はてなキーワード: フクロウとは
夜に外に出たら、川むこうの大きな木の上で「ホウ!ホウ!」という声がする。
すると、遠くから「ホウ!ホウ!」と返事が聞こえる。
最初は犬の遠吠えと思ったぐらい力強い声だったが、木の上にいるってことは、たぶんフクロウなんだろう。
こんな野太い声なんだからさぞかし大きいフクロウに違いない。でも真っ暗闇だから、大きさとか色とかは分からない。
「ホウ!ホウ!」
「ホウ!ホウ!」
と、ずっと鳴き交わしている。
暫くすると、遠くの方のフクロウが場所を変えたようで、鳴き声のする方角が変わった。
おや、結構近くに来てるんじゃないか?とゆっくり近づいてみると、目の前の電柱の上で鳴いているのが暗闇の中、なんとなくわかった。
月の光が眩しいので、手で隠しながら目を凝らしてみていると目が慣れて、しきりにアチコチを見てるのも分かってきた。
ゆっくりゆっくり位置を変えてみたら、月の光をシルエットにしてはっきりとフクロウの姿が見えた!
少しふっくらした鳩ぐらいの大きさだった。
「ホウ!ホウ!」とあんなに力強く鳴いているのに、案外小さいもんだなぁ。
それにしても可愛い。ずっときょろきょろしてる。体全体を楽器のようにして、力強く鳴き交わしている。
時折り別の電柱に飛んで移動するが、噂通り全く羽音がしない。鳩とかカラスだとあんなにうるさいのに。
茶色い羽根が音もなく夜空に羽ばたいているのは、ちょっと不思議な光景だった。
気が付くと木の上にいた方は、どこかへ行ってしまっていて、声が遠い。
前回「作者の発言は公式設定なのだろうか」というエントリをアップした。今回の日記はそれの続きというか補足になる。
まず、前回のエントリの内容を一言でいうと「東方Projectで最強議論したけど話が噛み合わなかったよ」という話だ。
すこし前、とある掲示板で「東方Project」で最強は誰かという議論になった。
私は永琳というキャラを最強だと主張した。
お互い譲らず議論は平行線をたどった。それ自体は別にどうでもいい。最強議論なんてそんなものだ。ただ、私にはこのわかりあえなさそのものが興味深かった。
なぜ我々の議論は噛み合わなかったのか。
おぼろげながらその理由がわかったので、ここに書き残しておく。
なお、永琳とかヘカーティアとか何だよ、知らんわ、キモって人もいると思うが、以下の文章にはまったく関係がないので安心してほしい。
結論からいえば、我々がわかりあえない根本的な原因は、世界の捉え方が違ったからである。
議論の土台部分にあたる各々の世界観が異なるために、話が噛み合わないのである。
それでは、彼(もしくは彼女)に見えている世界、私が見ている世界とは、それぞれどのようなものか。
端的にいえば、彼は世界をドラゴンボール的に捉えていたし、私はハンターハンター的に捉えていた。
このように書いても何が何だが意味不明だろうから、以下で詳しく述べる。
さて、話は急に変わるが、全盛期のマイク・タイソンと私が喧嘩したらどちらが勝つだろうか。
「そんなのマイクに決まってるだろジャップボーイ!HAHAHA!」
という意見が圧倒的に多いと思われる。
ところが私はそうは思わない。勝機は充分あると思っている。
もちろん、ボクシングの試合なら私はタイソンに勝てない。1万回やって1万回負けるだろう。
でも、真剣勝負なら話は別だ。例えば「タイソンを車でひく」とか「タイソンの飲んでいるコークに青酸カリ入れる」とか「タイソンが寝たところで家の周りにガソリンをまいて火をつける」とか、やりようはいくらでもある。
ガチの殺し合いなら私でもタイソンに勝てる可能性があるのである。
つまり、これは勝負というものを試合という感覚で捉えているか、サバイバルとして捉えているかという違いだ。前者をドラゴンボール的世界観、後者をハンターハンター的世界観と表現することもできる。
ドラゴンボールの世界では勝負とは殴りっこである。勝負は単純な「殴る、蹴る、手からだしたボールをぶつける」といった手段によって争われる。
ここではパワーこそジャスティスである。よりスピードの早いものが、より強いパワーで相手をぶん殴って破壊する。基本的にはそれがずっと繰り返される。
ここでは格下が格上に勝ったりはしない。戦闘力が低い者は戦闘力の高い者には勝てない。そういうシンプルな世界なのだ。勝ちたければ修行するなり、変身するなりして相手より高い戦闘力を手に入れるしかない。
ここでは能力というものが非常に大事になる。一人ひとりに個性的な能力が与えられていて、それをどう使うかが勝負の分かれ目になる。
