はてなキーワード: 外国産とは
ジョー・バイデンの勝利演説を聞いてますますその思いを強くした。
「分断ではなく統合を」。
これはトランプ支持者たちが最も聞きたくなかったスローガンだろう。
トランプが現れる前からそれはあって、トランプはそれを認めてくれたにすぎない。
トランプはそういう戦略であってもその種の問題についての欺瞞は言わず、目を背けなかった。
「俺達と奴等との戦いなんだ」と。
それはオバマやヒラリーやバイデンのどのスローガンよりもトランプ支持者となるような層の現実に向き合った言葉だ。
アメリカという国のありとあらゆるインテリや金持ちやエスタブリッシュメントがバイデンについた。
彼等はトランプを支持するような粗野で垢ぬけず育ちが悪く学歴の低い田舎者をまとめて卑しむ。
卑しむし、見捨てる。
彼等はこれから石油産業は閉鎖するし低賃金の仕事にはますます移民を入れるしありとあらゆる外国産の物品を輸入するし
それで貧窮する田舎の低学歴なんか勝手にホームレスになって視界の外で消えて行ってくれるのが当然だと思っている。
トランプ支持者になるような層の生息域は「合理的」にまるごとグローバリストに売り渡してしまう。
私は日本の貧しい田舎町から抜け出してなんとか今は年収600万程の仕事をしている。結婚はあきらめた。
年齢を重ねるほどに田舎の貧乏人のことを切断しきれない気持ちになる。
40前後になると同窓生がかなり死にだす。二十歳前後で既に死んだ組とは別のインパクトがある。
バイデンとその支持者になるような層が「分断ではなく統合を」という時に、
その統合の中にトランプ支持者になるような層や、私の故郷に生きるような層は含まれない。
そのことはどんな低学歴であっても鋭敏に嗅ぎつけている。
「分断ではなく統合を」はつまり、「お前等のことは見えない振りをしながら消えていくように追い詰める」という宣言に他ならない。
“私は誇り高き民主党員だが、米国の大統領として統治する。私に投票しなかった人々のためにも、私に投票した人々に対するのと同じように一生懸命働くつもりだ。”
そらぞらしい。
ほんとにそんなことがあるならどうしてみんなこんなに選挙に必死になるのか。
そうじゃないことがわかりきってるからトランプ支持者もバイデン支持者もあそこまで必死になった。
バイデンだって内定一発目からこんな嘘丸出しのスピーチをするのだ。
トランプ支持者が「トランプは正直者」と言っていた理由がわかるだろう。
発言が酷いと言われ続けたトランプとバイデンの決定的な差は別に正直さにはない。
バイデンがトランプ支持者になるような層の為にもよくしてくれるならば
どこの国でもかわりなく存在する、不都合な弱者たちが体現するあの矛盾だ。
そしてこのような明々白々の不都合な矛盾はいつもまるっきり無視される。
彼等は意図的な無視すらしていなくて、ほとんど無意識のうちに自分の視界を快適に整備する。
みんながニコニコと「統合」していて、その輪の中に育ちの悪い低学歴の田舎の弱者はいない。
食べたあとから輸入品だと気づくと、吐き出したい衝動に駆られる。
とにかく、輸入食品というだけで、理由もなく不快感を覚えるのだ。
輸入食品恐怖症というのは、私が勝手に名付けただけで、正式な病名ではない。もちろん[wikipedia:恐怖症の一覧]にも載っていない。
しかし、知恵袋などを見ると同様の悩みを抱えている人が一定数いるらしい。
(例 輸入食品が嫌いなのは変ですか? https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1373305478
潔癖症かなんか知りませんが外国産の食べ物が食べれません。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1476463279)
原因はわからない。どれくらいの割合の人がこの悩みをもっているかもわからない。
多分、潔癖症に近い、強迫性障害の一種だと思う。でも、潔癖症のように簡単に説明できないのがまた悩みの種なのだ。
きっかけは、はっきりとは思いだせない。でも物心ついた時には、食べ物よりも先に、外国への恐怖感が多少なりともあったような気がする。
(セサミストリートやえいごであそぼ!を見るたび、何となく外国人が怖いという感情を抱いていた)
食べた後に輸入食品だと気づいて気持ち悪くなるという事が続き、次第に、食べる前に自分でパッケージの裏をチェックしないと気が済まなくなってきた。
パッケージの裏を見て、 「輸入」の文字があるだけで、持っているのも嫌なくらいの不快感を覚えた。
外国産のものは食べたくない、と言っても、親は理解してくれない。それどころか外国を差別していると怒られた。(当たり前か、、、。)
ツナが好物だったけど、親はタイ産の缶詰を買ってくるので食べられない。
