はてなキーワード: 下宿とは
https://anond.hatelabo.jp/20200410224728
前職の年収が340万円、障害者雇用になるにあたり、呈示額を320万円として、
だいたい残業時間が月20時間だと聞いていたから残業代でカバーできるかと思っていたら、
実際は配慮されまくりの業務量で残業がほぼなく、また、一般雇用のように役職がついて年収が上がる見込みも少ないっぽいので、障害厚生年金を申請した。
社労士なしの申し込みでうつなどの二次障害なしのADHDは、申請が受理されにくいというのが定説だが、
増田は無事支給につながったので、ここに増田なりに気をつけたポイントを記しておく。
障害厚生年金の申請時には診断書が必要となるが、そこで、障害認定日ごろの状況を医師に詳しく書いてもらう必要がある。
丁寧な医師であれば、診断書の記入にあたり別途ヒアリングをしてくれるかもしれないが、そこまで時間を取ってくれる人は稀かと思うので、
普段の診察で困りごとを言語化して伝え、カルテにそれを記載しておいてもらうことが重要だと思われる。
A3の用紙に手書きする形で提出したが、ADHDの場合は急になるものではなく、生まれつきの脳機能の問題であるため、幼少期からの履歴が必要である。
めちゃくちゃ面倒くさかったが、受給につながるために手を抜いてはいけないとおもい、
・幼少期
・小学校
・中学校
・高校
・大学
・就職後
の7つのパートにわけて、ADHDによって起きた様々なエピソードを列挙した。
パートを分けるにあたって用紙が足りなかったため、申立書(続紙)を使用した。
もし親との関係が良好な人は、自身の幼少期に何か定型発達児と比べて変わったところがなかったか尋ねたり、当時の成績表などを見せてもらうとよいかもしれない。
・大学下宿時にダンボールのゴミを出せずベランダに退去するまで放置していたこと
・仕事によるストレスによりポスティングされたチラシを捨てられずためていたこと
などがある。
また、上記の申立書に加えてA4の別紙をWordで作成・印刷し添付した。
ここには、日常生活で困っていることを列挙した。
・初めて行くお店や場所で勝手がわからず、会計の順番を抜かしてしまうことがあること
・買ったばかりの数万円する靴を電車の座席の下に忘れてきてしまったこと
・口頭で言われたことを覚えていることが難しいため、事務職に必須とされる電話対応が苦手なこと
診断される際にWAISなどの心理検査を受ける人も多いと思うが、増田の場合は簡単なチェックシートに加え、日常の困りごとを訴えた結果診断に至ったため、心理検査を受けたことがなかった。
ただ、障害厚生年金の診断書を書くに当たって医師より心理検査が必要とのことだったので、違う医療機関にてWAIS-Ⅳを受けることになった。
検査は数時間で有給休暇を取って臨む必要があったが、いざ出てきた検査結果や臨床心理士のコメントを読むと、
より自分の発達特性が俯瞰的に見られるようになったため、これは障害厚生年金の申請の有無関係なしに受けてよかったなと感じた。
上記のような準備を行い、申請から2ヶ月後に無事支給決定の連絡が来た。
社労士に頼むお金は勿体無いけれど、ADHDだけでは通らないときいているし……と不安な方も、増田のような例があると知って勇気を出してみてほしい。
大学で仲良くなった友人がいる。裕福そうな子達の多いキャンパスで貧乏育ちを共通に仲良くなった。2人とも奨学金を使い大学に通っている。彼女がいくらどこから借りてるかは知らないけど。
彼女は東京の大学に通いたかったが金銭的な理由で断念したそうだ。
「うちに泊まる?」
と彼女は言った。下宿先は遠いのでありがたい申し出だ。頷くと、
「古くて狭くって散らかってて恥ずかしいけど、おいでよ」
と、言われたのでタクシーに一緒に乗り込んだ。
タクシー代2500円位で到着した。確かに古いが綺麗に整備されたゆったりとしたマンション。
「ね、古いでしょ」
