はてなキーワード: 点字ブロックとは
またそこまでキツい言い方でなくてもそれに近い意見は不思議に思う
3年前まで自分は乗降者数が全国2位の駅の近くに勤務しており、
白杖を持って点字ブロックをカンカン鳴らしながら歩いている人は毎朝2名ほど見かけていた(おそらく同じ駅周辺に勤めている人だったのだろう)
それだけ
だから、
と言われると?
だし
「親切にしたのに当たり前の態度をされたからもうやらない」
なんて言われると???
世の中に余裕が無さすぎるのかな
そもそも杖ついて歩いてる人がいて避ける隙も無いなんて
時間的にか空間的にかわからないけどどれだけギリギリで過ごしているのかと
何で自分がこんなメに(目とひどい目をかけているわけではないです)!
となると思う
それからもしも自分の目の前であからさまに手助けを必要としている人がいて
それに対して感謝されたいとは思わない
勘違いしないでほしい
以前、ここに別件で書き込みをしたら「それはコミュ障だからだ」と言われたことがあり
どういう障害か具体的な症例を調べたこともないのでわからないが
盲導犬をわざわざ刺したり
そういう人も減るのになと思う
って僕の友人たちが言ってました。
階段やエスカレーターを下りるときは男が先に。上るときは後に。ヒール履いてるのに点字ブロックの上を歩かせるな。車道側を歩け。など
そういうことが当たり前にできて最低ラインとのこと。
ヒールは辛いだろうし気持ちはよく分かる。僕は若干フェミニストなのでレディーファーストすることに抵抗はないのだけど。
その彼女たちは遊んだあとの片付けをしない。男をこき使う。あれを取って。これを持ってきて。
きっと僕らは彼女たちにとって、いい男ではないのだろう。
いい男の前では取り繕っているのだろうから。
これの続き
http://anond.hatelabo.jp/20130525211446
・障害者ウゼー
・区別されるのは嫌だ「区別するのは良くない!自由にしろ」って言い出す。
・低所得者ウゼー
・どうやら人を区別するとうまくいかない。乙武を批判すると回りまわって自身に跳ね返るっぽい。
何で健常者が障害者に対して特別扱いしなきゃいけないのか?やる必要もなければしたくもない。
大体あいつら働いてるかもわかんねーし、社会に貢献度合いも低い。
そんなやつらに手間ひまやコストを掛けるだけ無駄だし、ほかの所に掛けたほうがよい。
ってなことを言い出すと
障害者と同じような、もしくはそれ以下の待遇を受けてしまう。(弱肉強食の世界のため)
用語説明
低所得者=年間所得800万以下の人たち(日本の税金の50%は、人口11%に過ぎない年収800万以上の人達だけで払っている。)
弱肉強食の世界では障害者・低所得者は虐げられて当然であり、自然なこと。
虐げることは悪いことじゃない。当たり前。自然の摂理。
障害者のなんか相手したくない!って虐げると、回りまわって自身も虐げられてしまう。
でもそれは嫌。だからこそ大部分の人たちは理想世界を目標にして
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とか「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する」
ですがこの偽善を否定すると、障害者・低所得者は虐げらちゃうというポルポル状態。
非常に不服なのですが、障害者でも幸せに生きられる世界を構築しないと駄目のようです。
いやーめんどくさいですねー。
どれだけのコストがかかるのか。障害者用エレベータも作らないと駄目だし、点字ブロックや
障害者専用スペースとかも作らないと駄目なんですよ。うざすぎる。
はちょーめんどくさい以外の何者でもないんですけどね。
何が言いたいのかというと
「どれだけコストが掛かったとしても、どうにかしないと駄目」
ということです。
そうしないと、図書管理の利用とかトイレ、水道とか使えなくなっちゃうかもしれません。
Exactly(そのとおりでございます)
現実問題として、何から何まで対応しろってのは無理があります。
ですので、優先度が高い順に、
少ない費用で効果が大きく緊急度が高いものから対応していきます。
全体的に見て、かなり低い位置にあります。
本来であれば乙武さんをお店に入店させるべきですが、現実問題として無理があったと思います。
