はてなキーワード: 偏光とは
瞑想は巷で耳にするような類のスピリチュアルな体験をするための方法または目的は別のところにあるのではなく、瞑想をする事・瞑想のために特別な時間をとる事に意味があるのではないか、という印象を抱く人が多いのではないか。
単純に瞑想をしたらこんな対価があるよ、っていう様な単純な原因と結果の関係にあるんじゃなくて、自分の中に瞑想空間を作り出すことに意義を見出している。
話が少し飛ぶと、僕らは現実世界に生きると共に自分が持つ=認識できる空間の中に自分が居ると確信して生きているのではないかと思う。
文脈の中に生きているとも言えるか。文脈は任意の体系化された、若しくは非体系的構造の中においても見出し得る局所的なパターン同士の組み合わせの中から生まれてきた、他と区別可能な塊の様なモノ、言い換えると前者はフォーマルな知識で後者はインフォーマルな知識と言える、そんなモノの中に放り込まれた情報が何らかの意味を発するという場合は多々あるだろう。
その知識は毎日少しづつ変化しながらも、一定の形を保っている。
その形を意識しようがしまいが、誰もが頭の中に持ち続けているものだ。
それは情報を一定量重ねていく中で自動的に形成される体系と言えよう。
偏光板はある角度の光のみを抽出する機能を持つ。レイヤーは偏光板の様なものとイメージしよう。
情報に依存したレイヤーではなく、情報が無い、という点における空間。
その空間は瞑想経験者でしか認識できない空間であり、瞑想を繰り返す事で空間のリアリティは強化されていき、自分の中の存在強度が高くなっていく。
瞑想は情報による自己認識の拡大ではなく、情報が無いにも関わらず認知可能な空間ないしレイヤーが生まれてくることを体験する意味で有用なのだ。
(増田アドベントカレンダー2014の9日目の記事です)
最初作曲の勉強して増田のテーマ曲作ってメロディ記法?(というのがあるらしい?)で書いて載せること考えたけど、勉強間に合わなかった。
うんこ漏らせないし、小ネタとして、MS-IMEのユーザー辞書でこういうことしてる的な話でも書こうと思います。
定型句は見つけたら登録してる感じ。この辺はありがち。
例えばこのようなものを登録する。
おせます | お世話になっております。 |
おせした | お世話になりました。 |
かきけ | 下記の件、 |
よろます | 宜しくお願いします。 |
あざます | ありがとうございます。 |
あざした | ありがとうございました。 |
いじょ | 以上となります。 |
メールとか書くの速くなる…
同音異義語多い単語とか打ってると変換候補が多くて困惑するし、誤変換で確定して「あーっ!」とかなること多いけど、それぞれにオレオレ読みをでっち上げてユーザー辞書に載せとくと少しだけ楽。辞書は別に切っておく。
http://anond.hatelabo.jp/20140313130607
↑この辺みて割と最近思いついて使ってる話だけど、既にどこかで同じようなことやってる人もいるかも。
(例)
「へんこう」
へんむく | 偏向 |
へんさら | 変更 |
へんぴか | 偏光 |
「げんこう」
はらこう | 原稿 |
あらこう | 現行 |
もとこう | 元寇 |
などなど。「いじょう」「こうせい」とかいろいろあるので仕事が暇な時とかに登録していくといい感じ。
「たいしょう」
しんめと | 対称 |
ぺあぞう | 対象 |
…
忘れやすいルールで略すとあまり意味がないので何かしら読み替えルールを作っとく良いのではないかと…。
キータイプの超人クラスになると、こんなことしなくてもIMEの学習機能を切って変換順序を丸暗記してるらしい。怖い。
以前やったお仕事でIT部門の規制がガチガチで、WindowsとOfficeしか使えないVBAの仕事があって全然捗らなかったけど、今思うとIMEで対応できたはず。
いf | If - Then End If |
ふぉr | Dim i As Integer: For i = 0 To max Next i |
試しに上のようなローマ字交じりの単語で登録して変換してみたけど、一応使えてる。
あとgrepとdiffなくて苦労していたけどfindstrとfcで代用できます。
最近は普通に多機能なエディターを使えるのでこういう悩みはない…。
あとMS-IME以外もOKな環境なら普通に予測変換やAZIKが使えるものを使うと楽。
教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502
インターネット暇人どものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説も思想書も哲学書もまったく読まない)
【教養があると自由になれる】
gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること (参考)家庭環境と読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2
showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的に教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族の学問でもあったためオペラや歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト
seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。
tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…
sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術的気質と科学的気質が結合した人。つまり客観的な世界に対する主観的認識を多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養の意味。娯楽と知識の境目に教養がある
a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要な古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います。本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。
bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養が人格を作るって理解できるよ
p_shirokuma 己の世界観・娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるものの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。
exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの。環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。
なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。
疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身の意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由と精神的自由の2つがある、ということにしておく。
経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術に精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。
精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?
