はてなキーワード: アジア人とは
どっちも本当嫌い。
アジア人がマイノリティになる環境で過ごしてるけど、日本に住んでる日本人が「海外だと日本人は被差別民!」みたいに発狂してるの見ると辟易するし(10年住んでるけど差別されたこと、本当にない。)、日本に住んでるガイコクジンが「日本人は電車で隣に座ってくれません。差別」とか言ってるの見ると「は??」と思う。
流石にこの内容は違和感しかなかった。なんだか頭でっかちで考えた日本から一切出たことのない人が書いたんだろうなって感じ。
「差別排除には覚悟がいる」が主題なのかもしれないが、海外だとそもそも差別がナチュラルにされていて
当然そこに根拠があるのだが、それだと本当に困るので落としどころを探しながら現在進行形で差別排除を声高に訴えている。
BLMで浮き上がったような、ヌルイ考え方の「ファッション差別反対者」も当然いるが、性犯罪者にはちゃんと位置情報が
タグ付けされているし、ゆるふわ差別反対者などの首根っこは押さえつけれれるぐらいに法制度はしっかり組まれている。
高度スキル移住者としては日本で伝わっているような「ゆるふわ差別反対活動のTV報道」みたいなものではなく、
ソリッドに議論された【法制度】に向き合うことになるので、ヌルイファッション差別反対とかとは違う世界をお伝えする。
統計的に優位にでている事象を無視してくれるほど甘くはない。不動産を探すとき人種で差別してくるし
(他の要素で優位にたっていないとそうなる)、職探しでもアジア人はまじめという要素は(知っているひとは)見てもらえる。
移民に出すビザにもこれまでの国同士の関係性、移住者の傾向ややらかし具合で区別の条件が盛り込まれている。
住むエリアに黒人が多いエリアはナチュラルに家賃が下がるので、治安が悪くなるし、ゴミが多かったりする。
それが差別になっているというより、完全に体験値として織り込まれているし、実際そういうアウトプットとして現れる。
日本ほど、生まれた時からほとんど死ぬまで、日本人にのみ囲まれているという状態は定常的に存在しない。
アメリカで年齢による差別がないとかいっているが、業務経歴みれば大体何歳かわかる
逆にキッズでそういうステレオタイプが生まれない状態で、小学校であった他の人種の仲の良い友達なんかが
いると、差別なんてない本当に神々しいまでのフラットな付き合いが生まれている。そういう融合というのもしながら
差別と融合を繰り返していると思う。
基本日本とは全く違う、どんな学校にいきどこに住み、どこで就職するかそのあらゆる場面で人種
国籍、色んな「緩やかな違い、差別」を受け続けるのが海外なのだ。
誰かが誰かを差別してはいけないでは全くすまないぐらいにそういうものがあるので、そのアファーマティブ
なアクションとして「差別をしない」というアクションも逆に常に意識するのが海外なのだ。
そして、個人的には日本でよくある移民問題みたいなのが頭でっかちに思えるぐらい、数世代前からその
問題を「体感」として織り込みながら生きているのが欧米だと思う。問題が出ながらその問題をなんとか
移民がいるかいらないかなんていう問題はなし崩し的に議論は終わってしまい、「差別があるかないか」なんて
問題も議論しているうちにどんどん個別具体的な解決策を見出しながら次のフェーズに行っているそんな感じだ。
そのために、法律もころころ変わる。
シェアハウスして横に住んでいる人が数か月ごとに違う人種になるような状態で彼らとうまくやるには
差別意識は持っていても、出してはいけない。当たり前だ。仲良くやるのが一番というのは誰もが
分かることだ。
つまり、常に「差別をされながら、差別をしないためにどうするか」を考え続けている。
また、そういうのが面倒な人は結局、高級なエリアに引っ越して、早々に白人どうしでよろしくやっている。
このあたりは国や街、いろんなパラメーターによっても相当に変わってくる。
しかし、基本的に「XX人」は「YY」な特性を持っているというステレオタイプは実際にその通りに発動することを体験として知っているし、
常々そういう風に考えることは良くないなと思いながら実際にはそういう形で発動してしまうやりきれなさをギャグにしたり、色々解釈しながら
法改正、ルール改正をしながら差別を生ものとして向き合っている生きているのが海外なのだ。
日本が悪いとかダイバースではないとか言いたいわけではないが、基本的に、地続きでない国で
元レスでいっている「原理主義者によるテロが頻繁に起きている宗教の信者の入国を拒否したり、彼らを集中的にスクリーニングすれば、多くの人がテロから救われるだろう。」
はまるで今されていないような言い方だが、アメリカでは滅茶苦茶されている。
そうでもない人にまでトランプがビザを発行しなくなったり生活の生殺与奪にまで以前の同胞のやらかしが思いっきり差別として現在進行形で影を落している。
うっかりイスラエルに行ってしまって、パスポートにイスラエルのスタンプがあれば
中東の多くの国には入れない。移民のビザを取るときもパスポートのスタンプ数はチェックされる。
黒人の犯罪者は多いことは当然知られているので、当然多めにチェックされるが、そもそもそういった人の住んでいるエリア
は固定されており、犯罪率も高いので、白人50%、黒人50%のエリアがあって、そこで1:9でチェックが黒人で厳しいなんていう
