はてなキーワード: 自己肯定感とは
整形して美人になったからではない。顔面偏差値35くらいから38になったとは思うので確かにやや美しくはなってるけど、でも偏差値65以上になってめちゃモテ委員会かいうとそんなことはない。
自己肯定感が上がった理由は、自分好みの顔の系統になれたから。以前は重い一重のせいでキツイ印象のブスだったのだが、目を整形して丸くできたことで、やさしい顔立ちのブスにクラスチェンジできた。
好きな服に着替えたような感覚だ。好きな服であれば別に偏差値70の着こなしじゃなくてもハッピー。それを着て外を歩けば元気が出てくる。
ああ私ってやさしい顔立ちのグループなんだ……と思うと嬉しくて自然と明るくなれる。人見知りだったけど声かけるとかもへっちゃらで、モジモジしない。自己肯定感ってすごいなと本当に思う。自分を愛することで生まれるパワーは無限大やで
独身でも毎日楽しく生きていたはずなのに、何だか突然寂しくなってしまって、ズルい人間なので数年前ちょっといい感じだと思ってた人に連絡取っちゃった。
でも1週間くらいLINEしてたんだけど、既婚者になってた。
そうだよね、あれから何年経ってるのって話だよね。2人で出かけたりもしたはずなのに、疎遠になっちゃったんだよね。
縁がなかったんだなぁって思って、別にここから何かしようとはしないし、道は踏み外さないよ。
コロナ禍を生きるのに精一杯だったんだけど、皆いまどうやって出会ってるの?
所謂婚活の場だと、私はたぶん記号的に弾かれてしまうスペックだから、自己肯定感バク下がりしそうなんだよね。年齢的な意味で。
楽しく過ごした過去のことを後悔はしないけど、このマスク生活で本当に皆どこで出会ってるの?
でも職場と家の往復じゃ本当に何もない。
気持ち切り替えよう。
そうか! ヒントは蛙化現象にあったんだ!!
男が今までとは打って変わって、蛙のように醜く見えてしまう、それが蛙化現象。
自己肯定感が低い女性は「こんな私のことを好きだなんて程度の低い男性に違いない」と思ってしまう。
その思い込みに合わせて男性の脳内イメージも歪んでしまうのだ。
女の私たちは化粧を社会から半強制されて、常に見た目に気を配らされ、友だち同士でも相互監視している。
「こんな私の仲間にワザワザ入ってくるのだから、見られる意識に相当自信があるに違いない」
取るに足らない与太話増田だけどさあ、なんだかんだいってアニメのルッキズムに辟易してるのって男オタクの方なんじゃないの
オタクの女ってなぜか非オタの女より自己肯定感高いけどオタクの男は非オタの男より卑屈でネガティブなんだよね
女だとリアルに接してる人間の方がルッキズムに晒されてるのを実感して病んでるのに男だとアニメ見てる方が容姿の絶対的な価値を認識して勝手に絶望してる感じ
私は幼少期から低血圧で、季節の変わり目や低気圧にも弱い体質である。毎朝目覚まし時計が耳元かつ大音量で鳴り響き、母親に布団をはがされても目が覚めない。意識がはっきりせず時間感覚も希薄なので、毎朝お決まりのように遅刻する。家族や友人、学校の先生など様々な人達には本当に迷惑をかけてきたし、ため息をつかれたり責められたりして毎朝悲しい思いをしていた。自己肯定感が低めであることを社会人になってから自覚したのだが、これは幼少期から続いている「自分の身体をコントロールできないもどかしさ」「寝坊や遅刻に伴う罪悪感」が根底にあると思う。
しかも、どれだけ早寝をしても睡眠時間と身長が伸びるだけだった。こうなると、何が何でも成長したがっていた身体側のバグだとしか思えない。健康優良児かつ問題児である。
職場の上司にも入社直後に相談をした。幼少期から朝起きられないことが悩みであると告げると「気持ちはわかるよ。私も低血圧で朝が苦手なんだ。熱いシャワーを浴びると目が覚めるから、あなたもやってみてね」と笑顔でアドバイスをいただいたのだが、雷に撃たれたかと思うほどの衝撃であった。私はどうやったら意識を取り戻せるのかというレベルの話をしているのであって、「目覚める」の解釈が根本的に違うのだ。あまりにも話が平行線だったので、社会人になってからは平日21時台には布団に入るようになった。なお、それでも社会人2年目までに3度ほど遅刻経験がある。職場の先輩方からは身体を気遣われ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
