はてなキーワード: 立ちくらみとは
今シャワー浴びたら最高って具合にベタついた汗が滲んだ身体で帰ったのに、飯の時間の都合で身体が乾いてしまった。共同生活はこういうのが本当に嫌だ。
あまりにも悔しかったんでランニングで汗を流した。かっこつけてオリジナルスの上下着て、一丁前にウルトラブースト履いて。蟹江が履いてんの見て買ったけどご無沙汰だったやつ。
衝動的に走り出してはすぐ息切れしてフラつきながら帰るというのを不定期にやってるけど、今回は腹にモノも入れた上で食休みも取って万全の状態で走ったからか、いつもよりはマシな感じだった。
息は上がるけど頭痛も吐き気も立ちくらみも来ない。脇腹も痛くない。いつもはペース配分考えてるつもりでもその辺がネックになってすぐ走れなくなっちゃうのに。逆に今まで余裕過ぎて欲求不満を抱えるくらいだった脚には割と来た。
いつもは鼻から吸って口から吐くというのをヒイヒイ言いながら実践するけど、今回は敢えて無視して身体が自然に動くままにさせた。あれ運動慣れしてない人間が変に意識するとかえって良くない気がする。
息がしんどくなって来てベンチに座り込むと、途端に吹き出す汗が顔を伝う。これを待ってたんだよと思いながらしばらくゼエゼエ言ってればまた走り出せる。まあ休む度に走れる距離は縮んでいって、最後はほとんど歩いてたけど。
帰って一目散に風呂場へ向かって、ジャージを脱ぎ捨てる。こういう時は身体の火照りが冷めやらぬ内に脱いでムワァ……♡ってなるのが好きだ。
運動した時の爽やかサラサラスウェットだったんで、身体的な快感はそこそこ止まりだった。おれが求めてたまとわりつくようで不快なベタついた汗を流す時は、高圧洗浄器で油汚れを落とす動画を観る時のような快感がある。まあそれとは別に、健全な爽やかさのようなものはあった。
帰ってgoogleマップ見たら5kmも走ってなかったけど、こうやって記録に残るのはなんか嬉しい。映画を観る楽しみとは別の、filmarksのウォッチ数が上がっていくような面白みがある。
今度は見た目の好みだけで着けてるスントも使ってみようかな。使い方を全然知らん。
今後も継続的に走れたら良いなと思うけど、多分やらないと思う。満足な走り具合だっから。
この間ドラムマニアにドハマりした時は、悔しい!もっと!もっとだ!ってなった。ギターも最初はそうだった。どんどん「まあこれでいいか」が増えてきて、最終的に今日は触らないでいいかが今日も触らないでいいかになってくる。でもここ数年定期的にバンドアニメが放送されて、毎度枯れた初期衝動を補給してくれるからありがたいね。
anond:20240506174540 に追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。
私の短歌・俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。
この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人の描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。
それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
この歌は一茶の句と比べると写実的で情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的で情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩でしかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌が情念の産物と言うのは、こういうことを言う。
私の論に反論するのだったら、例えば短歌は情念とはいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば
などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。
ついでだから私が、これこそ短歌は情念だと思う歌を掲げておく。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王
感染が騒ぎになり始めてから3年半以上のいまさらながら。一応備忘録として
妊娠した。31、2までにはひとり目が産みたいと前々から思っていたのでそれより早く授かれて嬉しかった。
にもかかわらず身体ダメージやら諸々で嬉しい気持ちが日に日に萎んでいく。「妊娠」というステータス、喜びという一点突破で成り立っているだけで肉体的にはただのデバフでしかなくない?
