はてなキーワード: 赤ちゃんとは
これを読んだ
https://anond.hatelabo.jp/20220920203812
ハッと気付いて震えながらカメラロールを確認すると9割以上が縦撮りだ・・・。
どうして良いのかわからない、私が子供の頃はまだフィルム使うカメラで両親は横取りしていてくれた。ビデオカメラでもそうだ。
でも私の子供は違う。縦しか無いと言っても間違いないくらいに縦撮りばかり。
切り抜きで対応する?いや無理だ、背景が重要な写真だって一杯ある。
なんてことをしてしまっていたんだろう全く気付いていなかった。
自分が信じられなくなりそう赤ちゃんのときの写真とか動画とか本当に使えないじゃんコレ・・・。
妻「赤ちゃんのうんちは汚くないよ」
ぼく「はい」
妻「うんちは前から拭け!大事なところにうんちがついたら汚いでしょ!」
ぼく「……はい。」(汚くないんじゃないのかよ)
初めて妊娠した友達に出産の時1番必要だったものを聞かれた→結論「テニスボールと夫」
https://togetter.com/li/1945946
コメントに「無痛分娩と帝王切開がより一般的になればいい」みたいなことが書いてあるが、帝王切開が手術だと知らない人未だに多くないですか。帝王切開なんて名前のせいも大きいのではないか。
帝王切開の名前の由来は知っているが(Wikipediaにも載ってるし)、未だに「帝王切開」という一般名称がそのままなのが良くないのか。「切腹胎児摘出手術」とかいう名前にすりゃいいのだよ。無理か。
帝王切開は手術である。腹を切って子宮という内臓を切る。これは日本では医学的な理由がないとしない。「手術しないと母親か胎児あるいは両方死ぬか重篤な障害が残る」場合である。
(コロナ流行ってからはコロナに感染してしまった妊婦さんは感染を防ぐために帝王切開になったらしいが。)
「陣痛痛いから手術ね」はありえんし、そもそも腹切った方が痛いし一生傷痛むで。場合によっては傷口と腸とかが癒着してえらいことになるんじゃ。
自分の場合は予定帝王切開であった。手術の数日前に決まった。慌てて手元にあった「初めての出産」本の帝王切開の項を見たが、1ページくらいしかなかった。大した参考にならんではないか。ネットで検索し、当時一番役に立ったのが2chの帝王切開スレだった。経験談や入院の際の役に立つアイテムなど大変お世話になった。
いよいよ入院。前日昼から食事抜き(だった気がする)。夜から飲み物もなし。手術前のインフォームドコンセント。妊婦かつ骨盤内手術のためダブルの血栓リスク。血栓出来て詰まる場所によっては最悪死ぬ模様。
自分は部分麻酔で済んだので、手術前にまず腰椎に麻酔。これが激痛らしいのだが、自分は陣痛が始まってしまっていたため陣痛が痛すぎて注射の痛みを全く感じなかった。不幸中の幸いであった。
いよいよ腹切り。幸い麻酔が効いて痛くない。ちなみにネットで読んだ話だと、緊急帝王切開で一刻を争うために麻酔効く前に腹を切り始め絶叫手術になった人がいるそうな。予定で良かった。
しかし手術で麻酔かけたからって「痛くなくて楽したねー」なんて言う人いるかね?しかし帝王切開だけは言われるのだ。「帝王切開で楽してさ〜」と。なんでだよ。いてーよ。
大体手術始まって10分弱で赤ちゃん出てくる。早い。呼吸確保した赤ちゃんとご対面した後、赤ちゃんは保育室へ。一晩保育器で監視。赤ちゃん死にやすいから24時間は保温して要監視。
麻酔は術後すぐ切れて激痛が来る。子宮収縮剤を点滴される。文字通り、子宮を収縮させるためである。経膣分娩だと分娩中に子宮が収縮するわけだが、帝王切開だと収縮しないので薬で収縮を促すのだ。なので後陣痛と腹の傷のダブル激痛。痛み止めの注射を一回だけしてもらえるのだが、これは手術の傷にしか効かない。後陣痛には無力である。筋肉注射で痛いですよ〜と言われたけど腹の傷が痛すぎて注射の痛みはわからなかった。不幸中の幸い(2回目)。ちなみに痛み止めは大して効かなかった。痛いわ。
血栓とむくみ防止のために足にはバルーンマッサージ器を装着。空気で膨らませたり抜いたりして一晩中足をマッサージ。シュコー、シュー、と音がうるさくて傷でヨレヨレの体にしみる。
忘れてたが手術前に尿道カテーテル入れた。これも痛いらしいけど入れたの麻酔前か麻酔後か忘れた。痛かった記憶がないので。不幸中の幸い(3回目)。
発熱もして一晩ほぼ激痛で眠れず翌朝病室へ戻る。カテーテル抜くのも痛いらしいが、傷の痛みで(4回目)。病室へ戻れば夕方からは歩行訓練開始である。子宮の傷口が腸等と癒着するのを防ぐためだ。絶食からのー、歩行〜。背筋伸ばして歩いたほうが痛くないよ!と助産師さんに励まされる。痛い。
手術で胎盤は大半取ってしまうものの、後産はあるので出血が続く。子宮内ののこりもんを排出するために助産師さんが腹をぎゅうぎゅう押してくれる。手術の傷の上から。フゴォ…と唸るしかない。
入院したのが大部屋だったのでトイレが遠い。トイレ行くの大変でしょう、と看護師さんが部屋に便器持ってきてくださったが、さすがに大部屋で他の人もいるのにするのは…とトイレまで唸りながら歩いた。
このあと数日は後産のために傷口ぎゅうぎゅう押しが続く。痛いよ。
11日目に退院した頃には痛みはかなりましにはなっていたが、しばらくは傷の痛みがフレッシュであった。
その後もうひとり出産し帝王切開歴は2回になった。ちなみに一度帝王切開をするとその後の出産は普通は帝王切開になる。何故かというと、一度子宮を切ると切った部分が薄くなり、次の出産時に陣痛が来ると子宮が破裂する確率が高くなるからである。子宮が破裂すると大体30分以内に腹を切り胎児を取り出し出血を止めないと母子ともに死にます。帝王切開後の経膣出産をVBACと言い、やる人もいるけれど日本でも子宮破裂で病院が訴えられたことがあり、手掛ける病院は減っている模様。産科も減ったしな。
VBACの歴史については各自検索で。元はアメリカで入院期間減らして医療費を安く上げるために30年くらい前に流行ったらしい。
日本だと「自然な出産」へのこだわりやら「帝王切開は楽してる、甘え」みたいな考えのせいも少なくはない気もしなくもないけど。
話がそれたが、最後に腹を切ってから10年以上経ったが、未だに痛む。寒いと腹の傷は痛む。元から月経痛が酷かったが、月経のたびに刺すような痛みも加わった。痛みのアンサンブル。
あと便や尿が溜まると子宮あたりに激痛が走るの、癒着してるんですかね?しらんけど。
