はてなキーワード: ののしるとは
わたしもシュナムル氏は擁護の余地もないカスだと思っておりますが、シュナムルさんがカスであることをもってフェミ全体を攻撃するのはやめましょう。
一部ヤバイ奴がいたからと言って全体がヤバイということにはならないということでしょう。
私は普段フェミ界隈の人が、一部のやばいやつを取り上げてオタクはこんなやつばっかりだって全体を叩くツイートが数千いいねがつくのをみてうんざりしています。
いつもはフェミ側がそういうバカなことをやってるのはすごく苦々しく思っています。
だからといって、オタク側があのアホフェミと同じレベルに落ちないでほしい。
フェミ側がアホばっかりであることは紛れもない事実ですが、いくらそれを指摘したところで、オタク側がそのレベルと同じところまで堕ちたら意味がないです。
オタク側はいくらフェミがアホだと思っても、同じレベルに下りずにフェミよりは賢いところで踏ん張ってください。
かといって、今回の件では、マギー氏を擁護して今でもちゃんとデマについて謝ってない人はそんなにいません。
この件ではきちんとデマを訂正したり、謝罪をしたり、せめて恥じてだんまりしてる人がほとんどです。
マギー氏やシュナムル氏ほど醜い人間はさすがにそんなにいないのです。
シュナムル氏が特別醜い人間であるというだけで、シュナムル氏をフェミニストの標準のように扱うのはやめましょう。
批判するのはシュナムル氏とシュナムル氏を擁護しようとする極サ・・・いや極アホだけにしましょう。
その自制ができないなら、シュナムル氏と同じレベルに落ちてしまいます。嫌でしょ?シュナムル氏と同レベルって思われるの。
やーいお前の脳みそシュナムルレベルとか、お前らはシュナムル氏と同レベルの恥知らずだって言われたいですか?
嫌でしょ?私は絶対嫌ですしオタクがシュナムル氏レベルってみなされるのも嫌です。
だからみなさん、今回叩くのはシュナムル氏だけにしましょう。主語デカ叩きはシュナムル脳って呼ばれても文句言えませんよ。
オタクは党派性で擁護しないから、シュナムル氏と同レベルのこといってるオタクはバカにされるよ。
namaHam この話の展開なら「お互いに自浄作用を働かせましょう」あたりが落としどころだと思うんだけど、「お前ら馬鹿に見えるよ?」が結論なのおかしくね?本音がダダ漏れすぎでしょう
バカの人は末尾に書いてることが結論って思っちゃうみたいなので、末尾の文章を付け足しておきます。バカ向けに書いてるんだから確かにこれは私の配慮が足りませんでした。お詫びします。
8話
8話 ママサイテー
この8話が一番良かった!!この8話を見て、ここまで見てよかった・・・・・・!!と思ったぐらいには、びっくりするほどまともなエピソードだった。同時期に見たフォロワーも8話は良かったと言っていたので、8話は本当に良い話です。1話から8話の間はすべて飛ばしてもいいぐらいです。
タイトルのママサイテーは、何がサイテーなのかわからなくて、監督はマジでこの話をどこに持っていきたいんだと思った。あえて誤解されたいのかな?日本沈没2020もそうだけど(まぁこれは原作がもともと日本沈没なので回避できなかったんだろうなって思うけど)タイトルだけ見た人間が、この話はクソだ!とののしるためにわざとつけたとしか思えない。でも実際のところ、アニメの内容もクソなのでなにもわからなくなるんだ。これで内容が最高だったらああ、この作品は皮肉で出来ているんだなってわかるんだけど、実際全部クソなので監督が何をしたかったのか全然察することができないんだ・・・。
8話は朝になったらいきなり海のおっさんが、死体になっていたところから始まる。海のおっさんは7話の最後で何故か血を吐いて苦しむというフラグを立てていたので、死ぬのはわかるんだけど、鳥につつかれてむちゃくちゃグロい死体になってたのがよくわからない。やーっぱ死体をやけにグロく描いてるんだよなぁ。おっさんの死体は、歩が叫んでいたら、突然現れたサメに食べられて消えたので歩が死体を処理する羽目にならなくてよかったなって思いました。
漂流して(この時間軸も何日たったのかわからない、一日なような気もするし、数日のような気もする)いる途中で、何も食べ物がない歩と弟の前に父親の幻覚が表れて、「鳥を捕まえるんだ」て言ってくる。それを思い出した歩がいかだの上の鳥を捕まえたら魚をゲロって吐き出して食料ゲットだやったね!になったんだけど、その鳥が暴れたからいかだに穴が開いて沈みそうになってた。幻覚だかマジで霊が目の前に現れたのかしらんけど、死んでも余計なことする親父だな・・・。
