はてなキーワード: らくだとは
おそらくだけど、「認可保育所」に入れられなかったので諦めたのではないかと思う。15年も前では今と比べて無認可の質もあまりよくなかったろうから、そっちに入れるよりは自分で育てる方を選んだのだろう。
「友人の高収入子持ち夫婦が保育所のことで(上記と似たようなことを)愚痴ってた」と7〜8年ほど前に子持ちの同僚に聞いたことがあって、自分もそれを聞いて「いくら福祉優先とはいえ、高収入の人が高い税金を納めてくれた結果として保育所を建ててもらえてるのに、そういう人たちが優先的に保育所に入れてもらえないなんておかしな話だ」と思った記憶があり印象に残っている。
俺は物語を書くのが好きだ。
初めて物語を書いたのは幼稚園児のとき、大好きだった絵本を真似て色鉛筆と画用紙で小さな冊子を作った。
キャラクターから筋書きまでその絵本丸パクリで、とてもじゃないが創作と呼べる代物ではなかった。
でも俺にはそれが楽しかったんだ。
それからずっと、小学生時代も中学生時代も、小説を書き続けた。
休み時間、校庭でドッジボールに励む同級生を尻目に、俺は教室で執筆を続けた。
小学校高学年になるとさすがに恥ずかしくなって、学校では構想を練るだけにし、執筆するのは毎日家に帰るまで我慢した。
中学生時代は漠然と重たい気分に付きまとわれて、その暗い情念を精一杯創作にぶつけた。
まあそれだけ書いてれば少しは成長するが、自分の書くものにセンスを感じたことは一度もない。
語彙が増えて長い文章を書くことを覚えたくらいで、空想の中では傑作だったはずの物語も、完成してみればいつも支離滅裂な駄作だった。
作文の授業で褒められたことなんてないし(むしろ国語の点数はずっと悪かった)、意を決して自分の書いたものを友達に読ませてみても、手応えのある反応は返って来なかった。
ずっと自分の世界に閉じこもっているから友人も恋人もできなかったが、それでも俺は自分の人生に満足していた。
だが高校に入学して、俺の人生は大きくカーブを切ることになる。
俺が待ち時間に読んでいたドストエフスキーの文庫本を見て、彼は声をかけてきた。
「僕はスヴィドリガイロフの儚い美学に共感するよ。彼は豊かに暮らしているように見えてその実、生の孤独を見つめているんだ」
美化されているけど初対面からこういう感じの奴だった。
「ふぅん、俺はラスコーリニコフがいいと思うけどね」
そう俺が言うと、彼は眩しいくらいにニコッと笑った。
そのうえ創作もするという。
そうして彼と仲良くするうちに、なりゆきで文芸部に入部することになる。
考えてみれば自分からコミュニティに参加することなんて人生で初めてだったが、やはり自分と似た人が多かったのか、自然と馴染んでしまった。
何といっても生まれて初めて友達ができたのだ。楽しくないわけがない。
一緒に入部した一年生は例の文学少年以外にもう一人女の子がいて、彼女も小説に熱い思いをもっている娘だった。
三人で互いにお薦めの本を紹介しあったり、俺の家に集まってだらだらくだらない話をした。
美術展に行っては批評家ぶって論評して、ときには高校生らしくカラオケやボーリングもした。
そして新たな刺激を得た俺は、これまで以上に執筆に熱を入れるようになっていた。
友人の影響でシュルレアリスムの真似事をしたのは失敗だったが、それを除いても短期間にこれほど成長したことはなかったと思う。
事実、俺は高校一年生の冬、公募の新人賞で念願の一次選考を通過することができた。
そう、たったの一次選考だ。笑ってくれてもいい。
これまで両手では数えられないくらい投稿してきて、初めてまともに読んでもらったのだ。
次の日、友人たちにそのことを伝えるのが楽しみだった。
というのも、俺は自分の成長は彼らのおかげだと思っていたからだ。
殻に閉じこもって書いていた中学時代の俺は自家中毒に陥っていたと今になってわかる。
でも高校生になって、文芸部に入って、彼らに出会って俺は殻を破れたのだ。
俺の中には彼らへの感謝の気持ちが溢れていた。
だが、俺の報告を聞いた彼らの反応は冷たいものだった。
へぇ、ふぅーん、そう、とか冷たい目をして言う。
ちっとも興味を示さず、退屈そうだった。
きっと新人賞には関心がないのだろうと思って自分を納得させようとした。
でも違った。
「創作に一生懸命になっているのは惨めだよ。世界はこんなにも素晴らしい書物で満ちているのに」
「えっ、お前何言ってんの……」
「つまりね、僕が創作をするのは、読む活動の一環なんだ。自分の書いたものなんてどうでもいい」
「じゃああのとき俺に語ってくれた創作へのこだわりは何だったんだよ! 一緒に頑張ろうって言ってくれたよな?」
するとずっと横で黙って聞いていた例の女の子が、
「あんたに合わせてあげてたに決まってるでしょ! そういえばあたしたち付き合ってるから! じゃ!」
と言って彼の手を引いて去ってゆく。
創作は惨めだって? 一緒に夢を語り合ったのは嘘で、自分の創作物なんてどうでもいいってどういうことだろう。というかそもそも付き合ってるってなんだよ。普通の高校生かよ。文学に身を捧げるんじゃなかったのか?
