はてなキーワード: 言語ゲームとは
最近、大学の学食があいているのか気になってtwitterで「○○大学 学食」で検索をかけてみた。
すると「○○大学の学生でもないババアが学食で飯食ってるのチョ〜迷惑なんですけど」というような意見を多く見かけた。
仮に学生の本分が勉強だとすれば、図書館・研究室等での作業に差し障りがない以上それは迷惑ではないのだろうし、
何かメンタル面での大きなダメージを被っていなければ、まあ迷惑ではないだろう。
そしてたかだか3分待てば座れるので、合理性の観点から言っても大きな迷惑ではないだろう。
(仮に合理性を徹底するのであれば、書籍部でLOを売るべきではないだろうか?買いに行く時間が無駄だから。)
つまり、同じ「迷惑」という言葉でも、研究にまつわる迷惑と精神的迷惑と合理性的迷惑と「迷惑」とでは指し示す内実が違ってくる。
今、というかおそらくは昔から様々な「迷惑」をめぐって争いが行われている。
最近「迷惑」とされている事象を振り返ってみる時、その迷惑はどのような意味で使われているだろうか。
冗談めかしていえば、これは「迷惑」という言葉をめぐる闘争なのだ。
対応は、闘争に参加する(例:「というか、そのなんでも「迷惑です!」って言う姿勢こそ迷惑なんだよね〜」)か、あたらしい言葉を発明する、ないし言語ゲームを開始することの大きく二つに分けられるだろう。
みんなはどっちを選択するだろうか?
最近、多少揶揄的なニュアンスと予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。
なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮は自由闊達な表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。
しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。
たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、
過度にアニメの制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死なタイプの消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。
(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者を批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。
また、前者であれば最適化・後者であれば肯定的なスタンスが無意味であると断じたいわけでもない。
むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。
ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志をピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)
さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。
たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。
(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。
ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲームの癒着は多少解消されると僕は考えている。
とはいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)
しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、
ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。
するとつまり「経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、
「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。
(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。
とはいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識の考察だと考えてもらって差し支えない。)
ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)
正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか。
いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。
しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。
なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?
程よく住み分けることはできないのだろうか?
これは裏を返していえば、あらゆる価値判断のメタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?
しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?
定義厨か?
言語ゲームのウィキペディア示してやったろwそれがマジで答えなんだって、今の論理学の。
そこに書いてあったろ「ツボの中のハエを外に出してやる」って。
今のお前が、まさにツボの中のハエだ。早く出て来い。
言語ゲームとかって、まともな頭してれば、今の時代に生まれたってアドバンテージがある状態なら、小学生くらいには悟っている。
また、『主語がでかい』という言葉も、子供時代に「常識じゃなくて、あなたの感情で言ってるだけでしょ」みたいな不満を大人に持ったことがある上で、「主語がでかいって物言いを雰囲気だけで使ってる奴ってどういう知的レベルなんだろ」くらい思う。
増田で偉そうに煽ってくる頓珍漢なあおりしてくる人達って、多分数学なんかも躓いたタイプなんだろうけど、なんでその躓いた程度の脳みそで居丈高なのかが分からない。
仮にじぶんがその程度のIQで生まれて、数学で微分積分も理解できずに終わったとかだったら、流石に自分の能力を疑うんだけどなあ。
ある年齢である学力を持っているか?っていう絶対評価をするのが総括評価。 だがこれだけだと、頭いい奴だけ伸ばしてればいいって風になる。だめなやつを教育しても到達しないから。
しかし、形成評価なら、出来ない奴ほど伸び率が高いから、これによって教育手法の評価を行うってのができる。
どっちが正しいでなく、手段としてこの先生の持論を担保するのは形成評価なわけだ。
総括評価だけだと個々人の能力を伸ばしきらないから、教育の質が下がってし合う。
両方の評価を使い分けるのが正しい。
で、あんたのいう殺人が正しいうんぬんだっけw
倫理どうこうの正しい正しくないと、数学の問題を解く場合の正しい正しくないはまったく別だろw(英語に直すと一発。ノットギルティーーとトゥルーは意味が違うだろw)
この理屈がわかんねーなら、言語ゲームでググレ。中二みてーに正義感ふりまきたかったがおつむ足りなかった、以外の結論あるかー?