増田はザ・JTC勤めの総合職で年収は650万くらい。同世代の夫も同じくらい稼ぐ。夫婦仲はとてもいいと思う。
・つわり辛すぎ
→ 毎日吐きまくりまともに食べられないのが1ヶ月続いた。トマトとアイスの実で生きてた。ケトン体が出て点滴を数回打った。もっと辛い人は居ると思うがとにかくただただ辛かった。幼い頃から健康優良児だったので人生で一番体調悪い時がこの時である。安定期に入った今もたまに吐くし体調は常に万全でない。全盛期は歩くのもふらふら、常に意識が朦朧としていて休職するかどうかの瀬戸際だと思ったがギリギリ耐えた。
メンタルを崩して一週間くらい毎日メソメソメソメソ家で泣いている時もあった。今思い返すとわけがわからないくらい精神がぐちゃぐちゃだった。
この時の仕事はアウトプットとして残っているのに全く記憶がない。なにせ覚えてないので後から何かが爆発しないかちょっと心配である。
→ 安定期に入ってお腹が出始めてる程度なのにもう身体が重い。苦しい。妊娠前は健康そのものだったのに脇腹、下っ腹、頭、腰などあらゆる場所が痛い。たまに胃も痛い。お腹が内側から引っ張られる感じがして違和感&痛い。ふと立ち上がったら立ちくらみや眩暈がする。たまにウッと気持ち悪くなって職場のトイレで吐く。出社して2階に階段であがるだけでゼェゼェ言っている。
夜に家に帰るともう全ての体力が尽きていて、仕事や最低限の家事以外はほぼ寝ているような生活だ。上記の体調の問題で仕事のモチベも下がり気味なので自分が自堕落に過ごしているように思えて辛い。でも動きたいのに動けない。妊娠前に楽しんでた趣味も何もできてない。ベッドに潜り込んで、妊娠アプリで「安定期で体調が落ち着く」「楽しいマタニティライフ」の文字を見て「嘘つけ〜〜〜!」とツッコミを入れる毎日。
産婦人科でも医師に相談したが経過は順調、妊娠してたらそんなものと言われるだけ。そんなもんなのだろう。世の中のお母さん凄すぎて後光がさしてる。二人以上子供いる人とかもうピカピカだよ。ピカピカすぎて眩しくて見えない。
・子供、元気?
→お腹の中の子は無事に生まれてきてくれるだろうか。自分も夫も遺伝疾患の子を育てる自信はなく、結構なお金をかけて任意の出生前診断を受けた。陰性で胸を撫で下ろした。
とはいえ障害や病気は遺伝疾患以外にももちろんある。もし何かがあったとしてもちゃんと向き合っていきたいと思っている。でも、生まれるまでわからない、生まれてからもすぐはわからないという不安を抱え続けるのは大変だ。
→産休育休後はフルタイムで復帰したいと思っている。ネットサーフィンでワーママの一日⭐︎みたいなのを見るたびに深夜に寝て早朝に起きる狂ったスケジュールが表示される。この人たちは鉄人か?と思うしまさか生存バイアスではないかと恐怖すらある。このスケジュールに耐えられなかった共働きの女はどうなるのだろう。海の藻屑? 自分がこんな鉄人になれる気がしない。
ここまでしないと子は育てられないのか。もう少し緩やかに生きたい。そんなわけで今はふたり目のことなんて全く考えられない。とても怖い。
・やることが……やることが多い……!
→保険の見直し、保活、扶養、学資保険、家のレイアウト などなどなどなど。生まれてからはもっと大変だろう。頭がおかしくなりそうだ。子供の名前を考えるのはウキウキするがこれらの純粋な事務手続きをウキウキして考えたり実行できる人間は存在するのだろうか?
