はてなキーワード: 再検証とは
自分の手で検証できていないからリリースできないと正直に答えた。
何故そうなるのかが理解できないようだった。
お前が自分のチームを使って完成させたと思っているそのプログラムは、俺が全部再検証して問題点を全部潰してからリリースしているんだよ。
フィードバックしないのは至って簡単で、こいつにもこいつの部下達にも教えるだけ無駄だから。
「本当に」ちゃんと検証したのならすぐに気がつく部分ばかり間違えているから。
常識のレベルで配慮しなければならないものにも手を回さないから。
有り体に言えば「信用できない」から。
どんなに出来ましたと言われても信用できない。
自分が自分の手できちんと動くことを確認し、出来に納得したものでなければ信用できない。
俺の目にはそれは作るだけ作ってノーテストで放置しているのと違いがわからない。
明らかに途中で問題が起きたはずなのに出来たと言って回してくるようなバカにどうして仕事を預けられるのか逆に問いたい。
いろいろと悪い評判があるAO義塾だが、
やっていることは必ずしも悪いことではないと思う。
前年度の合格実績の不当な操作に引き続き、今年も高くもない合格率を
「高い」と称して生徒を集めている疑いがあるのだ。
2016年2月、初回の東京大学推薦入試の結果を受けて、AO義塾は、「東大推薦入試でAO義塾が合格者NO.1へ!」と発表した。
全合格者77名中、14名の合格者をAO義塾から出したのだという。
しかし、AO義塾公表の数字は無料講座を受講した生徒を含めたものであることがその後すぐに明らかになった。
さらにその内実は、すでに一次選考合格した者に対して提供した講座分も加えての数字だったのだ。
これは予備校業界のガイドラインにも反するだけでなく、スカイプで無料講座を受講した者も含めた、「どんぶり勘定」による数字の操作ということになる。
このことが世の人の知るところになり、AO義塾の評判も見事に炎上したことも記憶に新しい。
それだけではない。
AO義塾の無料講座を受講した生徒と、そうでない生徒の合格率に差がないことも判明した。
<参考記事>
「東大推薦入試が塾に攻略された」は誤解だ 「14名合格」のAO義塾に疑問をぶつけてみた
http://toyokeizai.net/articles/-/110872
東大推薦入試の「合格実績」は誰の手柄なのか AO義塾・報道の矛盾の真相があきらかに
http://toyokeizai.net/articles/-/110931
以下のAO義塾のページを見てほしい。
http://aogijuku.com/tokyo/todaisuisen2017.html
カウント対象が、「AO義塾で書類対策を行った塾生」に変わっている。
それにともない、合格者数も 6名 に変更されていた。
たったの6名。
特に入塾試験や選抜を行わず、全希望者を東大対策クラスとして受け入れてのこの数字です。受験者全体の書類通過率は約86.1%(173名中149名)・全体の合格率は約44.5%(173名中77名)でしたから、その差は歴然としています。
だが、統計上とはいえ「無駄な講座」しか提供できないAO義塾が高い合格率を出すというのは一見して不自然だろう。
その数字を検証したところ、やはり、統計的有意性を持たない(有意水準 p < 0.1)ことがわかった。
つまり、「AO義塾のおかげ」と言えるような、合格率の意味のある差は統計上存在しないということだ。
サンプル数が少なすぎるだけかもしれないが、責任ある会社ならそれを考慮して宣伝すべきである。
少なくとも、数字に誠実に向き合えば、「歴然」などとは言えないはず。
これに対して、あくまで数字を単純に比較しただけと擁護する意見もあるだろう。
しかし、研究者なら捏造と言われかねないようなデータの扱いであることは間違いない。
AO義塾は、統計の基本も使えないで、研究者への道も示されている東京大学推薦入試を突破できる指導ができるのだろうか。
疑問と言わざるをえない。
<参考>
かっては皆で頑張れば皆が幸せになれる少なくとも頑張った人間は幸せになれると思われていた。
だけど蓋を開けてみたらその頑張りを吸い上げる立場にいるブルジョアジーが他のプロレタリアートをダシにするだけの状態は一向に変わらず相変わらず頑張ってきているのに多くの人は報われない。
そしてそれがいつまで経っても続き遂に死ぬような所まで来てもブルジョアは自分のことばかり優先し続けそしてそれが当たり前だと思い込んだまま。
正当に皆のために努力すれば報われるなんてことはなくて他人を利用することばかり考えて我田引水のための努力ばかり続けた奴だけが得をするという事実が再検証されすぎた。
自分の事しか考えられない老人があまりにも沢山いるのは彼らが裏切られ続けたからだ。
多分40ぐらいまでは修正が効く。
そこに行くまでの間に結局ブルジョアが自分たちを利用しているだけなんだなこの国はと確信したままで終わったらもう自分のことしか考えられなくなる。
朴裕河‘ 慰安婦支援者に訴えられて THE HUFFINGTON POST 日本語版
それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由 | 朴 裕河 THE HUFFINGTON POST 日本語版
慰安婦問題から「日韓ともに売春差別への自覚を」 朴裕河教授に聞く THE HUFFINGTON POST 日本語版
【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える[1]-[13] - 朴裕河|WEBRONZA - 朝日新聞社
「帝国の慰安婦」書籍の出版等禁止及び接近禁止の仮処分決定 - 東アジアの永遠平和のために
『帝国の慰安婦』名誉毀損対象の引用目録と日本語版の表現 - 東アジアの永遠平和のために
日本軍「慰安婦」被害者の名誉毀損事件の捜査結果(ソウル東部地方検察庁 2015 . 11. 18 報道資料) - 東アジアの永遠平和のために
日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク 朴裕河『帝国の慰安婦』
慰安婦ではなく慰安所の問題、明白な国家犯罪 - 東アジアの永遠平和のために
【「帝国の慰安婦」書評】感情の混乱と錯綜:「慰安婦」に対する誤ったふるい分け - 東アジアの永遠平和のために
鄭栄桓氏による朴裕河『帝国の慰安婦』書評まとめ - 東アジアの永遠平和のために
「慰安婦」問題をめぐる報道を再検証する会: 『帝国の慰安婦』における「性奴隷」概念について
和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判(徐京植) - 東アジアの永遠平和のために
従軍慰安婦問題を巡る常識と言論空間 | 木村幹 THE HUFFINGTON POST 日本語版
[ニュース分析] 『帝国の慰安婦』論争第2ラウンド(1/3) (2/3) (3/3) : 政治 : ハンギョレ
『帝国の慰安婦』を巡る起訴について立場表明 私は元慰安婦の名誉を毀損していません。 | 朴 裕河
帝国の慰安婦:在宅起訴の朴教授との一問一答 「起訴はちょっと予想外」 - 毎日新聞
『帝国の慰安婦』の朴裕河教授「被害女性を『売春婦扱い』したことない」(1)(2)(3) | Joongang Ilbo | 中央日報
ナヌムの家「『帝国の慰安婦』起訴批判、被害女性の苦痛知らない」=韓国 (1)(2) | Joongang Ilbo | 中央日報
「帝国の慰安婦」朴裕河教授の在宅起訴に学者ら54人抗議声明(全文)THE HUFFINGTON POST 日本語版
『帝国の慰安婦』著者の起訴に韓国知識人が反対声明 : 政治 : ハンギョレ
[インタビュー]「ハルモニたちが告訴した...弾圧とは言えない」 : 国際 : ハンギョレ
朴裕河氏の在宅起訴問題について――『ハンギョレ』インタビューの補足 : 日朝国交「正常化」と植民地支配責任
なので、ときには科学的に採用された過去の公式や定数が、再検証や新たな発見で書き換えられたりするわけです。
