はてなキーワード: 植物とは
私は閉め切られたビジネスホテルの廊下にある非常扉を、こっそりと開けてみた。扉を開け放つと、目が痛いくらいの光とともにホテルの中の冷涼で清潔な空気とは違った、埃っぽいけど暖かい空気が私の身体をいっぱいにした。八階の非常階段の柵越しに街を展望すると、几帳面に建築されたビルの群と端正に植えられた街路樹、そして、人々の営みが、穏やかな陽に照らされていた。
ミニチュアみたいに縮小されたビルのオフィスを窓越しに観察することもできた。スーツを着た男が、パソコンの置かれたデスクの前に二人居た。なにか話し合っているようだった。じっと見ていたら、そのうちの一人の男が、まるで私に気づいたかのように、おもむろにブラインドを下げた。なんだか、見てはいけない気がして、人ではないものを見ることにした。
比較的近いビルの屋上に、植木鉢が無数にあるのを見出した。大きさが全て違っていて、植えられている植物もバラバラであった。けれど、陽のよくあたるところにみんな行儀よく密集して、ある種の一体感を醸していた。私はなんだか懐かしいような羨ましいような気持ちになった。
動く人々に目を移した。私が先ほどまで散歩していた道が、本に印字された文字の余白のように小さくなっていた。さっきまで私はあの道の先の、公園まで散策してみていた。日陰を探し求めて歩いて、木々が織りなす濃い影の中にあるベンチを見つけてそこに腰掛けていたのだった。私と数メートル離れたところに座るサラリーマンの間のベンチの上を、登ったり降りたりして遊んでいるカラスがいた。カラスは、豊かに蓄えた玉虫色に光る黒い羽を太陽の光で透かせていて、私の心を惹きつけた。じっと見ていたら、カラスが私を警戒したのか、私の視線から逃れるように、木の陰へと隠れて行った。カラスを追うのをやめると、アゲハ蝶が飛んで行った。
旅鴉。
この街にはアゲハ蝶が多いらしかった。これは、この間喫茶店で隣の客たちがアゲハ蝶の話をしていて分かったのだった。蜜柑の木を植えたら、アゲハ蝶の幼虫の害にあって大変という話をしていたのだ。確かに、この街では、街中であってもアゲハ蝶を何回も見かけた。そんなことを、ふと思い出していた。
正直、ひとつの作品として評価するとそこまでじゃないけれども、琴線には触れたね。少なくとも、久々に長文で感想書きたくなる程度には。
私は子供の頃、ハムスターを飼っていて失敗した覚えがある。二匹飼ってたけれども、一匹は脱走して、もう一匹はケージを日なたに長時間置いていたせいで死んでしまった。いや、殺してしまったというべきだろう。あの時、私はペットを飼うべき人間じゃないって思ったよ。
ただ、それから大人になって色々と考えを巡らせるようになると「愛玩動物」という概念、文化そのものに疑問を持つようになった。だって「動物を飼う」という行為自体、必要のないことだから。もし、それに必要性があるというならば、それは飼う側(人間側)の都合でしかない。
ペットを飼っている人たちが、他種に対する思いやりやら命の尊さを語ることがあるけれども、あれって本気で言ってたら怖いよね。だって読んで字の如く「愛」する「玩」具として手元に置いている立場なのに、その状態で動物の死生観を客観的に語ると空々しくなってしまう。ペットに服を着せて「飼い主側の都合でそういうことをするのは如何か」みたいな意見は昔からあるけれども、そもそもペットとして飼ってる時点で人間側の都合を押し付けてるから。
もちろん、それは動物を飼うということだけではない。食べるため、服の素材にしたり、或いは政治的パフォーマンスのためにお立ち台にあげられる。害獣、害虫、益のあるなしなんて人間社会の決めたこと。自分たちの生活を豊かにするため、時に排除し、時に利用する。グラデーションに違いはあれど本質は同じで、せいぜい細かな差異を人間という第三者たちで語るだけ。結局のところ利己的な対応をとっているに過ぎない。私たちは「命の選り好み」を各々で強いられて、「倫理的バグ」を抱えて現代社会を生きている。
といったことを踏まえると、『マナー・アプリオリ』という作品はえげつない。本作のテーマが何かって言うと明白で、それは「愛玩動物」。それを人間に置き換え、宇宙人の立場から、人間社会が抱えた「命の選り好み」と「倫理的バグ」を風刺的に描いている。『鬼滅の刃』で「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ってセリフがあるけれども、もし握らせて相手の倫理に委ねたらこうなるともいえる。言葉で意思疎通を図れるヒト対ヒトでそれなのに、動物相手だったら尚さら。