「どれだけコストが掛かったとしても、どうにかしないと駄目」なので
現実問題として無理があったとしても、どうにかできなかったお店が悪いことになります。
つまり、お店の作りが悪かったため、障害者が入店できなかったことが駄目ということになります。
現実問題として、普通の飲食店は障害者に厳しいお店が一般的です。
ですが今回のお店が障害者にやさしい作りになっていれば
※何だか話が変な方向に流れてきましたが、お付き合いください。
1.理想としては、日本中のお店を障害者にやさしい作りにすれば万事解決なのですが
2.現実としては、日本中のお店を障害者にやさしい作りにするのは不可能です。
3.ですが不可能といってもうちらは、誰もが(障害者も)幸せになる理想世界を構築しないと駄目なわけです。
上記1.~3.のことを認識・理解しているか否かで、人の対応が全然違いますね。
お店側は「理想世界の対応すべきですが、まだできていないお店です。すいません」とか言って
乙武側は「障害者に対応するのは現実問題きびしいですよね。頑張ってください」とか言えばよかった。
つまり
双方が自身のおかれている現実を直視すればよかったのだよ(キバヤシ)
逆に、言っちゃまずいのが
お店側が3.のことを考えずに「障害者にやさしくする気なんて微塵も無い。視ね!」で
乙武側が2.のことを考えずに「障害者にきびしいお店ってバカか!配慮しろボケ!」ですね。
今回の問題は不味い方向に転びましたね(達観)
この手の問題でよく出てくるのが、理想世界構築の自身がどこまでやるのかです。
障害者に対して、どこまで配慮すべきなのか?
最近の話だと、今後発生する深刻な食料不足のために昆虫を食べないと駄目のなのか?
などなど、やるべき事はたくさんあります。
本来であれば、理想世界構築のためには上であげたこと全てを全力でやるべきです。
といいたいところですが、これもまた現実問題として不可能です。
少し前に、共産主義、社会主義というものが大流行して、世界の約50%が共産・社会主義になりましたが
がすぐに廃れてしまいましたね。
共産主義は理念的には大変素晴らしいものでしたが、どうも人間が扱うと、
汚職まみれになったり、独裁国家ができたり、市民を虐殺しちゃったりと
これは理想のために全力だしすぎると、駄目になる典型パターンです。
【 無理をしないで、自身ができる範囲でやる 】
がおおむね正解のようです
理想世界に全力出しすぎると駄目になるので、「自身ができる範囲でやる」
といっても、だーれもその気が無かったら始まりません。
というか、理想世界構築って面倒すぎてやる気すら沸きません(本音)
そんななか、乙武さんっていう人たちは
うちらの殆ど変動しないであろう「自身ができる範囲」を拡張させる
ある種すげー貴重で、ありがたい存在でもあり、
※問題に対する意識が高くなると理想世界構築への行動をし始めちゃいます。
「あ、障害者の事すげー尊重したくなってきた」
とか気持ち悪いことを平然と言えるようになります。
今では自分も
「あ、低所得者の事すげー尊重したくなってきた」
っていえるようになりました。
乙武の行動を過度に阻害することです。(適度に正しい方法を使って阻害するのはOK。)
考えてみてください
「障害者にやさしくしてください!」とか「障害者の入りやすいお店の啓蒙活動するぞ!」
なんて事をしたいですか?めんどくさすぎて自分はごめんです。
ああいった人たちが勝手に行動してくれるから、勝手に理想世界に近づいているのです。
勝手にやらしておきましょう。ですが変なこと言い出したら止めましょう
ただ乙武をバカにして、やる気を失わせるのだけは得策じゃないので控えましょう
乙武の役目は、社会全体のやる気パラメータを上げることにあるにも関わらず
今回の問題では、それが全くできていなかった。
うまくいけば、飲食店全体の障害者対応への認識が変わりそうだったにも関わらず
問題提起になったが、成果がともなっていなかった。
・理想世界を構築しないと障害者と年収800万以下の低所得者は虐げられる
・現実問題として、理想世界への対応には資金・資源が有限だからすぐに全部やるのは難しい
・理想と現実をちゃんと認識、理解すれば、うちらがどんな対応とればいいのか自然とわかる
・理想世界構築のためには「自身ができる範囲で頑張りましょう」