物が少なく、スッキリとしたインテリア。6畳程の個室。お風呂にあるシャンプーは1000円はするものだろう。用意された布団は実家のものよりふかふかで心地良かった。
思ってたのと違う。貧乏じゃない。
朝は彼女の、母親が起こしてくれた。リビングルームの机に朝食。スーパーの安売りじゃない食パン、インスタントじゃないコーヒー、サラダとフルーツ。
「前もってお友達が来るって聞いてたら、おもてなし出来たのに」
とすねる親。
「車で送りたかったけど仕事でごめんね。駅まで遠い家でごめんね」
と彼女の親に言われたので覚悟して駅まで歩いた。駅まで20分もかからない。近いやん。
駅まで送ってくれた彼女と、別れてからイライラと悲しみが収まらない。何が貧乏だ??私が憧れてた生活だ。
彼女は知らない。彼女の家が日本有数の大都会にある事を。私の育った田舎の貧しさを。古いボロ家は風でギイギイ言うことを。そのくせ湿っぽいこと。貧乏特有のすえたニオイを。家にいる安っぽいプラスチック製品やどう見ても不必要なものが溢れた散らかった部屋を。安売りのシャンプーは髪がバシバシになる事を。フルーツは高くて毎日食べられない事を。
彼女の家で体感した全ては私の思うお金持ちの生活だ。虚しくなるのは、彼女の家の人が本当に自分を貧乏育ちだと信じて疑っていない事。それでいておおらかで優しい。
注)オチはありません。
私、妻、娘息子の四人家族。浮気やその他悪事らしい悪事はしたことのない小市民だが、私は性に目覚めたころから小児性愛者である。
始まりは小学生の集団登校。高学年時、人懐こい低学年女子に登校中ベタベタとくっつかれていたのがキッカケだと記憶している。中学生になりガラケーを与えられてからは、猿のようにネットでネタを探し自己処理に耽っていた。そんなある日、とある男子が女子小学生が好きだとの理由で袋叩きにいじめられているのを見て、この嗜好は他言無用だと認識した。その後今まで嗜好の件は誰にも言っていない。
高校〜大学になっても相変わらず嗜好はそのまま。パソコンを買ってより快適な猿となった。
●何故結婚なんてしたのか
妻はサークルの後輩である。サークルの飲み会後私の下宿先に泊まって事に及びそのまま付き合い始めた。そしてお互いの卒業後に結婚。よくある話だと思う。嗜好がばれなかったのが幸いだった。
妻のことは勿論愛しているが、年齢の話に限れば当時からすでに私の趣味範囲から大きく外れている。しかしいざ行為に及ぶとき、私の一物はしっかり機能した。これも幸い。
妻が初めての相手であり他にはプロのサービスも含め一切経験が無いため、妻だけ特別なのかそうでないかは分からない。
●娘に対して
不思議と娘には全く欲情しない。真っ当に我が子として可愛いと感じる。原体験の通り私の嗜好の対象は小学校低学年だが、娘がその年齢になっても何も感じなかった。しかし外で見かける他所の子は今でも意図せずそういう目で見てしまう(勿論手を出したりジロジロ見たりはしません。念の為)ため、私の癖が収まったわけではないと思う。
とりとめもなく書いたが実際の話である。下の子ができてからもうそういう欲自体がだいぶ減ってしまったが、嗜好の方向性は小学生から変わっていない。今後も変わらないだろうと思っている。
長年単身赴任していたというのもあるだろうが、町内会に誰一人として友達がいない親父。
いや、退職した後に町内会の老人会に入っていたようだけれど、そこでの人間関係が嫌になって飛び出した親父。
帰省して話をしていると今時はコンプライアンス上許されないような話題ばかり振ってきて同意を求めてくる。
特定の宗教団体を馬鹿にする話題とか特定の人種を馬鹿にする話題とか特定の国や国民を馬鹿にする話題とか。
それに同意せずに不快感を示すような態度を取り続けていたことに相当イライラしていたご様子。
そんな中での冒頭のセリフ。
うちの親兄弟はなぜか私に友達がいないと思い込んでいるようで、ことあるごとにお前は友達がいないとレッテルを張ってくる。