アメリカの一流大学ってレガシー枠とかいう親がその大学行ってただけで優先的に入れる仕組みあるのやばいよね。格差固定わざわざしてんのやばいよね。しかもアジア人マイナスなの白人枠守るためとかいうアファーマティブアクションが偽善でしかないことも問題化してるよね。入学も学力以外のボランティア活動とか意味不明な金持ちが得することが評価に入ってんのもやばいよね。
TL;DR
最近は「差別した」ということが攻撃の免罪符となることが私から見たネット界隈でよく見る(異論はどうぞ。私の感想です。)
それは、「黒人は犯罪者!」とか「アジア人は殴れ!」とか過激なものもさることながら、なんか「あっ」って思う程度のものも標的になる(具体例はいくつか思いつくが、挙げると「意識低い!」と俺まで攻撃されるので伏せる。議論をさせないこの世の中。)。
そしてひとたび「差別主義者」のレッテルを貼られると、非常に長い間そのレッテルを貼られ続ける。なぜか慈善活動とやらを複数年こなしてやっとレッテルがはがれるわけである。
謝罪をしても許さない。こんどは「謝罪の仕方」で再攻撃していく。(ただしごくまれに、非常に小さな問題に対して大仰な(しかし大仰とは悟られぬ)謝罪をすることで許されることがある)
これが全然「罪と罰」があっていないと感じている。これでは発言の心理的安全性など全く確保されない。(「心理的安全性があるから何言ってもよい」と言っているのではない。)
人間は時には間違ったことを言ってしまうこともある。即応性が求められる場面ではなおさらだ。
そういうときには、差別意識がなくとも(少なくとも「ある」というにはあまりにも小さい場合でも)言葉が出てしまうこともある。「言葉のあや」ということもある
その程度のことであれば、謝罪をし、そういう意図でなかったということを弁明すればよいのであるが、「意図は関係ない!」というめちゃくちゃなことで謝罪も否定するのである。
(「意識」を問題にしたのに「意図は関係ない」ってひどい話じゃないか?)
「人の嫌がることをしない」と同じくらい、「間違ったら謝罪する、謝罪したら許す」、ということは幼稚園や保育園で必死に教育することである。
しかし今の(私から見た)世の中はそうしない。果ては「被害者」をたきつけ怒れと脅し(時には「被害者」を罵り)、終わった話を時間がたってから蒸し返すようなこともある。
フェミニズムはホモソーシャル化している。もっと言えば、フェミニズムははっきりとホモソーシャルである。
ネットで称揚されるフェミニズムはミサンドリズムと分化していない部分が多く、基本的に男性を貶めることを目的に、フェミニズムの理念を歪曲し誤解した上で押し付けてくる。これはアンチフェミニズムの構造と殆ど相似形であって、末端における根本理念を理解していない愚劣なグループは常に加害的であり他者を貶めることを原理に活動することになる。
フェミニズムそれ自体は一種の旗印であって、様々な人間が集まってきて様々なことをわいきゃい言い合っているわけなんだけれど、実際のところ彼女たちの内で本当にフェミニズムの理念を実現しようとしている層は概して少なく、自身らに都合よく理念を曲解しその曲解された理念を持って周囲に害を為す層がボリューム層として存在している。
現代社会というのは極論すれば男性的ホモソーシャルであって、その原理は中長期的な利益の追求である。そのようなホモソーシャルにおいては、組織の運営に一見不都合があると見なされる分子が排除される傾向にある。例えば妊娠を経て退職する可能性のある女性社員や、あるいは内的倫理において結合している男性の幹部組織に不和をもたらしかねない女性たち、そういった分子を短絡的に「異分子」として、要するに会社や組織に不利益をもたらす存在として排除してしまうのが、現代の社会であり、ホモソーシャルなのである。無論、社会制度の漸進的進歩を信じる限りで、このような風潮には改善される余地があるだろう。
とは言え現代のフェミニズムもこのホモソーシャルを馬鹿にできない、というか完全に男性的ホモソーシャルの相似形としてフェミニズムはホモソーシャル化しており、一部のフェミニストはミサンドリズムをフェミニズムの根本理念と誤解しているかあるいは意図的に誤解しており、この層が男性に対して害を為している事実は見逃し難い。要は、内的に完結している(とされている)倫理を用いて、本来害の与えられるべきではない人々に対して害を為してしまう、そういう男性的ホモソーシャルにも見られる傾向がはっきりとフェミニズムにも現れているのである。そしてフェミニストらはこういった末端の暴走している層をコントロールできず実質野放しにしていて、その間にも末端層は自身の誤解に基づく内的倫理をエコーチェンバー的に深化させ、更に救い難いものへと変えていく。そしてそのような歪曲された理念を旗印に、更に多くの末端層が集結しつつあって、言わば脳によって手足が管理できていない状態に陥っているのである。
男性的社会においては利益こそが原理であり、中長期的に利益を生むシステムに矛盾する(とされる)存在は排除されてしまう。そこに問題がある。とは言え、末端の人々が信じているフェミニズムはそもそも根本的な原理に即してさえいない状態で暴走しているのである。女性たちよ、君たちはホモソーシャルを組んだ。その結果、その内的倫理にそぐわない人々が排除されるという現象が起こることは最早避け得ないどころか現実の事態である。原理や理念を徹底してさえおらず、曲解された倫理によって他害が発生する構造はフェミニズム特有の構造であり、社会に蔓延している男性的ホモソーシャルには一応見られない構造である。どちらかと言えばロシアの田舎でアジア人をリンチしているネオナチとかに近い。修正するように。