者派なんだけど、
グラデーションだなんだとかも言いたくはなるけどこれって結局その領域から排除するかしないかって話になるのでグラデーションとやらにはあんまり意味はない。
じゃあどうするのさ、ということになるけどどうすればいいんだろうな。
ある程度の不快や危険を受け入れてマイノリティに配慮するべき、ってのが基本路線ではあるんだろうけどその覚悟がある人ってどのくらいいるんだろう。
これではできたとしても次に来るであろう別の同様のパターンの時はどうだろう。
ドライブの最中、急に雪が強くなって、でも泊まる先がラブホテルしかなくて、
「やりたいんだけどいい?」
「…うん」
本当に君も俺と同じくらい積極的にやりたいのか? と正すのが、性的合意を確認する態度。
そんな態度こそが、男女関係なくまともな大人の誠実な振る舞いだと思う。
私見だけど、そこまでして初めて、セックスはグラデーションレイプの域を脱して、ホワイトになると考えてる。
性的合意を求めると、時に白けて振られたり呆れられてしまうかもしれない。
ここで断っても帰る手段無いし、本当に絶対生理的に無理ってわけでもないから
結局やって穏便に済ませたって言ってたんだけどこれとかグラデーションレイプだよね?
そうはならんやろ。
山奥のラブホに向かった男と女、女が帰ると言い出したのに男は残って一人で泊まると
言い出さねーから。
普通に一緒に帰るだろ。
山奥のラブホだぞ、ホテトル嬢も呼べねーだろーし。
これが行きずりの男なら「はぁ?じゃあ、お前置いて帰るわ」はあり得るかもしれんけど
会社の先輩やぞ。
「後輩を山奥のラブホ連れてったらセックス拒否されたので置いて帰りました」とはならんだろ。
もう会社辞めるの?
設定がまったく理解できん。
せめて行きずりの男にできんかったもんか。
望まないセックスの苦しみは、ときに殴られるより辛いんですよ。
❶ 全体の苦しみを誤解している可能性を考えずに、大したことない、と断ずるのは頭の中幸せな世界の住人だからこそ。
❷ 疑いモードで聞いた果てにエネルギーを消費しちゃうことを、あなたを頼って被害を打ち明けてくれた人たちの責任にしてる。
あなたには自由意志がある。可哀想だと思うのも、打ち明け話を聞く選択をしたのも、過去の経験を当てはめて話を聞いたことも。厳しい言い方になるが——それはあなたが選んだあなたの選択だ。
「こいつ他人の可哀想を引き出すために俺利用した」そう思ったらその時点で拒絶すべきだったと思う。君には共感できない、と。意義も唱えずに関係性を継続してるのなら、彼らを利用しているのはあなたの方だろう。
これは自論なんだが、この機会に説明させてほしい…
グラデーションレイプを打ち明ける女性たちの責任を拡大解釈して、それ以外の人々、例えば男性たちの選択を左右させてると考えるのは、男性の自由意志の軽視だと思う。女性に必要以上に多くを背負わせる典型的なミソジニーであると同時に、実はミサンドリーでもあると思う。男性は女性に振り回されてケアの多寡を左右される受け身の対応者じゃない。女性はお母さんじゃないし、男性はいつまでも揺りかごの中にいるフリはできない。
なんかさ、そういう、社会の裏側っつーか汚いところつーか、性に触れてましたみたいな職業経験者が何か言うとさ、そういうの経験してきた人なんだから「社会の暗部をわかってる」んだろーなみたいな暗黙の前提で発言を受け取っちゃいがちじゃない? まあ一昔前ならともかく今時元AVだろうがソープだろうが「社会の暗部」では全然ないわけなんだけど。
いや、そりゃ本当にまっとうに生きてきた平均的な女性と比べて、そーゆー職業だった人は性がらみの色んな経験をされてきたんだろうとは思うんだけどさ、ただ、その経験を以て世間をぶった切れるのかって言うとそうではないじゃん、冷静に考えたら。
元AV女優がAV業界の裏側を語るみたいな状況なら「体験談」として一定の価値はあるだろうけど、AV女優でもキカタン以上クラスそれ未満とではそもそも扱いが全然違うらしいから、どっちかの言い分だけで業界全体を理解するのは危ないわけだし。ぶっちゃけ「それはあなたの経験ですよね、経験を否定するわけじゃないけど全体を理解してるわけじゃないですよね」でしかないわけじゃん。
峰なゆかさん、頭いいんだろうし、エッセイストとしてもマンガ作家として才能あるんだろうとは思うのよ。ただ、世間一般をぶった切るとか、世間一般に対して提言するとかになったら色々と勉強する必要があるよね。前置きがクソ長くなったけど、今回の「グラデーションレイプ」ってやつ、そこに「元AV女優」ってのは本来全然関係ないよね。ぶっちゃけ「(Twitter)発言力が高い人の体験に基づく思い付き」でしかないわけじゃん。あんた個人の体験談として「内心嫌だったんだけど渋々セックスを受け入れた」てのはまあ気の毒には思うけど、だからなんやねん的な。
