はてなキーワード: うごとは
わすれられない むかしの
はなしだけど きいてくれないか?
いなかで そだった ぼくは
がっこうを そつぎょうして
おおきな まちで しごとを
みつけたんだ
あこがれの ひとりぐらし
しごとも たのしいし
むかしは やんちゃしてた ような
でも たよりになる せんぱいも
いたし
あのひ までは
じしん が きたんだ
すごく おおきな じしん だった
さむくて まだ そらが くらくて
ぼくは すっかり ねむって いたんだ
そしたら まるで じめんの したを
でんしゃ ぐらい おおきな
だいじゃ か とほうもない はやさで
はしって くるかのような
ぢひびき が したんだ
どどどどどどどどどどどどどど
どーーーーーーーーーん!!!
わんるーむまんしょん は
きのみきのまま とびだすと
よぞらが あかく もえていたんだ
せんそう が はじまったのか
ばくだん が おちたの か と
おもうぐらい
きこえ そこから まっかな ひばしらが
たちあがった
ぼく みたいに
じしんだ と くちぐちに いうのを
きいて やっと ぼくは なにが
おきたのか りかい できたんだ
けいたいも ぱそこんも
まだまだ ふきゅう してなくて
ぼくも とうぜん もっていなかった
だから どうしたら いいのか
あたまは まっしろ だった
そのとき ぼくは おもいだした
せんぱいが ちかくに すんでいる
ことを
ちかく と いっても
ふつうなら でんしゃ で
いくような きょり なんだけど
ぼくは
ひとりぼっちの ぼくは
なんじかんも あるいて
せんぱいの いえに むかったんだ
せんぱいは いまにも くずれそうな
じたくから ひっしに かざいを
はこびだしている ところだった
せんぱいは ぼくを みつけると
ぶじだったか! よかった! と
ぼくも せんぱいに おなじことを
いって ぶじを よろこびあったんだ
せんぱいの もっていた らじお で
すこしだけ じょうきょう が
わかってきた
とにかく すごい だいじしん らしい
あちこちで かじに なっていること
たおれ どうろが ふさがれて
いるせいで しょうぼうしゃ も
きゅうきゅうしゃ も これないこと
もえている がれきの したに
たくさんの ひとが いきうめに
なっているのに
どうろが ふさがっている から
きゅうえんぶっし も おくれるかも
しれない
らじお は ひたすら おそろしい
げんじつを たんたんと
はきだしてくる
ふあんに おびえる ぼくに
やがて せんぱいが こういった
おまえ にげろ と
おれだって にげたいが
おれは ここで かぞくや いえを
まもらないと いけない
おまえは いなかから でてきて
にげれるじゃないか
いなかに かえれ
こんな がれきの まちに
のこったところで
しごと どころか せいかつも
できないのだからな
とりあえず なんとか こくどうを
めざすんだ
すこしでも あんぜんな
にし に むかえば
くるま や ばいく が
はしってるから
なんとか のせてもらって
でんしゃ が うごいてる とこまで
そしたら そこから なんでもいい
にし に むかう でんしゃ
のりついで
いなかに かえれ
きっと いまごろ おやが
しんぱい してるから
はやく あんしん させてやれ
ぼくは いわれるまま
にげた
にげだしたんだ
そこからは ほんとうに たいへん
だったな
はじめて ひっちはいく したし
ないし
まる いちにち いじょう かけて
なみだが でたよ
でむかえてくれた おや も
だきついて きそうな ほど
ぼくの かおを みて
よろこんでいたね
そのとき ちちおやが いったんだ
おまえ しごとは
かいしゃは
どうしたんだ?
しごと?
ばかなことを
あんな じょうたいで
しごとになるわけ ないじゃないか
しれないのに
それは たしかめたのか?
とうかい した と
しごと は ない と
たしかめたのか?
れんらく したのか?
きょか を とったのか?
