はてなキーワード: サンドバッグとは
https://togetter.com/li/2185346
こんな記事があった。読んでいて「あーなるほどな。俺が高校生ぐらいの時もなんかおっさんがよくわかってない流行語言いよるわと思ってたな」と思う反面、なんかこうおっさんは無条件にサンドバッグにしていい感があってなんとも言えない気持ちになった(俺がおじさんの年齢だからかも知らんが)。
「おじさん」は小馬鹿にしていいという流れはどうなんだ、というのは前から言われてたけど改めてそれを体感したという話なんだけど、やっぱりこれおじさんじゃなくて「おばさん」とか「20代の女の子」「10代の男の子」とかでここまで言ったら炎上する気がするね。
そういえばPCのスペックをおじさんに例えた話でも「水冷式」はおじさんを残業させて無限に働かせる道具だ
というのも「おじさんかわいそうw」ぐらいのコメントしかなかった記憶がある。多分これも「10代の女の子を残業させて無限に働かせる道具」と書いたら炎上したと思う。
つうわけでおじさんの用途は広い。がんばろう。うん。
うちの会社のシステム、ほぼ毎日いろんなバグが見つかってお客さんからクレームがきてる。
バグが直った時に、slack上では開発チームに「修正ありがとうございます」って送ってるけど、なんで自分たちが「ありがとうございます」と言っているのかよくわからない。
お客さんがバグを見つけて怒って、
開発チームがバグを直して、
なにかがおかしい。なんだこれ。
自分で引き起こした問題を自分で解消してなぜ感謝される構図になっているんだろうか。ただのマッチポンプじゃないか。
カスタマーサポートはお客さんをサポートするための仕事なんだよ。
不出来な開発チームのための緩衝材じゃないんだよ。
本当はサポートだけじゃなく、サクセスみたいなことも色々やっていきたいと思ってるよ。
でもできないんだよ。
新機能が出てもまともに動くとは思えないんだもん。
新機能出るじゃん?
お客さんに使ってもらうじゃん?
動かないじゃん?
怒られるじゃん?
どうせこうなる確率が100%なんだから、それだったらもう新機能が出てもお客さんに伝えないほうが得じゃん?
もう新機能とか開発しなくていいから、ひたすらちょっとしたメンテナンスだけしててほしい。
余計なことしないでほしいというのがサポートチームの総意です。
なんでこの人たち給料が高いんだろう。
発達障害グレーゾーンと気が付かず会社勤めをし続けてきた50歳のおじさん。自分の子どもが発達障害で家族離散に追い込まれて、初めて自分の特性に気がついた。
グレーゾーンでコミュ障。50歳になっても、毎日会社で怒られて続けている。あまりに不条理に怒られる・罵られることが多いので、周囲からは「この人はは叩いてもいい認定」されて、精神的なサンドバッグになってる。何度も自殺を考えた。首を紐で吊ったが死ねなかった。社内規定ではパワハラには当たらないらしい。
発達障害グレーゾーンの人の人生を考える。諦めて自殺するか?憤りを爆発させて無敵の人と化すか?運命と受け入れて粛々と生きるか?
無敵の人になりたい。色々と取り返しのつかないことをして終わらせたい。そんな願望を毎晩ストロングゼロ缶500ml2本で諌めて寝ている。
発達障害じゃない人生を歩みたかった。コミュ力しか求められないこの時代は発達グレーゾーンには辛すぎる。
社内に、忙しくなると私にだけすごい機嫌出してくる同僚がいて、普通に悲しい気持ちにさせられる
同期がいなくて年齢近いのが私だけだから、甘えられる人(=サンドバッグにできる人)が他にいないんだなあと思うようにしてるけど、
みんなの前で私だけお礼言われなかったり無視されたりキツくあたられんのつら〜〜〜
しゃーないって思っとき〜みんなわかってるから〜wって上司言われたけど
周囲にもその機嫌のブチ当てっぷりバレバレなのわかってんのかな
そういうのも全部分かった上で「傷つけてもいい人」という役割を押し付けられてんのつら〜〜〜
当たる要因が私にあったとしたら〜って思い悩むのもつら〜
でも、仮に問題が私にあったとしても、それを"機嫌で示す"っていう選択は間違ってるよねー。"機嫌"に気付いて反応してしまうのは組織のフィードバックのあり方としてもよくないから無視でOKって思うようにしてる。
脳筋、なんて揶揄されてるのを見るたびに思い出すけど、まともな指導者に当たったことがない。
小学生のころの体育の成績は「励ましたい」←励まされたことがない
課題が全然こなせなかったのは事実だけど、それに向かい合ってくれるような指導者は皆無だった。
思いのほか滑ることができて驚いた。
苛立つことなく、諦めることもなく、根気強くアドバイスをし続けてくれた配偶者には本当に感謝している。
スキーだけは、好きなスポーツだと言えるようになったのが嬉しい。
振り返れば、私の出会った体育やスポーツの指導者は、私のようなできない人に対してできるように教えようとしてくれたことがなかった。
親が勝手に決めてきてやらされたミニバスは、ルールを知らなかった。
小学4年とか、それくらいの時期だった気がするけど、私は低学年の子たちのグループを指定され、ペアを組んでなんとなくボールをパスし合っていた。
それ以外に何をしたらいいのか分からなかった。
ゴールに向かってボールを投げる機会があっても、私のボールがゴールに届くことはなかった。
何度投げても入らないこの競技は、ちっとも楽しくなかった。
当然のことながらポンコツな動き、なんの役に立つこともなく、周りのうんざりした雰囲気が刺さる。
コーチは上手な子にしか眼中になく、彼らに厳しい指導をしていたけど、
特に自分には何も教えてくれないこの人の存在がこの時はよく分からなかった。
なぜこの人に皆頭を下げるのか?