『ミノタウルスの皿』と比較している人もいたけれども、本作は“愛玩動物”という視点から他種の命に対して問題提起を行っていて、食べるかどうかっていうのは一要素、側面的な話だと思う。『ブタがいた教室』っていう、学生たちが育てた豚を食べるかどうかで議論させた話があったけれども、本作がやっていることはそっち路線。「命を学ぶ」という“学ぶ側の唱えたお題目”によって、ブタの「命を弄ぶ」という側面。
テーマについては解釈の余地はほとんどないと思う。あと、本筋に対しても解釈の余地は少ない。大体のことは作中で語られてるし。最初の1ページで飼い犬が捨てられて、飼い主側の都合やらが語られる。旦那さんの「一日中ケージに閉じ込めてるのはかわいそうだ」だっていうのも、人間のフィルターを通して語られる一方的な倫理。それが人間の身に降りかかるという分かりやすい構図。
例えば「命の選り好み」と「倫理的バグ」については分かりやすい。主役の宇宙人たちの世界でも共食いは犯罪。自分たちと見た目が似ている人間を食うのはゲテモノ扱いで、忌避する者もいるが一応はOK。まあ、これは哺乳類を食べるかどうかとか、クジラを食べるかどうかみたいな感じかな。
人間の子供に情を抱いたサッピは「殺すなんてかわいそうだ」といって、クンダは「それはエゴだ」という。なるほど一理ある。でも後にクンダは「そいつの幸せはとっとと食われて余計なストレスとおさらばすることだ」なんて言う。いや、それもエゴでしょ、ってツッコミは読者がするしかない。けれども、そのツッコミを本気でできるほど私たちは上等じゃない。
個人的に目を引いたのは痛覚のあるなしで是非を決めようとするシーンだね。痛覚がなかったら刻んだり好きなように弄んでもいいのかっていう疑問はあるけれども、これは現代のヴィーガンにも通ずる。痛覚がないから植物で、生物ではない。殺して問題ない命。その判断自体が人間の決めたカテゴライズでしかなく、それは「命の選り好み」の延長線上でしかない。あまり思慮深くないクンダは時々の感情で判断し、サッピの方は独自の基準が多少なりともあるが本質は同じ。無差別ではないが公平でもない。
ここまで語っておいてなんだけれども、私は本作を高く評価してはいない。テーマに対して淡々としすぎてて、ストーリーラインに起承転結の盛り上がりがあまりない。そうすることで残酷さを如実に浮かび上がらせるって意図なのは分かるけれども、それが一作品としてのエンターテイメントから見たとき、やや面白みに欠けるのは確か。
プロットに対しメッセージ性も露骨で、説教臭さが抜け切れてない。宇宙人の文化や倫理観、言葉選びが人間社会とほぼ同じで、語られることも作品内で馴染んでない。ひいては宇宙人の二人も本作のテーマを風刺的に描くための舞台装置、配役でしかないことを意味する。なんというか、『寄生獣』の終盤で環境問題について語りだす件があるけれども、あれだけ抜き出した感じ。有り体に言えば浮いてる。
ただ、私からいわせれば物足りないってだけで、現代社会は「命の選り好み」と「倫理的バグ」について、大衆は割り切るかどうか以前の段階。大半は無自覚的に享受し、狭い範囲内で限定的な倫理を振りかざすのが精一杯。踏み込んで論じる段階にすらいけてない。それで描いても読者の大半はついていけないだろうし、少年ジャンプ+というサイト掲載のマンガとしては丁度いい按配といえなくもないかな。
楽しみにしてる舞台、黒人と白人のハーフのキャラがいる。それが役者が黒塗りした写真を上げたらブラックフェイスだって海外のやつらから抗議されてる。別にその写真に嘲笑の意図もない。ただただキャラクターを忠実に再現しようとしただけ。なのに抗議はまだ止まない。
うるせ~~~~~~~~~~~~~~知らね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そもそも白と黒の争いを黄色人種の国に持ち込むんじゃねえよ。ここはメリケンじゃねえ、日本だ。そんなことも分かんねえのか。
配慮だの歩み寄りだのギャーギャー騒いでるが黄色人種の国でやっている黄色人種向けのエンターテイメントで配慮しなければならないのかが分からない。これがハリウッド映画なら配慮しろって意見は分かる。
だがこれは日本でしかやらねえ日本語の舞台だ。笑ってはいけないのときも思ったけどなんであいつら勝手に覗き込んで勝手に傷ついて勝手に抗議してくるんだ?