ありがたいことに妊娠出産に理解があり気遣ってくれる上司、職場。甘えすぎないようにはしたいが甘えてしまっている現状が情けない。
家事が得意で優しい夫。つわり全盛期はとても迷惑をかけたが不満や文句ひとつ言われなかった。いつもありがとう。
とても恵まれた環境で妊婦生活をしていると思うし実母に愚痴や泣き言をこぼすといつもそうたしなめられる。正論だ。
にもかかわらず毎日辛いし不安でいっぱい。世の中のお母さんたちは皆こんな試練を乗り越えているのだと思うと尊敬する。
大浴場にサウナと水風呂もついていて、仕事が遅くなった日はお風呂だけ利用することも多かった。
あるときいつも通り入浴後にサウナに入ると、いつもよりやけに人が多かった。
サウナ内のテレビで野球中継が流れており、日本シリーズのソフトバンク対ベイスターズの試合だった。
場所が横浜なので、皆ベイスターズを応援していたのだろう。サウナにいる人たちはテレビ画面に釘付けでワイワイしていた。
自分は福岡出身だったので、心の中でソフトバンク頑張れ〜と応援しながらサウナに出たり入ったりしていた。
何度目かの出入りの際、最前列にいたおばちゃんは「暑い〜もう限界」と言って出ていこうとした。その瞬間、バタッと倒れた。
サウナ×倒れる=心臓がヤバい と思い慌てて立ち上がると、周りの人達も同じように思ったようで皆一斉に立ち上がり、おばちゃんのところに集まったりドアをあけたりしていた。
おばちゃんは立ちくらみだか脱水症状だったようで、大浴場の椅子に腰掛けて誰かが持ってきた水を飲んで、「ごめんなさいね〜皆さんありがとう。つい野球が気になっちゃって」と申し訳なさそうに笑っていた。
その後おばちゃんが病院に行ったりしたかどうかは知らないんだけど、そのときにやっぱりサウナって健康に良いってもんじゃないよな〜と改めて思ったよ。
俺は30代なりたての男なんだが、大学生の頃から死恐怖症(特に癌恐怖症)が治らない。
きっかけは大学時代、病院に行っても解決しなかった謎の膝痛に数ヶ月近く悩まされたこと。レントゲン撮ってもMRIやってもわからなかった。
色々調べてた時に見つけたのが骨肉腫という病気。そしてYouTubeで骨肉腫を再発し当時の自分と同じ年齢で亡くなった女の子の闘病ドキュメンタリーを見たことがきっかけだった。結果的に膝痛はなくなり今ではなんともないが、それ以来俺は癌恐怖症になった。
記憶にないアザや怠さ、歯茎の出血があれば白血病、しこりがあれば悪性リンパ腫、ほくろがあればメラノーマ、下痢になれば大腸がん、幼少期からの鼻炎持ちで鼻くそに血が混じれば副鼻腔癌などなど。
何か一つの症状がある癌に当てはまれば癌だと思い動悸や立ちくらみに襲われ「ついにか…」と倒れそうになる。バイトもあり、思い立って翌日に病院に行ける訳ではないため病院に行き検査結果が知らされる不安で何も手につかない。総合診療医では信頼できず各専門クリニックに行くのでセカンドオピニオン含め財布には12枚の診察券、そして4つの病院の電子診察券を持っている。
「30歳でバイト?」と思っただろうが、この性格なので癌に当てはまる症状が出ると何もできなくなる。留年もしたし、就活も失敗したし、公務員試験も失敗したので現在はバイト暮らしだ。県立中高一貫校から一橋商学部を卒業しているので、幼少期からの親の教育投資を随分無駄にした。
死への恐怖は癌だけではない。電車では後ろに人がいたらホームの先頭には立てない。強盗が怖く、自宅を買い集めた防犯グッズや自作防犯システムで完全防御。大通りや赤信号も常に警戒。
俺の両親は俺が幼稚園卒園前に離婚しており、以来母が看護師として育ててくれた。自称経営者の父は養育費も大学進学費用なども「無い袖はふれない」と一切出さず、母は実家とも疎遠なので大学卒業するまでにかかったお金は全て母が稼いでくれた。
俺は母に「母よりも長生きする」「立派になった姿を見せる」「妻と孫を見せる」という3点を誓っていた。しかし、この死恐怖症によりレールから脱落し立派になった姿を見せることも結婚も孫を見せることも不可能になった今、俺が母のためにできることは母よりも長生きし母を看取るということだけである。