能力は一撃必殺のものも多く、ハメさえすれば格下が格上に勝つこともある。
例えば、シャルナークというキャラは針使いだが、針さえさせば相手がどんな強者でもその時点で勝ちである。フクロウというキャラは風呂敷に包めばどんな強い相手でも無力化できる。
だからハンターハンターでは「相手をいかにして罠にはめるか」が非常に重視されている。
クロロという作中で最強クラスのキャラとして描写されている者でも、主人公たちの罠にはめられて無力化されてしまうという場面がある。
そういうシビアな世界だから、相手を罠にはめる発想力と同じくらい重視されているのが用心深さである。実際にハンターハンターでは強者であっても決して油断せずに常に神経を尖らせている。作中人物は自分の能力をペラペラ相手にしゃべったりしない。
要はハンターハンターの世界は、試合ではなくサバイバルなのである。先程、述べた「タイソンに毒薬飲ましたら勝ち」みたいな世界観なのだ。
ドラゴンボールとハンターハンター、それぞれの世界観を簡単にまとめるとこんな感じになる。
パワー、スピード、頑丈さ
パワー、スピード、頑丈さ、能力、発想力、用心深さ、対応力、その日のコンディション、メンタル、知識、相手との相性……などなど
私は後者のハンターハンター的世界観をもって世界を捉えている。
私の考える最強キャラというのはサバイバル勝負して最後に生き残るやつのことである。パワーとか火力が一番のやつ=最強ではない。
最強とは「パワー、スピード、知力、用心深さ、能力の強さ、能力の多彩さ、観察眼……」といった諸要素の総合点が一番高い者と言い換えても良い。
逆にヘカーティア最強説信者には、「最強」という言葉に、ドラゴンボール的なマッチョな世界観を思い描いている方が多いのではないかと思われる。
このような世界観の違いが、永琳派とヘカ派との間に横たわる深い溝の根本原因ではないかと考えた次第。
つまり何が言いたいのかというと東方で最強は永琳だということだ。
私が言いたいのは結局のところその一点である。
永琳最高!永琳最高!イェイ!イェイ!
【補足】
変な勘違いするやつがいたら嫌だからあらかじめ書いておくが、私は「ハンターハンターのほうがドラゴンボールより優れている」みたいなことは一切思っていない。マンガとしてはドラゴンボールは無茶苦茶おもしろい。ハンターハンターより好きなぐらいだ。
クソデカ埼玉県超ビッグこども(見た目は大人)生きとし生ける者森羅万象公園で、いまこの瞬間クソデカいクォッカのすごくでっかい赤ちゃん(ほぼ象)が降誕したらしい。この偉業を未来永劫残すため、フォトグラフィックメモリーを頼りにこのクソデカ動物園について三日三晩語り明かす。
クソデカゲートをありえない動きでくぐるとまずケンタウロスの超巨大なオブジェが見える。とりあえずそこがスタート地点と語り継がれているのでそこまでプライベートジェットで飛ぶ。が、思った以上にクソ遠い。三年の月日をかけてやっと着いたと思ったら、暗闇に包まれる。開幕、五感を奪われているのだ。
このクソデカこども動物自然公園はあらゆる道が広場。そして、なにもかもが存在しないので即座に五感を奪われる。ケンタウロスオブジェの先へ進むと、満漢全席のように東京都多摩動物公園が展示されていた。ここまでたぶん数百パーセク。ようやく宇宙の始まりを見た。
園のでっかい案内図を見る。敷地がめちゃクソデカくて笑いが止まらず死ぬ。全面どころか裏表すべて#00ff00のマップに、1000年に一度思い出したように異形のアイコンが点々と表示されているありさまだ。異形アイコンが集中しているところは百万箇所ほどあって、それぞれイーストエンド・ノースエンドと呼ばれていた。まずイーストエンドを目指す。
案内図に内包されるコストコで焼かれすぎたそばだった炭を買って、食べ終わると同時にイーストエンドにワープした。イーストエンドは有袋類そのもの。コアラ星では、コントロールルームのはるか手前で頂上が雲に霞んで見えないユーカリの山が「56億7千万年に施されるユーカリです」というパネルと共に展示されていた。創英角ポップ体も相まって徐々に体を蝕んでいく。
超カンガルーのエリアへ行くと、ハイパークソデカ敷地のクソ高い柵に入った何億匹ものカンガルーを超えた生命体が次々と目に飛び込んでくる。しかし、なぜか「ここはカンガルーコーナーではない」というクソヤバい看板がそこには鎮座している。我はカンガルーだが?と首をぐるぐる回しながらすごい速さで先に進むと、脳内に直接投影されたのはさっきの柵の内側に入る超巨大な門だった。ええええええええ??!!?!!!?!!!!!!?!!??????