あたしたちここで死ぬんだ・・・みたいな雰囲気になってたけど普通にママと先輩が手漕ぎボートに乗って現れたし、ママのペースメーカーは壊れたモーターボートがあったのでそこで充電できててよかったです!先輩も怪我が悪化とかそういうの無くてむっちゃ元気です!まだモルヒネが効いているのかも。ユーチューバーに感謝。
手漕ぎボートを漕いでたら、壊れてないモーターボートを見つけたので、そこに移ることになった。なんか寝たきりのおっさんが分かれる前にスマホに残してくれた座標を、弟がここじゃん!て秒で理解して広島沖?に行くことになる。場所あんまり覚えてないけどわざわざそこを見返す気もおきないので許してほしい。座標は、3、1・・・とかいう数字から始まってたような気がするので、俺は円周率かな?と思った。座標に詳しい弟君がいてよかったです。
冒頭で、8話は本当によかった!て言ったけど、詳しく感想をまとめてみると何が良かったのか謎になってきた。(他の話に比べると)よかったです!
でも壊れていないモーターボートは、もやい綱が何かに引っかかって動かせなかった。ナイフもないし、どうしよう・・・になってたら、ママがもぐって解決してくるって言いだしたのね。ここで初めて明かされる設定なんだけど、ママは水泳の選手だったらしい。水泳が得意ってのをここで初めて効いたので、本当にびっくりしてしまった。序盤でおぼれてた子供を助けたときに、私に助けられてよかったねて言ってたけど、それがまさか水泳の選手だという意味合いだったとは思っていなかったので。
これ書いてて思い出したけど、序盤のママが飛行機に乗ってるとき、CAのお姉さんが体調は大丈夫ですか?て聞いてたのね。だからあ、なんか病気を抱えてるのかなみたいな描写はあった。でも、そのあと普通に泳いでたし、普通に歩いてたから、全然そのこと忘れてたわ。体調は大丈夫ですか?のあとむちゃくちゃピンピンして山とか登ったり泳いだりしてんのに病人とは思わねーだろ。お前みたいな病人がいるか。
それで、無茶をしたお母さんは実は感染症になっていたらしい。だから自分は余命わずかだから・・・とその命をこのモーターボートを動かすことに使おうと決意して、海に潜ってもやい綱のひっかかってたところを解いてくれた。頑張って水面を目指したけどやっぱ途中で力尽きちゃって、それを歩が引っ張り上げた。この死んでるママだけやけにリアルだし気合はいっててもういい加減にしてくれと思った。死者を冒涜するところだけに力を入れるな。
ママに人工呼吸したら一瞬息を吹き返したっぽかったんだけど、後の描写でそれはただ吹き込んだ息が漏れただけとわかる。ママが死んで終わる感動の回だけど、何がサイテーなのかわからないししいて言うなら歩が全編を通してサイテーかな。8話はここで終わり。
・昔から意味合いの変わって使われている格言やことわざはいくつもある よくないというのは個人意思なのでいいかわるいかで言うなら他人の行動を強要したり喚起したりしたいのであればまず直接個人に自分の考えをぶつける無名の街頭演説をいきなりはじめるより、原文からの変遷を研究したり収集したりする団体や組織を形成してそこからの意向としての情報発信をするほうが効果的 言いたいだけなら言っても大丈夫
・あなたが話す話はすべてあなたの話なので前提は不要です なにがどういう状況なのかという状況から自分がどういう行動をすることになったかの説明はとても有用 正しい判断がしにくい状況にご自身が追い込まれているということ心中お察し申し上げます ただこの文章もそういった状況下でとられる一般に正常とは認識されがたい行動の一環であることの可能性をご自身で示唆しているわけですね
・常々というこの困難な状況が常にあるという継続的な辛さもお察し申し上げます もはやいつから正しいことが判断できなくなったり犠牲にしたりしているのかなのかわからない状態であるということですね 職務で得られた経験が自己分析であるとしてそれが正確ならなおさら、ご自身が異常な状態にあることを冷静に判断できているのはとても皮肉なことだと思います
・他人の行動について愚かで自己破壊的だと、すべきでない行動をしていることに対し自分は正解をもっている、建設的でない、的外れである、ということは的を射ていたり建設的な意見というものがなにかと自分は知っているという陶酔にあるのは、困難な状況に長時間されされていたご自身の防衛機能の一端であることは察し得るのでご苦労様です ただご自身の判断基準の正確さを、役職や職業によって保証されているものだと他の方に誘導的に意見することを意図しているのは、危険な状態でもあると思われます