と ぼくは
あのときの ぼくは おもったけど
ひとりぐらしの ぼくを しんぱいして
かちょうや かかりちょうが
ずっと ぼくを
さがして くれてたんだ
がれきの みちを あるいて
ぐしゃぐしゃになった もぬけのからの
わんるーむで
がれきを かきわけて
ぼくが たおれて いないか
いないと わかると
ちかくの ひじなんじょ を
なんかしょも
さがしていたんだ
ちちおやは いった
じぶんが ぶじなら
しごとにならなくても
しごとばの かたづけが ある
すくなくとも どんな じょうきょうか
かくにん しなくては いけない
なにもせず だれにも いわず
にげてくるなど もってのほかだ
いまごろ れんらくの とれない
おまえを しんぱい してくれている
かも しれない と
まさに ちちおやの いうとおり
だった わけさ
かちょうたちは ゆくえの わからない
ぼくを
にげだした ぼくを
しんぱいして くれていたんだ
ぼくの いばしょが わかったのは
せんぱいが かいしゃに かおを
だしたときだった
かちょうたちが ぼくの はなしを
しているのを きいた せんぱいが
と ごくきがるに いったのだ
それは かなり かいしゃで
もんだいに なったらしい
なんの けんげん が あって
おまえは こうはいに しょくむほうき
させたのだ
くわしくは わからないけど
せんぱいは かいしゃを
やめた
もちろん ぼくも
もう もどれる わけが なかった
いいわけする わけじゃないけど
あのしゅんかん
ぼくは
にんげんは
あらしに ゆれる きのはよりも
ちっぽけな そんざい だったんだ
だれだって にげだしたく
なるだろう!?
だろう
そうか
あぁ そうか
にげちゃ だめ だったのかな
せんぱいに いわれたから とか
これこそ いいわけ だな
せんぱい
せんぱい
ごめんなさい
────────────────
2016/07/01に「ひとりぼっち惑星」で受け取ったもの。
何いってんのかわからんのだけど
バケツリレーのメンバーがどんなに筋肉でもどんなに運動神経よくても間隔は均一にだれでも持てるバケツを 配属された場所でみんなと同じ量受けて渡すやろ
社会が一人でうごいてない以上このルールを守らないと全部がダメになるやろ
学歴が低いと力にまかせてぶん投げてかっこいいだろとかすごいだろとか平均以上だから評価しろとか言ってくるし
職業で培った経営学と職種的に得意な管理業務をバケツリレーに活かして渡したら受領証をもらって渡すときにいちいちコンセンサスとってたらつっかえて全体の機能が低下するやろ
はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、
時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。
ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。
文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、
色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。
30年前、私は子供だった。
近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。
母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。
A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。
歳が近いこともあり、こちらへ帰省してくる度によく一緒に遊んでいて、幼馴染も含めて全員とても仲がよかった。
こちらにいる間、その3人は知り合いが私たちしかいないのもあってとにかく同じ時間をともに過ごした。
鬼ごっこをしたり、缶蹴りやドロケイをしたり、おしゃべりをしたり、
とにかく何をしても楽しくて今思い返してみても幸せな時間だった。
数年間、そうやって過ごしていくうちにB子を好きになっていった。
もしかしたら年に数回しか会えない環境がそうさせたのかも知れない。
愛だ恋だなんてわかる歳ではなかったが、今振り返ればあれが私の初恋だった。
26年前の正月、いつものように帰省してきた3人と遊んでいるうちに、原因は思い出せないがA太と喧嘩になった。
喧嘩と言っても「お前の母ちゃんでべそ」的な稚拙な言い合いだったが、