なぜこの人に「ありがとうございます」と言っているのか?
今ならばとりあえずそうしておくのがいいと分かるし、スポーツの世界は厳しい上下関係が存在するということも知っているけど、
自分の知らないルールや基準で進んでいくこの集団に属していることが、みじめで苦痛だった。
お礼を言うべきことを私は一度でもしてもらっただろうか?
入団したときに挨拶くらいはしただろうけど、「コーチ」と何かやり取りをしたことはほぼなかったことに気づいた。
結局ミニバスは辞めた。
体育の授業では、校庭に半分埋められたタイヤや馬跳びはなんとか跳べる(またげる)けど、跳び箱は跳べない。
周りの動きを見ても、「上手に跳んでる」事実が分かるだけで、どうしたら跳べるのか結局分からなかった。
中学生になると、跳び箱の奥行は更に伸びた。
小学校にある跳び箱も跳べないのに、こんな細長いの跳べない。
マット運動は身体をどうしたらそうなるのか分からなかったし、体力測定のボール投げは最低ラインの線までいかなかった。
小学校の担任も体育教師も、見ているだけ。きっと安全管理のためだろう。それは必要なことだ。
たまに上手な子が何かを挑戦しようとしているときには手助けしてたけど。
私にかけられた言葉は「やれ」「なんでできないの?」だった。
こっちが知りたいくらいだ。
まあ分かる、分かるよ、できる子を更にできるようにする方が簡単だからね、達成感もあるだろうし。
でも指導する立場としてできない奴にそれができないならせめて黙ってろ。
あれかな?できない奴をこき下ろして恥さらしにすることでストレス解消してたのかな?
サンドバッグかよ。
教育者とは何だろうか。
競技のルールは知っていることが前提で、みんなどこでそういう知識をつけていたのか不思議だった。
今ならインターネットで調べればすぐに出てくるけど、当時はどうやって調べたらいいのかも分からなかった。
田舎の学校だから選択肢もなく、しぶしぶバレー部に入ったものの、ここでもやっぱりルールが分からない。
やたら人数の多いこのバレー部は、だいたいの人が球拾いと、走り込みと、腹筋背筋。
尚ボールに触れる機会はない。
この時点でかなりの運動嫌いになっていた私にとって一番マシだったのは球拾いだった。
単調で時間が永遠にも感じられる走り込みや腹筋。ただ苦しいだけだった。
競技をする方がまだ気が紛れていいけど、参加に値する身体能力がないからひたすら苦行に徹するのみ。
お片付け要員にしたって多すぎる。
何もできないし、できるようになることもないし、得るものもないし、苦痛と拘束と息苦しさばかりの体験だった。
他人がやっているのを見て何がそんなに楽しいんだろう?なぜそんなに熱狂できるのだろう?