だから俺は何があっても母よりも先に死ぬことができない。先ほど言ったように母は独身で実家とも疎遠で俺は一人息子なので俺が先に死んだら母は一人になってしまう。
それなのに、常に俺に忍び寄って来て隙があれば俺の命を狙おうとする癌や突然の事故、犯罪に対して俺は極度に恐怖し強い怒りを感じる。
自分のブログも持っているけれど知人にあれこれ言われたくないので匿名にて失礼します。
■ 健康な人へ
心当たりが一切なくても健康診断は毎年受けるべきだし、付けられるオプションはなるべく全部付けるべき。時間とかお金とか恥ずかしさとか痛みとか、いろいろハードルはあるんだが、健康には代えられない。あ、今はとても元気です。大丈夫。
他の人の体験記を参考に入院準備を進めたので、これも後続の助けになれば幸いです。後続なんていないのが一番なんだけどね。
身バレを防ぐために若干ぼかしたり時期をズラしたりしています。
■ 概要
・開腹して左の卵巣と卵管を摘出した
・入院期間は7日間(月曜入院→日曜退院)。手術は入院2日目(火曜日)の午前中
・パジャマとタオルはレンタルサービスを使ったので持って行かなかった
■ 大まかな流れ
・月曜日:入院。昼食と夕食は普通に食べる。シャワーも浴びる。夕食後は食事禁止。
・火曜日:朝6時以降は水も禁止。午前中に手術を受ける。気付いたら終わってたしベッドから起き上がることも禁止されていた。微熱があったため隔離されてPCR検査を受ける。正直傷口よりPCRの綿棒の方が数倍痛い。あいつは一体なんなんだ。
・水曜日:朝、上半身を起こしてみる。立ってないけど立ちくらみみたいな状態。時間と共に和らぐ。昼から食事再開(重湯)。コロナでもインフルでもないと分かったので昼過ぎには隔離が解除され、自分で歩いて病室へ戻った。その後尿カテーテルを抜いてもらい、蒸しタオルで身体を拭いてパジャマに着替える。
・木曜日:メモによると1日中ハイラルに籠もっていた(ブレワイをプレイしていた)らしい。痛み止めが背中のカテーテルから飲み薬(ロキソニン)に切り替わる。
・金曜日:この日の朝食から普通のメニューに戻る。午前中の回診で諸々の管やテープを取ってもらい、シャワーが解禁される。
・土曜日:またハイラルにいる。こいつハイラルに居座りすぎではないか? 傷口(というより上に貼られたテープ)がかゆくて看護師に訴えるが「カサブタなので我慢するしかない」と言われて絶望する。それでも諦めず主治医の先生に訴えたらかゆみ止めの塗り薬を処方してもらえた。効き目が薄くてさらに絶望した。かゆみとの戦いは退院後も1週間ほど続いた。
看護師さんからも主治医の先生からも「珍しいくらい順調に回復している」と言われたので、普通はもう少しゆっくり良くなっていくのかもしれない。
■ 持って行ってよかった
今回のMVP。Switchとスマホの命をつないでくれた。ベッドの頭の方の壁にコンセントはあったものの、スマホの充電ケーブルが短くてギリギリ枕元までしか届かない。ベッドを起こしたらもう無理。延長コードがなかったら電源の取り回しに苦労したと思う。退院したら自宅の古いものと交換するつもりで買ったので、入院生活だけを考えるなら1.5~2mで大丈夫そう。
・小さめの紙袋
ベッドサイドに置いて細々したものをまとめる用。高さ15cm×横15cm×奥行き5cmくらい。化粧品買うともらえるような、しっかりした作りのものがおすすめ。折り畳めるから入退院時にじゃまにならない。ある程度高さがあるとペンを挟んでおけるので便利。
入院した後も書類は増える。一度目を通せばいいもの(処方薬や麻酔の説明書きなど)と、繰り返し取り出す必要があるもの(食事や飲水量の記録表など)を分けるために最低でも2つほしい。
・メモ帳
気になるから後で看護師さん来た時に聞いてみよう→忘れる、のループから脱却したい時に使う。気になることは際限なく増えるから覚えておくのは無理。別にスマホでも構わないがフリーハンドで好きに書ける紙の方が便利だった。
髪が長い人向け。手術後しばらくはお風呂に入れず髪も洗えないため、次第にベタベタテカテカして気になってくる。そういう時にさっと留めてとりあえず遠ざけておくと気持ちが楽になる。ヘアゴムでもいいんだけど、バナナクリップの方が圧倒的に手軽。
