はてなキーワード: ルイージとは
でもオリジナル設定がもやもやした、私の知っているマリオはブルックリンに住む冴えないキノコ嫌いの青年じゃないし、家族達も知らん人ばかりで誰だよそれ、マリオが父親との折り合いの悪さに悩んでいるがこの設定いるか?
あとピーチの性格がよく見るタイプのアメリカ映画ヒロインそのもので、可愛いけど少し違う。
最後ブルックリンでクッパに勝って、親に認められてブルックリンのヒーローになっていたがいらんだろ。
ブルックリン関連は萎える要素なので、ここに尺を割いてほしくなかった、最初からキノコ王国住人でも普通に話作れただろう。
最後を見るにヨッシーを目玉に追加して2をやる気満々ぽいので仕方ないが、ヨッシーの活躍も見たかった。
あと音楽、ゲームからのアレンジが微妙にやり過ぎ感あった、もう少し原型を残してくれたほうがキタキター!って嬉しくなると思う。
昔ニコニコ動画で流行ったヒャダインのウエスタンショーを思い出した。
ひたすらネガティブに振り切れたサイコなチコも、僅かな出番で深い爪痕を残していくほど異彩を放っていて可愛いが、マリオギャラクシーやってないからしらんけどこんなキャラなの?
樽を投げるドンキーコング、猫マリオ、たぬきマリオ、アイスフラワーで戦うウエディングドレスのピーチ、ジャングル王国でどんどん組み上げられていくカートに、マリオカートでの派手なカーチェイス、臆病ながらやるときはやるルイージ、キノコ王国の移動手段になってるマリオの数々のギミック。
ここで十分映画代の元は取れた。
まずマリオとルイージが元々キノコ王国の住人ではなく現実世界の人間でキノコ王国にワープする設定がもう論外。
ゲームで一度も出てこないマリオブラザーズの両親や親族もオリキャラで出てきやがるけど、マリオブラザーズはコウノトリが運ぶ途中でヨッシーアイランドに落っことしてヨッシー達に育てられたはずだろ。矛盾してるやん。
赤キノピオのキャラもゲーム完全無視。何だよあのひょうきん野郎は。
ピーチは助けに行く側でやけに気が強いし、マリオ顔負けの身体能力だし。
スマブラやカートみたいな番外編はともかく本編のピーチともう別人だろ。
CGのタッチも何かキモいし、BGMでやたらマリオと無関係な洋楽流してくるし、ブラックジョークをしつこく挟んでくるし…。
ようはこれ「親に見放された無能な主人公が別世界の住人と出会い世界を救ってヒーローになる」っていうベタなアメリカ映画を無理やりマリオでやってるんだよな。完全な原作レイプ。
本当に任天堂が監修したの?ちょっと信じられないくらい酷いんだけど。
あんな内容なのにやけに売れてるし、マリオファンや任天堂ファンにもすげー好評みたいで不思議。
ネットでボロクソ言われてたSTAND BY MEドラえもんとやってることはほぼ一緒だろ。
少なくとも俺はマリオファンとしてこの映画は自分の記憶から抹消したい。
予告の時点で嫌な予感は薄々してたけど、やっぱり観に行かなきゃよかった。
そんな映画。
妻の性格は「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」みたいな感じで面白い人である
こっちも対抗して笑わせようとするし、結果的に家庭では笑いが絶えない(子供達の奇行によるところもあるが)
気持ちよく話を聞いてくれるし、絶妙なタイミングで相槌や質問をしてくれる
同窓会でもそんな雰囲気を出しており、彼女の周りには人だかりができていた
お互い既婚だし、昔のことを思い出して気まずかったので一言二言話した程度で離れた
自分のした誇らしい仕事はうまく質問しながら気持ちよくさせてくれたかもしれない
いつも人の話を聞いて大きな口を開けた素敵な笑顔を見せるだけだった
それが彼女と別れた原因、この人と結婚はできないなと思った原因だった
駄作だ失敗作だ黒歴史だ、と散々言われてるスーパーマリオの映画だけど、実際に見てみると思いの外面白い。
レビューサイトを見ると、「カネの掛ったB級映画」と称されているが、全体的な感想としては確かにそんな感じで。
コメディ要素が多くて楽しく笑えるし、全体的に勢いがあり話のスピード感もなかなか。勢いで誤魔化しているところも多いが、細かいところはいい。そして金は使っているので、頻繁に物が壊れ、無駄にアクションが派手であるのも見どころだな。
この映画はコメディ要素とその勢いはとにかくすごくて、例えばマリオとルイージが異世界に初めて降り立ったとき、困惑していると、傍にいた優しそうなオバちゃんから「ここは武器を持たないと危険なところだよ」と警告されるんよ。でもただの配管工のマリオは武器なんか持ってないし、正直に「いや、持ってない」と言うと、オバちゃんが間髪入れずに銃を向けて「だったら金を出せ!」と脅してきたり、クッパに捕まって手を縛られて死を覚悟したら、写真を撮られるだけだったりと、とにかく笑わしにくるイカれた展開が多い。