アイドルとかにも興味ないけれど、友人に「それは推しだからだよ」と言われて、概念として納得できた気がする。
プレイヤー自身のファンであるならなるほど、確かに夢中にもなるだろう。
なぜ公的というか、全国大会とか世界大会とか、テレビの独占放映だとか、交通規制してまでやるのだろう。
スポーツ界からの「みんなスポーツ好きだよね!協力してくれるよね!応援して当然だよね!」という圧を感じる。
歴史を見れば、肉体賛美や競技場での決闘に湧き上がるのも理解できるのだけど、
少なくとも「全員がスポーツ界や競技に好意的ではない」ということは知っておいてほしい、と思う。
スポ少に限らず何等かのスポーツをする団体は、ぜひとも目的や応募条件を明示してほしい。
ルールも知らねえ運動音痴はお断り、としてくれればこんなみじめな思いをすることはなかった。
学校の体育も部活も、エンジョイ勢とガチ勢(とできればゆるーいグループ)に分けて運営してほしい。
教員不足や労働環境に関する問題は別の深刻な問題なのでここでは置いておく。
その競技を思いっきりやりたい人たちにとって、私のような運動音痴は足を引っ張るだけの存在だし、こちらも楽しめるはずがない。
お互いにとって不幸なのだ。
教育のカリキュラムとして身体を動かすことがマストなら、運動音痴には基本的な身体の動かし方だとか、そういうところから教えてほしい。
コンサートの前、しぬほどお洒落なカフェでしぬほどお洒落なコーヒーとケーキをアクスタと共に撮影し一息ついたところで、アイドルのブログについて話題が及ぶ。
「そう!この前のブログあったじゃん?その件で検索してて私見つけちゃったんだけど」そうして彼女が話し始めたのは、いわゆる「アンチ」の話題だった。
こういうツイートをしてる人がいて、こんなこと書いてて、こんなスクショ貼って、ばーって長文でこんな主張をしていて……、彼女が知らせてくれたその内容はまあ、酷いものだった。
一億総評論家時代、芸能人に醜い悪意をぶつける人が一定数いることは分かっていた。分かったうえで視界に入れないようにするしかないと思っていたものをまさか同じファンから差し出されるとはと面食らったものの、しばらくは当たり障りのないコメントをしていたと思う。
しかしアンチの存在について話しているうちに、そもそもなぜそのアイドルにアンチが着き始めたのかなんてことを話しているうちに、なんと私は泣いたのである。驚いた。相手はもっと驚いていた。
彼女いわく私はわりと冷めていてメンタルも強いと思っていたから、とのことだった。実は私もそう思っていた。彼女にとっては世間話で、そんな重く受け止められるとは思っていなかった、とのことだった。私もたしかに最初は軽く返そうと思っていた。
しかし話しながら湧き上がる感情を止めることが出来なかった。ヘラヘラしやがってこちとらオタクだぞ。冷静でなんかいられるか、というお気持ちである。
時代だから仕方ない?多かれ少なかれアンチなんてほとんどのアイドルにいる?そんなやつもいるよねーって流すのが大人?
いや、好きなアイドルに向かう悪意、嘲り、自分勝手な憶測、切り取り、捏造、全部普通に許せない。
世間話になんてできない。こんな言葉を見て悲しかったという話なら一緒に悲しめた、こんな言葉を見てムカついたという話なら一緒にキレた。
ただ世間話として気軽に話すことは出来なかった。
昨今、脱退やら退所やら仕事内容やらに対する不平不満をグループ内の特定のメンバーをサンドバッグにすることで憂さ晴らしするのが一部で流行ってるようだが、誠にクソ喰らえである。
そのグループに思い入れのない人間まで私もサンドバッグ殴りた〜い!のテンションで一緒になって叩き始めたりするのがさらにタチ悪い。キモい。
叩かれているアイドル…被害者のファンがまあこんな事情だし仕方ないよねと理由をつけて自分を納得させるのは、その人の心を守るために必要なことなのだとは思う。
しかし大前提として、被害者側に原因があるとしてしまうのは被害の矮小化であって決して許されることではない。
そういえば以前友人に、私が好きなアイドルは急にセンターに立ったから叩かれるのも仕方ないし…と言われていや仕方なくないよ!と反論したことがある。どう考えても仕方なくない。叩かれて仕方ないアイドルなどいない。
角膜にミュート機能を搭載し代わりに頭に花を咲かせることを生業にオタクをしているので普段は気づいていなかったが、あのお洒落なカフェで久々にアンチの実像を掴まされて分かったことがある。
私はできるなら自担にアンチ行為をしている人間なんて全員(自主規制)んでほしいと思っている。だから、そんな存在を何の気無しに世間話として話し始めた相手との会話の中で感情の齟齬に脳がバグり、涙となって溢れ出した。
そして数日を経て冷静に思う。アンチに対する湧き上がる怒りはファンとして正当なものである。
私に、私の好きな人に対する悪意について話すなというわけではない。ただ、話す時は両腕いっぱいに憎悪と殺意を抱えて話しかけてほしい。