はてなキーワード: つのとは
室町時代も江戸時代も、当時の人はそう呼んでおらず、後から付けられた名前だ。
なのでこれらはより大きな時代にまとめられるだろう。
終戦で一旦時代を区切るのは、なんといっても国の主権が天皇から国民に移るためだ。
国の中心が変わると社会が大きく変化する。
歴史の大きな流れとしては、武士の時代から天皇の時代、国民の時代へと変わっていく流れとして理解されるだろう。
明治維新から終戦までの時代は、俺なら「帝国時代」と名付ける。
鎖国から解き放たれ、天皇を頂に据え世界に挑もうとした時代に相応しい。
そして終戦から現代を超え未来まで続く時代は、正直俺にも分からん。
まだ知らない未来の出来事によって名前が付けられる可能性もあるので
その時代が終わった後でないと、名前を付けることはできないのかもしれない。
何か思いつく名前はある?
はてウヨ・はてサヨのそれぞれ両側について、それら界隈内に対する自浄作用などは無い。
彼らは同胞にとことん甘い。揶揄や侮辱、悪意ある妄想で相手を決め付けたり、セクハラ染みた暴言など、普段は批判の対象としている振る舞いでも、身内側から敵側に向かってさえ向いていればいくらでも許容するし、無限の詭弁を弄して擁護する。
流石に言葉では擁護し切れない酷いものであっても、スターを付けたり、「特に苦言を呈さない」という形の援護を行う。
そしてそういう酷いユーザーがまた別の案件で、それなりにまともなコメントがあれば、そちらにスターを付けて支持する。お前を見放していないぞと勇気付ける。それをただの是々非々だと嘯く。
ただこれを「はてウヨとはてサヨを合わせた一つのコミュニティ」と見た場合、実は自浄作用の様なものが見えて来る。
ここ10年くらい継続して見て来ている人なら感じられるかも知れないが、ウヨサヨ各位はものすごく行儀が良くなっている。「○ね」「キ○ガイ」の様なキャッチーな暴言は今や殆ど見ない。暴言を羅列するブックマークタグも大幅に減った。相手を揶揄や批判するつもりが行き過ぎて差別発言や誹謗中傷が出た時も、それを諫めるコメントの方にスターが集まる様になった。
敵の目があるから自分を律する。敵の落ち度があれば全ての力で攻撃する。その結果でしか無いものではあるが、どうあれ「自浄作用をそれなりに備えたコミュニティ」の様な体裁ができている。
何が言いたいか。
お前の最大の味方は、お前を甘やかし堕落させる同胞などでは無く、お前が敵だと思っている相手である。はてウヨユーザーにとってははてサヨが、はてサヨユーザーにとってははてウヨが、手の付けられない怪物であるお前を少しマシにしてくれる厳しい教師なのだ。
仲良くせよ。憎むな。ケンカすな。
これはウヨ・サヨの対立軸に限った話では無い。はてなに限った話でも無い。自分に甘く他人に厳しい愚か者の寄合いは、同レベルの敵対勢力と融合する事で中和される。
敵と仲良くせよ。万事仲良く。
●「家族や周囲の人とギスギスしていて、ちょっとしたことで言い合いになる」
●「ふと気が付くと『最近の若いモンは』『近ごろの政治家は』と呟いている」
●「飲食店の若い店員がモタモタしていたり敬語を間違えたりすると腹が立つ」
●「ネットの炎上案件を見つけると、ヤフコメの罵倒コメントを読んでしまう」
●「同級生の中から、自分より苦労してそうな友人は誰かと考えることがある」
5つのうち4つ以上当てはまるなら、クマを駆除した町の役場に電話して罵声を浴びせたり、あるいは救急隊員がお茶を飲んでいたと消防署にクレームの電話を入れたりする人になるまで、あと一歩です。
書いた増田でさ、
仮にトラバがたくさん付くとするでしょ?
ブクマもたくさん付くとするでしょ?
そうすると、
すごいこれで生きながらえてる人多いと思う、
さすがに俺のおかげでお前たちブクマへスターたくさんもらえただろ!とは言わないけど
その木陰に色々な動物たちが集まってきて賑わっている感じ。
俺はそんなみんなが、いろいろなトラバやブクマにそれに付くスターがたくさん付くような大きな増田を書きたいんだ。
なんか言ってること分かる?