「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。
そこまでは正しい。
だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」という本を出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、この本も20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。
便宜的に、「論理哲学論考」に代表される思想を「前期ヴィトゲンシュタイン」。「哲学探究」に代表される思想を「後期ヴィトゲンシュタイン」という。言語ゲームについてのアイデアは、「哲学探究」で初めて示された。つまり、前期の彼の哲学を「言語ゲーム」という言葉で説明したり、呼んだりするのは、全く間違い、ってこと。OK?
じゃあ、両者はどう違うの? …ってことが気になる人もいるよな。
暇な人向けに書くよ。忙しい人、知ってる人、自分で調べたい人は、以下読まなくて結構。
さて、「この世のあらゆる問題は、記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」と、前期ヴィトゲンシュタインは考えた。確かに、かなりの程度これは正しい。だがしかしそれは、「言葉」というものを、「思想」を記述するための単なるメディアとする言語観に基づく場合の話なんだよな。「言葉を正しく定義する」というのは、「言葉には定められた『意味』がある」ということを前提としてる。だが、後期ヴィトゲンシュタインは、その定義自体が危うい場合があることに気づいたんだよ。
どういう場合か? たとえば子どもが言葉を学ぶとき、どのようにして学ぶと思う? 「言葉の意味」を教えられることによって、子どもは言葉の意味を学ぶのだろうか? 考えてみてほしい。生まれた最初から言葉を話すことのできる子どもはいない。つまりゼロだ。その状態から、どうやって「意味」を教える?
身振り、手振り、ジェスチャー、雰囲気、表情、……いろいろな「言葉ならざるもの」に頼って、最初の「言葉」は身に付けるしかない。でも、「意味」が分かった、と確信できる瞬間なんて、あるのだろうか? とヴィトゲンシュタインは考えた。
たとえば、あるとき子どもに数の順序を教えていたヴィトゲンシュタインが、黒板に
「1、2、3、4、□、□、……」
と書いて、空欄を子どもに続けさせたわけだ。数を習っていた子どもらは、まあ、普通に「5、6…」と続ける。普通の人は、「ああ、子どもは数の並びを理解した」と思って、そこで安心するだろうな。でも、「5、6」の次に子どもが「8、10…」と書き始めたら、それはダメだ。台無しだ。仕方ない。もう少し教える必要がある…まあそんな風に考え、行動するね。
けど、それは、一体どこまで続けることができたら「数の『意味』」を理解したことになるのだろうか? 「10」までいけば、まあ大抵は大丈夫? でも、ひょっとしたら、「10」の次に「12、14、18」…とか続けるかもしれない。子どもはまだ何も「理解」していないかもしれないな、「100」までいったら? でも「102、106」とか続けるかも………でも、でも、じゃあそれはいつ「絶対大丈夫」と言えるのか?…と、「論理哲学論考」で「完全な言葉の定義」にこだわっていたヴィトゲンシュタインは考えてしまったんだ。どこまでいけば自分は、この子たちに、数という概念(意味)を伝えることが、本当にできた、と確信できるのだろうか?
