はてなキーワード: 限界集落とは
ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。
信頼できる随伴者がいるのだという、寄り添い型の支援、それが基本だっていうのは意見は理解できる。
そして今のこの発災直後1ヵ月未満というタイミングで必要なマインドだろう。
罹災証明手伝います、とか公的支援がこんなのあります~とか、支援者側が見えているものをわーわーと情報洪水で押し付ける、とか避けるべきだし
そこはそろりそろりと小出しに情報提供してみて被災者が腰を上げるかどうか様子をみるしかない。
ただ、「対等にフェアに扱わなければならない。」という、その気の使い方、その言葉の端々に、当事者から離れた立場がそもそも出発点だというジレンマもあろうね。すでに知らず知らずに上から目線がにじんでいるよね。
ただ大切だっていうのはわかるんだけど、でも長い目でみて、寄り添いってそこまで大事かな、そうかな?とおもうとこもある。どちらかというと、つかず離れずなのかな、と。
今後の人生を決めるのは支援者じゃないしね。彼らの人生の何がわかるって、結局何もわかってないところからスタートするわけじゃない。
支援者としては突き放した部分というのも重要じゃないかと思う。
よく災害復興は発災直後からスタートするっていうように、これから少しずつ復興の話をしなければならないなかで
は極論だとしても、それに幾分かでも近づくニュアンスの主張というのはどうしたって誰か彼かから出てくるもの。
そのときに、信頼関係というのがむしろ邪魔になることもあると思う。
信頼関係ができて人間関係が密になると、知らず知らずに同じ人、仲間内の人としか話をしなくなるってことがある。
話し合いの場で、いろいろな人がいろんな考えを持っている、ということを排除するムードが自然とうまれていく、といってもいいんだけど。
そとからみると、内輪で鉄壁のなわばりがつくられてしまって、はたからみて何かいいたいことがあっても声をかけにくくなってしまう。
ちょっとでも被災者の心情に傷をつけるようなことをいうと、お前は被災者に真に寄り添っていない、と断罪の目線をむけてられてしまう。
支援者同士の分裂や被災者の分断ってそういうダイナミズムで生まれることが多い気がするね。共産党的マインドっていうか。
強い信頼関係が知らず知らずに、他者との温度差にかわっていくのって案外自分では気が付きにくいもの。
連中がどんだけ何もわかってないか
恐らく敵が増えていくプロセスって自分じゃなかなか、わからないだろうな。気が付かないだろうなと思ってしまう。
それは逆に、本当にあるべき地域の姿を考えようとするときに足かせになる。
むしろその地域を全然知らないような無礼にも乱暴にもみえる支援者がわーっと闖入しては去って行ったり、そういうことが許されるような、
ゆるゆるなオープンな空間のなかで、自由な発想が開花する、ということがあるかもしれない。
それは苦労して信頼関係を築いた先行者にとっては不快な雑音かもしれないのだけれど、案外そこに突破口やら解決の糸口がみつかるってこともある。
信頼関係はもちろん大切だけれども、それと同時に、多様性を受け入れる下地を作っておくことって大事だと思うね。
言うは易しで、空気が乱れ、不協和音があることこそが強みだという、そこまで突き抜けて達観することはもちろん自分でもできないけれども。
まあネットの空騒ぎの内容が今の段階で避難所の年寄りに直接伝わってはいなさそうだけど。
よく「心のケア」という言葉が使われるが「戦力の逐次投入」と同じように意味わかってないのに言いたいだけの奴が多い。
DPATみたいな専門家の仕事だけでなく災害時の「心のケア」において大きなウェイトを占めるのはこの先の身の振り方について見通しが立つかどうかということだ。
と言っても被災者のいうがままに迎合するのはむしろ子供扱いしてるのと同じ。ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。
いますぐ先々の具体的なロードマップが見えてなくても、それを模索・策定していく上で信頼できる随伴者がいるのだという、支援側との信頼構築が重要。
という基本ラインをふまえたうえで再びくだんの空騒ぎを見ると、連中がどんだけ何もわかってないかということがいっそう明確になる。
ではないよ。書いた人間だが。
私が言及した高齢者福祉の分野の話だが、支援の現場ではまさに被災地へ支援要員を送り込むべきか、それとも受け入れ先を模索すべきか、という議論がずっとあって、そしていまもある。そしてそれに対して、私は現地派遣を増員するよりも、受け入れ先を増やすべきという意見だ。