いろんな話題が交錯して賑わっているトラバにブクマそれにつくスターとか。
俺はそんな増田を書きたいよ。
そう思わない?
苦手なチームを組んで1つの仕事を動かしている。一応のリーダーはいるが、「……いいよね?」とやや弱気な上に、積極的に発言したり提案をすると自分がそれを進めないといけないことを皆わかっているので、様子を伺っている。
それ故にMTGがさくさく進まず滞りがちに。
皆四大卒で優秀だが、やや真面目過ぎな所がある。
自分は中卒で、奇妙な縁で中途して入社したが、もちろん期待なんてされておらず給料も断然に安い。
その分(?)色々な経験をしているので、今回新たな風をということでチームに入った。
まだまだ終わりは遠いが、現時点で一番痛感したことは、皆「感覚」で動いていないということ。
Aが持ってきたコンセプトデザインが「ふざけてるの?」と聞きたくなるもので、Bが持ってきたデザインは口に牛乳を含んで見せられたら吐き出すレベルのものだった。
それを見たC~Fは「いいねぇ」と次々に口を開いた。
「こいつら本気か」と自分は慎重に皆の様子を伺ったところ、本当に本気だった。
「AとBのこのデザインは誰から影響を受けているの?」と質問して返ってきた人物が1人もわからなかった。
教えてもらって人物のSNSを見ると、全て胡散臭いスタートアップ企業のCEO的な奴で、どれもこれも全てダサく見るに耐えず。
机の上に虎屋が置いてあったので、葛西薫の話をしたら誰も知らなくて愕然とした。
我々はデザイナーではないが、プロ野球選手がイチローを知らないくらいヤバイ。
ここで自分が後悔したのが、今まで「感覚を言語化したことがなかったこと」だった。
ずっと(今も)音楽をやってきたので、フィーリングで通じることがほとんどだったし、音楽やアートやデザインの趣味も合う人ばかりで過ごしてきた。
確かにA~Fは真面目だが、物事を順序立ててきちんと説明する事ができた。筋も通っているし、意味も理解できた。
しかしダサい。これは自分にセンスがあるとかそういう話ではなく、ただ純粋にダサい。ダサさしかない。
自分にはそれを真面目なA~Fに理解させられるわかりやすい話術も理屈も持っていなかった。
今までは「○○ってよくない?」「あーわかる。めっちゃいいよね」位で通じ合えていた。
というか、知り合いのデザイナーやカメラマンは自分に合わせてくれていた説もある。
とにかくこのダサさを世に出しては駄目なので、どうにかならないかあらためて皆の話を聞いていると、「数字に弱い」「権威主義的っぽい」感じがした(これも感覚的な意見)ので、調べて数字と恐らく好きになるであろう六本木未来会議のことを教えたら食いついていた。
長くなったけど、感覚的な意見を言語化して、尚且つリーダーシップを発揮してチームをまとめて仕事を進められる人こそ一番凄いのでは?