私は兄弟のようにべったりとした距離感ではなく、それなりに距離感を保った付き合いをする。
いくら親しくても礼節が大事だと思っているし、相手に迷惑をかけたり経済的な負担をかけたりすることに躊躇する。
親子の性格が違うと大変と言うけれど、まさにそのバリエーションなのだと思う。
親の思う適切な友人との距離感と私の思う適切な友人との距離感が違うのだ。
長年そうやって言われ続けると洗脳されていって、ともすれば友人がいないのではないかと思えてきて、そのセリフが自分を攻撃するワードになってくる。
あの時は何も言い返せなかったけれど、今度言われたら言おうと思っている「お前こそ友達いないだろ?私だってお前とは家族じゃなかったら付き合いたくないよ」と。
「子供ができてお金ないから俺の子供をお前の家で将来下宿させてくれ」とか、「俺が旅行するときにお前の家をホテル代わりに使わせろ」とかが普通だと思っている。
10歳からリラックマの特大ぬいぐるみとずっと寝ている。色々あり5代目になったので歴代の思い出を書く。
・初代 10歳〜18歳
兄がモテたいという理由でクレーンゲームの練習をしていて、弟(俺)にぬいぐるみをとってあげたいとごまかし親から金をせびりチャレンジしたらなんとたった500円でとれた。
今のものと比べると目が小さめで離れている。
本当は下宿先に連れて行きたかったが、度重なるお風呂(洗濯)で中のワタがせんべい並みに硬くなってたからなんかもう申し訳なく実家の椅子に座らせてきた。もちろんまだ座っていてじいちゃんの帽子をかぶせてもらっている。
・2代目 18歳、19歳
下宿先ではノーリラックマの生活を送るはずだったが、さみしさに耐えられなくなり購入。大学1年の時にできた彼女には可愛がられていた。でもその彼女とセックスするときに彼女が俺からリラックマを奪いベッドから雑に落とし、「リラックマの代わりになってもいい?」と言ってきた。miwaに似ててかわいかったし多分それできゅんとくるやつもいるんだろうが俺はリラックマを雑に扱われたこと、リラックマの代わりになれると思っている傲慢さに無性に腹が立ち、別れた。
次の彼女もリラックマを可愛がってくれたのだが、ある日急に「これって元カノも触ってた?」と言い出した。俺が一瞬黙ると、彼女はリラックマを窓から投げ捨てた。そのあと盗まれた。俺にとって色々と辛い出来事だった。
・3代目 19〜22歳
2代目との別れを癒すために、躊躇はしたが3代目を購入。1代目とだいぶ顔が変わっており、なんとなく柔らかい表情になっている。
3代目は手放すまいとしていたし洗濯も手入れも超丁寧にやっていた。
が、本当に仲良くしていた留学生が家族を亡くし緊急帰国することに。よくうちに泊まりにきて朝まで話したりしていた時、そいつはリラックマに優しくしてくれたし、だっこしてくれて本当に気持ちいいしかわいい、欲しいとはしゃいでいたのを思い出し譲ることにした。
押し付けるのも嫌だったので、冗談半分本気半分だけど…という言い方をすると、俺を抱きしめて本当にありがとうと言ってくれた。
今もfacebookにたまに3代目とのツーショットを載せてくれる。
4代目? 23歳〜
就職してからの初任給で4代目を購入。忙しかったからネットで買ったら間違えてサイズが一回り小さいものになり、かなり落ち込んだ。俺は頭をおなかにうずめられるサイズがよかったのだ。でもリラックマはリラックマなので、腕におさまるサイズもいいか…とすぐ慣れた。
25歳の時に今の嫁になる女性と出会った。彼女はぬいぐるみどころかキャラクターものに一才興味がなかったが、泊まりにきて布団を片付けてくれた時に、リラックマに優しく優しく布団をかけ、ぽんぽんと撫でた。その時俺はこの人と結婚しようと思った。
5代目 27歳
26歳の時に彼女にプロポーズした。なかなか二人で住む家が見つからず、俺が多忙だったこともあり彼女に色々任せっきりになってしまった。
家が見つかり契約したものの家具選びも俺があまりインテリアに興味がないこともあり彼女に任せることにした。