A太の味方をしはじめたB子とC美にも矛先を向けた。
初めは稚拙な言い合いだった喧嘩が段々とエスカレートし言葉も荒くなっていった。
何を言ったのかほとんど覚えていないが、別れ際に吐き捨てるように
「○ねばいい」「お前ら○んだらみんな地獄行き」と言ったのだけははっきりと覚えている。
1995年1月17日、その日は私の親類の葬儀で前の日から福岡にいた。
こちらだけの風習なのか知らないけれど、私の親を含む大人たちは交替でロウソクの番をしていたり朝食の準備をしていたらしい。
私はぐっすりと眠っていたが、その大人たちの声で目が覚めた。
ぼんやりとしか覚えていないが「揺れた」というワードが聞こえたことは覚えている。そのまままたすぐ眠りに落ちたけれど。
朝になってテレビを見て映し出される光景に愕然とした。B子たちが住む街だった。
あの当時、今となっては考えられないことだけど死亡者の名前の羅列がテレビで流されていた。
それももしかしたら記憶違いかも知れない。(あるいは新聞?誰かによって何らかの方法でもたらされた情報?わからない)
だけどその羅列の中にB子たち3人とその母親の名前を見つけて震えた記憶がある。どうやら祖母の名もあったらしいが私は知らない。
要するに世帯全員だめだったということだ。
当時死というものへの認識は既に持っていたが、その時は混乱していたのかうまく理解ができなかった。
何もわからずただただとんでもないことが起きたことだけは、自分の体が震えたことで理解できた。
痛かっただろうな、怖かっただろうな、苦しかっただろうな。まず浮かんできたのはそういうものだった。
「大切な人をなくした」とか「愛するあの子をうしなった」とかそういう感情ではなかったが、
ただもう会えないことと最後に言ったあの言葉だけが月日を追うごとに重くなっていった。
最後に会ったとき、最後に言った言葉、やり直せない時間に悔いても悔やみきれない。
子供ながらに言ったこととは言え、なんてひどいことを言ったのだろうと。
あんなに仲良く遊んでいたのに、どうしてよりによってあれが最後なのだと怒りすら沸いた。
あの震災で起きた出来事で、トラウマというほどでもないが、人との別れ際がすごく怖くなった。
大切な人ならなおさら、そうでない人相手にも「さよなら」という言葉がどうしても言えない。
どれだけ喧嘩しても必ず別れ際には仲直りをしたい。仲直りができないままには電話も切ることができない。
「さよなら」という言葉の代わりに必ず「またね」というようになった。
私が高校生ぐらいになった頃から毎年1月17日に、よく一緒に遊んだあの公園へに花をそえに行っている。
本当はお墓に行くべきなのだけれど、さすがに兵庫まで行くわけにもいかないのと、行ったところであてもないので場所がわからない。
その場所に老人向けのグループホームが立ってからも、施設の人に事情を説明してお参りを続けていた。
月日流れて数年前の1月、私が生まれる前から散り散りになっていたという私の父のいとこが興信所やら何やらの調査を経て愛知から訪ねてきた。
数十年ぶりの再会とのことだ。長い長い思い出話の後にお墓参りがしたいということで、近くのお寺の納骨堂へ一緒に行くことになった。
納骨堂へ着いて一通りお参りしたあと、何気なしに周りの仏壇に目をやって驚いた。
目の前の仏壇にB子たちの名前と戒名が書かれた札が下がっていたのだ。
(法事が近くなった頃に「もうすぐ法事ですよ」ということでお札を貼られるお寺だった)
その納骨堂へは毎年お盆にしか来ていなかったからそれまでの約20年間気づけなかった。(ご先祖さまごめんなさい)
色んなことが重なり合わさって知ることができた事実だった。
まさか私の先祖と同じフロアに眠っているとは考えつきもしなかった。
こんなに近くにいたとは。毎年目の前を素通りしていたなんて。
それからは毎年1月にその納骨堂へお参りに行っている。(もちろんご先祖さまにも手を合わせている)
今日も花を添えてきた。お参りが済んだ別れ際に言うのはもちろん「またね」
まさかこうやって会うことができるようになるなんて、と今でも不思議に思うし、直接祈りを捧げられることに
誰へかはわからないが、何へかはわからないが、色んなことにとても感謝している。
人との別れ際、トラウマとしてじゃなく、これからもやっぱり大事にしていきたいと思う。
おわり。