俺は現実を受け入れられず、思考はぐるぐると同じ所を巡った。
やがて俺は気づいたのだ。彼はファッションワナビという生き物だったことに。
一読して意味がとれないタイプの作品の価値なんて、素人にはわからない。
彼はそれをコミュニケーションに利用していたのだ。
本当はミステリアスな文学少年キャラを利用して女の子を捕まえるだけの、平凡な高校生だったのだ。
そう思ってひとまず落ち着いたものの、いまだにひとつだけ気になっていることがある。
彼は女の子に手を引かれながら、俺の方を見て、目で何かを訴えかけていた。
そしてあの、入学式の日に見せたのと同じ、眩しいくらいの笑顔をしてみせた。
あれは何だったのだろう。ただ俺を馬鹿にしていたようにも思える。しかし……。
俺の身体が疼く。
彼をあのビッチから取り戻さなければいけない。俺はそう決意している。
何かがおかしいと思う冷静な思考はあっという間に駆逐され、彼を助けなければという強烈な義務感が俺の脳を支配していく。
美人が必ず嫌がらせを受けるみたいには誰も言ってないと思う。元増田は自分のケースでは美人・もてることがこんな苦痛につながったって話を具体的にしてくれているので、ああそういうことはあるだろうなと「元増田のケース」に共感した人間がいるだけ。ブスだから受ける嫌がらせ(や誰にも一生誰にも告白されない苦痛(?))は誰にも想像しやすいけど、美人ゆえに受ける嫌がらせや告白されすぎる苦労、そのどちらもがあるんだなと納得した人がいるだけじゃないかなー。
ブスに生まれ変わりたいなんて思ってないくせに美人は苦労するとか言っちゃう人
そういう人がもしいても別にいいのでは。職場で逆恨みされて2度も退職と聞けば「苦労したなあ」と思うのは普通じゃね?美人でいたいくせに美人の文句言うな、みたいなのって一見正論っぽけど、美人とかもてることと、理不尽な嫌がらせなどされずに暮らしたいなーと望むことは交換条件でもなんでもないと思う。両立する幸せな人が世の中に多いなら良いことじゃん、もし美人がどっちも望んだり両方を手に入れたらズルイって思うの?何故罵倒する必要があるの?って思う。
増田がいってることは言い換えれば「ブスとか告白されない人間には苦労があるが、そうじゃない恵まれた人間の苦労など認めないし苦労だと言われると許せない」みたいに思える。あと美人じゃない・もてない人が見下されていると感じるのは被害妄想的だと思う。そういう人の苦労をないがしろにしてるわけでも、嫌味でも自慢でもないし、ていうかそんな話してないよ。どっちのほうがより辛いか、とかじゃなくてどんなことにも苦労はあるんだねーって言ってるんじゃね?