・合間を縫いすぎです どれだけ見てるんでしょうか じゃんじゃんの擬音の効果の程度が気になります 観測をしている量としての程が いやなものはみていないですよね いやなものを見ざるをえない職種であるのでいやだけれども見てしまうしそれに感想をもったり行動をしてしまう というのであれば「いやなら見るなみてないなら行動するな」みたいな表現についてご自身もその対象であるはずなのにその推奨に沿えないことを体感しているのではないでしょうか
・残酷な単体行為を単独個人が単回数行うことについてであれば、書き起こされた文字のことが存在すると発露させた時点で一回それを履行しているわけで、それをまだしていない人間にむけて公開するということは、ご自身が一回それに関わり加わりおなじ行為をしたということになります 「この証拠写真をみてください」と問題の現場を公開することで、それをしらしめてやろうという意図の犯人と同じ行為を一度行うことについて、それを回避するすべがあるはずであるのにするということは、加担したということになります 正常な判断ができない状態で正義で被害者を守ろうと判断されることが危険なのはこういった結果にいたる可能性があるということの一例となり残念です
・あくまでほかの罪においてでも罪を責めることができれば、そこから結果自分の主張したい正義をねじ込めるとお思いなのはとても危険なので、責任ある職であるならお休みされたほうがよいと思います
・いやなら聞くなは同意いたします 聞きたくないので聞かない人も聞けない人も聞いてない人もいると思います 居酒屋での愚痴なんていいふらされても、前述までの「アホやな」のそれだと思います ただ人の口からでた言葉を聞く聞かないを超えて、その声を機械で増幅させて電波で全国に流しているんです 耳栓をしていてもそれを聞いた人間の行動や人間の発声能力をはるかに超えた音波が体をゆらすわけです その人がいっただけのただのたわごとならば、その口をはたけば済みますし、こちらは耳をふさげば済みます その責任は本人にあるといえると思います ではメガホンをつかって叫んだ場合の言葉の責任は、メガホンにあるのでしょうか コンデンサのメーカーが不埒な言葉を拡声したことをお詫び申し上げますといえばよいのでしょうか かつてのAV女優やバカなことをする芸人が一般的な氏名でなくおもしろおかしい芸名を使っていたのは「同姓同名がいじめられないように」の配慮だったわけですが、同姓同名というほんの数文字だけを全文から切り取って個人にあてがいいじめなどの行為に至ることはありますしそうなる可能性は容易に想像できるはずです 現在ではその境界線があまあまになっているのでもはやきりとっての被害はそれぞれ自己責任という風潮なのかはわかりませんが、だれも全文で勝負しようなどとはおもった時代などありません 文脈でいうなら先祖代々のどの家の当主のなんの許可があって芸人をしているのかどうかなどという人類史の文脈を無視しないで話をすべきなんてことになりかねなくなります どこから文脈を切り取ることになるのか、どこが文脈なのかその規模と単位をどこがどう決めているのか、まずそれをコンセンサスとるべきだろうし、それをあいまいに話している時点でそれぞれ個人の個人的感想でしょう 残酷だとかクソだとかデザインだとか終始だとか、個人がそう思ったことを人につたえたい場合、つよくそれを願った場合、きたない言葉で装飾して自分の言葉の威力が増したと自己陶酔することで伝わるはずだと思うのは、前述の環境による思考の傾向があまり健康的でない状態である可能性が感じられます
・個人の看過できないまでの感情の爆発は、個人の感性なので問題ないですし大切です そのストレスがだれかを傷つけるまえに文字で解消しようとするのはとても健康的だと思います これ以上こじらせてしまうような可能性があるのならば、力になってくれる現実の人間に頼るべきがよいと思います
・そういう個人的な予想や感想や欲求を文字にするということは、それをしているということになります 文字そのものをみてそこにその表現がはいっていないから「そんなことはいってないだろ」「文盲」とののしることがあるかもしれませんが、その情報でほかの情報をもっている個人があわせて反応してしまって連想することは人間としてみればありえる話です いったこと以上のことはなにもないのであれば、文字に書かれていないことはありえるんですかと永遠に質問が来ることになります ご自身が正義のセカンドレイパーになっていないか、いまいちど鏡をみてみることをおすすめいたします
