はてなキーワード: ポジティヴとは
何故これを読むとモヤモヤするのかを考えました。
昨晩110番を利用してしまった。帰宅途中20時くらいに住宅街で結構小さい子(小1~2年くらい)が泣きながら一人で歩いていた。迷子か何かかと思って声を掛けようと思ったが「声かけ事案」とか言われても困るので声を掛けられなかった。かといって放置するのも困るので仕方なく110番した。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
『昨晩110番を利用してしまった』だけなら違和感のないこの文章、最後まで読むと、溶けきれずに残った被害者意識が浮かび上がりまくりです。このツイートの主張は「俺は子供を助けようと思ったけど『声かけ事案』のせいでできなかった。俺の良心は困っている。俺はすごく苦しみ抜いた挙げ句、苦渋の選択の果てに110番した」と言うことです。言い換えると「俺はこれだけの犠牲を払って正義を行ったんだ」と言う主張です。そこまで困るなら誰も頼まないと思うのに、良心を理由にして、非常に自分にとって気持ち良い形で傷ついています。
つまり、別に頼んでもない自己犠牲を行ったあと、自分が傷ついた理由を気持ちよく演出してるわけです。以下のツイートは「迷子の子が救われないことで心を痛めている俺はなんて可愛そうなんだ」「心配が理解されない俺ってなんて可愛そうなんだ」って思いしか感じられません。
110番は緊急通報で「警察への電話窓口」ではないが、場合によっては事件に巻き込まれかねない時間帯だし問題ないだろうということで通報したがOPに「最寄りの交番まで連れてこられませんか?」と言われた。それはムリだ。「事案」とか言われるのが怖くて声かけられないから通報したんだし。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
その旨伝えると、大丈夫だからといわれたが、そりゃOP(女性)の視点ではそうかもしれないが男が声を掛けると何言われるかわからない世の中。例え通報を証拠として「不審者ではない」と言ったとしても「通報しておいて正常者のフリ」とか言われかねないし実名報道されたあとでは後の祭りである。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
人生を一瞬で棒に振りかねないそのリスクは到底負えない。その時子供から20mくらい離れた位置で立ち止まってチラチラ子供見ながら電話している事すら、すでに何言われるかわからないリスクだ。はやく通報終わらせて立ち去りたかったが、OPがいろいろいうのでなかなか話が終わらなく困った。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
最終的には「最寄りの交番から警察官を行かせるので、せめてそれまで近くで見守っていてあげてくれませんか」と言われた。わかってないなあ。近くに立ち止まって子供を見ているのなんてそれこそ「不審者通報」だよ。当然断るしかない。OPは女性だからその恐怖がわからないんだろうなあ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
最後は「一分でも早く警察官に保護させてください」と押し切ってその場を立ち去った。10年前なら間違いなく声をかけて交番に連れて行ってあげたが、今は男がそんな事をしたら何を言われるかわからない。残念で気がかりではあるがその場を立ち去って帰宅。その子がその後どうなったかは、知らない。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
その場を立ち去ったのは自分の身が心配だからでしかありません。わざわざ『残念で気がかりではあるがその場を立ち去って帰宅。その子がその後どうなったかは、知らない』と書いたのもまた「俺の良心が可愛そう」アピールでしかありません。
そして被害者根性や弱者アピールに続きます。もちろん、それは自分が気持ちよく傷つくための発言です。
子供自体も、親から何を言われているかわからない、という面がある。「事案」を警戒しているがゆえに、子供に「知らない男性から声をかけられたらすぐに大声を上げなさい/緊急ブザーのヒモを引きなさい」とかいわれ、男性への恐怖心をすり込まれている可能性だって充分ある。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
「人が通る道に戻って通りすがりの女性に対応をお願いする」という手もあったが、これすら「見ず知らずの男に急に声をかけられる」ということにどういう反応をされるかわからない。何しろ証拠がなくても女性が「痴漢された」と言ったらそれだけで成立してしまう世の中だからねえ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
理想論を言えば「自分が犯罪者にされるリスクを冒してでも小さな子を守ってあげるべきだった」という事になるのはわかるが、現実問題そんなリスクを冒す事はできない。道交法違反だとか、たすけるために他人のものを無断で使用した、という性質の罪とは違うわけだし。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
これらの発言は「こんなリスクが考えられるんだ!」という主張ではありません。と言うかこの人はリスクではなく確定で被ることだと思って書いてます。冷静にリスク分析をするのであればポジティヴな考えも挙がってくるものですが、ここまで一切ネガティヴな意見しか述べていません。最初からダメな方向しか考える気がなく、それは何故かというと、それだけ自分が社会で虐げられているのだという弱者アピールによる快感を得たいのが目的になっているからです。