石鹸やシャンプーや歯ブラシなど濡れたものを雑に突っ込んで、サイドチェストの手すりにくくりつけて干した。ベッドサイドが広く使えるしすぐ乾くし、地味に便利だった。メッシュ生地に限らず巾着は「くくりつける」という選択肢が生まれるからポーチよりおすすめできる。
説明不要。これを書いている今もまだプレイしている。ティアキンに移るタイミングを見失っている。手術直後はただ草原を走り回って採集活動に勤しめばいいし、回復してきたら弱そうな敵や簡単そうな祠に向かえばいいし、病状に合わせてプレイスタイルを変えられるのも良かった。
■ あればよかったなぁと思う
・充電ケーブルの先を保持できる仕組み
延長コードを使うと発生するデメリット。ちょくちょく充電ケーブルの先が床に落ちるし行方不明になりやすい。クリップ的なもので留めておきたかった。
入院して初めて、自分は白米が単体で食べられないらしいと知った。おかずも山程あるんだけどそれ以上に白米が多くて苦労した。残すのも忍びないから毎食フードファイト状態。ふりかけでもごま塩でも、とにかく白米に味がつけられるアイテムがほしかった。
・マスク置き場
感染症予防の観点から、ベッドにいる時もなるべくマスクをつけておくよう求められていた。そうは言っても寝る時はさすがに外したいし、食事時はもちろん外す。そういう時にちょっと置いておける場所がほしかった。
出歩く時、スマホはパジャマのポケットに入れていたが、ふとした拍子に落ちるんじゃないかと不安になった。背中の痛み止めが繋がっている時は痛み止めを入れる巾着(紐が長く斜めがけにできるもの)にスマホも押し込んでいた。看護師さんにはちょっと笑われた。でもあのスタイル超便利だったな……ロッカーの鍵も入れてたし……。痛み止め取れた後も巾着は残してほしかった。
・クリップボード
入院中は毎日「ごはんをどのくらい食べたか」「水はどのくらい飲んだか」「お手洗いに何度行ったか」を記録する必要があった。用紙はクリアファイルに入れておいたんだけど、書く度に出してしまってを繰り返すのはちょっと面倒だった。
シャワー解禁があと半日遅れていたら、なんとしてでも髪を洗おうとしたと思う。髪、想像以上にベタつくし重くなる。
■ なくても別に困らなかった
・ハンガー
備え付けのハンガーで十分事足りた。
巾着のところで書いた通り、洗ったものは巾着に入れてくくりつけて干したので「何かを引っ掛けたい」と思う場面がなかった。
・ウェットティッシュ・汗拭きシート
病室には手洗い場が備え付けられていたし、看護師さんが毎日蒸しタオルを持ってきてくれたので使う機会がほとんど訪れなかった。
起き上がらずに水を飲めるから便利という体験記を読んで買っていったが開封もしなかった。起き上がれない時は水も禁止されてたし、飲めるようになる頃には問題なく起き上がれた。これが一番の想定外かなぁ。
・スーツケース用の鍵
事前の説明では「鍵をかけられる小さな引き出しがある」としか言われなかったので、引き出しに入り切らないが盗まれたら困るものを管理する目的で持っていった。しかし引き出しは十分に大きかった(Switchをケースに入れた状態でしまっておけた)し、引き出しの他にも高さ1m×横20cm×奥行き50cmほどの鍵付きの棚があったため使う必要がなかった。
こんな感じです。参考になるといいなぁ。ともかくみんな健診には行こうね。
3ヶ月前のある日、職場のエレベーターに乗っている最中ひどい貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われた。昼休みだったためしばらくオフィスの椅子で休んでいると20分ほどして回復した。
その日の帰りに、2ヶ月前にも一度仕事帰りに貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われたことに気がついた。
色々ネットで調べていたところ、大腸がんの症状が自分に当てはまった。
自分の症状