自分には無理だ。
アクセスが多い記事はもれなく初心者向けの底辺記事、または間違ったことを書いた炎上記事である。
専門的で正しいことが書かれていると誰もアクセスしない。または、単に「専門的っぽさ」だけでブクマを貰える場合もあるので、内容をちゃんと理解してもらえない。
備忘録目的の場合は、ブログという形態を取る必要性があるのかという話になる。
Qiitaで技術記事を書くにしても、他者からのレビューがまともに機能した試しがない。
誰もが知っているようなありふれたことを書くよりも、ユニークなことを書きたいとも思ったりする。
しかしブログにアクセスが増えるためには3年は継続的に書かなければならない。
月イチで書くとして、毎月書けることが好ましい。そう、投稿の頻度はとても重要である。
毎週書くという目標は、記事の質を下げ、「とりあえず何かを書こう」という雑なやり方になってしまう。
若いというだけで全ての人が将来高スキル人材になれるわけじゃないからな。普通難度の知的作業を普通にこなせる程度の知能じゃ機械に取って代わられる時代なら特にそう。
介護産業は、直接は輸出・外貨獲得には繋がらないが、低スキル人材がこれを提供することで高スキル人材の介護離職を防げる、経済性の非常に高い分野だ。
よく勘違いされてるが、団塊や団塊ジュニアが死滅した後も、高齢化率は悪化の一途を辿る。高齢化率は出生率と平均寿命で決まり、出生率は団塊ジュニア時代よりも悪化しているからだ。厚労省の試算では、いま30%に過ぎない高齢化率は40年後は38%に増える。
人口減少に伴い市場規模は縮小しても、介護産業がGDPに占める割合は増加を続ける。
清潔感なんて曖昧なクソワード!って言うやつの大半は、実際は周りから見たら不潔そのものだけど周りの人が気遣って清潔感がないってやんわり言ってるだけなのに気付いてないんだけどな。
「あなたを儲けさせてあげたい1000万円儲かりますからまずここに100万円振り込んで下さい」と言う相手に「この人は私を儲けさせたいと思ってるんだな」
殴る蹴る刺す撃つの行為を加えながら「あなたを愛している」と言ってくる相手に「この人は私を愛しているんだな」と考えるコミュニケーション巧者
私は調査活動に疲れ果て、xxランドの不思議の国のアリスのティーカップの中で眠り込んでしまったようだ。ティーカップはその間もクルクル回っており、私はいつのまにか保険会社の営業担当になって電話口でアウトバウンドをしている夢を見た。「今ご契約されればxxランドのティーカップ利用優待券がご利用頂けます。…いえ、残念ですがDカップではなく、Tカップです!…いいえTバックも使われません!お客様がカップに乗りこむものだからですね…
「あの……どうしてジーンズ履いてるんですか?」
という質問を修辞疑問のニュアンスで問いかけたことが恐らく一度もないし、
「なぜその服装なのか?」という質問の他意のないバージョンは、
例えば友達が真冬にもかかわらず半袖のポロシャツを着て待ち合わせ場所に現れたので思わず
と尋ねたとかそういうのしかない。
「どうしてジーンズ履いてるんですか?」
という問いかけに
というニュアンスが込められているとしたらこのお客さんは頭おかしいし(法人タクシーの運転手に対してなら分かるけど)、
仮に世間話の一つのつもりだったとしても自身の衣服の選好の動機を秒で客観的に掘り下げて言語化する能力がないので答えに窮する。
5秒くらい考えてから
「このジーンズは弟の形見で……弟とは凄く仲良かったのでなんかいつも履いちゃうんですよねえ」
とデタラメを答えたらお客さんは
「はあ……」
と不服そうなリアクションをした。マジで「はあ……」って言ったからな。
なんか熊の駆除に猛抗議してそうな人だなと思った。
日本男がゴミカスかどうかと、こいつの夫がくずであることは関係ない
くずでも、くずの嫁でも、一生懸命生きてるなあ、それくらいが他人として最大限接近した適切な感想だ
記憶しなさい
色じゃなくて音で考えたらどうか。
ある音を聞いたときにAさんには聞こえてBさんには聞こえない場合がある。
これは、
①音量に対する感度、すなわち聴力が異なる場合→耳が悪いBさんには聴こえない
②感知できる振動数の幅すなわち聴こえる音の高さの幅が異なる場合→例えばモスキート音みたいに高い音は高齢者のBさんには認識できない
音が空気が振動する波であるのに対して、光は電磁波という波で波長(=光速/振動数)で色が決まるが、その色の認識には同様に個人差があると考えられる。
なので、健常者同士が同じ赤色を見ていても認識は異なる可能性が十分にある。例えば、解像度にも個人差があるだろうから、
RGB=(255,0,0)とRGB=(254,0,0)で「はっきり違う」と認識する人もいれば「同じである」と認識する人もいると思う。
男に多い色覚障碍者(ある閾値を超えた個人差を持つ人)の場合、赤と緑が同じに見えたりするというので、人によって見え方が異なるのはごくごく自然なことと考えるのが妥当であると思う。
エビデンスとなる論文でも示せればよいのだが専門ではないので詳しくは有識者のトラバを待ちたい。あくまで一つの意見として参考まで。