クッパやその一味は見た目は人間なのは、CGが満足に使えない時代のものだからしようがないにしても、クッパの暴君っぷりもちゃんと描かれてるし、敵としての描写は十分。俳優がなんとなくプーチンっぽい見た目もしていると、作中で言われているように独裁者、ファシストと言われるのも、それなりに納得がいく良いチョイスかもしれない。まあ、そんな独裁者クッパもやたらとピザを注文しようとしたり、コメディ要素もふんだんにある。
そして、この映画はマリオが頼れる兄貴分として描かれており、ヒーローとはまた少し違って描き方がされている。なぜか女を口説くのもうまいし、マリオ自身も誇らしげに言う。
口が悪いし、声がオッサンすぎるから、どちらかと言えば、こいつワリオじゃねえの?と思うこともしばしばあるが。
予定した攻撃が失敗しても、焦らずにまあいいかでスルーするし、映画の締め方を見ても、本当にこのマリオは頼りがいがある描写になっている。
ちなみに黒歴史呼ばわりされているけども、今公開されている「スーパーマリオブラザーズ ザ・ムービー」には、この実写版マリオ映画のオマージュと思われる部分もちょくちょくある。舞台がニューヨークのブルックリンであるのもそうだし、二人が配管工の仕事で使う車のデザインもよく似ている。そして冒頭で仕事に向かおうとすると、車が壊れるというところなんかも。
ザ・ムービーの方でマリオが弟思いという設定があるけど、それもおそらくこの映画からのオマージュじゃないかな。ゲームにはそんな設定はないし。
ちなみに本作ではルイージはマリオの養子という設定であり、実の兄弟でも義理の兄弟でもなかったりする。だからマリオはルイージは優しい。ただし、親子と呼べるほど年も離れていないから、母であり父であり兄である、と作中で言われている。
あと、この映画ではマリオの本名は「マリオ・マリオ」となっており、実にツッコミどころのある本名であるが、作中でこの名を語ったときは当然聞いた人から突っ込まれてる。続けてルイージが「ルイージ・マリオ」と名を語るので、「2人合わせてマリオは3つでいいのか?」と名を聞いた人が発言するのは、実に笑えた。ひょっとしたらこんなしょうもないネタのために、こんな名前にさせられたのか。
スーパーマリオブラザーズの映画について、公開前はルイージがさらわれてピーチ姫が戦うからポリコレだと叩いていたくせに公開後はポリコレじゃないからヒットしたと手の平返して主張してる、と言われてるけれど
少なくとも私は全く見た記憶がないんだよなー
マリオ映画って、公開前はソニックと比較する意見やよくあるハリウッドのアニメ映画としてスルーする程度で
アメリカで公開されて大ヒットという話が入ってきた後は確かに「ポリコレゴリ押しじゃないから流行った」という意見は増えたけど
公開前はほぼ無風だったと思う
これって水星の魔女も同様で、オタクは放送前は主人公の肌の色が濃いからポリコレだと叩いていたくせに放送後は手の平返して称賛してる、というツイートもよく流れてくるけれど
私は放送前にそういう叩き方をしてるオタクを見た記憶って全然ないんだよな
(もっとはっきり褐色の肌のガンダム主人公ならターンAが既にそうなので
ちなみに「眉毛が太くて可愛くない」という意見は見た記憶があるので
映像が良かった。このシーン、このアイテムの映像解釈がこうなるのか!という驚きの連続。BGMや効果音のさりげないアレンジも良い。
楽しい場面も多くて映画館で何度も笑いが漏れてた。間が絶妙なかんじ。
ピーチ姫のアクションがカッコ良い。ギャルっぽい話し方に最初違和感を覚えたけど格好良いから100点満点です。
映画批評家の評価が低いらしい。これはポリコレは全く無関係で、映画のセオリーを無視した脚本だからだと思う。
映画の脚本術は3幕構成とかセーブザキャットとかいろいろあるけど基本的に「主人公が挫折するパート」が必ずあるはず。
この映画を「普通の映画」にするとこんな感じになると思う(太字が改変部分)
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はピーチ姫は裏切っていた。「ごめんなさい王国を救うにはこれしかなかったの」罠にハマり捕まるマリオ
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はルイージが裏切っていた「いつまでも兄貴ヅラするな。僕はお前が嫌いだったんだ」ルイージに叩きのめされ失意のマリオ
6. 再び立ち上がりルイージと対決。溶岩に落ちかけたルイージの手を掴む。「お前がどう思おうと、僕にとっては弟だ」
上の5に相当する挫折パートがないんですよね。批評家が違和感を覚えるのはその辺かも。