なんと、この超絶クソデカ動物自然公園ではカンガルーと同じ夢の中、マジでほんとにぶっちゃけ何の隔たりもない王道を歩むことしかできないのである。超高性能レーダーを起動するとジャングルのありえないほど先にカンガルーが一つの国家を形成しており、狂気に染まった奈良県みたいになっていた。人間とカンガルーとその他全てのものを寸分たがわず同じ柵に永遠にブチ込みまくることのできるこの解脱、さすがクソデカ埼玉県こども動物自然公園である。懐も海。
次はノースエンドに向かう。ノースエンドには巨乳牛その他全ての巨乳生物がいる。けっこう次元を超えたと思った刹那「巨乳牛まで180000000000km」というクソデカ看板が出てきまくって狂ったように笑って死んだ。#00ff00に一部の隙間もなく包囲されたメキシコマフィア坂を垂直に登攀する。数えきれない程の子ども達がはしゃぎまくって目に見えない程の速度で飛び回ったあと一瞬で全てを失って永遠に静止していたのが一生のトラウマになった。
気の遠くなるような年月を経てノースエンドにつくと、巨乳プレーリードッグや巨乳ミーアキャットなどをしゃぶりつくせるエリアに来る。巨乳ペンギンや巨乳マヌルネコもいまくる。電子顕微鏡でも見えないくらい小さな巨乳ネズミ種を集めすぎてしまった展示館が無限に存在する。ここまでクソデカい坂を垂直に登攀してきた偉業を讃えるように宇宙に一匹しかいない動物たちが1フレームに1匹現れるのである。ちなみに親の顔よりも見たはずのおどろきの純白フクロウをこのノースエンドでも見まくることができた。フクロウの補給ポイントが多すぎて感謝に打ち震え五体投地した。
ノースエンドからケンタウロスオブジェに戻るまでのクソ長い道では、カマキリ怪人と九州男児が戦っているのを2万箇所ぐらいで見た。バッタの改造人間と戦っているやつもいた。ニチアサか?あと道脇にデッカすぎるキノコがそびえ立っていたがこれは幻影。神話とかに出てくるサイズのやつだ。このクソクソデカデカ動物クソクソクソデカデカデカ公園は完膚なきまでに森で構成されてるので、草木や虫も無限の可能性を秘めているのだ。
帰りのクソデカバスを設計している間、曾々々々祖父母のトゲトゲ肩パットで永遠に目覚めない子どもなどを信じられないくらい視姦しながらふと、このアルティメットクソデカ園はありとあらゆる子どもの数百本ある体力ゲージを限界を超えてすり潰すためにハチャメチャクソデカく作られているに違いないと確信した。神をも屠るパワーを持つ子どもでもここで半年遊ばせたら跡形もなく消滅するだろう。
ともあれ、クソヤバい子どものカモシカのような足で命を燃やして飛び回っても1000パーセント踏破できないこの超スケール、もしめちゃくちゃ小さい頃(胎児)に来ていたらとんでもなくありえない超大冒険のスターライトステージに見えていたということに疑いの余地はない。クソデカ埼玉県に生まれる全ての生命が羨ましすぎて憤死した。
クソデカ埼玉こども動物自然公園はとにかく異常に偏執的にクソデカい。クソデカいゆえに夢がある。飽きすぎて無になるほどクソ緑を全身に浴びまくって、太陽の下でザックザクに揚がりすぎて鋭利な刃物になったポテトや屋台そのものの焼きすぎそばすぎをドライすぎるゼロどころか虚数で流し込んで、動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物の間と間と間と間をギッタンギッタンのグッチャグチャになるまで歩きまくりたすぎてそれ以外のことは何も考えられない日には、絶対に訪れろ。これは命令だ。
埼玉県こども動物自然公園で、今日クォッカの赤ちゃんが生まれたらしい。記念といってはなんだが、記憶を頼りにこのクソデカ動物園について語ろうと思う。
ゲートをくぐるとまず馬と人の小さなオブジェが見える。とりあえずそこがスタート地点のようなのでそこまで歩く。が、思った以上に遠い。やっと着いたと思ったら、件のオブジェがクソデカくそそり立っている。全然小さくない。開幕、遠近を狂わされているのだ。
このこども動物自然公園はあらゆる道が横に広い。そして、高い建物などがないので段々と距離感が掴めなくなっていく。人馬オブジェの先へ進むと、居酒屋のお通しのようにぽんとヤギが展示されていた。ここまでたぶん数百メートル。ようやく初めての動物を見た。
園の案内図を見る。敷地がクソデカくてまず笑ってしまう。ほぼ全面緑のマップに、時々思い出したように動物のアイコンが点々と表示されているありさまだ。動物アイコンが集中しているところは2箇所ほどあって、それぞれ東園・北園と呼ばれていた。まず東園を目指す。