おめでとうございます。私の母はもう目も開けず、口はぱかりと開き、車椅子に体を投げ出し、初めて会う人の素直な感想を聞けば、関わりたくない・なんか怖いなどと言われてもおかしくない風体になりました。入居して3年になります。かつての母はおしゃれで専用のタンスを何竿も持ち、ジャズを好み、芝居に出かけデパートの実演販売に釘付けになるような、活発で愛らしく聡い人でした。もう面影はありません。しかし、施設の皆さんは本当に良くしてくださっています。もはや妖怪のような風体の母を下の名前で童女のように呼び、やれ今日はちょっと笑った、今日は声を出したと一挙手一投足に喜んでくれます。この施設に入居する前は母にまだ自意識が僅かにあったため、私も父もまだ自宅で一緒に暮らしたいと思っているタイミングでした。そこに入居希望枠が空いたと知らせがあったのです。逡巡する私達家族にケアマネさんが言いました。「お母さんの愛らしさが残っているうちに入居して、人間関係が築けるほうがいい」と。確かにそのとおりでした。笑い、歩け、おやつをぺろりと食べる母を知ってくれているスタッフさんたちは、家族同様に母を気にかけてくれています。ですから、今日、お母さまが前向きに引っ越しを済まされたこと、とてもおめでたい良い契機だと感じました。永くお元気でお過ごしになりますように。お身体ご自愛ください。
https://iza9999vr.hatenablog.com/entry/2021/01/16/182118
この記事を読んで。
これまでの人生でなーーーーんにもクリエイティブなことなどやってこなかった自分が、Twitterでネタツイを投下しては10likeぐらい貰ってニコニコしているだけだった自分が(なおフォロワーは4桁いる)、去年から唐突に絵を描き始めた。
自分の場合、この記事の前半で述べられているところの「勘違い」をする余地はまるでない。今日もTLには神絵師の神イラストが何枚も何枚も何枚も流れてくるし、4桁RTされている絵にはそれぞれきちんとした理由が見いだせて、「こんな落書きが拡散されてるのは単にフォロワーが多いだけだろ~?」などと難癖を付けることなど到底不可能である。ただ自分でもやってみたかった。たった1枚でもいいから自分でもすげェと思える絵を描いてみたかった。それでiPadとクリスタに向かい始めた。
そんな自分だが、勝算(ここでは最後まで折れずに目的地に到達できることを意味する)があるとするならば、志が著しく低いという点が挙げられる。つまり神絵師たちあるいはその卵たちが様々な表情、様々な構図、様々な表現技法、様々な流行、皮膚の下でうごめく様々な筋肉の動きを研究している間、自分は十年一日で同じポーズ・同じ角度の絵をひたすら練習していれば良いのだ。顔のラインを引く理屈はまったく分からずとも、神絵師のイラストから理想だと思われる角度と比率を算出することはできる。pixivの「目イキング」タグを漁って猿真似をすることはできる。幸い3Dグラフィックソフトがほんの少し使えるため、アイレベルだかなんだか難しいことは計算機に教えてもらう。塗りは……これは反復練習しかないな、つらい。経験の蓄積がゼロ、ならば同じことをやって勝てるわけもないし伍することができるわけもない。ただただ一点突破あるのみである。
とまあ偉そうなことを書いたが、今のところ成果は何も出ていない。どちらかと言えば自分を鼓舞するための応援文に近い。ただ一つ──何か新しいことに手を出し、着実にそれが身に付いていくというのは、楽しい。単純に「できることが増える」というのは、嬉しい。これだけでもお絵かきを始めた意味はあったと感じる。
同じような場所で足踏みをしている人の背中を押せれば幸いである。
【追記】
フォロワー数への言及が気に障った人がいたようで申し訳ない。フォロワー数に比して反応が少ないイケてないアカウントであるという趣旨だった。
聞きかじった話だからあやふやだけど、仏教の目的のひとつが「見送った人の心を整える」だったような。
自分も去年家族を見送った(因みに家族葬)けど、心が千々に乱れそうになる度にその事を思い出して正気に戻れた。
そして増田は心を整えるためのお葬式がかえって傷を深めるのは本末転倒なので
とにかく温かくして、美味しいものを食べて、ご両親共々少しでも元気になってほしい。
増田の判断は正しかったと思う。親戚一同感染リスクを避けられて本当によかった。
そもそもコロナで亡くなった人を棺すら開けられないまま直葬したら信心足りないなんて理屈はおかしいんだし。
でもどうしても気になるなら、四十九日法要の報告がてら親戚に直筆の手紙を書くのはおすすめ。
弔意に感謝して、でもお葬式を平時のように出来なくて申し訳なかったと。
とにかくお疲れ様でした。