たしかに彼らの歴史には同情するよ。そりゃ奴隷にされて、近年までずっと人間として扱われて来なかったのは可哀想だよ。今でさえ白いやつらは自分たちの方が優れてるって思ってるしな。
でも、例えば自分の家の庭で植物を育ててたとして他人が勝手に庭を覗いてきて、その育ててた植物が「それはうちの先祖を殺した毒草だからうちの庭では切り落としてる!だからそっちも切り落として!」なんていわれて自分本意なのはどっちだと思う?いやどう考えても勝手に覗いてきたほうだろ。
こんなこと言ってると「お前らだってつり目ジェスチャーされたら嫌だろ」って海外の方から言われるけど何も思うところがない。だって黄色人種ってそういうものだから。
あれほど非モテ非モテとか言ってたはてなも、子育ての話題が増え、最近は住宅の話題が増えつつあり、あの頃非モテ言ってた人たちの人生の歩みが感じられて微笑ましいところです。
さておき「家は3回建てないと理想の家にならない」とはよく言われますがそんなの我々凡人には無理なので、家建てた経験のあるブックマーカーのみなさんから後悔やアドバイスをコメントいただけたら有用な知見が集まるのではないかと思います。
建てた経験無い方は「好きなかわりおでんの具」をコメントください。
それでは自分から(雑に書くとリアクションが大きい、インターネットの法則に期待)
・大手はモデルハウスの維持費や広告料がコストに含まれてることを心得よ。ただし金かければ品質は良い
・夏場の日射遮蔽さえしっかりすれば、高気密高断熱が住みやすい
・もちろん樹脂製のペアサッシ
・その時流行ってるテイストは時間がたつと飽きる(今だとブルックリンスタイルみたいなやつ)
・ガス乾燥機最高
本当それで筋が通ると思ってるらしい
本当面白いね
馬鹿にされて当然だわ
痛みがあるから食っちゃダメなんて理屈通るならごくごく自然な食物連鎖すらたちきるのかよ
頭悪いにも程があるだろ
これでいいだろ
変な理屈たてんなよ
頭悪いんだからよ
(1)植物ベースの食事による栄養のバランスを維持(サプリも含む)
(3)お財布に優しい
これを同時に満たすのは不可能では?
動物食抜きでは取りにくい栄養を常にサプリで補う必要があったり、特殊な調理法を使うと当然コスト的には高くなってお財布には優しくない。
最近でてきてる代替肉に関してもまず植物油脂が動物油脂よりも体に悪い側面があるので健康的とは言い難いし、動物愛護以外の面でメリットがそれほど大きいようには思えないんだよなあ。
確かに宗教の側面はある。自分が正しい・良い道を見つけたと思ったら勧めてみたくなるもの。
(1)植物ベースの食事による栄養のバランスを維持(サプリも含む)
(3)お財布に優しい
の3つを満たせるという条件付きでは「正解」で間違いない。
動物は苦しまない、健康的、新しいウィルスの発生リスクが低い、環境破壊が止まる(CO2・メタン排出が減る、水資源の負担が減る)など良いことだらけだから。
逆に言えば肉食・雑食は上記3点に対して
(3)安い肉は安い
という利点があるので手放すのが難しいのだろう。
まあ、余裕があって、環境保護に興味のある人からヴィーガンになっていけば良いのでは。
毛嫌いする必要はまったくない。