仕事がようやく落ち着き、幸せな気持ちで2人の新居に荷物を運びにいくと、あたたかい木のテーブルとチェア。
そういえば顔合わせも実家ではなくお店だったのでサイズがわからなかったんだろう。
高校3年の秋に母が突然亡くなってから困ったことの一つが、着物のことがわからないということだ。
まずは成人式。周りが前撮りの話をし始めたところで話題について行けなくなった。
十三参り(ローカル行事)の時に母がさらにその母からもらったという着物をお直しをして着た記憶があったのだが、その着物がどこにあるのかももし見つかってもどうすればいいかもわからなかった。結局実家から飛行機の距離で一人暮らししていることもあり着物は見つからず、わざわざレンタルするのもなと思い成人式には参加しなかった。同窓会には自分でドレスを買って参加したが、周りが成人式で着物を着た楽しそうな写真やスタジオで撮ってもらった美しい写真をアップしているのを見てひどくうらやましくなった。
父も母も兄弟はおらず、ほかの親戚とも疎遠で自分に着物のことを教えてくれる人はいなかった。母の友人などにわざわざ連絡を取るのも億劫だった。
次にコロナ禍で暇になった大学の友人たちが着付け教室に通い出した。みんな下宿だったが、実家から着物や帯などを送ってもらって楽しんでいた。メルカリで着物グッズを見ている時間が増えた。花火大会や何かの待ち合わせにいくと自分以外の友人が着物を着ていることがあり、疎外感を覚えた。これは単に私がハブられていただけなのかもしれない。
まだ卒業式は先だが、浪人したため、元高校同期の子たちはもう卒業式を見据えて着物を準備している。正直その写真を見るのもつらい。彼女たちはめんどくさがるそぶりを見せているが、親に頼めば着物を着れることが恵まれていることだと自覚してほしい。友人はお前の分も自分の親に頼んでやると言ってくれるが、なぜ私が自分の親を頼れないのか、逆にコンプレックスを刺激することをわかっていない。
でも本当はレンタルでも何でもやりようがあるのはわかっている。成人式なんてスーツで出れば良かったのもわかっているし、なんなら独学で着付けを学んだりほかの趣味に使っているバイト代を着物に使ってみても良かったのもわかっている。
このままだと自分の遺影がなくなるので卒業式はなんとか着物で出たいなと思っている。けれどもこれから結婚式などで何回も同じような思いをするのかと思うと憂鬱だ。
今、JAMESONというウイスキーを飲んでいる。このボトルは今年3月あたりに買ったもので、購入当初はよく飲んでいたが、6月辺りから完全に放置していた。アルコールが飛んで香りや味が変わってしまう事をおそれ、久々に飲んでみることにした。
グラスに注いで香りをかいでみると、何故かふわりと懐かしい香りがして、今年春の思い出が強く蘇った。暖かくなってきた春の陽気の日、先輩の下宿でこの酒を飲み、結局オールして、肌寒い朝に始発で家に帰った思い出。半年前の出来事なのに、それがまるで遠い青春のように懐かしく、強く思い出したのだ。
調べてみると、香りと記憶は強く結びついているらしい。ということは、ある一定期間同じボトルを飲み続けたら、その頃の思い出とウイスキーの香りを結びつけることができるのではないか。このとき、「ウイスキー思い出保存法」のコンセプトが誕生したのである。
「ウイスキー思い出保存法」の手法は至極簡単だ。何か思い出深いイベントがあったとき、適当なウイスキーのボトルを選んで飲むのである。大学サークルの合宿期間中、単位を落として絶望する夜、好きなあの子のSNSを偶然見つけて脳が破壊された時...。そんなときに適当なボトルを一本選んで、香りを味わい脳に思い出を定着させる。
あるボトルを飲み続けた期間が、そのまま思い出として記録される。例えば、1月から3月にかけて飲んだボトルであれば、その期間の思い出が記録されることになる。飲み方は何でも良いが、香りを強く感じる飲み方が望ましい。ストレートかトワイスアップがベストだ。
