はてなキーワード: 音楽シーンとは
2011.03.15
第三弾出演アーティスト&日割り発表の前に
http://rockstokyo.jp/2011/news/detail.php?id=30
5月末に新木場で開催される音楽fesのアーティスト発表が、このタイミングで行なわれてる・・・
過剰に「欲しがりません!勝つまでは」をやる必要も無いと思うし、コレまで以上に経済を廻していかないといけないという事は十分解るが。。。
やはり日本の音楽シーンを、金儲け主義でダメにした主犯の鹿野がやることには納得がいかない。
どう見ても、先のGo!Fesのように中止にする体力がないから、チケット売りさばいておこうって言うのが見えてしまう。
東北から行こうって思ってたけど、こんな事になって行くに行けない・・・って人を追い詰めたいのか?
それに昨年、行ったが他fesに比べて全然楽しくなかった。
・客を信じていない運営姿勢
→他fes以上の、執拗な荷物チェック
→あちこちにリストバンドチェックがあり、確認をするバイト君は最小限で大渋滞
・最悪のフードブース
→あまりのマズさに、みんなお通夜状態
・他fesよりも少ない曲数
・マナーが悪いファン層がいるバンドを最後に持ってくるという阿漕さ
他にもいっぱいあったけど、要はここ数年見えそうで見えていなかった、金儲け主義の音楽業界の悪い所が、鹿野のせいで全て露見していたfesだった。
いや、お前ら表現者の言い分なんてのは、クレーマーの足元にも及ばないのさ。
コンテンポラリーなアートなんてのは、言ってしまえばノイズ博覧会みたいなもの。
ゴミをアートとして包摂展示するのはケッコーだけど、それってどうやってもゴミなのよ。
サブカル云々という話じゃなくてね。
たとえば音楽シーンだって同じ。今市場に出回るものの9割9分はゴミ。
そのゴミを買わされてるのがこれまでのやり方で、
「あれ?やっぱりゴミに金払うのおかしくね?」ってわけで音楽シーンは縮小してるわけ。
そのゴミの中から玉を探そうなんてのは、低学歴の中から優良な人間を探せって就職活動の時に叫ぶバカと同じで、
合理的判断を求められるならそんなことはしない。
(だいたい「我社にふさわしくない」なんて理由で公然と低学歴差別できる時代。分相応ってやつだな)
で、表現者(「価値あるアート」かどうかもわからないゴミ)と、贔屓な蓋然性が高いクレーマーのどちらが大事かなんてのは、分かりきった話。
今回の対処で「ヒョウゲンノジユウガー」だの「セゾンブンカガー」だのファビョってるキチガイは「然るべきところ」でオナニー見せびらかせばいいだけ。
「百貨店にふさわしい」といういちゃもんはアホらしいが、営利企業がそもそも日本画だろうと藝術だろうと展示する義理なんてない。
むしろこれって現西武側からすれば「過去の負の遺産」とすら思ってるかもね。
百貨店なんてのは公然とした場所なんだから、公共的道徳に則ってやっとけばいい。
近親調以外の転調を遠隔調への転調と定義することで、調性圏内の和声は飽和した。広い意味での調性、あるいは無調、またそのようなものの連結は、厳密には定義されず、慣習として認知されるにはまだ歴史の積み重ねが足りない。
もともと、教会旋法があり、そこからの選別を経た結果として残ったIonian、Aeolianが一時は主導権を握り、和声的連結ももっぱらこの二つを考えたものだ。
ところが19世紀、ドビュッシーが教会旋法を再評価する。(厳密にはドビュッシーに限らず、かのリストや数々の音楽家から群発的様相をもって現れてきたものだが、代表はドビュッシーである、ということは異論はないはずだ。)そのドビュッシーの「帆」は、全体にわたってMTL1、すなわち全音音階が散りばめられ、幻想的な雰囲気を醸すことに成功している。後にも先にも全音音階が効果的に使われたのはこの曲のみといっても過言ではない。
この時期は、既存和声の崩壊が随所に現れる。トリスタン和音、神秘和音といった概念はこれまでの和声に衝撃を与えた。型破りな進行と、限定的、効果的なものが共存したそれは矛盾をはらむことなく組み込まれていくこととなる(もちろん、穏健的な層からの反発はあった。今でこそ評価の高いドビュッシーの作品すら「誤用」と声を挙げるものもいたのだ。)
SomethingNewを求めた先に、過去の歴史の再評価があったとはなんとも興味の惹くところだが、この時代の印象主義に限らず、あらゆる作曲家は新たな音楽観の萌芽を享受し、育んでいったのだ。
また、クラシック音楽界隈以外にもJAZZの誕生など、別方面からムーブメントが起こったのは見逃せない。巨大な市場が成立すれば、作曲家も無視するわけにはいかなかったのだ。JAZZ史を俯瞰するだけで何十万字という文章が書けるが、今回は省略しよう。とにかく、新たなアプローチが産声をあげ、互いに影響されたのだ。
そのなか、新規性が斬新さを持ち過ぎて受け入れがたい空気が醸成されたのもまたひとつの事実である。ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、初演当時そうそうたる作曲家――ドビュッシーやサン=サーンスなど――が席を同じくしたのだが、その結果は賛否両論がふさわしく、それ以前「ペトルーシュカ」まで彼を評価していたドビュッシーすら、この演奏以降をもってアンチポジションを取るようになるほどのものだったのだ(もっとも、ニジンスキーのあの振り付けを初めて見て冷静に評価しろというのもなかなか難しい注文だと思うが)