そして、考えはじめたヴィトゲンシュタインは、もっともっと怖いことを考えてしまった。自分は、周りの大人が、一応みんな数の概念を理解していると思っていた。でも、そいつらが、数の概念を誤解したまま大人になっている可能性は、本当にゼロか? もっといえば、これは数の概念だけではなく、あらゆる言葉についても同じだ。我々は、お互いに言葉の「意味」を理解し、その理解を共有していると思っている。でも、それは証明できないね。言葉が通じてるって、単なる幻想じゃないの、と。
先に言っておく。これは、たぶん否定できない。ヴィトゲンシュタインの問題提起により、もし、「言葉」の体系を、「共通したルール(たとえば文法や辞書的定義)」を共有することで意味を伝達するシステム、と定義するなら、我々の言語が確かに「通じている(100%意味を伝達している)」ことを証明することは、たぶんできない。
嘘だろ? と普通の人は思う。オレが言ってることを、みんな分かったような顔をしてるじゃないか。あれで、分かってないなんてことがあり得るのか? と。
でも、誰もが考えたことがあるはず。オレは、赤色が、なんだかイライラするんで嫌いだけど、Aさんは、赤色がすごく好きらしい。ところで、オレが見、感じている「赤」という色と、Aさんが感じている「赤」という色は、本当に同じなんだろうか? ひょっとして、全然別の見え方をしてるんじゃないだろうか? ってことを。もし、オレが赤色を見て「赤ってイライラするね」と言い、Aさんが「そうかな、オレは赤が好きだな」と言うとき、オレとAさんの間で本当に「言葉」は「通じている」のだろうか? …ってことを。 後期ヴィトゲンシュタインが気づいたのは、つまりそういうことなんだ。
そして、すっかり参ったヴィトゲンシュタインは、草原でサッカーに興じる子どもを眺めていた。「オレは、言語というものを、きっちりと決められたルールに従って運用されるシステムだと思っていた。たとえば、目の前でサッカーをやってる子ども達のように。けれども、その根幹が、本当はこんなにあやふやなものだったなんて!」このとき、ヴィトゲンシュタインは、「言語の意味や定義さえ完璧なら、あらゆる哲学上の問題なんて一瞬で解けるんだよ!(ドヤァ」とやってた過去の自分(前期ヴィトゲンシュタイン)の思想が、完全に崩れ去ったことに落胆していただろう。
ぼーっと子どもらを眺めるヴィトゲンシュタイン。
そのうち、妙なことに気づいた。なんか、一人の子がボールをもって走り出した。「おい、サッカーじゃなかったのか? ラグビーか何かか?」。ところが、今度はボールをぶつけ合いはじめた。「おい、君ら何をやってるんだ?」そのうち、一人の子が高くボールを投げたのをきっかけに、なんだか高く投げ上げる競争のようなことをはじめた。「おい、一体何を……」「一体どんなルールでやってるんだ…どんなルー……」その瞬間、天啓が走った。ルールがあるように見えていたのは、幻想だった。ルールなんてなく、彼らはただ遊んで(ゲームをして)いただけだった。つまり、ルールなどなくても、ゲームをする上で支障がなければ、ゲームは続くのだ。人は言語を使って「ルールに基づき意味を伝える」という作業をしていると思っていたけれども、本当は、ただ「言語を使って遊んでいた(ゲームをしていた)」だけだった。ルールは「やりながら、その都度でっち上げて」いるんだ。それで物事は、進むのだ。
これがつまり、後期ヴィトゲンシュタインと呼ばれる思想の根幹となった「言語ゲーム」という思想だ。
前期ヴィトゲンシュタインが考えていた「ルール→意味」という静的なシステム論に対して、後期ヴィトゲンシュタインは「そこにルールなどない」。ただゲームをするときのように、言葉の「使用」が先にあって、意味やルールはあとから付いてくるものなのだ、(つまり、前期ヴィトゲンシュタインが主張した「先に定義を完璧にすれば」云々というのは、その前提となる言語観から間違っていたということになる。)言葉の意味とは、「言葉がどのように用いられているか」ということに過ぎない(「言語の意味とはその慣用である」)、という動的なシステム論を唱えたわけだ。この動的な言語観や、それに基づく汎用性の高い動的なシステム論を「言語ゲーム論」という。