注意としては、最低でも1ヶ月は同じボトルを飲み続け、飲み方は極力変えないこと。これは、香りと思い出を結びつけるために重要だ。また、思い出を定着させたい期間が終わってから半年は、そのボトルを飲まないこと。間を開けないと、保存した思い出に別の記憶が混ざってしまう。あと、思い出を保存するボトルは、簡単に手に入るものがよい。レアなボトルに保存すると、せっかく保存した思い出を簡単に思い出せないくなる。
思い出の保存が済んだら、あとは好きな時に保存したボトルを味わえば良い。きっと大切な思い出が、あなたの脳裏にまるで津波のように押し寄せることだろう。
ちなみに、思い出を懐かしむ手段として音楽もよく使われる。とある曲をヘビロテしながら「ウイスキー思い出保存法」を実施すれば、より強く思い出を保存できるかもしれない。
このやり方は他の酒や飲み物でも応用できると思う。是非お試しあれ。
携帯電話を替えた。じつに5年ぶりのことである。有給を取って色々な移行作業を行い、LINEのデータを引き継いだところ、もう動いていないものも含めて様々なLINEグループたちのデータもあわせて新品のiPhoneに流れ込んできた。とくに問題もなく移行作業が終わったので、ここで過去に所属した多くのグループの中でも特に面白かったものをいくつか振り返ってゆきたい。
数年前、会社の同期である清田(仮名)という男が、1年間付き合った彼女へのプロポーズを成功させたとの報が入った。そこで私を含めた仲良しの数人が、”では清田の結婚式で余興や手伝いなどをやってやろうじゃないか”ということで集結したグループ、それがこの「清田まじでおめでとうの会」であった。”まじで”の部分に、我々の純粋な喜びの気持ちが凝縮されている本当に良いグループ名だったと思う。
しかしその後の両家顔合わせの際、詳しくはよくわからないが「宗教上の対立とか」(原文ママ)があり、泥仕合の末に婚約は破談。その知らせを受けた我々”清田まじでおめでとうの会”は、急きょ清田の好きな遊び(鉄道博物館、リサイクルショップでいらんものを買う等)を計画的に誘うための打ち合わせルーム、”清田まじでおめでとうの会・跡地”として活動内容と名称を変えて存続することとなった。その後、名前が長いし縁起が悪いとの指摘を受け”裸足の女神”(B'zの名曲に由来。清田はB'zが好きで、やたら足がきれいなので)を経由して”清田サトシ後援会”に名称を変更し、活動自体は現存する。なお清田は婚活サイトで別の女性と知り合い、現在は結婚して幸せに暮らしている。
高校の同級生のうち、仲のいいグループで作成しているもの。由来は、仲間内に「瀧」という苗字のでかい男がいるため。嫌われている先生の車のドアがアーク溶接されて開かなくなる事件が起きる、近隣のお母さんから「言う事聞かない子は〇〇高に連れてくよ!」みたいな感じで使われるなど、ものすごく治安の悪かった工業高校なのであまり積極的に同窓会に行く気が起きず、私はこの仲間数人で集まることを便宜的に同窓会と呼んでいる。ユニフォームっぽいデザインでオリジナルTシャツを作って草野球大会に出たことがあり、バスケかと思うくらいの点差で嘘のようにボロ負けした。ピエール瀧が逮捕されたときに数年ぶりに動いたきり、最近はほぼ使われていない。
大学生のころ、下宿先の西武新宿線・上石神井(かみしゃくじい)駅にあるとあるお店でアルバイトをしており、その際の同僚と作っていたグループ。由来は、お店が「上石神井1丁目店」だから。シフトの融通もよくやったし、わりと仲が良くて一緒に遊びにも何回か行ったが、今はもう数年動いていない。これもシンプルながら割と面白いセンスだと思う。