・二週間に一度のペースで下痢気味になることがある。特に週末。
・体重減少。社会人になって、一人暮らしを始めて食事がお粗末になったことがきっかけだと勝手に思い込んでいた。
・お腹のはり。
・頻繁なゲップや屁。
そして先述の貧血と立ちくらみである。血便はないが全ての患者に現れるわけではないそうだ。
年齢、血の繋がった家族や親戚にガン罹患者がいないことなどから最初は信じられなかったが、大腸ガンについて色々調べていると日本を含む世界中で二十代や三十代の大腸ガンが脅威的なほど急増していることを知った。
しかし、もし進行していたらと考えたらいけなくなってしまった。病院のベッドに縛り付けられ、腹を切り開かれ、その後効くのかどうかもわからない抗がん剤(抗がん剤を毒物と呼んで使用禁止を呼びかける医師がいることも知った)を投与されボロボロになって死ぬ。担当医は高級キャバクラで俺が死んだことを電話で聞かされ「あーそう。死んだか。はいはい。忙しいから後でね」と電話を切って再び女の子を口説き始めるんだろう。
仮に進行していなかったとしても、退院後一生再発の恐怖に怯えながら生きることになる。
また病院のベッドで弱っている俺を女手一つで育ててくれた母に見せたくない。
そう考えた結果、「もうあと一瞬で死ぬ」という所まで放置することに決めた。これから段々症状の悪化や痛みに苦しむのかもしれないが、俺が耐えれば良いだけだ。
「倒れたと思ったら、すぐに死んだ」
その方が母の心の傷も悲しみも少ないかもしれない。
大腸ガンが発覚するまでは「これから先も毎日仕事して、彼女ができて、結婚して、子供が産まれて、あっという間に年取るんだろうなあ」なんて考えていた。しかし現実は違った。俺は年を取る間もなく死ぬ。
あの、目の中に物を入れるという行為を難なくやってのけるのがすごい。
こう書くと、いやいやそんなもん慣れですよとか、むしろ出来ないんですかと思われそうなので私の体験談をここに書いておくことにする。
結論から言うと、私はコンタクトレンズを使おうとして失敗した。
医者曰く、そういうケースは実際あるらしい。が、数十年感生きてる間にそういう話を一度も聞いたことがなかったので、本当かはわからない。
が、現に自身はそうなったので、信じられないかもしれないがそういう例は確かにあると自信を持って言える。
自分はメガネが必須というほど視力が悪いわけでもないが、ないと確かに困るな、ぐらいの目の悪さである。
裸眼視力はおそらく0.4ぐらいで、このぐらいだと「造形や物の種類は特に問題なく把握できるが、文字を読みにくい」ぐらいの感覚である。
コンタクトにしようと思ったきっかけも些細なもので、食事の時にいつもメガネを外してるのでその手間を無くしたい、ぐらいのものだった。
まああとはメガネが無い方が良いよと言われたというのもある。
今思えば目薬すらまともに差せないぐらいビビリなのにコンタクトはなんでできると思ったのか、割と不思議である。
もっとも、コンタクトができない人がいるなんて勿論思ってなくて、それこそ「そんなもん慣れですよ」と漠然と認識していたからなのだが。
そんな軽い気持ちで眼科に行き、一通り検査を受けた上でお医者さんから軽く話を聞く。
そこで言われたのは「着用練習を行うこと」、「それが終わらない場合は処方箋を出せない」ということ。
練習があるなんてありがたいと思ったし(自分でできるわけないので今思えば当たり前なのだが)、処方箋が出ないケースなんて目の病気とかそういうのしかないんじゃないか?と思っていた。
検査自体は終わっていて特に問題もなかったため、これでコンタクト生活できるな~~、などと浮足立っていた。
その後、案内されて着用練習を開始した。
コンタクトの現物を見て初めて知ったのだが、液体に浸された状態でコンタクトが入ってる。
まずそこでカルチャーショック。薬の梱包程度のものだと思っていたので、随分とガッチリしてるな……と思った。目に入れるものだと思えば至極当然だけれども。
で、コンタクトを容器から取り出すのだけれど、これがまた難しい。
これまた当然なのだがコンタクトは無色透明なので、液体の色と同化してそもそもコンタクトがどれかを認識できない。