だから、今の科学の常識が将来には「間違い」と言われるかもしれない。ただ、今わかっている範囲でも、それなりに妥当で有用で世の中がそれなりにうまく回るから、みんな科学に割と頼っているわけですよ。それで、たとえば現代医学が頼りないと思っている人のなかには、民間療法などを試したりもする(ただ、一部の宗教みたく、信じることの強制は原則的にしてこないですね。白い眼で見られたりはするけど)。
民主主義だって「民主主義なんてクソだが、ほかにマシなものがないからやっている」と、英国チャーチル首相が50年以上前に話したことですが、民主主義のやりかた自体にも議会制から全員参加までいろいろありそれぞれ利点弱点があるし、民主主義自体が正しいとどこかから認証されているから採用されているのではないですよ。
■その1。
いやー、『ONE~輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。
「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか)
……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!
さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から、特定の感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。
そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常の崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。
しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくまで少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。
前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。
ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公のモノローグなどで、恋愛の予兆があらかじめ内在する。
ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚な描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛の予兆が排除された状態から、後半、一気にハードな恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写や少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。
さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊の暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオの手法としては、これは決して悪くない、と思う。
同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体は積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的な抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメの物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。
ラブコメというシステムは、その発生においては、過去の歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。
だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊を抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。
■その2。
【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメの定番パターンからの進化。しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーからは生理的嫌悪にも似た反発に遭った。
物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミスの音楽は正解だとしても、出演女優をフェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)。
つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合、必然的に、既存のパターンにはない微妙な感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式を否定していく作業になる。記号のイメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。
でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。
例えば、『ONE~輝く季節へ』の場合は、日常から非日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合、日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から、過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。
それから、感心したのは、父性&母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克がテーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克がテーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくまで自律的に運命を選択していく。
他人の犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。
そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だから、コールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去の記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。
だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。
しかし、あくまで自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやかな意志の方が、ゲームを終了し、物語がプレイヤーの現実に取り込まれた際に、有効に機能するのではないだろうか?
過去の日常と現実の日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語も再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。
■ちっとも終わらない近況。
仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアのキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明な仕事ばっかしているので、最近は「本業は編集者」とは言えなくなってきたですよ……。
あ、事務所のホームページに、このコラムのバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーのテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。