てかまあ「受け入れた」て言っちゃうと「いや受け入れたんだからお前の責任だろ」て言われちゃうから、より被害者性を強調するためにレイプって言い換えてるのは正直なところ姑息だと思うよね。
話を纏めると、峰なゆかさんが女性一般とか世間一般とか的な話をするときに「なんかわかってる」という前提で耳を貸す価値は正直無いと思うし、元AV女優としての話をする場合でも、いちキカタン(だったっけ? ごめん詳しくない)女優の体験&見聞でしかないということを踏まえるべきだよね。
俺たちはさ、なんつうか、有難がり過ぎなんだと思うのよ。
いやまぁ、グラデーションレイプ自体の怖さって意味じゃなくて、「レイプという言葉」が軽々しく使われることに関しての怖さね。
レイプって本来、軽々しく使われる言葉じゃないと思うんだよね。性被害を受けた男性や女性が被害を訴えやすくなったメリットはあると思うけれど、深刻な性被害を受けた人が受けるべきケアを受けられなくなってる部分は確実にある。
ある時、「レイプ被害を受けました」っていう人に会ったことあるのよ。10年前とかの自分だったら、「うわぁ、なんてつらい経験をしたんだ」
って思ったと思うんだけど、その時の自分、「あ~、なんか思ったようにセックスできなかっただけね」って心の中で思ってしまったんだよね。
というより今まで聞いてきた「レイプ被害」の話が、宅飲みで押し強く迫られて拒否できなかったとか、家まで付いて行って半ば強引にされちゃった!とか
まぁもちろんその人なりに苦しみがあるんだろうけど、自分の中の価値基準では「道ばたで殴られた」以下の出来事になってたのよ、レイプという存在自体が。
で、その人の話をよく聞いてみると、昔考えていたイメージのレイプそのものだったわけ。
フェイクも交えて言えば、全く知らない(店とかで見たとかではない)ちょっと精神病の人に押し入れられて、ナイフで脅されて強姦された、みたいな。
でも聞いてる途中、俺は疑いモードで聞いちゃうわけよ。なんか一度関係持ってた人とか、実は付き合ってたんじゃなくて?とか。
それで最終的に「道ばたで殴られた」以上の出来事とわかった時に初めて「ヤバイ出来事にあったんだな」と。
誰かを可哀想とか思うまではいいんだけど、可哀想と思ってたものが実は可哀想じゃなかった時って結構エネルギー消費すんだわ。
あー、こいつ他人の可哀想を引き出すために俺利用したんだなって。だから初めに疑ってしまう。
今まで「グラデーションレイプ」みたいなのを「レイプ」って話すやつばっかだから、ガチのレイプでも疑いを持って聞いてしまう。
そりゃグラデーションレイプがレイプとして認められれば、世の中の頭の中幸せな大多数の人は幸せになると思うけどさ、
「不幸」な人はずーっと不幸、というより更に不幸に落とされるよね。
ジョージ・オーウェルがかつて1984年の中で予想した「ビッグ・ブラザーが見ている」世界になってしまった今、社会的弱者だとか、性的なまなざしがどうかなどを気にしながら生きていかなければならなくなった。
日々、心をすり減らしながら働いて、ほんのひとときの慰めすら焼き払われるようになってしまった令和2年の空気に、政治的な正しさとやらが自分たちの日々のくらしにはなにももたらしてくれないことに気づきつつも、いつかは報われる、そう思いつつ過ごしていたと思う。
一見、素晴らしく見える言説。
貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を。
SDGsの17のゴールについて、文句を言う人はいないだろう。だって、そうあった方がより良い社会に見えるから。
これに反論するには、謳われているこれらのテーマよりより強い強度で、反証しなければならない。
しかしこれらのゴールは、そもそも反論する必要すらない、無敵の命題なのだ。
ひとは多くのテーマを投げられると混乱してしまう。マジックナンバー5と言われるように、17のゴールなんて扱えようもない。
それでもテーマ単体はそれぞれどうしようもなく正しい。ただしいのだ。
そうやって少しずつ罪悪感を逆手に取り、気づかないうちに、正しさを盾に作り上げてきたディストピアは我々が暮らす社会を次第に蝕んでいったように 思える。
こんなことネットで言ったら社会的に死ぬよね、みたいな枕詞をつけて、対面で、「ここだけの話」をするようになってしまっている。
1984年で描かれていた監視社会は気がつけば現実のものとなっていた。
そんな時代に暇空茜氏が登場したのは痛快この上ない出来事だ。
私はapos時代やブラウザ三国志時代の空白氏を存じ上げなかったが、Twitterにて「暇な空白」として現れた以降、フォローこそしていなかったがリストに入れて彼の振る舞いを眺めていた。
すぐレスバ対象にマウントを取るし、ピンフスキーにウザ絡みをし続けるさまなどは、見ている分には昔のインターネットが戻ってきているような気がして個人的にはめんどくさそうだけど好ましく思えていた。