先に言っておくと、この後期ヴィトゲンシュタインの思想というのは相当な極論であって、これをもって前期ヴィトゲンシュタインの思想が全て否定されるというものではない。前期ヴィトゲンシュタインの問題提起も、静的システム論の基盤を為したという意味で、現在でも非常に重要な思想に位置づけられる。ただ、その思想を含んだ上で、更に高次の問題提起(動的システム論)を行ったという意味で「言語ゲーム論」には非常に重要な意味があるので、前期の思想と安易に混同されると、ちょっと困る。
もう少しだけ、具体的に例を挙げて説明するな。
たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。
対して、後期ヴィトゲンシュタインなら、「神はいるか」と質問する人に、「あなたは『神』という言葉をどのように用いているのか」と質問するだろう。「『神』という概念で、あなたはどのようなゲームをするのか、そのゲームはどのような性質のものか?有益か、無害か?」…etc。(後期の哲学を書いた頃、彼は「宗教とは、一つの生活の形式のことだ。」「信仰は、言語ゲームに似ている」と述べています。)
この二つは、つまり問題の視座(あるいは取り扱い方)が全く異なるんだ。一緒くたにはできない。
だから、前期の論を「言語ゲーム」と誰かが呼んだりしてるのは、ヴィトゲンシュタインをかじった人間としては、ちょっと居心地が悪い感じがするんだ。まあ、そういうこと。
よろしく頼むわ。
相手の言葉の意味がはっきりと分からないときっちりした議論が進められないからだ。
理系にありがちだが、
論理性に自信がある人が使いがち。
定義をきっちりすれば、物事を杓子定規に説明できるはずだと思っている。
言語ゲームという哲学的思考がある。 20世紀哲学の最大の発見だと言われている。
なぜ最大の発見かというと、哲学的な諸問題のかなりの部分を終わらせたからだ。
「人間の生きる意味とは?」 「我ゆえにわれありではないか?」 「神は存在するのか?」
これらすべてに答えを出せる、すごい理論だ。
たとえば、「人間の生きる意味とは?」にたいしては、「生きる意味という言葉自体があいまいで、文化によって言葉の意味がコロコロ変わるからNG、単語の意味が確定してないので問題になっていないので答えもない」
「我ゆえにわれありではないか?」にたいしては、「我、ゆえに、われあり。 という3語の意味があいまいで、文化によって言葉の意味がコロコロ変わるからNG、単語に意味が確定していないので問題になっていないので答えもない」
「神は存在するのか?」にたいしては、「神って仏教、キリスト教、等等で意味が違うじゃん、どの神かもわからない。 しかも、存在って言葉も意味合いがあいまい。 よって問題自体が成立しない、NG」
これまでの哲学的な質問は、あいまいな言葉をいじっているだけの「言語ゲーム」にすぎない。 ということから、言語ゲームという哲学の名前になった。
当然、いろいろな批判、反論が出てくる。
その中の一つが、
「言語の意味があいまいって言っても、それぞれの文化の中で見れば、意味が確定するんじゃないの?」
というものだった。
言語はそもそも文化に合わせて作られる。 雪の降る国では雪への形容にさまざまな言葉が作られるように、言語の意味や創出は確かに言語によって違っても、文化によって「位置付けられている」という考えだ。
であるから、文化の中で考えるのならば、抽象的であいまいだから問題が成立しないということもなかろう。
という考えができた。
ここまでくれば、「言語ゲームに過ぎない」と言われた時の反論ができる。
と尋ねることだ。
レベル4にて、「言語は文化から作られる」ということを確認した。
そして、レベル5では、「個人の生活が文化を作る」ということを逆手にとるわけだ。
という順をとるのだから、あるあいまいな単語を使った人に、「『あなたが想定した意味での』生きる意味とはなんですか?」と聞くことで、問題としてはっきりさせることができる。
なぜなら、言葉を使うことで、文化が創造され、文化が創造されることで、翻って言語が再定義される。
僕たちは、意味のない言語を使っているのではなく、「言語を使うことで文化を生成している」のだ!
さて、僕はここまで来て、問うことができる。
「それどういう意味?」
レベル1状態に戻ってこれたわけだ。
無限ループって怖くね?