これを期にして、というわけではないが、今後の音楽シーンは「クラシックな」ところから乖離していく動きが目立つようになる。シェーンベルクがドデカフォニーを確立し、システム的な面が強調されるようになる。後のセリー技法に直結するこの動きは、今日穏健派からは黒歴史認定されている。
時系列的に和声の展開を捉えれば、それは不協和音程の和声的獲得である。現在パワーコードやモーダルクラスターなど、ごくごく当たり前に用いられるのも、こうしたプロセスを経たものである。
では、この先どうなるのだろか。
すでに一部急進派は、微分音を積極的に導入し、1オクターブを何十分割にもしてきた。穏健派も遅れながら、限定的な用法で微分音を導入しつつある。十二音を崩壊させてどこへ行こうというのだろう。
ttp://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51454026.html
※ Newsweek記事、「Appleはなぜ日本企業ではないのか?」にみる日本論
Newsweekの記事”Why Apple Isn’t Japanese”が面白い。これは、しかし、Appleに
ついての記事ではなく、デジタル革命での敗戦の色濃い日本企業についての記事である。
iPodやiPhoneで世界を席巻するApple。だが、小型電化製品の市場というのは、本来、
日本企業が得意だったハズ、それがデジタルになった瞬間に、なぜ日本企業は太刀打ち
できなくなってしまったのか。
20世紀最後期にNTTドコモがiモードの成功を世界展開しようとして失敗したのはなぜか。
それは、iモードの操作が、日本以外では受け入れられなかったからであり、それは、ドコモ
の首脳陣に日本人しかいなく、世界マーケットの人々が何を欲してるか理解できなかった
からだ、とする。
ソニーのデジタル音楽シーンでiPodの独走を許したのは、自社グループ内の音楽セクション
に配慮して、複雑なライツマネジメント機構を導入したことが原因と指摘。
「ドコモは、いまや減少傾向に転じた日本の国内市場に囚われ、動きの早いライバル企業に
シェアを奪われることを座して見ているしかない。世界マーケットへ転じることが唯一の希望だが、
企業文化の視野の狭さと想像力を欠いたマネジメントによってそれも果たせないでいる」。
3年前には、ノキアの市場価値の10倍あったドコモは、いまではノキアの半分の価値しかない。
ちなみに俺は元増田ではないことはそろそろ言わなきゃいけないかもしれんが
例えば音楽って言っても広い。
で、指弾きをとにかく速くすることだけが楽しくて、他には興味がないひとがいたとしたら
そういう人に速弾きを教えてくれたギターと言う楽器、さらにはギターを生かせる音楽シーンそのものにリスペクトを、なんてのは拡大しすぎじゃない。
ゲームでいえばゲームそのものが好きなひと、ネトゲでダラダラとミッションをクリアするだけが楽しい人とか。
その人が楽しいと思う行為は、必ず何かしらの文化に属してはいるんだろうけど、
その文化の中でも距離感があると思う。
音楽に感動して楽曲制作を始めた人には貢献みたいな意識もあるだろうけど
もっと作業に近い部分に惹かれた人には生まれにくい意識ではないかな。
まるでプロを目指してない人は作業的に音楽やってるだけみたいな言い方になってるけど、距離感だよね。楽曲制作してる人でも現行の音楽シーンのことなんて全く知らない、DTM機材がたまたまあってそこから始めただけ、みたいな人もいる。
まあ好きな行為の所属している文化から、何かしらの感動を与えられたことのあるひと、ないひとで意識は全然ちがうし、元の文化から感動を与えられていない人でも、その文化に属する行為の虜になるケースはある、ということ。
http://anond.hatelabo.jp/20090311015518
ことし40歳になる有名人
「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年。芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。
90年代の日本の音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチル、LUNASEA、ラルク、コーネリアス、渡瀬マキ、大黒摩季、槇原敬之。福山雅治と加勢大周と東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。
あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。
似たようなことを、僕も思いました。
「正直どうでもいい」「(現代語的な意味で)『耳触り』良ければそれでいい」「歌詞で泣きそう(;_;)」
というのが、初音ミクのヒットの根っこにある気がします。
ふと、初音ミクの歌の中の人(≠初音ミクの中の人)って、基本的にはシロートさんだよな?と思ったのが、
私の疑問のキッカケです。これまでの音楽業界でいえば、そこいらの街中やライブハウスで自作の曲を
歌ってたり、インディーズ扱いでデモテを配ってた、プロの音楽家カテゴリーには入らないような人たちが、
「初音ミクの歌の中の人)」・・・初音ミクのプロデューサーと言い換えてもいいかも知れませんが・・・、
だと、思うのです。
で、そういう人たちが、これまでと変わらないDTMの延長に、初音ミクに歌を歌わせただけで、
なぜか「初音ミク」扱いでプロデビューできてしまった(楽曲提供できた)。それはなぜだろうか?