よくよく見ると縁が若干青いことに後から気づいたが、すくいだすことに必死でやってる最中には気づかない。
私はまだ裸眼視力がそこそこあるからいいが、0.01とかの人ってこれ見えるのか……? と感じた。
まずそこで結構時間を食った。実際の所要時間は分からないが、体感15分ぐらいは格闘してたんじゃないか……と感じるぐらい難しい。
右手左手で目をかっぴらきながらコンタクトを眼球の上に載せる、というただそれだけの作業が全く出来ない。
まず右手の中指であっかんべーみたいな形を取る。これはまあいい。
その後、左手で右目の瞼を全力で引っ張り上げる。ここが難しい。
元来目を開かないタイプの人なので、目を開こうとしても瞬きをしたくなってしまう。
そこで格闘した後、コンタクトを目に近づける。これがまた怖い。
どうしても瞬きをしてしまうし、瞬きを抑えたとしても今度は顔が微妙に逸れてしまう。本能で拒否しているんだろうなと感じた。
見てくれている看護師さん(かは分からないが、そう呼ぶことにする)も根気強く教えてはくれるが、なかなかその通りできずにいる自分に不甲斐なさを強く感じる。
途中コンタクトを床に落としてしまい、そこでもまた申し訳ないゲージが溜まっていった。
……体感では1時間にも2時間にも感じる無限の格闘の末、ようやく装着できた。
初めてのコンタクトレンズは、目に完全にフィットして違和感もなく………ということはなく、普通に違和感があった。
なんというか、こう、目にホコリが入ったときの感覚が常時続くような感じ。異物感がすごい。
異物が入ってるのだからそれが正常なのだけれど、どうにも気持ち悪い。
必死で慣れようと意識した瞬間に、どんどん気分がボーッとしてきて、立ちくらみの時のような感覚に襲われ……
転倒した。尻もちをついた瞬間に、自分が椅子から転げ落ちたことを認識した。
そこからはまあお医者さんが慌てて出てきて安静にしてくださいと言われながら状況見聞された。
多分すごく周囲の注目を集めてたんじゃなかろうか。あまりに小っ恥ずかしくて開口一番出た言葉は「ごめんなさい」だった。
傍から見ても恥ずかしさで参ってるように見えたのだろう、たまにあるケースだから……!と何度も言われた。
まさかコンタクトレンズごときで倒れるなんて思ってなかったので、自分で自分にびっくりしていた。
そして起き上がれることを確認したのち別室に連れて行かれ、そこで10分ほど横になった。
寒いからか、自分への不甲斐なさかわからないが、体が妙に震えていたことを覚えている。
医者からは「今回は処方箋を出すことはできないが、次回以降でリベンジすることはできる」と言われた。
ここまで覚悟が必要とも思ってなかったので、もう生涯眼鏡生活でもいいやと思い、今に至る。
という経験を踏まえて言うと、コンタクトレンズ使ってる人ってすげえよ。ほんとに。
使ってる人は誇りに思って生きていいと思うよ。マジで。
12月7日23時頃 鼻奥に違和感を覚える。明日は葛根湯を買いに行くと決意
12月8日17時頃 葛根湯買ってご満悦。某セールでカツ丼食べてご満悦。ハッピーデイ
同8時頃 痰が絡むようになる
同9時頃 まともに喋れねえ、ので早退。途中でうどん啜る。帰ってから昼寝
ー
ちなみに2022年12月11日現在、検査無料(公費検査)は都民に限る
非都民は検査キットの無料送付もしくは指定病院での配布を受け取るしかない(両手段合わせて2回まで無料)
ー
同19時頃 病院にて抗原定性キットを貰う。帰るのダルかったので(非公開)でコッソリ検査、陽性発覚。陽性者登録センターに申請
同20時頃 登録承認。HER-SYSに入力。ここらへんから嚥下痛が辛い。睡眠
12月11日0~5時頃 やたら頻繁に目が覚める。買い置きのレトルト卵がゆが不味くて萎える
同15時頃 嚥下痛マシになってきた!
同17時頃 嚥下痛つらいつらいのじゃ……。栄養足りなくなるとめまいや立ちくらみがでるのじゃ
同22時頃 身体動かそうと散歩したら息切れ&意識が飛びそうに。葛根湯で嚥下痛が収まったのでラーメンライス(在宅)食べた
ー
ところで体温が書かれてないのはなんでかって?