だから、ツナは嫌いだと言って食べないようにした。我が家はツナを使った料理が食卓に上る機会が多かったので、つらかった。
サンドイッチでもおにぎりでも、タイ産のツナが入ってるし、おかずは輸入品の冷凍食品。
でも給食だって当然輸入食材は大量に使われているはずだ。だけど知らないから平気。
輸入品だと知らなければ食べられるのに、パッケージの裏を見る癖は辞められなかった。
8歳の誕生日の時、私は母にレアチーズケーキを作ってほしいとねだった。
一緒にスーパーへ買い物に行き、母が手に取った食材を見てショックを受けた。
売り場には、国産のクラッカーやチーズも並んでいる。私はこっちのクラッカーがいい、こっちのチーズがいいと必死で説得した。
けれども聞き入れてもらえず、その場でひどく叱られ、その場で大声をあげて泣いてしまった。
自分でもなんてくだらない理由で泣いているんだろうと感じて、情けなくて、余計につらくなった。
せっかくの誕生日なのに、輸入食品恐怖症のせいですべて台無しになってしまった。
色々と書き綴ってきたが、現代の生活で輸入の食材を排除して生活出来る訳ないだろ、と指摘されるかもしれないので捕捉しておくと、
私の場合、「輸入食品」はダメだけど、その原材料は外国でも問題ないのだ。
つまり原材料の項目に「大豆(カナダ産)」などと書かれている場合。多少は気になるが、食べられなくはない。
あと、ファストフード等で、外国産の食材を揚げたりレンジで温めたりして提供している場合。
使っている冷凍チキンがタイ産だと知っても、最終的に日本の店で揚げているから問題ない、と感じる。
仮にそこの店員がベトナム人だったとしても、最終的に日本で調理されている、ということで納得してしまう。
多分同じような輸入食品恐怖症の人でも、このボーダーラインは千差万別だろう。
なら、野菜は肉など生鮮食品は、最終的に家で調理するから問題ないのでは?となるのだが、これは食べられない。
最近では国産だろうと思い込んで買った日焼け止めがベトナム産だったので、未開封のまま捨ててしまった。
手にとるものは間接的に口に入る、という意識があるからだろうか。
でも輸入品の雑貨とかは平気なんだよなぁ。調理器具はダメだけど。
食べるというのは人間が生活するうえで必要なことだし、食べる喜びという点も含めて制約ができてしまうのは、正直かなり生きづらい。
今は一人暮らしだから、基本的に自分で食べるものを選ぶことができるけど、
たまに彼氏に買い物を任せると、知らないで輸入食品を買ってくることがある。
輸入食品が苦手だと説明すればいいのだけど、打ち明けるのは正直怖い。外国を差別してると思われそうだから。
それに、自分でも許容できるものとできないものの境界が分からないから、説明するのも難しい。
ところで鰻といえば浜松市だ。生産量は他の自治体には及ばないが、一人あたりの蒲焼き購入額は長年全国1位を維持してきた。一昨年までは。
去年は1位陥落した、どころか一気に16位にまで転落してしまった。
「うなぎの街アピールしてきたのに16位www」と馬鹿にする人も多いだろう。
だが待ってほしい。16位に転落してしまったのも市民の鰻愛故なのだ。
浜松市民は基本的に浜名湖産鰻しか買わないし食べないのだ。外国産など以ての外。近年、浜名湖産うなぎは地元でも年々価格が高騰しているから浜松市民には以前のようには買えなくなってしまってるのだ。
アンテナ感度の高い人であれば、外国の方がすぐれたモノを作っているのであれば外国産の方を評価する。それは真っ当で公平な考え方だ。
むしろ、知識が乏しい、インプットが偏っている人ほど、自分の知っている一箇所だけを過当に評価し、他所が評価されるのを嫌悪するようになる。常日頃から情報収集と比較検討を繰り返している人はおよそ持たないマインドだ。
そのような類の、探究心が欠如するわりに自身の横着ぶりに無自覚な人が認知する「一箇所」が自国のブランドになりがちなのは想像に難くない。
ちなみに、外国産を評価するというのは広い目で見ればごく当たり前に誰もがしていることだ。
パスタならイタリアがいいし、腕時計ならスイスがいいし、といった感覚ならおそらく誰もが違和感なく受け入れている。
けれども、技術の進歩が著しい分野、国内勢力がかつては世界的にも存在感を示していた分野などは、感情が悪さをして、どうしても自国を贔屓するように無自覚のうちに自ら「アンテナ感度を鈍らせて」しまうのが人間というものだ。
そのような恐れのある分野にふれる時は、とくに情報をメタな視点で摂取するように努め、メディア記事の誘導する認識に安易に同調せずにファクトやデータを重視し、その上で実際にモノに触れる体験を欠かさないことだ。
そうした手順を踏んでから所見を語るべきなのだが、ネットの批評者(というほどでもない難癖つけマン)の多くは、そのようなことを何一つ出来ていないのが実情だ。