・乙武みたいな人は「自身のできる範囲」を拡張するハタ迷惑な存在
・社会全体のために乙武みたいな人は勝手にやらしときましょう(提案)
・乙武をバカにしてやる気を失わせるのは得策ではないのでやめましょう(戒め)
いやー長かった。
たいていの場合、インテリバカが問題に対する考えを分かりやすくまとめてくれてたり
新しい見方を提示してくれる事が多い。が、乙武さんの入店問題に関してはしっくりくるまとめ文章が全くない。
インテリバカはもう少しがんばれ。ってかいつものバカはどうした。早く書け。というか書いてください。お願いします。
このままいくと、乙武さんがバカにされるだけで終わっちゃいそうなので、苦手だけど一応書いておく。
乙武の役目は、社会全体のやる気パラメータを上げることにあるにも関わらず
今回の問題では、それが全くできていなかった。
うまくいけば、飲食店全体の障害者対応への認識が変わりそうだったにも関わらず
問題提起になったが、成果がともなっていなかった。
乙武さんの行動を話す前に、この障害者差別問題の考え方みたいなものを理解したほうがサクサク理解が進む。
1.弱肉強食の世界とは強いものが生き、弱いものは死ぬ。そのまんま。
今生きている世界であり、平等と謳いながらも基本は弱肉強食の世界である。
2.理想世界とはうちらが目指している世界であり、みんなが幸せに生活できる世界である。
障害者・健常者・低所得者・高所得者・非エリート・エリート誰もが不便なく生きられ
うちらは弱肉強食の世界で生活してはいるが、理想世界を構築しようとしている事だ。
理想の世界<<|超えられない壁|<<【先進国(日本)】<<【途上国】<<<<【貧困国家】<<<<【石器時代とか】<<弱肉強食の世界
目指して方向はこっち← 何もしないとこっちに引かれる→
何で健常者が障害者に対して特別扱いしなきゃいけないのか?やる必要もなければしたくもない。
大体あいつら働いてるかもわかんねーし、社会に貢献度合いも低い。
そんなやつらに手間ひまやコストを掛けるだけ無駄だし、ほかの所に掛けたほうがよい。
では社会は何故そうしないのか?それは社会が理想世界を目指しているからだ。
誰もが不便なく幸せに生きる社会を目指す。偽善もはなただしいですね。
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「そもそも事の発端は障害者の面倒をみるってのが事が原因だから、障害者は排除しよう。」
・お店への入店禁止
健常者至上主義ということになれば、あの生意気なやつらもしゃしゃり出てこず、万事解決だ。
ひとまずはよかった、よかった。となるが、ちょっと待ってほしい。
そう、健常者でもホームレスやニートなど社会に貢献しない人がたくさんいるってことだ。
※何だか話が変な方向に流れてきましたが、お付き合いください。
ホームレスもニートも障害者と同じで、世話する必要なんかない。
というか国家に対して貢献してない人は区別しましょう。ここでは簡単に【納税額が低い人】で区別するにしよう。
では、区別ラインを【一人当たりの年間所得が800万以下】で区切ることにする。
そうでもないみたいです。
日本の税金の50%は、人口11%に過ぎない年収800万以上の人達だけで払っている。
http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2000/menu/05.htm
【1年を通じて勤務した年間給与額800万円超の給与所得者は、全体の給与所得者の11.3%にすぎないが、その税額は全体の半分以上(53.8%)を占めている】
※800万をラインにしましたが2500万以下でも全然問題ないです。
障害者にはもちろん人権を与えないが、健常者でも800万以下の低所得者は下記のような扱いとする。
・図書館や公園など公共施設の利用の制限(納税額が少ないので)
・労働法を適用させない。1日20時間労働休憩無しとかさせてもよい(低能力だから時間を掛けさせるべき)
・高額納税者の命令に歯向かってはならない(低所得者の意見に良い意見はすくないので)
黒人奴隷やインディアンの扱いに比べれば、全然問題ないですよね?人身売買や虐殺・娯楽殺人は許してないので。
どうでしょう。結構いい感じの世界になってきたのではないでしょうか?