案内図近くの売店で焼きそばを買って、ちょうど食べ終わる頃に東園についた。東園は有袋類が多い。コアラ舎では、飼育室の手前で山盛りのユーカリが「明日あたえるユーカリです」というパネルと共に展示されていた。フォントも相まってじわじわくる。
カンガルーのエリアへ行くと、クソデカ敷地の柵に入った何匹ものカンガルーを目にすることができた。しかし、なぜか「この先カンガルーコーナー」という看板がそこにはある。カンガルーなら今見ているが?と首を傾げながら先に進むと、現れたのはさっきの柵の内側に入る扉だった。え?????
なんと、このクソデカ動物自然公園ではカンガルーと同じ柵の中、マジで何の隔たりもない小道を歩くことができるのである。ふと見渡すと芝生のちょっと先にカンガルーが群れをなして立っており、バグった奈良公園みたいになっていた。人間とカンガルーを同じ柵にブチ込むことのできるこの大らかさ、さすが埼玉県こども動物自然公園である。懐もクソデカい。
次は北園に向かう。北園には乳牛などがいる。けっこう歩いたと思ったタイミングで「乳牛まで180m」という看板が出てきて笑ってしまった。緑に囲まれたちょっとやんちゃな坂を登る。近くの子どもがはしゃいで走ったあとすぐに体力を使い果たしてド低速になっていたのが印象深かった。
ようやく北園につくと、プレーリードッグやミーアキャットなどが間近で見られるエリアに来る。ペンギンやマヌルネコもいる。小さなネズミ種を集めた展示館などもある。ここまで坂を登ってきた健闘を讃えるように珍しい動物たちが次々現れるのである。ちなみに別のエリアで見たはずのシロフクロウをこの北園でも見ることができた。フクロウの補給ポイントが多くてありがたい。
北園から人馬オブジェに戻るまでの道では、カマキリと男児が戦っているのを2箇所ぐらいで見た。バッタと戦っているやつもいた。チャンピオンロードか?あと道脇にウソみたいにデッカいキノコが生えていた。漫画とかに出てくるサイズのやつだ。このクソデカ動物クソデカ公園はほぼ森でできているので、草木や虫もバリエーション豊かなのだ。
帰りのバスを待つまでの間、親の肩で寝ている子どもなどを見ながらふと、このクソデカ園は子どもの体力ゲージを限界まで削るためにクソデカく作られているのかもしれないなと思った。どんなに元気フルスロットルの子どもでもここで半日遊ばせたらクッタクタになるだろう。
ともあれ、子どもの足でどれだけ力一杯走っても簡単には踏破できないこのスケール、もし小さい頃に来ていたらとてつもない冒険の舞台に見えていたかもしれない。埼玉県に生まれる子どもが羨ましい。
埼玉こども動物自然公園はとにかくクソデカい。クソデカいゆえに夢がある。飽きるほど緑を浴びて、太陽の下でザクザクに揚がったポテトや屋台風の焼きそばをドライゼロで流し込んで、動物と動物の間をクッタクタになるまで歩きたくなった日には、ぜひ訪れてみてほしい。
嫁と伊集院光の影響であつ森を始めたはいいが、1か月もたなかった。
箱庭ゲームというものをあまりよく理解していなかったからだろうが、このゲームの良さには最後までたどり着けなかった。というのはちょっと違って、楽しむだけの度量と優しさがなかった。
一切の知識を仕入れずに頑張ってきた。カブや青いバラのシステムが面白いとあったので、早々にほかのゲーム仲間とつるんでコミュニティに入ったりもした。
この手のゲームで必須であろう材料集めと周回作業を日々淡々とこなしていった。借金を返済しては新しい借金を作り、星に願いをこめ、他人の土地を探検もした。
だけどやっぱり駄目だった。なによりこのゲームで苦痛だったのは住人との会話だ。
よくあるRPGのモブならば一期一会の精神で彼らとの会話を楽しむことはできる。だけどこのゲームでは常に住人と接触して会話をしなければならない。毎日ある周回作業の合間に長ったらしい会話をするのは苦痛だった。
さらにコマンド選択が非常に冗長。やりたい選択肢にたどり着くにはかなりのAボタンを押す必要があった。それが最初の数回ならまだわかるが毎日・毎回はやめてくれ。しかも上記の長い会話を間に挟むのがもう無理だ。結局、フクロウやタヌキチのような表情豊かなモブキャラには多少愛着は沸いたけど、会話を毎回するほどではないなと思ってる。ほかの住人に関しては話しかけることすらやめた。
彼らがかわいく見えないのだ。話したところで何が楽しい?彼らの何が魅力なの?