自分語りで悪いが、個人的にコンプレックスのあることとか気持ちの弱ってるとき些細なことで「嫌味言われたバカにされた」と、他人のことを「攻撃してきた敵」みたいに感じることがある。でも自分が他人の気持ちを推測しすぎて思い込みで勝手に傷ついただけだとあとでわかったことも多い。俺に恥をかかせようとした!とか見下された!とか勝手に感じ取るのって続くと自分がしんどいんだよね。
被害妄想呼ばわりして気を悪くしたかもしれんけど、非難してるんじゃなくて増田もそういう不必要なしんどさのなかで生きてるんじゃねって思った。ありもしない他人の悪意を推測して勝手に傷つくのやめるとすごいらくだよ、考えすぎかなーとかちらっと疑ってみる癖つけるのおすすめ。元増田は誰も見下しも攻撃もしてないよ。ブスも非モテも男も、嫌がらせの加害者すら攻撃してないと思う。
一日考えてみた。
これはどう考えても俺が悪い。
部下をあんま信用してないのって伝わるもんだな。
やる気をそいでいたとは。すまんかった。
しかし、教えてくださいと聞きにくるし、長時間働くし、文句を言ってるようには見えたなかったんだよなあ。
ここは自分のコミュ力不足。不足はわかってるけどそれよりも、影でそんな風に言われてたのか、というショックだったんだよ。
で雨だし土曜にウダウダ考えて気づいたのだが。
俺の上司すげえ。
あの短時間(面談は15分くらいだったと思う)に、残念な主任(=俺)に的確に問題を伝えてる。
「二日酔で眠い」から初めて、雑談を交え、「指示を出すとき普段どんなことに気をつけてる?」に行き、俺に喋らせて、反応を見た上で問題指摘し、反省の機会を与える。
さらに、きっとおそらくだが、部下に対してはも「あいつ要領悪くて余裕ないから勘弁してやってよ」ぐらい言ってる。
そんな気がする。普段の言動からそう思う。
部下にしたら、まじめに困ってるから言ったんだろうな。
でもまた無邪気な顔でミスだらけの書類を作ってきたら。
言い方に気をつけて、性格を見つつ、感情に配慮して、上手く回す、のか。
普通はそのくらい気をつかってるのか。社会人すげえな。俺だめやん。
それが基準なら全然できてないぜ。
ともかく、月曜は会社に行くか。
絵を描きたいと思ったとき、動機は何でもいい。
すばらしい絵を見て感動したとか、いつも抜いてるロリコン漫画みたいなのを描きたいとか、どんな高尚なものでも低俗なものでも良い。
とにかく理由があるなら、絵を描くのをためらわないことが大事だと思う。
はじめるのに必要なのは鉛筆と紙だけ。こんなに安上がりな趣味もない。
絵を描くことをためらってしまう人は結構多い。特に20代も過ぎて、オタク趣味が高じて絵描きに興味を持ったみたいな人に多いと思う。
今までずっと消費する側で、自分は作る側になれるんだろうか。小さい頃から描いてるわけじゃないから、もう遅いのではないか。
はっきり言うと、気持ち次第なので手遅れだとも言えるしそうでないともいえる。
なぜ子供の頃から描くと絵が上手になれるのかと言えば、子供には絵に対する偏見や抵抗が何もないからだ。
大人のように「いい年こいて幼児レベルの絵しか描けない自分が恥ずかしい」なんて思わない。
この気持ちさえ持てればいつから始めても絵はうまくなる。
焦ってしまう人は多い。
特に、絵を描く段階で何が描きたいのか決まっている人などがそうだ。
「可愛いロリ絵を描きたい」などと明確にビジョンがある場合、能力が追いついてないのに焦ってしまう。
そうすると、だんだん精神が圧迫されていき、「絵は描きたくないけどロリ絵は描きたい」という非常に複雑で矛盾した状態に陥る。
こうなってしまうと、絵を描くことが苦痛になり、理想とは程遠い現実に絶望することで「才能がない」という無意味な思い込みを抱き、
やがて心に深い傷を残したまま絵を描くという行為をやめることになる。
この状態から抜け出すのに重要なのは、「子供のように」絵を描くことを楽しむということだ。
絵を描くことは実に楽しい。自分が見たものを、そっくりそのまま平面に再現出来る。まる、しかく、さんかく、そういった図形を丁寧に描いて見たり、
簡単な立体を観察してみたり、あるいは音楽を聴いたりリラックスするのも良いだろう。
絵を描く時、とても大切になるのは「落ち着いた心」と「絵を描くのが楽しいと感じる心」だ。
