はてなキーワード: 関西とは
共通の友人に根掘り葉掘り聞いて、結婚式の写真も見せてもらった。新婦の両親は品の良さそうな家族。お互いの実家を行き来してて両家仲良さそうと聞いて大泣きしている。とても悲しい。人は同じもしくは近いカーストの人としか結ばれないのか?
付き合いは本当に順調で、私は彼の実家にもよく顔を出していた。注文住宅の一軒家、ペットの犬、何より優しく働きものの彼の両親と兄弟が大好きだった。
結婚を意識し始めた25歳の春。彼が四国の私の実家に来たいと言った。私の実家は貧しいこと、フル奨学金で進学した事は事前に伝えていた。再度「うちの実家本当に貧乏だから、驚かないでね」と伝えた。彼は「大丈夫だよ」と笑っていた。
私の実家は古びたトタン貼りの長屋タイプの貧乏平屋で、申し訳程度に片した物が散乱している部屋にアルコール中毒気味の痩せこけたパチンコ狂の父親とプリン頭のだらしなく太ったパチンコ狂の母親と祖母と分不相応な吠えまくるチワワがいる。生計は祖母の年金と両親のたまの労働と借金と私の仕送りで立てている事は内緒だ。
挨拶のために、事前に家を片付け、身なりを整えてもらい、食事は地元の料亭を予約した。彼らの自己紹介も事前に台詞を準備し、練習してもらった。彼はそつなく私とお付き合いしているという挨拶をこなしてくれた。家族は事前に準備した服を着用し、台詞をこなしてくれたが、彼の仕事と彼の実家の事をそれとなく聞きお金の匂いに目を光らせていたので、少し憎く思ってしまった。
それからしばらくは今まで通りのお付き合いが続いたが彼の実家の定期イベントのバーベキューに呼ばれる事はなく、なんとなく疎遠になっていき、私の実家に彼が来た3ヶ月後に、彼の浮気の自白と強引な別れ話で交際は終わった。
納得できなかった私は彼の実家に訪問した、彼は不在だったが彼の母親が出てきた。あんなに仲良くしてくれたはずの彼女は家に招き入れてくれず、近所の喫茶店に私を連れ出してくれた。私は別れに納得がいっていない事を泣きながら伝えた。彼女は冷ややかな目で私を見て「ごめんね。私にはどうする事もできない。」と言った。
当時も今も浮気の件は嘘で、私の実家にドン引きしたから別れたのだと思ってる。ハリボテの家族ぐるみの演技も見破られたのだ。親にあんな嘘をつかせてまで、私は幸せになりたかったのに、結局なにも手に入れられなかった。
そういえば、友人が結婚する事になった際、相手の身元調査するって言ってたな。
当たり前なのかな。どんな項目でNGが出るのかな。
自分は基本スシローしか行かないが、スシロー一斉休業のため先日母親と久々くら寿司に。
数年ぶりのくらだったが本気で最悪
安めの寿司は回転レーンに、それ以外はタブレット注文のスタイル
そのせいでイスに座ったままでは使えないので中腰スタイル
タブレットもとにかく見づらい、UI考えたやつはユーザーフレンドリーって言葉知らないのか
ジャンル分けがなく(にぎり、軍艦、あぶり...みたいな)、ひたすら「次へ」の部分をタップ
注文してから届く速度も遅め、なのに届くときは一気にレーンに流れてくるから取るの大変
みんな知ってると思うけどくらって寿司皿にカバーみたいなのついてんのね
で、あれ初見だと開け方わかんないし、知ってても開けづらいの、コツがいるというかさ
母親はとにかく困惑してて、一気に流れてくる注文皿(しかも他の客の皿が間にあったりするから悪質)のカバー開けるのに焦りまくり
自分がカバー開けて取るようにしたけど、5皿とか同時に流れてくるからさすがに焦る
専用レーンもないのにないのにあんな一気に流したら取りこぼす奴いるのわかんだろ
味も正直スシローよりまずい
回転すしに味は求めてないからここはわりとどうでもいいけど
まぁ自分が行った店舗が昔からあるやや田舎の店舗だからメニューこんな感じだったのかもしれないけどさ、普通にタブレットの位置とかはバカ
ツイッターやめよう!私はやめた!
たとえば、私が道ですれ違った見知らぬ男に「ブス」と暴言言われたとしよう
こういうとき我々は「男が暴言を言った」と認識しがちだけど、実はそうではなくて「クソ人間が暴言を言った」なんだよ
殊更に「男」という属性を取り上げてしまう時点で認知が偏っているんだよ
「男はクソ」みたいなツイッターブンブンミサンドリーインフルエンサーに影響されていると、「ああやっぱり男だ」みたいに思ってしまうんだよな
これが確証バイアスってやつ
「男」でも「女」でも「クソ人間」と置き換えられるときは思想が偏っているから要注意な!!
内部生は皆1回は留年する→実際はストレートで95%は留年せずに大学卒業する。酒の席での与太話を本気にするな。
内部生は馬鹿しかいない→実際には、大学で入ってきた奴の方が大学の成績も悪い。非コミュの大学入学の奴が、内部生で留年するような5%の層より上にたって満足してるんだろ。
金はあるが子供はバカな家がいかせる→小学生で地頭()が良くないと幼稚舎は入れないし、中学は普通に中学入試で偏差値75とかだった奴とクラスメートでやっていけてる。
内部生は上級階級→東京出身者なら、どこの私立でも公立出身者でもあんなもん。田舎と一緒にすんな。
打倒しないといけない存在→そのまえにお前を搾取してる官僚を生み出す東大からやったら?