しかし、大勢の意見は現地での支援要員の拡充。そういう方向でしか解決策を見出せない現状に対するいらだち、ととらえてほしい。
この分野の支援はどうしたって息の長いものになるから、支援のための最低限の公共インフラが復旧の見通しが立たない現状では、
たとえていうと、自分の家族の問題とおきかえれば、在宅介護にこだわるべきか、施設にいれるべきかという葛藤に近い。
できもしないことにこだわると、支援者も疲労するし、支援が継続できず結果として介護される側のBHNも満たされないという、悪い方向へ向かう。
私は、ドマイナー限界集落ジャンルで二次創作小説を書いている。ジャンル自体がドマイナーなため、当然推しカプの知名度も低く、現在推しカプで活動している人の数はおそらく片手以下。ROMもほぼいない。
私は二次創作が下手だ。文章も構成も、とにかく作品を構成するなにもかもが下手。自分の作品に対しては、稚拙で見るに堪えない、という評価しか下せない。自分で見てこの評価なのだから、他者から見たらもっと酷いのだろう。
だが、そんな私を気にかけてくださる方もいる。同カプの絵師・Aさんだ。
Aさんは商業でも活動されている絵馬で、フォロワーも多く、支部でメジャージャンルを描けば4桁後半のブクマをじゃこじゃこ取っている。
Aさんはいつも私の作品を褒めてくれる。これは私の二次小説が優れているからではない。いわゆる、「これしかない需要」というやつだ。それくらい、馬鹿の私でもわかる。
Aさんは以前私に「あなたの二次小説を、もっとたくさんの人に読んでもらいたい」と言っていた。
その言葉通り、Aさんは拙作をリプライで、引用RPで、空リプで、他者に見える場で熱烈に褒めちぎる。その度に、私は苦しく、惨めで恥ずかしくなる。だって、Aさんがいくら私を持ち上げようと、私の実力が5しかないのだから、5は100にはならないのだ。そして、Aさんのフォロワーも5を100として受け取らない。Aさんがいくら私を分不相応に持ち上げて、布教するかのように晒し上げたところで、拙作への評価が増えたことは一度もない。
Aさんの褒め言葉は、タイムライン上で、彼女の5桁近いフォロワーの目の中で、上滑りしていく
私は他者の評価を求めて二次創作をしているわけではないので、評価されないことそれ自体は苦ではない。
ただ、上滑りしていく虚しさが、ままごとのような恥ずかしさが、たまらなく辛い。自分が出来栄えに納得していない自作を褒められることもまた辛い。
こんなことを言うと、ブロックなりブロ解なりすればいいと言われるだろう。だが、私はAさんの描く推しCPが大好きだ。Aさんに存在を知られる前、私がROMの頃から匿名箱を使って熱心に感想を送っていた。それに、Aさんは同カプの話ができる数少ない、というかほぼ唯一の友人でもある。私はAさんとの縁を切りたくはないし、まだ書きたいものがあるから二次創作もやめたくない。
せめて、過剰で分不相応な褒めはDMなどのクローズドな場でやってくれないだろうか。そう思って、しかし良かれと思ってしてくれていることなのに角を立てるのも、私の自意識が過剰であることがAさんにバレるのも嫌で、今日も私は何も言えなかった。
限界集落のインフラや福祉に投資させて石川県を疲弊させればさせるほど金沢を捨てる可能性は高まるでしょうね。
金沢に人が集中すると企業も商売しやすくなるし、インフラや福祉が効率化される分石川県の財政にも余裕ができて投資もしやすくなる
過疎化した石川県、能登半島の限界集落の実態をはてなブックマークのユーザーたちは理解していないのでは?
限界集落って、人が減っていくだけではないんよ。
1.人が減っていくことで町の求人が減る。
2.求人が減ったので、若者たちが仕事を探して大都市(東京や大阪ではないよ)へと出ていく。
5.子供を育てられる環境ではなくなったので、子育て世帯まで町を出ていく。
これに加えて、高齢化による労働者人口の減少、駅やバスの廃止もおきる。
というか、私のおばあちゃんが住んでいた町はそうなった。
そんな地域をお金をかけて復興するの?被災した住民を説得して復興予算で大都市(東京や大阪じゃないよ!県内のって意味だよ!)に移住してもらったほうがよくない?
うちのおばあちゃんが住んでた町なんて、駅も郵便局も学校までなくなっちゃって、トンネルを抜けないとスーパーすらなくて、しかたがないから白タク使ってみんなで月に数回買い出しに行ってたよ……。