また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリック・ダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?
フレデリック・ダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html
【締め】
まぁ、お前らの思うところを書いてけや。
なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである。
それは違う。
選別には2種類あって、瞬間的、直感的、無意識的な選別①と、条件的、審査的、意識的な選別②がある。
①の方は選別であって選別ではない。なぜなら選別に漏れるものが選別する当人にとって最初から不可視だからだ。最初に意識化されるときに、すでに無意識に選別は終わっている。
これは脳の機能であって悪ではないのだよ。
善悪とは関係ないが、例えば人間の目と脳は電磁波の中から可視光の範囲内の波長のものを光としてとらえる。これは生まれたときにすでにそうだ。ここに意識的な選択の余地はない。勝手に可視光以外の波長を不可視にしてしまっている。しかし、サングラスや偏光レンズを使えば可視光の中から目で受ける波長を選別できるし、赤外線モニターなどを使えば可視光以外の波長を擬似的に見ることもできる。これは人間が意識的に行なう選別だ。もちろん光を選別することは善でも悪でもない。
極悪なのは②の方なんだ。
例えばペットが治らない病気になったから捨てる、ペット屋に返品する、生まれてくる子供が障害児だから産み分ける、友達が心の病気になってしまい妄想から暴言ばかり吐くから距離を取る、これら全て悪。人と関わるということはそれくらい重いことで、一生かけてその重さと対峙していかなければならない。もちろん、専門家等の力を借りることは良いことだ。
また、指摘の怒りは悪に対する反射として起こっている。熱ければ汗をかくように、一定時間起きていれば眠くなるように、そういった「作用」に過ぎない。さらに、この怒りが時間を経て、本人にとって意識的なものに変化したのにその怒りを続行しようという場合は悪だが、ここで悪が発生したことはそもそも選別が悪であるという事実に何の影響も与えない。別個に存在するだけだ。
また、怒りが、受けた仕打ちに対して釣り合わないくらいの量で起こってしまい、そのことを人生で何度も後悔し、または他人から指摘されているのに、そのことを直そうともしない場合はそれも悪だ。ただ、今回の場合は怒りの量と仕打ちが釣り合ってるといえるだろう。
wikipediaのおかげで長年の疑問が解けた気がする。
思いつくままに書いたので、ちょっとひどい文章です。
何か殺人事件のような凶悪な事件があったとき、テレビでコメンテーターなんかが自分勝手だどうだと言い立てるのに、疑問を感じていた。
もちろん、そのような事件に怒りを覚えるが、その犯人の生い立ちや環境に向かい、当然偏光報道の小さな情報しかないから、わからず、ただ怒りを覚えるだけだった。
もし殺人を犯した本人として、同じ遺伝子で、同じ親から生まれ、まったく同じ環境で生まれ育ったら、必ずその凶悪犯罪を犯すことになる。
俺は違うというのは成り立たない。意思で何とかするというのも成り立たない。その人として生まれ、まったく同じ経験をしていけば、同じ精神構造になり、同じ行動を起こす。
正常な人たち、というか、大多数のメジャーグループが少数派の異常なものを殺す。
ラッキーにも普通の家に普通に生まれ、普通に成長し普通に生活しているものの群れが、不幸にも異常な家か異常にか、異常な環境で成長したものが異常な行動を起こした1人の者を殺す。
国・社会というシステムを正常運転するために、見せしめであって、それが死刑か終身刑かというプロセスであって、
これに自分勝手だどうだと感情を入れ出した瞬間、プロセスから殺人に変わるんじゃないかと疑問に思っていた。しかもたちの悪い大義名分を持った正義と言い張る集団殺人。
それとも、見せしめを自認して、見せしめ効果を拡大させるのがコメンテーターの仕事なのだろうか?