そして、箱庭ゲームなのに家具や様々なアイテムにほとんど興味がない。洗濯機をもらっても広場に放置して何もすることはない。花壇を作りはしたが、途中で飽きて完全に放逐状態。島を作り変えることができるらしいけど、そもそもどんなものを作りたいのかすら思いつかない。
ほかの人は思い思いに街並みを作っているけど、俺にとっては1年たっても初期状態で一向に構わない。だからすべての家具・家電は廃棄か売り払ってしまった。空っぽの家と広場に橋がかかってる程度。
だけどほかの人々は違うらしい。動物たちは人身売買するほどに人気で、現実の街並みを再現している人もいる。前者はよくわからないが、後者は楽しそうだ。でもそこまでするこのゲームに飲めりこむことができなかった。動物たちとの触れ合いが俺には空虚すぎる。
嫁に聞けば「動物たちと触れ合うゲームなんだから当たり前でしょ」という。仲間も似た感じだ。
大してしてやることがないので、あまり好きではない周回作業ばかりしていた。木を切ってカブ価をチェックして、売れるアイテムを作り、化石を掘る。コインを稼げばいい。ただそれだけ。橋もかけてみたけど移動を楽にする以外の要素はない。確かに最初こそやってみたいことはあった。原生林の区域とより人にとって住みやすい区域を混在させてみようなどという。だけど周回作業効率を上げる以外のことは最終的に何も考えなくなっていた。すべてにやる気が起きない。
俺はたぶんおかしいのだ。全人類が大絶賛するものを受け入れられない度量の低さと優しさの欠如した人間だ。
俺には華やかなあつ森の世界の住人にはなれなかった。
このゲームは人を選ばない。だからこそそこにいけない自分は人類じゃないんだろう。
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続きです
暇だったしな。
周りから褒められてる子に対して僻む。これはもうどうしようもない俺の心の器の狭さなんだけども、それに従って動いてきたから今回もそれに従って動いたまで。
まずどうぶつの森については3DSとスマホのしかやったことがない。どっちも退屈すぎた。
「あ、俺が求めてるゲームちゃうな」って2時間してわかる。なぜならリアル日付が変わらないと次に進めない。制作者アホちゃうか、ここはベッドで寝ると次の日いけるようにすべきやろって思ってた。
でもおまえらが「あつ森楽しい!」「あつ森とタピオカがすき」「タピオカは嫌いだったけどあつ森はすき」とか言いまくるもんだからタピオカが嫌いな(嫌いというより「いうほどか?」って感じ)俺もまぁ期待をもって初めたわけ。
びっくりするほどつまらんなこれ
こうだった。案の定2時間したらたぬきはなにもいわないし、やれることもない。ここでパッケージソフトを買ってたらゲオだった。でもDLだった。売ることはできない。
よしわかった。エンディングとやらみるまではやろうじゃないか。それならチケット1枚つかった価値もあるってもんだろう。
2日目
たぬきからフクロウを紹介されてそいつらの言われるがまま俺は動く。お使いイベントだが、行ける範囲が広がってできることが増える。
3日目
ちょっとすきかもしれない
フクロウは工事中で会えないがたぬきから移住者のための土地探してこいとかいわれる。橋とか作れる。住民のちょいがかわいい。
12日目
やってよかった
昨日ようやくとたけけライブを聞けた。住民と一緒にライブを聞く。
ちょいがかわいい。移住してきたバンタムというちょいわる親父みたいな猫との会話が面白い。
ジャックという猫はTwitterで人気だったからケチをつけるために島に呼び込んだ。マイル旅行券40枚使った。
でも好きかもしれんなジャック。こういうキザな奴は俺に似ている。にてない所は皆に好かれる容姿か否かということだろう。
俺も猫になりたい。
今後はがんばって島の住人を全員猫にしたい。
けど猫じゃない住民も話してみるとかわいげがあったりしてずっと島にいてほしい。
なんで10人だけなの?悲しいぞ。
ちょっと不便で時間もいっぱいかけなきゃいけないけど楽しいだけのクソゲー。それがどうぶつの森。
誕生日おめでとうちょい。
コンビニのお弁当を温めるのって、温めても温めなくても味は一緒だ!と思っていたんですが、
やっぱり温めた方が美味しいという再発見をしてから、それからというものほとんど温めてもらいます。
今日はおしぼりまで温めててくれて、なかなか気が効く店員さんだなと感心してしまいました。
なんだかほっこり温かくなるような、例えば猫のこととかが書けたらいいのですが、夜神社で見かける猫とはなかなか仲良くなれませんし、なかなか身近に猫がいません。
たまたま行った公園でフクロウを散歩させてた人がいて、少し触らせてもらったのですが大人しくて可愛くてとてもふわふわでした。
おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間がフレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。
イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える
元々の話は、人間が動物をねじ曲げてしまったことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。
余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。
キュルルが、イエイヌの孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。
私なら、最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います。
サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。
あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。
念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。
通常、作品における伏線・回収は、プロット上重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧な説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。
他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。
続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います。現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思います。けもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います。
その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶のケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。
キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。ベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばんちゃんがミライのフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。
ワカバの場合、ワカバとリンの関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか、姉妹達とはなんだったのか、という、キャラの動機と起源、世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。
そして「”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体は簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品が面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。
細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者の視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出・脚本が失敗しているわけです。
「初見ではわからないかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要なポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。