1つは、
誰が聴いても初音ミクの声だと解るから。
どこの輩か分からないインディーズ歌手とは違って、少なくとも「初音ミク」ブランドという
裏書きがついている。
そしてまた、「『初音ミク』という歌手を知っている」という共感を喚起させる。
だから、フツーのシロート・インディーズとは違った受け入れ方ができた。
もう1つは、
店内とかで流れてる曲とかPVの曲とか聴いても、誰の歌かすら解らない。
正直どれもこれも同じように聴こえる。
どれもこれも同じように聞こえるような雑多な音楽の中では、正直、他の歌手と差異がない。
そうなると、どこに共感できるか?というのが受け手の判断基準になるし、ならざるを得ない。
すると、「共感できる(苦笑)歌詞」「バーチャルな歌手(という不思議な存在)」
「シロートでもこんないい曲・歌詞を作れてメジャーデビューできてる(私もできるかも☆)」
僕が思ったのは、こんなところです。
あと、脱線しちゃうけど。。。
「機械音がイヤだ」「練られていない音楽がイヤだ」という論調もあるけれど、
正直、大衆向けJ-POP音楽というカテゴリの中では、殆ど五十歩百歩だと思う。
(もちろん、真っ当な歌謡曲・演歌歌手や、いわゆるクラシックの領域は別。)
誰とは言わないし好みの問題だけれど、某アイドルグループや、某エイベックスの歌姫みたく、
音程も当たってないしアンサンブルもできていない楽曲を聞かされるよりも、
まだ音程が当たっててリズムも正しく、平均律の中でアンサンブルできてるボカロイド楽曲の方が、
少なくとも僕は、「安心して」聞ける。
二次創作というものを考えた時にちょっと思ったこと。
原作のキャラクターや画風、ストーリーなどの特色を「具」とする。
そして、その「具」をどう使ってどう見せるか、を「味付け」とする。
そうやって考えた時、同じ二次創作でも二種類あると思うんだよね。
a)既存の「具」を元に二次創作者が新たな「味付け」を施して、ひとつの作品を作る。
b)既存の「具」を元に、別の作品や二次創作品の「味付け」をマッシュアップして、ひとつの作品を作る。
aもbも立派な二次創作だとは思うけど、最近あまりにbを作る人の安易さが目に付くのは確かだと思う。
「○○が」「△△で」「□□しているようです」をゴチャゴチャ取り替えてるだけというか。
もっといえばウマウマ辺りからはキャラクターや動きなどの画風までもある程度デフォルメされたものがテンプレート的に用意されていて、
みんながそれを丁寧になぞろうと、できるだけそこから逸脱しないように作るような作品も増えているように思う。
つまり、「すでにウケている」もの「だけ」で二次創作品を作れるように環境や需要が徹底されてきていて、
それを「だって好きなんだから別にいいじゃん」「二次創作に何求めてるの?」とスカした顔で言いながら、
実はそこに二次創作者個人の嗜好や意思を介在させることで「スベる」「寒く思われる」事を極度に恐れる風潮があるように思う。
作り手も「それでウケれば別にいい」、受けても「別に二次創作者の個性なんて要らない」って関係が出来てきている。
故に、そこにあまりに作り手の『二次創作対象以外への愛』以外の嗜好や意思が見えない作品が多い。
だから、そういうのを求める人は最近の風潮にはちょっと辛いよねって思う。二次創作しながらも発展的なモノを作りたい人というか。
「具」は自分の好きな作品から拝借するけど「味付け」は私の味付けでやらせてもらいますよ、ってのを作る人や求める人というか。
例えばFFアレンジを聴いていて「お、この人あのバンドやあっち系の音楽シーンに詳しそうだな、趣味合うな」みたいな喜びがない。
いや、無いと言えば嘘か。もちろん今でもそういう作り方で素晴らしい作品も生まれている。
でもそれはまたすぐに「○○が」「△△で」「□□している」の「具」や「味付け」のネタに加えられて、一気に大量消費されるんだけど。