昔、殺人などの凶悪犯罪への処罰、特に死刑について考えたとき、そういった人だけの世界を作って別々に生活できれば、それが理想じゃないかと考えた。
普通な人は普通な世界で、普通な人から見た異常な人(少数派な人)は異常な世界で。
(文章が長くなるので、以降あえて異常という言葉を使う)
刑務所はそういう場所のようにも見えるけど、普通な人が管理・支配し罰を与える狭い場所だからちょっと違う。
実際には犯罪の凶悪性、タイプも違うから、というか他にも多々問題ありそうだから、不可能だけれども。
と昔そんなことを考えてたんだけれども、ふとさっき刑罰についてwikipedeaで調べてみた。
冒頭を引用すると
刑罰(けいばつ、英: Penalty,独: Strafe)とは、形式的には、犯罪に対する法的効果として、国家および地方自治体によって犯罪をおかした者に科せられる一定の法益の剥奪をいい、その実質的意義は犯罪に対する国家的応報であるとともに、一般予防と特別予防をも目的とする[1] 。広い意味では犯罪行為に科されるもの[2]。刑ないしは刑事罰ともいう。
と書かれている。
気になったのは以下の意義の部分
システム上の見せしめプロセスという事で、一般予防と特別予防は、やっぱそうだよなと思った。
気になったのは国家的応報の部分。
なるほど。
まったくの個人的な納得ではあるけれど、殺人者には殺人者の世界を、凶悪犯には凶悪犯の世界を普通な人の世界と重なり合った形で仮想的に実現されてるのかなと思った。
凶悪犯罪を犯してからの後追いではあるけれど、犯人に対して相当する罰が与えられるという事は、その犯人の取った行為が通常である世界にいるという事なのかもしれない。
殺人には殺人で答える仮想的な世界が、殺人を犯した者に対して、後追いではあるけれど、用意されている。
適当な刑罰は、少数派の異常と呼ばれる人に対して、自分が自分でいられる、もしかすれば楽園かもしれない仮想的世界を用意しているのかもしれない。
法律ってよくできてんなと思う。
ただ、殺人(罪)に対してに対して国が殺人(罪)を負う事で少数派・多数派両面に理想的な仮想世界を適用しているとしたら、国でもないマスコミなんかが凶悪犯に勝手なコメントを加え、適当な刑罰以上の罰(=罪)を加えている罪は償わなくてもいいのだろうか。
誤報、偏向報道で必要のない罰(=罪)を加える事は大罪じゃないのか?
最後に。。。
文章酷かったり、無駄に長かったりで、なんか申し訳ないです。
いつか滅びる日が来るのだとしてもなるべく長生きさせなければいけない。
変体仮名もなるべく長生きするべきだったが寿命が来てしまったというだけだ。
外来生物が侵略してきて土着の生態系が壊され既存の生物種の個体数が減ってきたら、
その外来生物を駆除して個体数を減らし、生物多様性を守らなければいけない。
競争させる中で既存の生物種あるいは外来生物が新たな進化を遂げることもある。
抵抗する過程で勝ち得た進化の智恵は残された生態系にも受け継がれる。
結果的に滅びたとしても、
「滅亡を防ぐために努力した」のと「滅亡を防ぐための努力をせず滅びるがままに放置した」のでは、
その後の世界の様相はまるきり異なるのだ。
彼らの驚異的な脚力は、彼らの先代が何千何万年にわたる過酷な生存競争を生き抜く中で淘汰と進化を遂げて勝ち得られた努力の賜物だ。
もしチーターが全滅していたらガゼルはここまで速くならなかった。
ガゼルが速くなったから、ライオンは腕力を発達させ、ハイエナは顎の噛む力を強力化して、チーターが捕ったガゼルを横取りする力を身に付けた。
ライオンが強くなったからキリンやシマウマは反撃するためにキック力を鍛え、象は重量化した。
さらにシマウマは色覚のないライオンの目くらましをするために白黒の縞模様を身にまとうようになり、
おまけに偏光効果を持つ縞模様はアブを寄せ付けさせない役割も果たすようにもなった。
単独での狩りが難しくなったライオンは群れで狩りをおこなうようになり猫科動物でも特に社会性ある動物になった。