2016-08-29

瞑想糖質

瞑想は巷で耳にするような類のスピリチュアル体験をするための方法または目的は別のところにあるのではなく、瞑想をする事・瞑想のために特別時間をとる事に意味があるのではないか、という印象を抱く人が多いのではないか

私自身としては瞑想はトクをするためにあるんだと捉えている。

単純に瞑想をしたらこんな対価があるよ、っていう様な単純な原因と結果の関係にあるんじゃなくて、自分の中に瞑想空間を作り出すことに意義を見出している。

話が少し飛ぶと、僕らは現実世界に生きると共に自分が持つ=認識できる空間の中に自分が居ると確信して生きているのではないかと思う。

文脈の中に生きているとも言えるか。文脈任意の体系化された、若しくは非体系的構造の中においても見出し得る局所的なパターン同士の組み合わせの中からまれてきた、他と区別可能な塊の様なモノ、言い換えると前者はフォーマル知識後者インフォーマル知識と言える、そんなモノの中に放り込まれ情報が何らかの意味を発するという場合は多々あるだろう。

その知識毎日しづつ変化しながらも、一定の形を保っている。

その形を意識しようがしまいが、誰もが頭の中に持ち続けているものだ。

それは情報一定量重ねていく中で自動的形成される体系と言えよう。

私たちはその様なモノと共に現実世界認識している。

レイヤー世界認識とも言えるかもしれない。

偏光板はある角度の光のみを抽出する機能を持つ。レイヤー偏光板の様なものイメージしよう。

瞑想はそのレイヤーの一つとして機能する。

情報依存したレイヤーではなく、情報が無い、という点における空間

その空間瞑想経験者でしか認識できない空間であり、瞑想を繰り返す事で空間リアリティは強化されていき、自分の中の存在強度が高くなっていく。

瞑想情報による自己認識の拡大ではなく、情報が無いにも関わらず認知可能空間ないしレイヤーが生まれてくることを体験する意味有用なのだ

以上の理由から瞑想が万人に勧められる類のものであり、現世利益があると言えよう。

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