変なにまで話に発展してしまいました。ですが
「低所得者で国家貢献度が低い障害者は健常者を敬って生活すべき!」
という話はこんな世界にぶち当たります。強い奴を敬えって奴です。
弱肉強食の世界は一昔前まで、これが当たり前の世界として広がっていました。
強い力を持つ人たち。貴族・王様・殿様・武士・白人などはその力を多いに使い
弱い力しか持たない人たち。平民・農民・エタヒニン・黒人は多いに虐げられましたね。
でもこれは悪いことじゃないです。自然なことです。
弱い人たちは虐げられるのは当然なのですから
今現在、年間所得800万以下の人はこんな世界どうですか?なーんか生きにくそうですね。
じゃあどういう世界にするか?
素晴らしい世界ですね。そうしたほうがみんなが幸せになるのですから
絶対そうしたほうがいいです。これは正義です。これに反対するのは悪です。
一部のエリートが私利私欲をムサボリ、一般市民が泣きを見る世界は不公平です。
高額納税者に「自由に図書館・公園・飲食店を使わせろとー」とか言い出すのです。
「社会貢献してない低所得者を相手にするのはめんどくせー」って
何で高額納税者が低所得者に対して特別扱いしなきゃいけないのか?やる必要もなければしたくもない。
大体あいつら働いてるかもわかんねーし、社会に貢献度合いも低い。
そんなやつらに手間ひまやコストを掛けるだけ無駄だし、ほかの所に掛けたほうがよい。
ん?
なんか変な話になってきましたね。ポルナレフ状態です。
・障害者ウゼー
・区別されるのは嫌だ「区別するのは良くない!自由にしろ」って言い出す。
・低所得者ウゼー
・どうやら人を区別するとうまくいかない。乙武を批判すると回りまわって自身に跳ね返るっぽい。
・起承転結の承までかきました。
文才ないとすげー文字量多くなるのな。
これが乙武さんと、はじめに書いた結論にどう繋がるのかは、まだ書いていませんが、まぁわかるでしょ(適当)
インテリバカは頑張って、この続きを短くてわかりやすく書いて、どうぞ。
【追記】
誰も書いてくれそうに無いので後編かきました。
障害者が普通に生活するためには、スロープが必要だったり、点字ブロックが必要だったりのコストがかかる。
コストがかかるからやらないではなくて、やる必要はあるのだけどそのコストを誰がどれだけ負担すべきなのかというあたりが揉めやすくて炎上する。
障害者側が一切のコストを負担すべきではないという考えの人がいて、そういう人は、車椅子で行くという電話連絡でさえ拒否する。
問題は、店側がコストを負担した場合と、障害者側がコストを負担した場合のコストの大きさが違うこと。
障害者は一切のコストを負担しない、店側がコストを負担するということは、予約者全員に車椅子で来ますか?アレルギーはありますか?目は見えますか?日本語は読めますか?宗教上の理由で食べられないものはありますか????などなど聴くべきことが多くなりすぎて、コストが膨大になる。一方で、障害者側が自主的に連絡するならコストは小さい。
このコストの非対称性を無視して一切のコスト負担を拒否する姿勢が例のなんとか武さんの問題で顕になった、障害者ならびに障害者の支援者の嫌われる側面なのだ。なのだ。それは別に差別ではないし侮辱でもないし尊厳を傷つけるなんてものでもない。
障害者が負担するコストが最小限になることを目標にするのではなく、全体のコストが最小になるようにすることを目標にすべきと考えるのだが増田に書いてもきっとなんのリアクションもなくて悲しい。フォロワー60万人くらいほしい。