ここで紹介するのは、絵を描いているのに絵を描く以外のことばかりしてしまっている人々だ。
彼らは絵が上達する見込みが低いか、全く上達しない。なぜなのか。
お絵かき講座をしている中で、特に絵がたいしてうまくないのに講座をやっている人はこのタイプだ。
なぜ彼らは絵が下手なのにお絵かき講座などということをしているのだろうか?疑問に思う人も多いことだろう。
おそらくだが、彼らは手をつかって絵を描くよりも「ノウハウ」をひたすら探し続けた人々なんだと思う。
つまり、誰かに絵を描く技術を教えられるくらい知識だけは身についたが、絵の練習はしなかった。
こういったタイプは、確実に「自分には才能がない」と思い込んでいる。思い込んでいるので手っ取り早く絵が上達するテクニックを探すが、探しているうちに絵を描く気力がなくなってしまったのだ。
稀なタイプだが、絵がうまくないにも関わらず自分のサイトをグーグルなどを利用して宣伝している人がいる。
宣伝にかかる費用は自らが出さなければならないのに、なぜそこまでして自分の絵を宣伝したいのか。
このタイプの人々はつまるところ絵を描きたいのではなく「絵がうまくてちやほやされている人」が羨ましくて彼らのようになりたいのである。
これは何も絵に限ったことではない。彼らはたまたま絵を選択しただけで、一般化すれば「才能に恵まれて人々に注目される」ことをあまりにも強く望みすぎている。
注目される人というのは別に注目されたくてそれらを続けているわけではない。(ただし、お金が絡んでいる人の中には、注目されるために何かをしている人もいる)
そのことに気づくまで、彼らは宣伝費をどぶに捨てながらサイトカウンタを気にする無駄な日々を送ることになる。
絵が上手くなりたいとき、小手先のテクニックは全くと言っていいほど必要ない。
必要ないというのは多少語弊があるが、つまりはこういうことだ。「テクニックは上達していく過程で発見するもの」
巷に溢れるテクニックというのは、無意識的な上達過程のある一部分だけを切り取って言語化したものであるに過ぎない。
だから、一定程度の真実は含まれているが、それを座学で真面目に勉強したところで、身につくのは左脳的な知識だけだ。無意識で処理できるものを意識的にやると上手くいかないことが多いのは、たとえば無意識で処理されている自転車のこぎ方などを意識的にやってみるとわかると思う。
答えは一つである。
「自然を観察しろ」
人間が絵を描くというのは、「自然を模倣する」一つの形でしかない。
だから、身の回りのものや人、あるいはテレビに映る映像や写真をよく観察し見よう見まねでそれを模写したりなどするだけで、絵は上達する。
自然や写真ではなく、他人の絵を真似たりするのももちろん有効だ。その場合、ある程度まで上達したら彼らの絵から離れる決意が必要になる。
慣れてくれば、様々なイメージがストックされ、自然を観察しなくてもイメージだけで描けるようになる。そこまでいけば、上達したと言うことは出来るだろう。
絵を描くというのはそれほど複雑な行為ではない。ものを見て、それを写し取る。それが目の前にあるものか、心の中で見えるものかの違いはあっても、基本的にはそれだけなのだ。
自然を観察といっても、何を観察するかは人によって異なる。
人それぞれだから別に書かなくてもいいことなのだが、一応アドバイス的なもの。
もし絵を描くのがほとんど初めてな人だったら、まずは単純な自然物から描くのがいい。
単純というのは、「動かない」ということも含まれる。
つまり、描く順番としては植物→動物→人間がいいのではないかと思う。
人体がこの世で最も複雑な自然物であることは疑いなく(だからと言って種として優れているというわけではないけど)、ポーズなども含めればさらに複雑になる。
好きな人に好きって言えてしかもそれがうまくいったらどんなに良いだろう!
うまくいかなくても後腐れないならちゅっちゅさせてくれたらそれだけでも仕事頑張れるのに!
ま、ちゅっちゅできたらそれ以上を期待するし、それ以上ができたらもっともっと近くにいたくなるから
疲れは結局とれてない的な。
せっかく大好きになりそうな人が居ても
年が年だから失敗した時の周りの目が怖いし
あと、めいわくかけるのが1番怖い。
もう、にちゃんまとめとか見なけりゃよかった。
ちみらのおかげで30代女子は好きな男にアプローチするのも大変気を遣うよ!!