OPの対応も「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気が伝わってきた。今の日本社会、男の人生や命って安いんだよね。男女平等とか笑い話だよなあ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
「現代日本で傷ついている男の俺ってこんなに可愛そう!!」と主張するネタとして、やたら主語のでかい主張がしたかっただけです。迷子の子供はその主張を行うためのダシにされたわけです。憂いながら傷ついてる風のこのツイートはさぞ気持ちよかっただろうと推測されます。年齢から察するに、全盛期の2chでは男女板の住人だったのでしょう。
また、ここまでつらつらと自分にとって都合の良い具体例を挙げていたにもかかわらず、オペレータさんの対応については『「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気が伝わってきた』としか記述していないのが不自然です。ここは「OPの口調もだんだん投げやりになってきて」みたいな例を挙げて『「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気』がどのように伝わってきたかの説明が入るべきですが、具体的にどのような感じであったのかの描写がありません。なぜなら「今の日本社会、男の人生や命って安いんだよね。男女平等とか笑い話だよなあ」と言いたかっただけだからです。
これって「自分が溺れるかもしれないけれど川に飛び込んで溺れた子を救助してあげる」ってのとは違うんだよね。そっちならやったかもしれない。けれど迷子を助けようとして「声かけ事案」とか「不審者」扱いされ、子供にも親にすり込まれた男性=不審者の教育で過剰反応して泣き叫ばれたらかなわん。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
これは大げさな話ではなく、実際に某ブログで、子供に「知らない男に声を掛けられたらすぐに警報のヒモ引いて鳴らせと教えている」という記載があったんだよね。それが誤解だったとしても、子供が犯罪に巻き込まれるよりはマシだから、という記載で、相手の男性への被害は全く考慮されていなかった。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
ここも別のモヤモヤポイントで、この人にとって「某ブログ」がそのまま世界の常識全体の真実になっています。これは単に自分にとって都合の良い事象だけを選んでいるに過ぎません。
たぶんこの手の女性視点では「間違いなら警察で説明して誤解が解ければそれでいいじゃない」くらいにしか考えていないんだろうね。その時点で実名報道されたり警察に連れて行かれる事によるストレスや仕事を休んだりする社会生活への影響は考慮されていない。男側の被害なんてどうでも良いのだろう。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
そしてこのシメは大嘘です。
というわけで、非常に後味の悪い対応になってしまったが、そういう世の中だからなあ。もうどうにもならんよ。せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
余談だが、昨日の迷子、管轄の警察署から電話あった。無事保護されて親の元に戻れたらしい。どうも本来子供がいるはずだった場所とかなり離れたところで発見されたらしく、無事見つかって親は凄く喜んでいてお礼の電話したいので電番教えていいかと言われたが断った。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
子供の発見場所も、僕が通報した場所から結構離れていて、再度ロストしてもおかしくなかったようだ。そして付き添ってあげなかった事を疑問視されている空気がある。感謝といいつつ本当は半分不審に思っているのでは無いかと邪推してしまうほどだ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
いずれにしても、お礼だったとしても、もうあまり関わりたくないと思った。この件ははやく忘れたい。再度同じような子を見かけても、もう通報する勇気は無いかもしれない。子供が泣いているのをたすけるという単純な行為がこんなに大変なものだとは思わなかった。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
「祈っていたことの結果」が「余談」になっています。やはり本題は「子供の安否」ではなく「社会的弱者である男の俺は可愛そう」という所です。
あるいは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」であれば「あの子は親の元に戻れて良かった」のようなツイートが見受けられても良いのですが一切ありません。それは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」が飾りであり、結論は「そういう世の中だからなあ。もうどうにもならんよ」であるからです。そして「そういう世の中で生きてる男の俺は良心が発揮できずに可愛そう」という主張を改めて行っているわけです。
とまぁ、長々と書いて再認識したのですが、俺にとってのモヤモヤの原因は「迷子の子を交番に連れて行くのにはこんなにリスクがある!」の皮を被った「現代の男性は虐げられている! 俺は可愛そうだ! 俺は良心があったのに社会のせいでそれを実現できずに困っている俺は超可愛そうだ!」と言う気持ちが透けて見えるあたりなのかな、と思いました。