私が毎日アラームの音に気がつけるようになったのは、身長が完全に止まった社会人3年目の夏だった。ちょうどその頃、有名大学の起立性調節障害専門の先生とご縁があって「困ったら相談しに来てね」といただいた名刺が今も私のお守りになっている。
これは毎日試行錯誤する中で最近気がついたことなのだが、私が起きるまでには5つくらいの工程があるようだ。
①アラームの音に気がつく→②右目を開く→③両目が見えるようになる→④頭が起きる→⑤身体が起きる
まず、目覚まし時計が聞こえなかった幼少期は①で躓いているので論外である。もはや毎晩失神していたのでは?とすら思っている。
最近の課題は②→③なのだが、同居人に「左目はまだ寝てるの?」と聞かれてようやく、自分が右目から開けていることを自覚した。なぜか左目を開けるのがとんでもなくキツい。試しに動画を撮ってみたら、無理矢理開けた左目が内斜視になっていてびっくりした。その斜視が治るまで10分ほどかかっており、その間に睡魔に負けると二度寝する。しかも、③→④→⑤はスムーズにできる。私にとって、頑張ればよいポイントを見つけられたのはとても革命的だった。
思いつきで書いた文章ではあるが、この記事を読んでいる誰かの気づきになったり、毎朝格闘している同志が見つけられたりしたら非常に嬉しい。
元々結婚式挙げるレベルで自分が好きな人間が、結婚式で祝福されて更に舞い上がってお花畑状態になった時の最高まで高まった自己肯定感の中でしか使えないよこんな言葉。
考えたやつ天才だわ。
題名の通り、他人の解釈が怖くなった。漫画とかアニメとか映画とか小説とか、そういうのを読んだ後に他の人の感想とか反応を見たりするのが好きで、アニメなんかも2周目は感想付き(アニメをリアルタイムに実況するやつ)をよく見る。普通の感想だったらまだいいけど、表現とか、描写とかに筋道立てて作者の意思とか何を表現したかったのか、といった風な考察とか解釈が怖い。現代文の答え合わせをしているようで、とても怖い。文学的要素、というか行間を読むような作品とか。具体例を出すとシャニマスのような作品。趣味の範囲内なんだし個人で楽しめばいいというのはもちろん分かるけどそういう他人の解釈が自分が思った事と違うと、とても悲しい。間違いじゃないと分かっていても、そっちの方が確かに正しいなってなって。自分はなんて浅いんだろう。これで好き、なんて言えるのかとか。けれど見ずにはいられない。自分の「好き」が正しい好きかどうか確かめなくちゃいけないから。ここまで書いてみて自分の自己肯定感の無さを感じるなーとか、他人からどう見られてるか気にしすぎじゃない?とか思った。SNS、やめた方がいいのかも。分からないけど
アレだ、自由意志みたいなもんだ。
まあ確かに納得はさせずらいけどさぁ。
アレだ、自由意志みたいなもんだ。
動物とかコンピューターとか宇宙人に説明しろと言われても口ではうまく言えないけど
昔の人も言っていた。
タイトル通り。
彼女いない歴=人生かつ女の子と手を繋いだこともデートした事もない純粋童貞だ。最近では特に珍しくない普通の人間です。
そんな純粋童貞を代表して問わせてもらうと、恋愛の何が素晴らしいかが不明ということです。
違和感は小学校の教科書で説明を読んだときからあった。説明を読んでも実感としてピンと来ないんだ。恋愛もひょっとして自己啓発本を売るための口実なんじゃないかってくらい、感覚的に理解できない。
ちなオタクでもあるので、より一層の解らなさが募る。
だって、本当にそれが素晴らしい趣味なら、誰かが布教活動するハズじゃないですか。
こちとらVtuber もアニメもSFもmacOSも自作キーボードも、それぞれで沼ったジャンルを推してきたんですよ。
カタギの人にも良さみが理解できるように、解説記事を書いたり宣伝活動をしてきた。
はてな匿名ダイアリーでも、推し増田、お馴染みでしょ?