彼を好ましく思わない人からは、承認欲求に狂った躁状態であるという揶揄を目にしたが、それは誤りで今も昔のインターネット然とした振る舞いの延長であると思う。
忖度なくマサカリを投げ、雄叫びをあげる猛獣でありつづけるだけであり、私のような新参から見ても変化してるとは思えない。
とにかく氏は特殊個体であることは間違いないが。そういう人なのだ。
そんな彼が暇を持て余して?始めたウソを暴くという戯れだが、この話を追っていてずっと感じていることがひとつある。
彼は一切攻撃していないのだ。
ただ淡々と記録をつまびらかにし、過去のデータや発言と照合して、それらを解説してオープン化しているだけにすぎない。
それが攻撃だと感じるのであれば、自身の振る舞いを顧みた方がいいと思うが、それはまた別の話。
正しい「とされる」ことをしているから、多少難があっても多めに見てもらえる、というバリアが彼の行動によって無効化されつつあるように見える。同時に相手がたの反論や非難の矛先を全て彼が受けることによって、矢面に立ちたくない、立てない事情がある他の人間も行動に参加できるようになっているのだ。
結果、暇空氏が一人で叩き出せるダメージよりも遥かに大きな数値を稼ぐことができていると思う。
むろん、暇空氏一人が攻撃もしなければならない場合だったとしてもかなりの数値だと思うけれど。
こういった暇空氏が端緒となった調査行動だが、彼が裁判費用として集め始めたカンパの金額を見るに、社会的に大きなムーブメントが産まれていることは疑いようがない。皆、彼に望みを託したいのだ。一方で、Twitter以外のソーシャルメディアではこの話題をあまり見かけない。
だからマイナーな運動なのだ、影響はないという意見になってしまうのはわからないでもない。しかしこれは(あくまで私の個人的な見解だが)実態を窺い知ることができないという観点から正しくないと言えるだろう。
私のFacebookのフレンドには、暇空氏が言う83-2人委員会の人間がいる。「ナニカ」に近いと目される組織で勤めている人間も複数名いる。財団の犬も。
社会人として、そんな交友関係の中で、この関連の記事に言及なんてできないのは自明であろう。
関係性に色々なグラデーションがある中、83-2人委員会に名を連ねているけれど、今のあなたの見解は?なんて今のインターネットの世界で聞けるわけがない。そしてそもそもFacebookは国内においては仕事の告知や自慢しか流れてこなくなっている斜陽気味のメディアだ。
わざわざ、波風を立てるようなことを書かないのだ。書いてしまうような人は狂人であろう。(おそらくその手のタイプの人はフレンド関係のままだけどフォローをはずされているだろう。)
しかしながら、わたしと同じようなソーシャルグラフを持つ友人とリアルで飲む時に、ポロッと話題に出してみると面白い反応を得られるのだ。
お互いの認識を恐る恐る確認するようなやり取りをした後、「あれまじでやばいよね」みたいな形になる。
そして、「暇空にカンパしたもん」というように、陰ながら支持している旨を明かす。「おれも」と返す。そして、「これはFBでは言えないよねー」「そうそう、角が立ちすぎる」なんて会話になるのだ。
極めて個人的なサンプルであるが、800人くらいフレンドがいる中で、その中で近似したソーシャルグラフを持つ200名の中で、たまたまリアルで会う機会があった人のうち15人弱がそんな感じだった。
普段積極的にインターネットに触れている党派性に染まっていない層はWBPCの話について好ましく思っていないと思っていいんじゃないだろうか。
一方で、ソーシャルグラフが近くない友人、実家近辺の友人や大学時代の友人はこの問題を認知すらしていないからここが課題だと思われた。
左のいつメンがいれば、同様に右のいつメンもいて、一般的な生活者だったらどっちのいつメンの話も聞きたくないのだ。怒りに満ちた言葉や、皮肉になってない当て擦りの言葉なんかもう、たくさんなんだよ。
そういういつメンは言葉遣いも悪くなる。怒っている人には近づかなくない。だから先鋭化する。
そんなところに突如として現れたのがこの冷静さに満ちた動きなのだ。観客をするにもリテラシーが必要とされる。
かわいそう、良さそうといった感情によって蹂躙されてしまった社会と世間を取り戻す智慧の革命と言っても過言ではない、かも。
あけすけに語られる不恰好な言説ではなく、冷静にウィットを込めて、時には自虐も入れてソフィスティケートされたうえで投げかけられるから、抵抗なく飲み込める。これを冷笑という向きがあるのかもしれないが、そう知覚してしまうこともわからないでもない。しかし、冷笑というよりはポップであると感じる方がおおいのではないだろうか。
本件はもはやcolabo問題ではない。
ナニカが何かは観客席の人間からはわからないが、最終的にはナニカ疑獄に収束すると思うし、そう願いたい。これは静かな、静かでポップな革命だといえよう。これがきっと、戦後の本当の終わりを示す標なのだと思う。