・現実にそんな要職にあるのなら、お休みされないとほんとうに心配になってしまいます
・そうですね
求めている対象が手に入らない苦しさから、それをとうとう憎んでしまうようになってしまう心理というのは珍しくない。自分もまた、そういう誘惑に何度屈しそうになったか知れない。はてブでもツイッターでも、どうして僕が暗黒面に堕ちなかったのかをいぶかしく思っている人も多かった。ここでは、毒を吐きたくなったときにどのように抑えたかを共有したい。
一般的に、結果が出ないときには次のようなことを意識している。頑張れば結果が出るとは限らないと認識する。過程そのものを楽しむ。女性がいなくても楽しめる趣味をたくさん持つ。それから家族や友人を大事にする。友人からのアドバイスとは時として的外れで、かえって傷口を広げてしまうこともあるけれど、そういうときは失恋のことは伏せていて、普通に遊んでいればいい。それだけでも気が晴れる。
一つ目。自分は相手から好かれなくて悲しく、悔しいのだと直視する。とてもつらいが、この感情を無視しようとすると、悲しみは怒りへと変わってしまう。怒りが二次的な感情だといわれる所以だ。悲しみとは何かを失ったというサインで、怒りは相手が期待に添わなかったとサインとされる(1)。この段階で対処しないと、怒りは憎しみになってしまう。憎しみとは厄介な感情で、無駄に精神のリソースを食う。
二つ目。論理的に考えるように心がける。「女性はいつも自分を嫌う」というのは実は正しくない。「今回この女性には恋人としては受け入れてもらえなかった。次の女性の場合はどうなるかわからない」というのがより現実に近い。こういう「全か無か思考」は「認知の歪み」の一つであり、うつ病の原因の一つといわれている。うつ病にならないとしても、必要以上に自分の機嫌を悪くする行為だ。対処法は(2)に載っている。簡潔に言うと、自分の不合理な考えに一つ一つ反証していくことだ。面倒だが、やってみると楽しい。
三つ目。自分が男性だというだけの理由で受けた仕打ちや、不快な思いのことを考える。例えば、電車で隣になっただけで警戒されるような目つきでにらまれたとき。あるいは、攻撃的なフェミニストが、男性の失礼な態度だけではなく、男性が女性のことを「かわいいな。素敵だな」と思う感情そのものも否定するような発言をしたとき。そういうミザンドリーに満ちた文章を読んだ時にどう感じたか。ぐさり、と胸に冷たいものが突き刺されたような気がしなかっただろうか。ここで自分が、公共の場で女性を叩く発言をしたら、見ず知らずの女性が同じ思いをする。そんなことを僕は望むだろうか。
僕はフェミニズムがいけないのだといっているのではない。むしろ大賛成だ。女性の選挙権、セクハラを受けない権利(3)、功績をあげているのに忘れられている女性にきちんとスポットライトを当てること、その取り組みはすべて立派だと思うし、心から応援している。まだこの世には性別による不平等や偏見がいっぱいあり、これをみんなでなくしていくことこそが、僕らや次の世代の幸せへとつながっていくはずだ。僕も自分の中の偏見と闘っていくつもりだ。ただし、言葉を選ばないと両性の間に分断を無意味に生んでしまう。誰にだって怒る権利はある。間違ったことがあるときには怒ったっていい。時には厳しい表現を選ばないといけないことも当然ある。でも、不公正を公衆に訴えて世の中を改善していくことと、自分の不機嫌を見ず知らずの人間に通り魔的にぶつける暴力とは、厳然たる区別があるはずだ。少なくとも自分は、公共の場で他人を口汚くののしるような真似はしたくない。
少々熱く語ってしまった。本題に戻ろう。
四つ目。公共の場で女性を馬鹿にする発言をすることは、自分にとてもよくしてくれた母、祖母、姉妹を馬鹿にすることになる。同時に、未来に付き合い、結婚することになる女性、それから生まれる娘や孫たちに対する侮辱である。自分はまだ出会っていない家族のことを馬鹿にしたくない。
それに、自分の尊敬する文筆家や科学者の多くが女性だ。女性が馬鹿であるという謬見に対する、強烈な反証だ。