追記:
http://anond.hatelabo.jp/20130526115410
こういう本質的には同じ論法を使う人って、定量的な考え方ってできなさそうでピン!と来ない。
今回、ツイッターであのやり取りを見ていて、心底ゾッとした。
一応反省したテイで開始されるこの文章、しかし反省というよりも、文章の2/3は怒り収まらぬ様子の文章。
この人、軽率だとか自分で言っているけども、多分軽率の度合いがわかってない。
下手したら店が閉店に追い込まれてもおかしくない。人生が狂っても驚かない。
今回、乙武さんがやった行為は、ひとつのことを知らしめたと思う。
それはつまり、飲食店等の客商売をしていて、障害者という存在はとてつもなく危険だということ。
今まで作ってきたイメージも客も評判も何もかも、障害者の気に入らない事をしてしまったが最後、晒され、叩かれ、悪者にされ、最悪の場合全て失ってしまうかもしれないこと。
まるで何気なく街中を歩いていて、突然通り魔に命を奪われるようなものだ。
不運としか言いようがない。ああ、障害者には関わりたくない。近寄って欲しくない。性質が悪い。人生滅茶苦茶にされかねん。
このような、全く建設的ではない、障害者も健常者も社会も誰にもいいことのない、ネガティブイメージ。
これを知らしめた、ということだ。
乙武さんのこの釈明記事を読んでなお、ネガティブイメージは払拭できないなと思う。
普通の人なら、自分がネット上で悪として叩かれ晒されているだけで、十分先行きに絶望して日常生活に支障を来すだろう。
でも、こんなことしちゃった僕の気持ちも解って下さい!という文章からはそこに対する気遣いは全く感じられない。
てか相手の謝罪ツイートも見たのか見てないのか知らないが、「許してくれるなら」って、会話する気なしとしか思えない。
なぜ電話であらかじめ手がかかる事を伝えなかったのだろう。
店で面倒をみきれなければ、責任を持ち切れなければ、店だって拒否をする権利はある。
だけど先に伝えておけば、店にだって準備のしようがあるだろう。
店側もやむなくどうしても無理なら、また改めて後日お願いできませんか?と伝えることだってできる。
その事前の根回しもなく、当日突然、当たり前に手伝いを要求。
そんなの絶対、店の人だって不愉快だ。怒られても仕方ない行動だ。
念のため、障害者だから不愉快というものではない。健常者に求められたって不愉快だ。
障害者だけでなく「何かに対応が可能な準備」には少なからずコストがかかる。
インターネットが使えない、或いは苦手な人のために電話対応用の人員機材を用意するのも、
街中で視覚障害者が自力で歩けるように点字ブロックを道に埋めることも、
コストであるからには、そして商売であるからには、費やせる量にも上限がある。
乙武さんは、自分が突如手を借りる時に必ず不自由することなきよう、店に人を置いておけというのか。
当たり前に店はそのコストを払い続けて、そして乙武さんはこの店にそれをペイできるほどの金を落とすというのか。
ただ、事前に事情を説明すればいいだけのことだ。
時間がわかれば、店だって事前にその時だけ何か用意ができたかもしれないのだ。
障害者が健常者に比べて何かしら手間がかかるからといって、障害者の方々はひきこもる必要はない。
でも、健常者同様に、相手に迷惑をかけるのであれば、気遣いはしてほしい。
人にひと手間かける時は、すみませんが、ご迷惑ですが、は普通のことだ。
そして、人は必ず手助けができる状況にいるわけではないことも、当たり前に理解しろ。