下ネタですいません。私に子どもが生まれた時、おおむね同時期に父または母となった同期社員で作成されたグループ。私の勤務先は同期が全員同時に人事異動をする制度になっており、その関係でだいたい同じ時期にライフイベントが変化する者が多いため、このようなことが可能になりやすい傾向がある。グループ名の由来は、本当にたまたま(ダジャレですいません)全員男の子だったから。覚えていないが、当初はもうすこし穏便な名称だったと思う。内容はとにかく「うんこ・アンパンマン・新幹線」の話題が多いな、という気はするが、子育てに占めるリソースもそういえば大体そんなもんなので割と役に立っている。また、アンパンマン考察ガチ勢がいて、すごく勉強になる。
中野坂上にある東京社宅とその周辺在住者の子育て世代が数人集まって近隣のおむつ等の安売り情報を共有する、上記「Yahoo!タマ袋」からスピンアウトしたグループ。予防接種を 受けられる近隣のいい小児科や、昨年はマスクを売っている場所の情報共有などもでき実際かなり役には立つのだが、パンパース界隈とマミーポコ界隈がちょっとギスギスしていたり(マミーポコ情報で賑わっていると「はいはいポコ厨乙」みたいなことを言われる)食器洗い機用洗剤が安いときに共有したらこれもまた宗派争いが起きたりと、家庭の奥深さを知ることが多くて面白い。奇をてらわないグループ名なのに何故かちょっと面白みのある響きなのも良い。
しょうもない割に意外と文量が多くなってしまった。たとえば引き継ぎに失敗してこれらがパッと消えてしまったらほとんど復元されないような思い出やら人の繋がりやらが結構多く、1円も払わずに使っているサービスにしてはそれはそれで恐ろしい依存だな、とは感じた。とくに意味は無いけど、たまには久しぶりの人にも連絡してみようかな、と思った。
※あくまでも個人的な感想を書いたものであり、客観的な観点から論理的に論じられた文章ではありません
五輪や甲子園の開催に反対する声はあったけど、結局開催→終わったら「何だかんだ言ってたけど、まあ良かったよね」みたいな感じになってる気がする。世論調査でも、開催前は五輪反対派が過半数であったが、終わった今では五輪開催を評価する声の方が大きい。感染者数の増加と五輪の関連性を指摘する意見はあるが、政府をはじめ科学的な根拠がないとしてその意見を退ける人も多く、イベントを通じて多少感染者が出ても大きな問題にはなっていない。
しかしこのような情勢において、五輪などのイベントが開催されて得をした人たちがいる一方、その恩恵を得られず外出自粛などで我慢を強いられる人もいる。「感染対策に気を配りさえすれば、俺たち/私たちだって好きにしていいじゃん」という気分になる人も沢山いるのではないだろうか。
特に、実家から離れて下宿で暮らす大学生とかは当にそういう立場にあると思う。自らの感染リスクよりも貴重な大学生活が潰れることを強く問題視し、ワンチャンに掛けてサークル活動や外出、飲み会をしようとする学生は居そうなものだ。外出する人に対し、「大切な家族の命を脅かすのか?」と批判する人もいるが、一人暮らしなら家庭内感染は起こりえない。
五輪や甲子園の開催が、「気をつけてさえいれば外出はセーフである」というお墨付きを与えてしまっている気がする。五輪による感染拡大を否定するほど、「でかいイベント開いても大丈夫なら、外出くらい大したことないだろう」という印象を国民に与えているからである。
そして、現在の情勢は自分が自粛しても感染拡大は止まらないだろうという諦めにつながり、それなら自分も好き勝手やってしまえ、というやったもん勝ちの風潮が生まれるに至っていると思う。
エアコンを切って窓を開けて、夜風にあたった。梅雨がちょっとだけ湿らせた、夏の始まりあたりの風が好きだったことを思い出した。
それはライブでスベった日だったり、ベースの子に彼氏がいることが分かった夜だったり、とにかく酒を飲んだあとに吹いていたと思う。
八王子のクソ田舎山道を千鳥足で下り、先輩の下宿になだれこむ。エアコンないんすか、とか聞いてもケチだから外で涼んでこいとしか言われなかった。俺は部屋でくすねたわかばを取り出して、ライターをくすね忘れたことに気がついて、先輩にライターを寄越すように言って、怒られて、結局吸ったんだっけか。
クソまずかったなぁわかば。外の箱燃やして吸ったほうがマシ。