はてなキーワード: アガペーとは
「別の人」じゃわからん
増田初心者でもない限りツリー見れば分かるだろう(初心者ならすまんが)。
① 愛の主体が神”だけ”ではないということで一致している。
「別の人」じゃわからん
確かに「ただこの場合」と書いてるから特定の聖句について言及してる可能性も捨てきれないけど
「無償の愛」って「無償のアガペー」っていう聖句があるわけじゃなくて
アガペーを他の愛との違いとして「無償の愛」と解説してるんだから
具体的にどこを指してるのか全く分からん
「あなたの敵を愛しなさい」は
「善をもって悪を征服していきなさい」と一緒でしょ
「愛の主体が神”だけ”」という意図でないことについては、別の人に対するトラバを参照。
「アガペー」を「見返りを求めない無条件の親切行為の事」とまで狭く解してよいかは一考を要する。その場合、以下の規定をどう解するかという問題が生じる。
読んでくれて有難う。男性って、好きな女性だとか素敵な女性が居たら、男ならまず放って置かないだろうと思っていたけど…。塩対応からも解る様に、「勘違いしないでほしい、親しい仲にはなりたくない、惚れて欲しくない、等等で私に対して思わせぶりな態度を取らない」のかと思った。ってかアガペーって角が立たなくて良い言葉だな…。
突然「コイツの事、恋愛対象としてどう?」と聞かれた。自分が皆からどう見られているのかが解らない。正確には、自分の「女としての価値」が解らない。
私は女として品定めされている方なのだろうか。それとも、女として合格で「斡旋」されているのだろうか。
昔、イジメやイジリ、罰ゲームで「この女とくっついちゃえよー」と、私が罰ゲームのダシに使われる事があった。モテない、冴えない女だったので(懐かしい…)。
雑談中、自然と恋愛話になった。女の子達が「彼氏欲しい」「早く結婚したい」「合コン開かなきゃ」とか言っていて、私も自然と同調して話に参加してた。
暫くして雑談に参加してきた男子Aが話の流れを追い理解したかと思うと、急に違う部屋にいた男子B(私もAも旧知の仲)を連れてきて「お前、コイツは?コイツの事はどう思ってる?」と急に言ってきた。
その男子Bの事は尊敬できる多くの友人の一人。けれど男子Bから直接私にフランクに話しかける様な事はしない。むしろ私を見かけると挨拶はサラっとするものの真面目な顔(塩対応に近い)をしたりします。いわゆる上っ面な感じ。
皆と一緒に居る時は、男子Bも空気を読んで私を塩対応せず(直接話しかけたりはしませんが)輪に溶け込む形で私も談話できたりする。
ただ、二人になると、警戒されるというか私を友人として価値のない人としてフェードアウトする様な態度を取られているので(雑談も無し)、第六感としては「あまり関わりたくないんだな」というのは察した。他の女子や女性に対してはフランクに接しているので。
そんな中、急に男子Aに「コイツの事、恋愛対象としてどう?」と言われて脳内は「は?むしろ嫌われてるんじゃないの?何この質問。」だった。
角が立たない様に、「尊敬するわー色々フットワークも広いしさー」など、笑顔で対応した。その場に男子Bも居た。男子Bも私もその場の雰囲気を壊さないように朗らか姿勢で対応してたけど…いかんせんしつこい質問攻撃にゲンナリした。何度も何度も男子Aは「私にだけ」聞いてきたし、そろそろ引き出しもなくなってきて、私もイラっときた。
前置きが長くなってごめん。
この場合、私は女として品定めされている方なのだろうか。それとも、女として合格で「斡旋」されているのだろうか。
卑しい言い方をすると、「魅力があるのは私なのか、男子Bなのか。」
私は、男子Bの事が好きだと、周囲に思われているのか。
それとも、男子Bが私に好意?を持っていると思われているのか。
よく解らない説明になって御免。
因みに、何度も何度も男子Aが聞いていく内に、男子Bはそろそろやめろよ的な目で男子Aを睨み、制止しだしたので、私も「いい加減にしようね。」と男子Aに言った。
私は腐女子であること、ユーリが好きで、メインの二人に疑問があり、批判的になってしまうこと、
モンペと呼ばれるだろうが、皆がこうではないので前置きしておく。
1話をわくわくして見ていた。話が進むにつれて疑問に思う点が増えた。
ユーリやヤコフ、スケートそのものが蔑ろにされているように感じるからだ。
ヴィクトルと勇利の関係はしばしば、大きく崇高な愛、恋愛よりももっと深いもの、などと表現される。
果たしてそうだろうか。