インターネット上には様々な声があふれている。ある女性は「なんでもきちんと話し合いで解決したい」という。別の女性は「なんでもかんでも気持ちを察してほしい」という。ある人は「男性からの性的なまなざしに耐えられないと」訴え、別の女性は「異性として意識されなくて悔しい」とぼやく。そういう意見を総合していくと、矛盾の塊というかキメラが発生する。こちらを立てればあちらが立たずだ。さらに「どうしたらいいのですか」と尋ねても、「私はあなたのママじゃないから自分で考えてください」といわれる。そこで困ってしまう。一生懸命行動しても、誰かからは怒られるのだ。ある種のダブルバインドである。
そういう時に思い出したいのは、結婚できるのはたった一人、という事実だ。自分が一番好きな人の幸せを一番に考えて、ほかの人の意見はスルーする。それでいいではないか。相手はこちらの面倒を見ないし、自分も赤の他人の機嫌を取る必要はない。
最後に。誰かに復讐してやる、という気持ちの時には、じっとしているのがいい。他人を憎んでいる心理状態はとてもつらく、幸せからは程遠い。人を呪わば穴二つ、である。そんなときは、家でゆっくり休むといい。肉体が健康でないと、精神の健康もおぼつかない。
相手に八つ当たりしない自信があるのなら、風俗も決して悪い選択肢ではない。ハグしてもらうだけでも怒りは収まることがある。相手から優しく触れてもらえる時には、言外の「あなたを男性として尊敬しています」のメッセージを受けている気がする。たとえそれが作りものだとしても、触覚や嗅覚はどんな言葉よりも雄弁だ。もちろん、人によっては空しさが増えてしまうかもしれないので、諸刃の剣だ。利用の際はよく考えてほしい。
あくまで理想なので、すべてを満たすことは難しいかもしれないが、希望はこういう形だ。
問題は、自分の好みが良く笑うタイプの女性か、研究者タイプの女性か、よくわからないことだ。とはいえ、これは実際に会ってみないことにはどうしようもないのだろう。
苦しかった。悔しかった。けれども、これでいいのだと思う。自分はこの方法ではうまくいかないのだ、そしてモテないのだと直視することができた。自分の実力がこの程度だと理解したことで、やっと素直に結婚相談所に向かうことができる気がしている。
もしもいきなり相談所に直行していたら、将来浮気したくなり、結婚生活を破壊してしまったかもしれない。恋愛はすごく疲れる、ということを体感したことで、落ち着いた生活へのあこがれも強まった。仕事でもそうだが、自分はこのくらいのことはできるが、これ以上はだめだ、という理解が、体調管理には必須なのだ。
今回も長くなってしまった。モテないことのぼやきならいくらでも書けるだろうが、ここで切り上げたい。
読んでくれてありがとう。
(3) 僕も女性からのセクハラを受けたことがあるので、そういう屈辱感を相手に与えるなんて真似はしたくない。もっと異性同士が、もちろんいろんなマイノリティを含めて、尊敬しあう世の中になってほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20190426001052
皆が非表示にしてるidの不人気投票よりも、そっちに興味がある。
さっき自分の非表示を整理してたんだけど、けっこう好き放題に非表示してたのに気づいたんだけど、一つだけ共通点があった。
だいたい口汚くののしるパティーンのid、煽り系のid、一部不明なんだけど、全部「ブログやってない」idだった。
ワンピースアイコンとか、安定の当選率を誇る睡運瞑菜の奴とか、あのクソみたいな書きっぷりのあいつら非表示にしてなかったのはなんでなんだ、って自分でも不思議だったけど
連中ブログ持ってるんですね。
直接にブコメと繋がるわけじゃないんだけど、罵詈雑言まき散らした後の補足、みたいな感じで使ってることがなくもない。
ココが「非表示にするまでもないかな」という判断に至った理由ではないかと自己分析してみる。
ブコメで言いっぱなしのクズは、どんだけ正論でも過去には非表示に入れてるようだし、評判の悪いblueboyの人を入れてないのもそういう理由か、と腑に落ちる。
いずれも言ってることの正否はともかく、ブコメで吐きっぱなしじゃないように見受けられるから非表示にするほど嫌悪していないのだと気付く。
これまで鉄道会社への投書など以外の活動はしていない。していなかった。
これの皮肉なところは、(少なくとも「差別のせるな」の所は)専用車両反対派も同じことを掲げている点だ。
賛成派→(被害者の大半が女性である)痴漢、あるいは女性専用車両撤廃がが女性差別と捉えている?