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<追記>
「言語ゲーム」の用法が間違っているという指摘、ありがとうございます。
ただ、この語自体は、ウィトゲンシュタイン依存の言葉なんですが、彼以前にも、ヴァレリーなどが同じような思想(主にデカルトへの考察に関して)なされており、
ですので、言語ゲームという思想はウィトゲンシュタイン固有でないです。
また現代哲学においても、ウィトゲンシュタインが意識した使い方どうこうというより、言語ゲームという思想を上述のように、「言語ゲームにすぎない」という極論だけに固定して話をすすめる。 というのが普通になっています。
前期、後期ウィトゲンシュタインの区分や意味合いの違いも知っていましたが、このような事情ですので、今回のように、ウィトゲンシュタインを出さない説明をしました。
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<追記>
ウィトゲンシュタインの話に拘泥して、本旨を理解できない人がいて残念です。
増田は、本旨と関係ない揚げ足取りコメントがよくあるのですが、まさか哲学をかじってる人たちでさえ、そうなのかとビックリしました。
ウィトゲンシュタインが言語ゲームをなぜ考えたのか? デカルト以前の哲学を乗り越えるためです。
もちろん、その後、ウィトゲンシュタインは言語ゲーム理論の正当性に危機感を持つのですが。 ウィトゲンシュタインはそのあたりで死にました。
で、ウィトゲンシュタインがデカルト以前を批判したそのやり方でもって、「定義は?」と聞く論法を否定するのは、間違いである。 ということが本旨でした。
まともに勉強した人ならわかるでしょうが、「定義にこだわる」ということは誰しもが通る道です。 そして、言語ゲームを知って、一旦ニヒルになるのもまた、まともに勉強すれば通る道です。
「意味を考えること」の正当性を再獲得できたこのダイナミックさを感じてもらえたらなあ、と思いました(問題の問い方自体は変わっても、質問をするメンタリティーが変わっていないことが面白いところです。)
今回の記事では、さらにこの先の現代哲学が届いている地平についての話でしたが。
理解できない人の方が多いみたいで、残念です。
『道徳の理由』という本(かなりの古書だ!)を再読したのでちょろっと。
※私はethicsに関しては全くの素人であり、ロールズの正義論でなり、ミルの功利主義なりもまともに読んでいない。
倫理というのはヴィトゲンシュタイン的に言えば一つの言語ゲーム。すなわち、そこに所属している成員に対して要請される規則といえる。もっというと、その社会に所属している成員に対し、「私」が期待するルール。
すると、倫理を私に適用する理由はないように見える。その通り、「ない」とするのが私の見方だ。つまり、倫理とていうのは、あくまで、「オレ」から「オマエ」に発信される言語でしかない。
Why be moral? という語は本質的に why should I be moral?と Why should you be moral? に分別される。後者の方が本質的であるとみるのだ。
しかしながら、倫理には自分自身も縛られる。本来的には「私が道徳を守らねばならない」理由は何も無い。
ただし、この規則は両刃の剣であって、倫理はこの概念が、その社会に所属する全員に適用される時のみ、「倫理」と呼ばれる。つまり、倫理は社会の所属員全員からなる相互監視システムである。
この考えとしては、倫理っつーもんは、村の掟となんら変わるところが無いわけだ。
補足すると、社会は多層的であるから、メンバA,B,Cが社会Xを形成し、同時に同じメンバが社会Zを形成している、ということは用意に想起しうる。人は一枚岩の思考で動いていない。
例えば、クラスの全員が、いじめは慎むべき行動だ、と考えている。(社会成員Xのメンバ)。しかし、同時に、クラスのリーダーであるAに対して不快な行動をとった者に対し、いじめを行うことは推奨される、と考えている。(社会成員Zのメンバ)
話を戻す。この相互監視システムは、相互監視であるから、単体では監視機能は働かない(とひとまず考えることにする。まず主体をyouにおくのだ!)つまり、密室状況において倫理を構成する要素は何も無い。
これは幾分思考実験的な状況だ。現実的な意味で密室などこの世に存在し得ないといえる。猫箱の中で倫理は問えない。しかし、実質的な猫箱なんて社会にはなかなか存在しないのだ。
