TL;DR
最近は「差別した」ということが攻撃の免罪符となることが私から見たネット界隈でよく見る(異論はどうぞ。私の感想です。)
それは、「黒人は犯罪者!」とか「アジア人は殴れ!」とか過激なものもさることながら、なんか「あっ」って思う程度のものも標的になる(具体例はいくつか思いつくが、挙げると「意識低い!」と俺まで攻撃されるので伏せる。議論をさせないこの世の中。)。
そしてひとたび「差別主義者」のレッテルを貼られると、非常に長い間そのレッテルを貼られ続ける。なぜか慈善活動とやらを複数年こなしてやっとレッテルがはがれるわけである。
謝罪をしても許さない。こんどは「謝罪の仕方」で再攻撃していく。(ただしごくまれに、非常に小さな問題に対して大仰な(しかし大仰とは悟られぬ)謝罪をすることで許されることがある)
これが全然「罪と罰」があっていないと感じている。これでは発言の心理的安全性など全く確保されない。(「心理的安全性があるから何言ってもよい」と言っているのではない。)
人間は時には間違ったことを言ってしまうこともある。即応性が求められる場面ではなおさらだ。
そういうときには、差別意識がなくとも(少なくとも「ある」というにはあまりにも小さい場合でも)言葉が出てしまうこともある。「言葉のあや」ということもある
その程度のことであれば、謝罪をし、そういう意図でなかったということを弁明すればよいのであるが、「意図は関係ない!」というめちゃくちゃなことで謝罪も否定するのである。
(「意識」を問題にしたのに「意図は関係ない」ってひどい話じゃないか?)
「人の嫌がることをしない」と同じくらい、「間違ったら謝罪する、謝罪したら許す」、ということは幼稚園や保育園で必死に教育することである。
しかし今の(私から見た)世の中はそうしない。果ては「被害者」をたきつけ怒れと脅し(時には「被害者」を罵り)、終わった話を時間がたってから蒸し返すようなこともある。
謝らせ続ける側も「罪と罰」が合っていないと思っているよ その為に明文法に基づいた刑罰とその執行があるはずなのにね
何が針で何が棒かは私が決める!
ワイのは細いから針やで 増田は太そうやから棒やな
「許す」ってのは結構ハードルが高いし、当人の感情や価値観に依る所が強いので「不問にする」のくらいが定量的で望ましいだろう。
わかる 問題を解決しようとしているのではなくて、ずっと被害者で居たいだけの奴な そしてまた、相手を↑のような被害者ぶりたい層であると決めつけて加害する輩も多くいる こんな...