(まあ健常者でも、理解できてない頭の弱い人は多々いるのだけども)
同等、平等っていうのはそういうことだと思う。
手間がかからなければ偉いものでもなく、手間がかかるから下扱いされる謂われなどない。
私は障害者を差別しないから、ちゃんと人と人としての気遣いも求める。
それもできないなら、障害者だからではなく、人として関わりたくない。
損得や苦楽が判断基準ではない。単にひととなりの問題だ。
それが解っている障害者の方々は多いだろうに、乙武さんの行為はそういう方々の行動を台無しにしている。
不愉快過ぎて、普段文章なんか書かないのについ増田してしまった。
有名人ないし著名人は危険、という部分も大いにあると思います。賛同します。
乙武さんでなければここまで大きな話になることはなかっただろうと私も思います。
ですが、仮に今回の出来事を誰もが知ってる芸能人が書いたら、ただの傲慢、感じわり~、だけで片づけられた話でもあると思います。
そして、大多数の著名人は、店名名ざしでこういう話を持ち出したりはしないようにも思うと、添えさせていただきます。
--
なんで自ら選んで障害者になったわけでもない方々が、そんな「健常者より気遣う」必要があるのでしょう。
例えば店で買い物をした時に、店員からありがとうございましたと言われる。客はありがとうと返す。
売ってやったわけでもなく、買ってやってるわけでもない関係がそこにはあると思うのですが、
手伝われる方も、手伝う方も、それくらいの気遣いが出来ればじゅうぶんにスムーズだと思います。
「健常者より気遣いしろってこと?」という表現は、まるで自炊できずにコンビニ弁当ばかりの人が、
「自分は料理できないから店員に対して余計に礼を述べろっていうのか?」くらいに思えますよ。
障害者が社会に手助けを求めるのは当たり前の権利であるなら、手伝うことは社会の責務です。
その責務を、各々できる人たちが可能な範囲で担当するだけのことです。
ただ私は円滑でお互いが気分よくなれるコミュニケーションを求めるだけのことです。
--
もし自分でコミュニケーションをとることがとても困難な方の場合は、おそらく介添えの方が同伴されることが多いと思います。
何も障害者本人が必ず何かレスポンスを、というつもりは、もちろんありません。
むしろ、それが難しい方が単独で居られるなら、それは積極的に手助けなどをしないとまずいのではないかなと思います。
きれいごとであり、理想論であり、空論であり、なおかつ傲慢でもあるのも、否めない部分があります。
さらには承知した上で意図的に強調をしているので、批判や反発もあるべきだと思います。
だいたい、匿名ですし。(他に長文をさくっと発表できる場所がないからですが。)
手足がなかったら同じことが言えるか、とおっしゃる方がいらっしゃいました。
乙武さんの苦労が簡単に理解できると思う程傲慢ではありませんし、全て察せられると思える程の自信もありません。
ですから、自分の想像だけを根拠に「言える!」と簡単にお答えできるわけもなく、
しかしながら「言えないかもしれない」という生半可な気持ちでもないので、回答は「わかりません」になります。
ただ、たまたま手足がある人ですので、手助けの余力がある可能性も高いですし、その立場から手足のあるなしなんか目もくれずに
不愉快なら、「こうだから」不愉快だ、「こうすればよいと私は思うのに」と言うだけのことです。
手足があるから、手足がないから、何か遠慮しなくてはいけませんでしたか?