しかし、大半の男性は加害者ではない。なんら、敬遠されるいわれはない。
犯人と他の男性の見分けがつかないのは他の犯罪も一緒。隣の人が殺人犯でない保証はない。
痴漢によるPTSD、男性恐怖症は当然ながら痴漢個人の責任である。私(含む非痴漢男性)には何の関係もない。
「女性にとってのみ安全でない電車がそもそも差別」という論もそれに通じるものがある。
その論でいうと、女性を差別=安全でなくしているのは「痴漢」個人であり、やはり我々(非痴漢男性)には何の関係もない。
なぜ、我々非痴漢男性が協力を要求される(そして拒否すれば「差別」呼ばわりされる)必要があろう?
ところで、私が気になったのはむしろ「安全守れ」の部分である。
誰が安全を守るのか?
誰にとっての安全なのか?
なぜ、大上段から「守れ」などといえるのか?
上にも書いたが、電車内を安全でなくしているのは「男性」に非ず、あくまで「痴漢」である。
賛成派もよく使うセンテンスで返すなら、「文句は痴漢に言ってもらおう」。
御堂筋線の事件?関係ない。私はその場に乗り合わせてすらいないのだ。
さらに言うと、我々非痴漢男性には(自分が犯罪を起こさない以上には)電車内の安全に寄与する義務はない。
賛成派の女性諸氏はよく、「痴漢にあっても助けてくれない」「傍観者も同罪」などと無関係の男性をののしるが、むしろ助けられないのがデフォルトなのだ。
無関係の非痴漢男性にとっては、まず気付かない。女性が声を上げたとしても、犯人と確実に分かる状況でなければ(自らの恐れるものでもある)痴漢冤罪の片棒を担ぐことになる。
助ける男性には(当然と言えば当然だが)何のインセンティブもありはしないにも拘らず、だ。
「助けてくれた人、ありがとう」ならまだしも「助けないお前は同罪」などと口にしたら、これはもう戦争であろう。
自ら助けてくれる可能性のある第三者を減らしているのは滑稽というほかない。
あと、「傍観者も同罪」というからには、助けない女性もまた同罪である。分かっているのだろうか?
「助けない女性など一人もいない」とでも言うのだろうか?
こんな状況で、なぜ(女性にとっての)「安全守れ」などと強要されねばならないのか?
(現状の)このハッシュタグに付随する男性への罵詈雑言は見るに堪えない。
これまで私は鉄道会社に抗議こそすれ、女性専用車両に協力はしてきた。
にも拘らず、誰に感謝されるでもなく、当然のような顔でしかも暴言すら吐く。
だから、私は決心した。
私は女性専用車両(とされているシール付き一般車両)に乗ろう。
このハッシュタグの崇高な理念(皮肉)を体現するためにも、電車内に差別を許すわけにはいかぬ。
twitterをしていない(ROM専)私はタグ付きツイートをすることはかなわない。
元増田。
社会が「女性(だけの)保護」を目的として施策を打ったらばそれは男性には負担でしかなく、そして今まで男性はそれに耐えてきた。
有史以前から、女性を外敵の侵略から守り食料を供給していたのは男性。
もっと言うなら、戦後女性に選挙権が認められるまでは社会≒男性だったし、
現代でも、自衛隊員はほとんど男性。警察官も9割男性。原発作業員も大半男性。
タイタニックが沈んだ時にもボートに先に乗れるのは女性。ディカプリオは死んだ。
そもそもの議題にあった女性専用車両すら、男性の慈悲によって作られ、運用されている。