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はてなキーワード: 二日酔とは

2021-06-18

anond:20210617164440

以前モスクワ出張時にスーパーに並ぶウォッカの梅レベルを買ったら翌日てきめんに二日酔になった。

反省して竹を買ったところ、美味しく頂けた。

今はどうか知らんが当時のモスクワスーパーでは棚の端からからさまな値段順にウォッカがずらーと並んでおり圧巻だった。

2016-01-10

http://anond.hatelabo.jp/20160105143040

追記2

1/3 SHIROBAKO一挙放送をみる、新世界よりの一挙放送を見る

1/4 初詣墓参りにって帰ってから白猫やってた、新世界よりの一挙放送を見る

ここまでほぼ予定通り、ここから昨日まで飲み歩く日々が続いた

1/5 夕方に起きて夜から飲みに行く、朝まで飲む

1/6 二日酔はないけどオールしたので夕方まで寝ててごろごろしてた

1/7 すっかり生活が夜型になって、白猫のデイリーミッションリセットの16時から起きるのが当たり前になる

1/8 友達と飲む、4時くらいまで飲むが途中で記憶がなく、聞いたら寝てしまっていたとのこと

1/9 二日酔いではないけどまた夕方まで寝ててごろごろしてた、録画してあった新アニメをとりあえず一気見

これから

1/10 ガンダムが始まる前に起きた、ガンダム見たあとやっとシュタゲやる予定

1/11 シュタゲ新作やる、おそ松さんみて、みかこしラジオきいて寝る

1/12 新年初出社(めんどくさい)

2011-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20111022000503

一日考えてみた。

これはどう考えても俺が悪い。

部下をあんま信用してないのって伝わるもんだな。

やる気をそいでいたとは。すまんかった。

しかし、教えてくださいと聞きにくるし、長時間働くし、文句を言ってるようには見えたなかったんだよなあ。

ここは自分コミュ力不足。不足はわかってるけどそれよりも、影でそんな風に言われてたのか、というショックだったんだよ。

で雨だし土曜にウダウダ考えて気づいたのだが。

俺の上司すげえ。

あの短時間面談は15分くらいだったと思う)に、残念な主任(=俺)に的確に問題を伝えてる。

二日酔眠いから初めて、雑談を交え、「指示を出すとき普段どんなことに気をつけてる?」に行き、俺に喋らせて、反応を見た上で問題指摘し、反省の機会を与える。

さらに、きっとおそらくだが、部下に対してはも「あいつ要領悪くて余裕ないから勘弁してやってよ」ぐらい言ってる。

そんな気がする。普段の言動からそう思う。

部下にしたら、まじめに困ってるから言ったんだろうな。

でもまた無邪気な顔でミスだらけの書類を作ってきたら。

言い方に気をつけて、性格を見つつ、感情に配慮して、上手く回す、のか。

普通はそのくらい気をつかってるのか。社会人すげえな。俺だめやん。

それが基準なら全然できてないぜ。

ともかく、月曜は会社に行くか。

2007-12-01

自分のバックグラウンドを少し明かしたほうがいいのではないか

まじめに話し合おうとしているのか、中2病の大学生二日酔を慰めようとしているのかによって対応は違うから。なんにせよ、元増田ゲーデルを知らないことはよく分かった。以下読み物。

数学歴史は長いが、ユークリッドピタゴラス以降、恐ろしく長い空白があった。その後、ニュートンライプニッツあたりから突如急角度の上昇が始まる。この後、オイラーガウスといった大天才がヨーロッパに続けざまに現れて17世紀から19世紀くらいまでは数学の黄金期と言って良い。こんな急激な進歩があったのは、数学物理学、工学がかみ合って足並みをそろえて進歩を始めたことに原因がある。当初、数学は本当に純粋学問だったが、微分積分が物体の運動を予言できることからにわかに風向きが変わり始めた。

反証可能性」「未知の事象の予測」「知られている事象との一致」といった厳しい原則に基づく科学的アプローチは天動説に反する観測的事実が蓄積し始めたことに端を発するといってよい。太陽を中心とする円形軌道に地球を諸惑星を置いたコペルニクスモデルは、当時の精密化した天動説と大差ない誤差を持っていたが、太陽を焦点とする楕円軌道を提唱したケプラーは、きわめて精密に観測結果に一致した。

その後、ニュートンが現れ、ケプラーの法則万有引力の法則と微積分で説明することに成功した。

このように近代数学と近代科学は足並みをそろえて歩き始めたのだが、この二つには大きな差がある。自然科学(いわゆる科学)は自然の事物を理解するための仮説の集合であるのに対して、数学とは最初に提示された公理とその操作方法に基づく演繹された知識の体系であるということ。つまり、数学自然に根ざしていない。これは強調してもしすぎることはない点で、しばしば数学者はこの数学の自立性を以って自然科学を見下すことがある。

数学公理とその操作からなる演繹的な体系と書いたが、もちろんはじめはそうではなかった。最初はものの数を数えるところから始まり、距離を測り、面積を測り、重さを量り、時間を計るためのツールだった。つまり自然に根ざしていた。が、19世紀後半に精密化が進んだ後、いったん数学は崩壊の危機に面した。それを救うために公理系を整理し、再出発して網羅的に数学の完全性、無矛盾性を証明しようとする動きがあらわれた。だが、最後にはゲーデルが現れ、完全且つ無矛盾公理系はないと証明して、公理主義者たちをがっかりさせた。

数学は出発点こそ自然科学に密着していたが、今では(失敗したものの)公理に基づく独立した体系と考えて良い。そうしたところで、数学の出す答えが変わるわけではない。が、じっくりと考えたときに、自然現象がこうもうまく数学に従うという点については少し気味の悪さを感じざるを得ない。たとえば、速度を積分すると距離を算出できるというのは、科学的な仮説である。この仮説は徹底的に検証されているので安心して利用できる。だが、速度ときょりという自然現象がなぜ数学概念である微分積分にこうも厳密に従うのか。突き詰めて考えると、それは時空間の線形性、時普遍性に支えられているが、それ自身がなぜそうなのか、誰にも分からない。

微分積分というのは公理から出発して導き出された数学の体系のひとつである。それ自身は自然科学的アプローチで反証する必要ない。なぜなら、数学の証明は自然科学実験による「証明」とはまったく異質の厳密な証明だからだ。一方、自然科学実験による「証明」は確からしさを積み上げることでしかない。

http://anond.hatelabo.jp/20071201141145

 
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