それは、腫れ物扱いって言うのではないでしょうか。
などとタイトルをつけてはいますが、どんなことが起こっているのかを説明するつもりはさらさらありません。あしからず。以下のお題に投稿するには余りに長くなったので、勝手ですがこちらを借りました。
上のようなお題がハイク内で立てられ、ちょっと盛り上がったので、以下、全力で釣られてみます。
既にいくつか指摘のあるとおり、表意文字としての漢字を日本語から引き算して表音文字としてのひらがな/カタカナへ統一することは、朝鮮半島でのハングル使用が少なくない同音異義語を産出し混乱を招いている現況と同様の事態を引き起こすだろうマイナスの側面がある。
漢字の使用によって抑圧される弱者として日本語を母語としない外国人を想定するのなら、その弱者の補助ツールとして各種翻訳サービスを挙げることができようが、ひらがな/カタカナのみで表記された文章の翻訳は、日本語において多量に存在する、しかし漢字による表記で区別可能な同音異義語を、前後の文脈から判断して行わなければならなくなる事態を引き起こす。現在の提供されている無償の翻訳サービスですらまともなものではないのに、余計に使えないものになるだろう。
弱者として視覚障害者を想定するのであれば、視覚障害者と晴眼者の差異、視覚障害者の能力が障害と見做される由縁は、「読む」ことと「聞く」ことにおける「読む」ことの利便性に他ならない。ここで、書記言語から口語言語の優位性を説くのであれば、文字を拒否するという極端な姿勢もあり得ようが、一方では、漢字の使用をやめたところで、「読む」ことと「聞く」ことの差異が縮まるというものではないことも容易にわかる。漢字の不使用に「わかちがき」の使用を追加したところで事態は変わらない。ところで、書記言語から口語言語の優位性が説かれるときに、今度は聴覚障害者や構音障害者が抑圧されているかのようにみえるのは、一体どういうことだろうか。
あるいは、単に漢字の読みがわからない、また付随して意味がわからない者を弱者として想定するならば、キッズgooなどの検索先ページへの仮名振り機能は強力なツールとして既に存在しているし、オンライン辞書ツールなどの使用による「学習の啓蒙」がなされて穏当、かつ然るべきではないか。
また、補助ツールを用いずに弱者への配慮をhtml/xmlで記述されたページ内で完結させることを考えるならば(大体、html/xmlで記述されたページがメディア=媒介なのだが)、例えばhtml/xmlはruby関連タグを備えているが、投稿においてタグを使用できないはてなハイクの仕様が抑圧的だという見方もあり得よう。しかしながら、これは視点を変えれば、タグを使用することができない弱者への配慮でもあることは付記しておくべきだろう。
それどころか、ruby関連タグはxml1.1でようやく認められるに至ったのであり、この点でいえば現状のhtml/xmlが抑圧的であるという判断すらあり得よう。引き算の態度を貫徹するのであれば、漢字を拒否する前に、はてなハイクでの、いや、ネット上の書き込みを拒否する態度というのも、ひとつ考えられよう。あるいは、html/xmlにおける扱いについて問題の多い日本語の使用をやめて、問題の少ないラテン系言語の使用に踏み切るという態度もあり得よう。
話は変わるが、歩道に敷かれている視覚障害者用の点字ブロックがいかに妥協の産物であるか、病院等の公共施設で採用されるユニバーサル・デザインがいかに試行錯誤の、過渡の形象であるか、ということに目をやるのが良い。そこに横たわる根幹的問題のひとつは、弱者とまた別の弱者の利害不一致である。漢字の排除が同音異義語の混乱を招くという形式は、弱者とまた別の弱者の差異を捨象するという形式と相同的なのである。これは、弱者とまた別の弱者の双方に潜在する、共通する性質を汲み取り問題解決へ向かわんとする繊細な作業――それは、不十分とは言え、点字ブロックやユニバーサル・デザインを産み出す過程で行われている作業である――とは全く相反した暴力的行為に他ならない。ユニバーサル・デザインが足し算の思考であるとは、確かに足し算の部分も引き算の部分もあるだろう。しかし、足し算と引き算しかできない小学一年生であれば、最小公倍数と最大公約数の思考の部分についてわからないのも無理はない。