福澤諭吉がうんぬん→そもそも家がどうこういう前に家の周りにイオンくらいしかない奴が言ってるだけだから、東京以外でも大都市はこんなもん。ど田舎なのが悪い。
私が初めての東京に来たのは就職活動だった。中央線を降り、昼食に駅前のチェーン蕎麦屋へ入ったたところ、あまりのまずさに悶絶したのが初めての東京体験だった。料理漫画の関西人がしばしば言う「東京の蕎麦はドブ色してて出汁はきいてないし、麺はヘナヘナで食えたもんじゃない」は誇張でもなんでもないんだ、ということを実感し「やっぱり庶民の食いもんは関西だよな」という関西人にありがちな偏見を強くした記憶がある。
(もちろんこれは単なる偏狭な思い込みであって、東京人の味覚が鈍いわけではなく、件の蕎麦屋の本業が立ち退き業だからというだけであって、それなりの蕎麦屋はそれなりの蕎麦を出してくれるということは、当時の若い私にはわからなかった。)
しかしこの偏見を粉砕してくれたのがてんやの天丼だった。何気なしに入ったてんやでワンコインの天丼をあまり期待せずに頼んだところ、その旨さに打ちのめされた。もちろん料亭だの高級天ぷら屋だのは関西にもある。だが500円でここまでのものを出せる天ぷらやは関西にはない。カリッとした衣、濃厚なタレ、多彩なネタ、これらが500円で出てくる奇跡に感動を覚えた。ガッツリした衣にタレが染み込みちょうどいい塩梅となったところがうまい。米やタレの掛かっていない硬い部分と口の中で混ざるとなお良い。塩や天つゆで上品に食べる天ぷら膳ではこれは決して味わえない。これが500円?関西じゃぜったい無理でしょ。東京恐るべし。やっぱ東京って日本一の大都会だわ。
その後毎週末にはてんやに通い、関西に帰省したときはてんやが無いことにがっかりするくらい入れ込むようになった…のだがその後私は地方の工場勤務となってしまった。地方ではてんやが無い。しかし/しかも、そのころ結婚した妻は揚げ物が嫌いだったせいもあり、結局揚げ物自体と離れる生活を15年くらい過ごすことになってしまった。だがこの度、ついに、本社栄転、ということで帰ってきたのだ!東京に。てんやよ!私は帰ってきた!
ああ15年間焦がれた天丼とついに再開できる。そう思うと胸は高鳴り、期待で唾は溢れんばかりだった。だが一口食ってでてきた言葉は「なんやこれは。クソ不味やんけ」だった。関西を離れて20年も経つと日常で関西弁が出ることはなくなる。が、理性のタガが外れたときはやはりどうしても関西弁が出てしまう。関西の庶民向けの店ではだせそうもない、あのクオリティはどこへ行ったんや。ネタは良い。タレも相変わらず美味い。米は変わっているだろうけど違いはわからへん。だが衣はすっかり変わってしもうた。すっかり薄くなり、柔らかくヘナヘナの衣、こんなスーパーの惣菜天ぷらみたいなのはてんやない。あのてんやはどこへ行ってしまったんや…。憧れ続けて期待値が上がりすぎて失望してしまう、なんてことがよくあるのはもちろん知ってる(昔好きだった同級生と同窓会で再開したときとかみたいに)。だからてんやのタレだけ買って帰って近所のスーパーの惣菜コーナーの天ぷら使って天丼作ってみたんや。ほしたらほとんどてんやと変わらん出来や。流石にネタはスーパーよりてんやの方が良いけど、衣は全然変わらへん。なんかもうがっかりや。スーパーの惣菜とは一線を画した揚げたてカリカリ天丼がてんやのウリとちごたんか。これやったら「さん天」の方がマシやないか。あっちは490円でエビ2本入っとるし。
ネットで調べてみたところやはり衣は変えたらしい。ものは言いようだが、サクサク感を狙ってタピオカ粉を使うようになったとか。まあでも自分なりに考えるとなんだかんだいって衣が薄くヘナヘナになったのは時代の要請だったのだとおもう。
こんなところだろう。もうてんやへ行くことはない。というかおそらく1年に1回くらい行って毎回がっかりする、そんな店になるのだろう。てんやの天丼は死んだんだ。いくら呼んでも帰っては来ないんだ。もうあの時間は終わって、僕も人生と向き合う時なんだ。
というわけで1500円以下で衣がガッツリした天丼を食える店を東京住み増田諸兄がご存知なら教えてほしい(23区+多摩地区くらいで)。いかがだろうか。
アートってまずは自分のためじゃないと意味がない(承認欲求ばかりでやってても駄サイクルに陥るだけ)んだけど
でもそのままどこまでも自分のためにやっててもやっぱり意味を喪失していくと思うんだよなあ
なんかもう惰性でやめ時見失っただけじゃねえのっていうしまりのなさがある。
アート制作は自己救済の入口だろうが、自己完結するものではなくやはり他者と繋がらざるを得ない
関西のどっかで障害者施設でアート制作に取り組んでるところのドキュメンタリーで
障害者たちが 異様な情熱で異形の作品を作ってるんだけどそれはただのオナニーじゃなくてやっぱり「ここで完成」という瞬間があり「見て欲しい」という作品意識があるようだった。全員がそうとは限らないが