まぁ、例えばあなたと一人を除いて他の観測者がいない世界で、どうやって第三者があなたを監視するのだ、という問題である。誰も監視できないじゃないか。このような環境下では、そもそも倫理という語が成立しない、というのが原語ゲーム的な倫理観です。(実際には、このような環境化でも倫理は存在しうる。例えば一人で行う行為に対する倫理の第二者からの倫理的判断や、意識の無い第二者に対して行う第一者に対する第二者の遡及的倫理判断など。例えば、地球の存在者一号たるあなたが存在者二号が気絶している間にアッー!をアッー!して、意識がある第二者が何らかの要因でそのことに気づくなど。尻が痛いとか。)
更に問題をややこしくするのが、相互監視システムによって監視されていることは、人間は自分ではなかなか感知できないことにある。知能の高い社会の成員はこの言語ゲームによる制裁を受けないように、証拠の残る反倫理的行動は取らないように務めるが、知能の低い成員はそうではない。また、どこからその制裁の追求が来るかわからないから、人はうかつな行動が取れない。
さらにさらに、言語ゲームでよく言われる話だが、人は一人でも社会を形成する。人は自分と対話することができるが、これは自分のうちに一つの社会を形成しているに等しい。ここでも言語ゲームによる制裁は成立する。これが自分を倫理的に行動せしめる要因の一つだと思う。人は一貫した規則性に基づいて行動するような文化的特性を獲得しており(そりゃ獲得してない人もいるだろうが)、その中には動物的本能から立脚すると思われる特定の行動を含む、ある種の言語ゲームが存在するのだ。これがWhy shoud I be moralに対する根源的回答になるのではないかと思う。
つまり、人が倫理的に、道義的に何かせねばならないと判断をする時、そこには価値判断が伴っている。その価値判断は、本能的形質的文化的なさまざまな要因から定められた判断を取るのだが、それにいいもわるいもないということになる。だって、判断してんの本人だもの。勿論、第三者が介入していい、とか、わるい、とか論じることはできるが、そいつは俺らの言語ゲームであって、彼の言語ゲームではないのである。
逆説的に、自分で自分の行為が道徳的に正しいかどうかを判断しているというのは、極めて社会的なアクションだと言える。そういうわけでは、監視者としての神の存在というのは、実に都合のいい概念なのかもしれないね。
倫理が善概念と結びつくことが多いのは、この種の言語ゲームがひとつのロールモデルを通じて語られることが多いからではないかと思う。
例えば、ギャングの掟なるものを考えてみる。これは、ギャングが他のギャングにあってそうあって欲しい姿であり、かつ、ある程度自分がそうありたいと望む姿になるだろう。これは、ひとつの共同幻想であるとも言える。
さてさて、このような言語ゲームによる倫理の規定は、多くの倫理的問題をすっ飛ばしてきているようだが、少なくとも功利主義的倫理論よりはうまく倫理の現実のありようを捉えているような気もするが、なにぶん門外漢なので、功利主義的説明で説明でき、言語ゲーム的説明では説明できない、本質的な倫理的判断に関する問題があったらご指摘願いたい。まる。
※書いてからコンマ1秒考えたけど、結局これはアプローチの仕方の問題であって、何が正義であるか、何が道徳的であるかということに関しては「なんでもいいんだけどさ」で逃げてるなぁ。だから、「なぜ道徳的であらねばならないか」はぼんやりと答えているけど、「道徳的であるとは(ソクラテス的な意味を前提した上で)なんであるか」ということに対しては、回答を拒否している。それこそ言語ゲームによるよね、と。イワシを祭ろうが隣人を石でぶとうがしったこっちゃねーや、という考えだ。そして、列車急停止のジレンマに対してこんなとんでもない回答を出すのだ。「おい、目の前の人間の顔色伺えよ。どっち答えて欲しそうなんだよ。そっちって言っとけ。」
とあなたは書きましたが、ヴィトゲンシュタインは「哲学探究」の冒頭…有名なアウグスティヌスの『告白』を用いた例で、「言語に先立って…感覚があらかじめ存在する」という考えをまさに否定するところから、言語ゲームというアイデアに繋がる一連の議論をスタートさせています。
変な解説本読むより、まずは「哲学探究」の本文に触れてじっくりと読みこなしてから話した方がいいですよ。
哲学探究:http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
ネットで全文が読める。良い時代ですね。