さらに、より根本的には、スピヴァクが古典『サバルタンは語ることができるか』で指摘したのは、サティー(寡婦殉死)の実行者を被抑圧者としてカテゴライズすることだったが、スピヴァクはそれを決して否定したり退けたりなどしていない。外部の視点を持ちこんで、ある彼/彼女を被抑圧者として規定すること、これこそが抑圧以外の何物でもないが、しかしこの規定によって被抑圧者を被抑圧者と認識し、被抑圧者たる彼/彼女に語りかけることが、彼/彼女の身になって考えることができる。抑圧なしのユートピアなど幻想である。抑圧なしのユートピアがお好みならば、まずもって「私」という拭い切れない自己同一性を捨て去ってみればよい。想像はできる。「お前」と同定されることのない、「私」を「私」と呼ぶことのできない、抑圧なしのユートピアがそこに拡がっているだろう。まさに、「サバルタンは語ることができない」。かつてフーコーが打ち出した『魂は身体の牢獄である』
という、一見したところトリッキーなテーゼに込められていたかもしれない苛立たしさには、同意するに吝かではない。この種の原初的抑圧の暴力性には敏感であるべきだし、しかし、しばし躊躇いながらも、この暴力から笑いを産み出す昇華の方法を探るべきなのである。この昇華は幻想ではない。理不尽に突き付けられた、尽きることのない、終わりのない、仕事だからだ。
僕が何を言いたいのかというと、お題ができたら全力で釣られて、あーでもないこーでもないと盛り上がり、次第に飽きては、パロディ化して派生した別のお題で盛り上がり――そんな楽しいところがはてなハイクです。
――落ち込むこともあるけれど、私は元気です
――
元増田です。
バリアフリーのあり方とはみたいな大きい話のつもりじゃなくて、単に足が痛くてヒーヒー言いながら歩いてる状態っていわゆる弱者状態だと思うのに、さらに弱者用の点字ブロックが痛めつけてるこの状態って何さ、みたいなやさぐれだったのに、真面目に色々教えてもらえてありがたい。
http://anond.hatelabo.jp/20090205230112
たぶん、その地域で一人も必要でなくても設置することになると思う。
設置に際してこの地域に必要な人が居住しているかどうかは調査しないだろう。
やっぱりありがちなバリアフリー発想なのか。「やっとけば文句言われないだろ」的な。
関係のない部署だけどお役所の中の人なので断言する。間違いなくそんな調査しない。
http://anond.hatelabo.jp/20090206012451
白杖のひとたちにとって点字ブロックは健常者よりもずっと危険です(そこにあることがわからないため)。
いずれ点字ブロックはなくなるんじゃないでしょうか。興味があればそちらの分野を志してみるのもよいのではないかと思います。
白杖の人たちにも危険なのは知らなかった。確かにいきなり段差が現われるようなものだし。
いまさらそっちを志すつもりはないけど、いずれ関係のある部署に行くかもしれないから参考になった。
> 「一人でも必要な人がいれば設置する必要性があるんだ」
たぶん、その地域で一人も必要でなくても設置することになると思う。
設置に際してこの地域に必要な人が居住しているかどうかは調査しないだろう。
そもそも今の状態の点字ブロックは途中物を置かれただけで用をなさない等、改良の余地がある。
点字ブロックってもうちょっと何とかならないのかな。
ボコボコしてないと用を成さないのはとてもよく分かるけど、雨降ってると滑るし蹴躓くし、足怪我してたりするとあんなちょっとした段差でも響いて痛いのに、横一列びっしり埋まって逃げ場がなかったりするし。
怪我しているからあのブロックをまたげる歩幅が確保できず、必然的に上に乗らざるを得なくてやっぱり響いて痛いしバランス崩すし。
自力で歩いてる状態だったらまだしも、松葉杖とか車椅子だともっとあのボコボコは邪魔だろうと思う。
だいたい駅はともかく、ちょっと広い歩道にさえ点字ブロックを完備する必要性って本当にあるんかよとか思う。
まあ自分が見たことないだけで、こんな片田舎にブロックがないと外出できない人が沢山いるのかもしれないし、
「一人でも必要な人がいれば設置する必要性があるんだ」とかの話をされたら面倒くさいから頭下げて逃げる。
でも怪我してるのに点字ブロックに乗って足が痛い状態って立派な弱者だよね。
そんな人たちが圧力団体作って必要以上の点字ブロック撤去を訴えていったらどうだろう。
やっぱり怪我してるだけの人たちはブロック使う人たちに負けるだろうか。そのうち治るし。
車椅子の人たちの団体ならどうかな。