勘違い女だと思われたくないし、あととんだ年増に狙われた!って怖がらせるのも。
急にこの年になったんじゃないし、恋すると臆病になるのはいくつでも変わんないもんな。
いや、良い歳であることをわきまえるのが前提で、よ。
あーーー!!
x+y+z=4 x^2+y^2+z^2=6
球を平面で切り取ると出来るのは円
平面の重心を求めると 平面は等しく傾いているので x=y=z な点を求めれば良いから 3x=4 より x=4/3 点H(4/3,4/3,4/3)
点Hと原点の距離は √(x^2+y^2+z^2)=√3(4/3)^2 = 4√3/3=4/√3 < √6
(4,0,0)=16> √6 なので、球の外側と内側に平面上の点があるので、球と平面は交差はする・・・。
で・・? 4/√3 ? 増田とちがうぁな、しくしく。
で、仮にz=1としてxy平面上の図形を見ると
x+y=3 x^2+y^2=5
y=3-x
x^2+x^2-6x+9-5=0
2x^2-6x+4=0
x^2-3x+2=0
(x-1)(x-2)=0
よって 点I(2,1,1)(1,2,1)が交点。
ここで 点Hは球の原点が0であり、平面上に出来る円周の垂線に等しいから
新しい円の中心と点Hは同じである。よってHIの距離が新しい円の半径rに等しい。
HIのIは2点のうちどちらを使っても結果は同じなので (2,1,1)を使うと
√ ((6/3-4/3)^2+(1/3-4/3)^2+(1/3-4/3)^2)=√ ((2/3)^2+1+1) =√(20/9)
・・・ってじゃねーのか。円の中の最大3点の最大面積だから
この円に内接する正三角形の面積になるのか・・・
正三角形の垂線を3kとすると底辺が2√3kとなり
正三角形の垂線を伸ばして、伸ばした点と、正三角形のもう1点を結んだ図形を作ると
k=r/4
k=2√5/3/4=2√5/12
正三角形の面積 3k*√3k=3√3k=3√32√5/12=6√15/12=√15/2
よって 0<=xyz <= √15/2
いい加減もうしんどい。
つ http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1339622668
UFJ系列は 金額を明確に指定できない+窓口での 入金を停止
おそらくだけど、何らかのトラブル(例:カウントミス)なんかが起きて、 問題になって通達が出たんでしょ。
変な話だが1円玉1枚 機会に入れミスって 処理終わって 1日の締めが終わって 翌日 1円玉が床に落ちてました。
大問題だよね。
しかも、帳票全部調べても その1円玉のことは載っていないから、どんだけ帳簿調べても金額が絶対に合わない。
そして、その1円玉は 1日前の小銭が原因なのか2日前の小銭が原因なのか・・・はたまた10年前の小銭が原因なのかわからない。
もう、どうにもできない。誰に返したらいいのかもわからない。そのままもらったら銀行が横領でニュースになる。寄付しようとしても寄付しても横領にはかわりない。
落ちてました・・・といおうにも、・・・警察にどこに落ちてたんですが・・・カウンターの中です・・・。 もう、お客さんの落し物じゃぁないよね。
業務上過失、持ち主に返して下さい > 誰に?で終了。
1度も問題が起きなければ、黙認されるだろうけど、1度この手の問題が出ると、銀行(とくにメガバンク)ではどうにも出来なくなるから、やるな!という通達を出すしかなくなる。
というわけで、お客さんが直接機械を触ってほしい。というのが、(それならば落とし物だから)気持ちなんだろうけど
両替機は昔と違って手数料かかるし・・・ 苦肉の策がATMなんだろうと。
おそらくだが・・・ボッタクリは合法。
違法なのは 暴力行為を用いたり、洗脳行為を用いたり、ネットワーク的手法を用いてボッタクる事が違法であって
そういった要件に満たないボッタクリは すべからく合法であるのだが・・・
合法のものに対して高い!って文句言う権利はあるとしても・・・それは、そこどまりだよね。
すくなくともダイアモンド以外の婚約指輪については 当事者間の自由以外の何者でもない。のでボッタクリというのは、言いたいことは分かるけど、ちょっと 上記の 非合法のボッタクリと混同しやすいという意味で、適切ではないよ。
ダイヤモンドの政治的な背景と、購入の是非については 政治的な心情の問題なので、まぁ、やはり個人の判断に委ねられるべきかと。