もし二人に、その関係に、(ファンが言うようなLGBTについて世界に何か影響を与えるほどの)大きな愛があるなら、
周りの気持ちを尊重できる人間であってほしかった。とても大勢の人が「尊い」と称えるほどの人物には見えない。
代わりに泥酔して腰を擦りつけた勇利の約束を守りに海を渡った。
なぜその憧れの気持ちに差をつけられなければならないのか。
ユーリは、とりわけヴィクトルが日本へ渡ってしまって以降、真摯にスケートをしている。
常に勝ちたいと思っている。他国の選手も同様。勇利達はそうではない、と私は思う。
勇利が一人で戦えば応援して、ピロシキを一緒に食べる。万全の彼に勝ちたいからだ、ライバルだと思っているからだ。
そのユーリに、二人は試合前、スキンシップをとりながらにこにこして「ガンバ」だとか「僕の方が体力ある、ばーか」と言う。
馬鹿にしていると思った。
マジアガペーを見て焦るどころかのん気に応援してくるライバル、約束を反故にした張本人。
怒って当然だ。
それを見て、応援する二人かわいい、怒って嫉妬してるユーリかわいい、という感想を多く見かけた。
コーチ代理のシーンも、ユーリとヤコフの気持ちが尊重されていないと思う。
その上憧れた人のコーチに緊張したり、キスクラでは有難いと話を聞くそぶりもない。
空港内を並走して抱き合いプロポーズみたいだね、と言う二人が不思議だった。
真っ先にマッカチンの無事を喜ぶよりも、自分のヴィクトルへの気持ちが優先されてしまう。
コーチをしてくれるヴィクトルに対しても、弱いメンタルを察してくれと怒る。
バンケットでは現在のコーチがいる前で、別の人間にコーチを頼んでしまう、
ダンスバトルだって長谷津での勝負だって、本来ユーリはしなくていい勝負に負けたのだ。
完璧な人間はいない、リアルだ、と言われても、その人間性に疑問を持つことに変わりない。
雑誌の版権絵で大人二人がブランドの袋に囲まれニコニコと密着している間も、
名前が同じキャラを出したかった都合上生まれ、ライバルらしいライバルにも据えられず、
もっといろいろあった気がするが、つまりスケートに対する向上心と、周りのキャラへの尊敬、敬意が見えないからもやもやする。
そういう部分で、最近話題の本格スケートアニメが見たかった、という意見には同意した。
作画が良い、技が忠実、そういうことではない。
同性愛だって異性愛だって、どんな愛が描かれてもいい。ただ、それを魅力的と言うには、
努力や葛藤を重ねて、真摯にスケートにとりくむ人だから素敵と思える、そんな描写が圧倒的に足りない。
代わりにあるのは、そういったものをすっ飛ばして育まれる二人の愛のシーン。
葛藤があるからいいアニメ、というわけでもないのだが、魅力に感じる作品には
やはりそれを乗り越えていくキャラの様子が描かれていて、その過程に萌えたり、熱くなるものなんだと思う。
だから、薄味に感じるこの作品がここまで高尚なものと称えられると、?と思ってしまうのだ。
他作品や現実の選手まで引き合いに出して、ユーリはやっぱりすごい、と言ってしまう空気が、私にはちょっと苦しい。
本格スケートアニメ、二人のユーリというふれこみに、勝手に期待したといわれればそれまでか。
とは言え、ファンの人たちはそういった部分を読み取って楽しんでいるんだろうし、それを全て否定するつもりはない。
違和感があるのは、腐女子が同性愛の関係を性的に消費しながら、アニメに絡めて声高にLGBT差別がなくなるといいとか、これは差別の無い理想の世界、とあまりにも過剰に賞賛することだ。
現実で差別があったがこのアニメは違う、と言う翻訳ツイートたった一つで、それをすぐに信じ込んでしまい、スケート界って大変なんだねと盛り上がり
制作側が差別のない世界を描いたと発信し、そういう素晴らしいアニメだという話が一斉に広まった。
考え方は立派で否定されるものではないが、正直、一人が言い出したからよく考えず我も我もと高尚なアニメを見て感想を言うことが目的になり、
試合のあとに高揚したまま、抱き合ったりキスしたりすることはあるだろうが、
過剰な演出、特にバンケットでの勇利や、妊娠しそうの発言は必要だったんだろうか。
これが男女であっても、人前でそういうことをするのはあまり好ましく思えない、
だからこそ男性同士にそれをさせることが、いかにも同性愛の男性はこういうことをしそうだというレッテルのようにも、
差別されない世界なら、これらの行為は本当に咎められないのか?男女がそうしたセックスアピールをしていたら、尊い愛だと言えたか?