フフッ、体温計持ってないんだ
ー
12月12日6時 起床。嚥下痛変わらず。脳がクリアになった気がする
同14時頃 ワイ天才、通販で体温計を注文する一手を繰り広げる。コロナ界の覇者への第一歩へ
同17時頃 なんか息苦しくなってきた。ちなみに支援物資やパルスオキシメーターは受け取ってないのだ。家主にバレたら関東所払いなのだ……。
同23時頃 嚥下痛慣れた。一時咳が止まらなくなるものの睡眠姿勢の改善で解消
12月13日7時 夜寝ていられるようになった
同17時頃 相変わらず咳は止まらず。鼻水が出るようになった。熱っぽさは継続
12月14日7時 目が覚めた瞬間は熱無いなて思ったのに、起きたら熱を感じた。咳。体温計到着
20時頃 初体温測定~~37度!!
12月15日9時 36.2度。この戦い終わったのか? 咳は出る
7月の末に新型コロナウイルスに感染し、そのときの症状自体は数日で治ったんだけど軽め?の後遺症っぽい症状が数ヶ月続いて、それだけでもめちゃくちゃ辛かった、もっと辛い人もいるんだろうと思うけど、自分くらいの後遺症のレベルでも割と仕事や生活に支障があって困ったという話。当方20代後半、関東で一人暮らし、ホワイトカラーの会社員。
ざっくり時系列
という感じで、ざっくり2ヶ月くらいは後遺症っぽい症状のせいでかなり厳しい状態で、これが一生続いたら辛すぎる……と思っていたんだけど、なんとか元の状態にかなり近づくことができている……ように感じる。環境要因とか運みたいなのはとても大きかった感じもしていて、職場やマネージャーにもかなり恵まれていたと思う。これは感謝してもしきれないくらい。
仕事の話しか書いてないけど、仕事で調子悪かった時期は休日もあまり身動きができず、家にいたところで頭も回らないので何もできなくて、公私ともに2ヶ月くらいは無駄にしたというかドブに捨てたというか、そんな感覚が強い。無駄にしたのが2ヶ月くらいで済んだのは幸せなのではないかという感じもする。
これが本当にコロナの後遺症だったとして、症状の強さや期間はかなりばらつきが大きくて、かつどういう要因でそれが決まるのかもまだあまり判明していないという印象もあり、とにかく俺の場合はこうだったぜという話しかできないんだけど、8月の自分になんかアドバイスできるとするなら、マネージャーやまわりの人にとっとと相談しようということに尽きると思う。一方で、抑うつ的な気分になっているときにそういう判断ができたら苦労しなさそうでもある。辛さがピークだったころはもうかなり耐え難くて、貯金と失業保険で食いつなぐとしたらどれくらい持ちそうかみたいなことを考えて、普段だったらスプレッドシート上で皮算用をするようなところ、それをやる気にすらならず寝ていたという感じだった。自分は一人暮らしなので寝ているだけで済んだけど、これで小さい子供がいたりするとどうなるのかとかはちょっと想像がつかない。
コロナの後遺症は、コロナを発症してすぐの人にされているような積極的な支援はまだあまりメジャーではなくて、だいたいどの自治体も最初に診察をしてくれるクリニックの一覧を提供しているとか、相談窓口があるとかという感じだと認識している。結局そういう公的な支援や医療には頼らずじまいで今になってしまったけど、自分の場合は症状そのもので困った以上に、症状・体調によって引き起こされている事態や、それによる不安に強く引きづられて冷静な判断ができなくなっていたのかなと思う。症状が出ていることが根本原因だろうということは明らかなのでそうなるのは今思えば不思議な気はする。
もし職場とか身の回りにこういう状況になっていそうな人がいたら、願わくばサポートしてあげてほしいと思うんだけど、君コロナ後遺症でしょ手伝うよみたいな感じでやりとりされたりすると余計凹みそうな気もするし、なんかこういうのはどうしたらいいんですかね……。まあ体調どう、みたいなところから話していったらいいんだろうか。はてな匿名ダイアリーってサイトでこういうエントリを読んでね……、みたいな話をしてもらえると良さそうな気もする。よろしくお願いします。