ただ、これはファン向け映画なのでマリオキャラの仲間割れとか過度なドラマはファンは求めていないと思う。だからこれで良いんだ。
いちおう、ドンキーとマリオ主人公の「バディとの友情」としてみるとだいぶセオリー通りな感じなのですが・・・ドンキーはマリオの登場人物でないからうーん???友情出演と思って見ていたのに中盤であれ?こいつシナリオ的にメインキャラだなって
これ。
ようするに「スーパーマリオの映画には、別にマイノリティが出てこないし、人種差別もLGBTも差別問題も出てこない」
ということ。
つまり、アメリカの映画評論家が突きやすい社会問題が投影されていないということだ。
という話だ。
娯楽作品に何でもかんでも社会問題を入れるのは、それが作品に作用することはあるが「絶対的なルール」ではない。
差別に苦しんでいる人間以外にも、娯楽作品で楽しみたいひとはいっぱいいる。
マリオやルイージの住むスーパーマリオの世界は、いわゆる「バカでのろまで、失敗続きの優しい二人が、勇気を出して困難に立ち向かう」
という映画だった。
わかりやすい被差別のアイコンは出て来ないが、十分普遍的なテーマだったと思う。
ゲイでもトランスジェンダーでも、有色人種でもないが、上手く行ってない、社会から軽んじられている二人の物語だった。
多くの観客は、それで十分。
なぜなら、その二人は、かつて自分の分身として、ゲームの中で悪戦苦闘をともにしてきた、古くからの友人だからだ。
それ以上は余計なものだった。
オープニングの前の任天堂のスーパーマリオのシーエムで泣いてしまいそうなほどそんな思い入れは無いんだけど
もうあれはひっちゃかめっちゃかの1-1のステージにクッパが何匹もバトル勝ち残っている終盤には出てくるというカオスさがスーパーマリオなのね!って思って
Switchで色々遊べるスーパーマリオがあったのでそれで遊んでみたぐらいの私のスーパーマリオ歴なんだけどね。
なんかでもゲームの画面がそのまま動いてこれもうゲームにしても面白いのかもね!って思うぐらいなワールドで
あれだわ、
スーパーマリオランのキノコ王国!ってあれがもっと密度がギュッとキノコ王国を集めた感じの景色だったのよね。
自ら文字通り私自ら出る!って勢いで戦いに行くあれファイヤーピーチになるとき服の色が変わるのが最初意味が分からなかったけど、
ああ!そう言うことねってマリオもファイヤーマリオになるのと同じ理屈なんだわ!ってプログラムをあとで読んで腑に落ちまくりまくりまくりすてぃーだったわ。
私が好きだったのはファイヤーフラワーのお花畑が綺麗だったし、
ドンキーコングと戦うときのステージにはてなブロック叩いてアイテムゲットしたんだけど、
あと、
ノコノコが意外と強いってことよ。
おまえそんなワザ秘めていたんかーい!って
踏んづけて蹴飛ばされるだけじゃなかったんだわ。
あんた強いのね!って言って言えそうなレヴェル。
総じて良かったけど、
私もSwitchで遊べるマリオをやろうと思って遊びたい気持ちはあるんだけど、
今はスプラトゥーン3のヨビ祭中だし、
もうさ、
昨日は勝てず調子悪くこんな時は寝るに限るわね!って調子だった。
うふふ。
渋々と思いながら食べるのは良くないわね。
お茶を入れるガラスの容器と私がルービーを飲むガラスのコップがそれを使うと足りなくなるので、
また私の好きなガラスのコップのことについては書くわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見てきたので感想を残しとく。
[視聴環境]
[事前情報]
世界興収がスゴイらしい。評論家からの評価は悪いらしい。吹き替えはマリオが宮野守でルイージが畠中とかいう奴らしい。予告チラ見した感じ、声が微妙だったので字幕でみることにした。
[どんな話か(うっすらネタバレ)]
現代のニューヨーク在住の冴えないイタリア人配管工の兄弟が、ひょんなことから異世界(マリオワールド)に飛ばされ、キノピオ、ピーチ、ドンキーコングとともに悪者クッパを倒そうとするお話。
[総評]
普通に面白かった。良くも悪くもファンムービー。映像的な革新性、脚本の秀逸さ、思わず吹き出してしまう小気味よいジョーク、心動かす感動的なシーン、胸が熱くなる激アツ展開、などはない。
かといって出来が酷いわけではなく、一応どれも及第点は取れてる、と思う。(脚本はかなり雑で突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるけど、子供向け映画にマジになっても仕方ないよね)
[おすすめ度]
劇場で何度も見たくなるタイプの映画ではないけど、人生でマリオのゲームに触れたことある人なら一回は見といた方がいい映画だと思う。
[誰向け?]