電車の中でいちゃつくカップルを見ているような気持ちを、差別とは言わないはずだ。
男性同士の恋愛が差別されているから影で楽しんできたのではなく、男女や百合のエロと同様、自分が性的に消費しているから隠すべき趣味としていた部分が大きいと思っているので、カップリング名がトレンドに入って喜ぶことも理解できなかった。
LGBTを賛美しているから同人誌を書いたり、アニメを見ているのか?少なからず切欠は違うと思う、萌えて、エロいことをさせたいと思ったから、ついキャーとはしゃがずにはいられないのではないか。
そうである限り、成人向けなどのコンテンツが人に見えにくいところで楽しまれるように、現実の問題とは分けて、ひっそり楽しむもので、だからといってBLを区別することが差別だと言うのも違うだろう、と思う。
特に、当事者ではない私達が深く理解していない段階のまま、LGBTにとって理想の世界と断定してしまうのは間違ってはいないだろうか。
それを判断して、見るか見ないか、どう思うか決めるのは私達ではないので、どうかどこでも誰にでも押し付けるようなことはやめてほしい。
とにかく目に入ってくる反応と、本編の内容、キャラの内面があまりにかけ離れていないか?BL趣味に現実を巻き込みすぎてはいないか?と思った。
人生つれーなーと思って昔書いた日記を読んでみたら、今よりももっと辛そうなことが書いてあって、あれ?もしかして、俺、楽になってるのでは?って思った。ここ最近ずーっと辛い、昔はもっと良かった…と思っていたけど、3年前からずっと辛かったようだ。てことは変わってないね。
でもまあ、なんですかね、最近の方が原因が特定できているのでよい。原因が特定できているというか、自分の心のことがよく分かるようになっている。まー、あれですよ。外部に答えはない。自分の人生が辛いのは、自分の心が辛いのです。環境や他人ではないのよ。なんでこんなに辛いのかなーって、なんでこんなに辛く感じるのかなーってことですから。
ムカつく奴がいるんじゃなくて、自分が勝手にムカついてるだけなんですよね。大抵コントロール欲求。俺の思い通りにならないお前がムカつく!っていう。そりゃそうですよ、他人なんだから俺の言うこと聞かないよねと。しかし人格障害レベルの人間まで許せるようになったら、世の中ムカつくことなんてなさそうであるなと、マジモンの人格障害の同僚にムカつきながら思う日々ですよ。悟りは遠い。慈悲、またはアガペー。オールアイニードイズ、ラビング。愛するということをしないと。愛したいですよね。自分をそしてあなたを。
結婚してもうすぐ丸三年。
夫も性欲皆無ってわけではないみたい。オナニーしてるって言ってるし。でも私には求めてこない。
てか私はセックスしたいんです。なんだったら露骨に誘う(それがよくないのか?笑)
でも夫は、疲れてるから、えー、みたいな感じ。優しいから最悪強要したらしてくれるけど。
だけど強要してまでもやりたくはないよね。なんか必要とされてない感がして虚しくなる。(性に限っての話よ。めんどくさい女認定しないでね笑)
何回か切実に話し合ってみた。
夫はこれまでもそこまでセックスに対して貪欲な方じゃなかったらしい。それでも最初の頃は人並みにやってたしさ。夫自身の経験人数も決して少なくない。
ところが夫が言うには、セックスがそこまで夫婦生活に必要な理由が思いつかないのだと言う。性的結合という不純な要素がなくても成り立っている素晴らしい関係ってことじゃないの?それこそ愛じゃん!みたいなさ。エロスがアガペーに昇格したよ!アーメン!
それに対する私の反論としては、「言葉ではどうがんばっても伝わらないことがある。だから究極のコミュニケーション手段であるセックスでそこを埋めましょ」ってことなんだけど。
まあ自分で言っててポエム乙wwwwって感じで、学術的な根拠もないし、夫も全然納得してなかった。はは。
なんか不毛すぎて、性の不一致が離婚事由になるってのも、こうなるとなんでだろう?って思う。夫婦間における根本的なセックスの必要性ってなに??
教えてエロい人ーーー
こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。
仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教の言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学禅研究所、1992年、108頁)
日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教とキリスト教との出会い: 根源的いのちの経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会、2003年、219頁)
即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事、実験、無神論者、唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常底のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践』筑摩書房、1967年、185-186頁)
さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。
その名は萌え。
萌えの定義って結局決着ついたの? サブカル文化論とか社会学界隈で。
舞城王太郎が(確か『阿修羅ガール』あたりで)ちょっとカワイソーな事になった顔のいい同級生を「えーかわいそうだよ」「謝ってあげなよ」と庇うモブのクラスメートに対して「萌えてんじゃねーよ」と言ってのけて、ああこれって萌えなのか、言われてみれば萌えかもな、上手いこと言うな流石小説家、みたいなことを思ったことがあったんだけどあれって結局何なのかってズバリ言い表せた人とか言い表そうとして失敗してる人とかいないの?
俺は萌えを殺したい。
いい加減何にも萌えないようにしたい。
萌えは愛だから萌えを捨てるとは愛を捨てる事であってそうすると心が乾くとか錆びるからやめろみたいなことを言ってくる奴がいるんだが冗談じゃない。
萌えが愛であるはずがない。少なくともアガペーでは絶対ない。エロスではありうるかもしれない。
しかし心を潤したり磨いたりするのは本質的にアガペーであってエロスではない。つーか心が乾いたり錆びたりで死にそうになるのはエロスのせいだと思うの。
与える愛と渇望する愛との二分類は「こんな心理になるのはクピドの矢に刺されたせいですよ」という説明付のための分類であり言わば出発点であって、それぞれの愛の性質の羅列にはなっても分解はできてない。
サブカル界隈、萌えの定義あたりからそこんとこ突破した人誰かいないの?
教えてエロい人。
そしてこの愛を殺して。