なのに、恋愛のススメ、という内容の記事は一切見たことがないよね。
これって恋愛が特に人生において重要ではない、“客観的証拠” だと思う。
お気持ちの非難・対人論法の罵倒では破壊不能な “客観的証拠” がここにある。
タバコやパチンコ、ソシャゲ、お酒にも縁遠い人生を送ってきた。
付き合いで酒くらいは飲むけれど、一人で飲んでもドーパミンは放出されない。
同じように、恋愛もしない。今までは人生の欠損のように思っていたけど、よく考えると逆だ。
恋愛をしない事で他のよりコスパのいい趣味に可処分時間を注げるんだ。
僕らって実は——…恵まれてる。
むしろ最低限死なない程度に生きられてるだけで
俺ってすごいという気分になれる
少なくとも一部の人達はこのことこそを「自己肯定感」と呼んでるっぽいよ。なかなか理解に苦しむ定義ではあるけど、字面の意味合いはどうでもよくて、要は信仰の一種なんだと思う。神に祈りを捧げていれば現状がなんであれ死後救われるための徳を積み上げていると信じるのとほぼ同じことっぽい。
なぜか「自己肯定感が低い=悪いこと」みたいに言われるが
自分は同感できない
もし自己肯定感が高かったら
「俺が女に愛されないのはおかしい」
でも俺はそうじゃないから
***
むしろ最低限死なない程度に生きられてるだけで
俺ってすごいという気分になれる
***
自己を甘やかすのは慎みたい
人間の発育における親の愛をやたらと過大視する風潮がとっても苦手なんだけど(親からどんなに愛されたところで社会に出たら劣った人間は排除されるし自己肯定感なんてどんどん下がるから)
「フルーツバスケット」という漫画に、主人公の友達の一人に特殊能力が使えて服装はいつも黒ずくめの女の子がいて
そういう特徴はそれまではギャグだと思われていたけれど、途中で実はその能力を理由にいじめられていて
いじめっ子に能力で報復して傷つけてしまった、黒い服はその戒めだって明かされて
その子は家族からは無条件に愛されていたんだけどでもそれだけじゃ足りなくて寂しくて
家族からどんなに愛されていても、他人からの承認を必要としてしまう、それは悪い事じゃない当たり前の事だ、ってエピソードがあって
一般的にネット民、ネットユーザーとしてネット上に文章を残す人達が存在するが、
ネット上に文章を残すには、それに相応しい自己肯定感や承認欲求があると思っている。自己肯定感については、よくネット上で自己肯定感がないといった文言を見る。しかしそれを全世界に垂れ流してる時点で変な感じがする。自己肯定感があった頃は何とも思っていなかったが、自己肯定感がなくなりそうな私は自分がネット上に文章を残すこと自体汚らわしいことだと感じ始めたからだ。一部のサービスでは辞めた。また、言葉を検索すると自分の存在が出てくるから、場合によってはそれを意識しなければならない。自分の主張を発信する際に、それが特に恐ろしいことではないだろうか?検索という不特定多数の人が行う行為に自分の存在を押し出すということに恐怖感を感じ始めた。そこで、検索をあまり意識しない(最低限のモラルは守っている)スタイルで全世界にキモ言動をしていた過去の自分が恐ろしく感じ始めた。自分の過去の発言はどうあがいてもキモくて自己主張してはならないものだという意識が根付き始めたからだ。その文章は消したが、ツイッターYouTubeニコニコ2chなどで自分を押し出すことに専念していた頃の自分が怖くてたまらない。そこで私の今はネット界隈の中で自分を押し殺すことに専念し、発信することを辞めたいと思っている。この文章もキモいかもしれない。ネットに文章を残さず、見るだけの人達、その人達はかなり賢いのではないだろうかという考えが浮かんだ。