万人向け。マリオのゲームをやったことある人なら、小さい子連れのファミリーから、デートムービー、友達グループ、独り身の暇つぶしまであらゆる層に対応してる。
[グロ度]
なし。ただしギャグ演出として暴力的なシーンが多用されている。痛々しい演出は多め。(例:手をピアノで挟む)
<良い点>
・キャラクターのモーションやSE、BGMが原作を忠実に再現していて楽しい
<悪い点>
それに加えて各シーンの演出や各エピソードの繋がりがとてもご都合主義的。
どのような「ご都合」かというと、「原作のこの絵を再現したい!」→「じゃあこういう展開でこういう演出にしましょう!」というのが明け透けに見えている。
たとえば、「ベビーマリオを出したい!」→「ルイージに幼少期を回想させよう!(何の脈絡もないけど)」みたいなのが盛りだくさんとなっている。
原作再現が最優先なため、伏線を先に引いて、後で回収する・・・というのがほぼない。
ピーチ姫がSWのレイみたいになってたり、キノピオが陽気な友人キャラみたいになってたり。どれもハリウッド映画に出てくるお決まりのキャラではあるけども。
<まとめると>
どのシーンにも「物語上の必然性」がない。かわりに「原作再現上の必然性」がある。
だからマリオを知らない人が見たら「なんでそうなる???」「唐突・・・」「最初からそうしとけばいいのに・・・」「無理矢理だなあ」「この人たち出てくる意味あった?」「え?なんでみんな普通に受け入れてハッピーエンドみたいになってるの?なんか説明合った?」「こいつは一体なんなんだよ」と突っ込みどころ満載かもしれない。
が、それもこれも原作再現を楽しみにしてるファンを思ってのことだと思うので悪く言うつもりはない。
最近の欧米主流のポリコレにうんざりしている人達が(全員がそうではないにしても、大半が)
忌み嫌う「ポリコレ」というのは、
元々の作品にないのに後から無理矢理改変や追加をして、さらにそれがあまりにも不自然で違和感あるものを指しているに決まってるじゃん
マリオ映画がポリコレじゃなくて良かったっていうのは、あくまで原作のゲームの設定を維持してくれていて良かったという意味だよ
マリオを黒人にしたり、ルイージを日本とも韓国とも中国ともしれないアジア系にしたり、クッパをゲイにしたりしないでくれていて良かったっていう意味だよ
(リトルマーメイドの実写版の話題で)「赤毛はマイノリティじゃない!アイルランド系はマイノリティじゃない!」「現代アメリカでは有色人種の方が多数派なんだから現代アメリカの人種構成に合わせるべき!」
(スーパーマリオの映画の話題で)「ブルックリン在住のイタリア系の配管工だからポリコレでヨシ!」「マリオは元々ポリコレ!変える必要なし!」
いやいやいやいや、イタリア系がマイノリティならアイルランド系もマイノリティだし
ブルネットのマリオがポリコレならば赤毛のアリエルもポリコレでしょうが。
リトルマーメイドに使った理屈で言うなら、イタリア系の配管工がマイノリティなのが発表当時はポリコレ的に正しかったとしても、
30年後もそれを引き摺っているのは反ポリコレになるじゃん。
現代アメリカの人種構成に合わせてマリオも黒人にしなきゃ駄目でしょうが。マリオを黒人にしろとかマリオとルイージを兄弟じゃなくてゲイカップルに改変しろとかって騒がなきゃ駄目でしょうが。
大ヒットした映画にすり寄りたいがために無理矢理『マリオ映画はポリコレ』という事にしたがるってあまりにも卑怯。
マリオやルイージの肌の色はピーチ姫と同じで普通に見たら単なる白人でしかないのに、イタリア系だからマイノリティ要件クリアヨシ!にするなら、リトルマーメイドも赤毛のアニメ版のままでOKだろ?
ラテン系俳優ジョン・レグイザモ、アニメ版『ザ・スーパーマリオブラザーズ』を批判 「包括性の点で後退」https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a43690055/john-leguizamo-would-consider-super-mario-bros-230425/
で、過去の実写版ルイージ役の俳優が批判してるんだけど、お前イタリア人じゃなくてコロンビア人じゃねーか
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。