こんな感じで、帝王切開は楽じゃない。手術だよ。自分の場合は比較的術後の回復が良かったので、もっと大変な人も沢山いると思う。帝王切開した人に「楽できてよかったじゃーん」と言う人にはなんかちょっとした呪いをかけたい。うどん食べると鼻から出るとかな。結構痛いよねあれ
金が出せるなら絶対に買え
一旦サークルに入れて泣かせつつトイレで一休みなんて聞いたことないか?安全確認のためにモニターで見ていれば耳栓してモニター音量ゼロでもいい
スマホいじるのはかなり必要だからスマホをモニターにするんじゃなくてモニター付属のにしろ
一人目でどうして買わなかったのか後悔した
身内に子供産まれたから、なんかこう…育児にいい感じのものないかな
なんかいい感じの固定カメラとか赤ちゃんの記録ができたり母親が楽になる系
アレクサとかどうなんだろう
親戚や友人が出産してお祝いを考えている人
おむつケーキが何かはググれば出てくるが、これは贈答品として厄介だということを覚えてくれるだけでいい
なんで駄目かというと
おむつケーキは紙おむつをロール状にしたものだが、これを開封して使用できるようにするには時間と手間がかかる。おむつは1枚づつビニールに入っていて、それがセロテープで簡易的に繋がっているのが多いだろう。これを解きほぐす作業が面倒くさい。出産前後の家庭にとってこの労力は惜しまれるものだ
そして使用できるようにしたところで入っている枚数なんてのは20枚程度だろう。こんなのは数日で使い切る量であり解体の手間に見合うとは思えない。
そして何より、メーカーやサイズが必ずしも求めるものではないということ。送る側は外観やメッセージカードに注目したがるので、そのおむつがどこのどのサイズかを理解しているとは思えない。
赤ちゃんは数ヶ月でおむつのサイズが変わってしまうことが多く、送る時期によっては現在のサイズとまるで合わないことも多い。
外観は可愛い贈り物だし、赤ちゃん用の消耗品だから人気なんだろう。実際、2人の友達から別々に送られてきた。
だけど上記の理由の通り、解体したりサイズアウト前に使い切ることを考えたりと、無駄な手間と時間を要す。
初産の人は何を必要とするのかもわからないし、出産前後の体調変化や赤ちゃんの成長を予測するのはほぼ無理がある。だから出産祝いが本人や赤ちゃんにとってどれだけ有益かを考えるのはほとんど意味がない。だから一番いいのは現金やアマギフ。物を送るなら、汎用性がずば抜けているおしりふきがイイだろう。おむつを贈るなら使用しているものとサイズをヒアリングしてからにしろ。あとは母親用のお菓子とかが無難か。最悪家族が食べればいいのだから。
全然違うぞ! 子持ちはただ単にツイてるんだよ。
ユーザー側は気に入らないなら「その作品は気に入らない」って言って離れていけばいいのであって、ポリコレ云々で叩くのは違うやろ
コンドームつけて赤ちゃんに直に擦り付けても、証拠は残らないよ。
赤ちゃん本人の記憶もすぐに上書きされてしまうから、誰も傷つかない。
性的不同意性交も同じ。立証が困難だからといって無罪のままでいいという事にはならない。
罪悪感が働くから。
飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く
もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分に約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの」
元従軍看護師の木村美喜さん(89)=桶川市=は激戦地のフィリピン・ルソン島で約1年、敵の爆撃機や砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない。無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。
生まれも育ちも桶川。日本赤十字社埼玉県支部の看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外の陸軍病院に派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。
9月、マニラ初空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院は解散。絶え間ない空襲の下、部隊はマニラから北に約250キロのバギオに移動した。
悲劇が襲ったのは、45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。
埼玉班も9人が戦死。「今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。
4月、バギオから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいつしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの」
埼玉班の仲間も一人、また一人と病気や栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだいの手紙や写真、日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。
終戦を知らされたのは8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山。うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラの先住民の足跡を見つけるたびに背筋が凍った。
ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉に背中を押され、何とか収容所にたどり着いた。
約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員。日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった。
戦後は助産師として働いた。「もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。
今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争を経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ。」