痴漢冤罪のように、ある種の誤解や悪意が男性にとって著しく不利である事は事実です。また、冷静な判断のできない警察や頭のおかしい人の親が世に存在するのも事実です。ですが、本件についてはそれを恐れたフリをして、ただ単に男性が弱者であるという主張をしたいだけだった、という匂いを消せなかったのがまずいと思いました。
また、リスクという言葉を便利ワードにして、何も信用しないのが良くないです。リスクという言葉を使うのであれば、それを回避する方策も含めて、どうすればよりよい方向に事態を打開していくのかを考えるべきで、本件においてはリスクと言いながら「痴漢冤罪」と「声かけ事案」の悪いところ取りをしたケースを勝手に確定で想定してるだけに過ぎませんでした。
正解としては「迷子の子を見かけたけど警察に連れてくと面倒なことになりそうだから通報だけしといた」で終わらせるのがベターであり。ベストなのは心の中にしまっておくことです。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
こういう場所に書くのは何年ぶりだろう。碌なことを書いていないが、これもそうだ。
先月、職場の年下の人に告白してフラれた。それはそれでまぁいいのだが、考えて見ればまともに告白したことって、30代も半ばになろうとしているのだが、ほとんどなかったことに、気がついた。
あまり恋愛したことないなぁと慨嘆するのだが、20代は今を生きることに精一杯で、女に情熱を傾ける余裕がなかった。いや、少しはあったが結局ろくな恋愛ではなかった。そういう時に限って、職場恋愛で、嫌な記憶しか残っていないし、もう職場でなんてと思った20代最後のあの頃は今、どこに行ったのやら。
30代になって余裕もできてきた。仕事もそれ以外も。でも恋愛というものだけはどうしようもなかった。ま、女友達はいるし、たまに飲みに行くのは楽しいが、その人とはお互いに距離をとりながら気がつけば短いとは言いがたい時間が過ぎてもなお、今の関係は変わらない気がする。
何を書こうとしているのか、散漫になってきているが、結論めいたことを書くなら、年齢不相応の経験不足ではあるが、とにかくもう少し恋愛というものへ積極的に行こうということだ。人を好きになれたこと。これは今年になって一番驚いたことだった。
少し上に書いたとおり、かなり嫌なことがあってから、人を好きになれずにいた。職場でなんてもってのほかだとも。それが一気に変わった。人を好きになること、なれること、なってもいいんだということ。何かが変わった気がしている。錯覚かもしれない。だとしても。
書いていて、異様にポジティヴな自分がいるのに驚く。最近は自分に驚いてばかりだ。今年もあと4ヵ月弱。前へ進める気がしている。いや、気がしているんじゃない。進むんだ。たとえ何があろうとも、待ち構えていようとも。
あんまり神経質になりたくないけど、今までの基準値を改定(はるかに上げて)して
基準値内だから大丈夫とか、1週間前の水道水は汚染されてたけど今は大丈夫とか、
行政のわけのわからん対応を見ていると、もう信用できなくなったよ。
今晩久しぶりに雨が降るのでしばらく水道水は飲まないようにするつもり。
近所のスーパーでボルヴィックの1.5リットルがまだ売っていたので・・・。
出来るだけネガティヴにはならないようにしたいけど、顔引きつらせたポジティヴにも
なりたくはない。
…う、あの…クライアントさんむけに迷惑かける、というのは、どちらかというとプライオリティがたかいほうのことなので、後回しにするとか、ないですから…
どうしても、要求を満たすモノができなくて、周囲を巻き込んだり、徹夜したりしてもできあがらず、迷惑かけるとかはありえますけど…
っていうか、なんで、自分の仕事で直接に迷惑をかけてるわけでもない人に叱られてるんだろう…じぶん…
*
ちなみに、自分も、クライアントの側にまわったときにやきもきしたことは、ママあります。
でも、あまりに問題の発生が多い時って、クライアントとしての自分オーダーの出し方にもたぶん、問題があったんだろうな、とか、思うことにしております。
原則論を言えば、もちろん契約書通りにしっかりと仕事をしてもらわないと困るし、締めるところはしっかり締めるべきですけど、
オーダーを出す、というのもディレクション能力の訓練のうちかな、とポジティヴシンキングで!
やっぱり、一緒に仕事をするのがはじめの相手って、どこの部分にどういうパフォーマンスを期待すべきかがわかりにくいですよね。
本当にそうだろうか
そんなことはない
なにかしら影響しているはずだ
そんな風に思っている子って多いと思います
あたしもそうです
と言うことがそれを物語っていると思います
あたしはこの本は買っていないのだけど
血液型って実際結構当たってるんじゃ…とよく思います
気づいたら周りがみんなB型だった
ということが良くあります
これは何も前知識として知っていたわけではなく後で聞いてみたら一緒だった
というパターンです
こういう経験を自分でしてしまうとどうしても科学的根拠がないといわれていても
何かまだ解明されて無いメカニズムがあって…みたいな気持ちになってきちゃいます
これは神秘体験をしてしまってカルト宗教にはまる人と同じ感じなのかな
『血液型でわかる相性』と言う本で爆発的に流行したと言われています(wikipedia参照)
『人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい』
という思いで書かれた本だそうです(又聞きなので信憑性はありませんが…)
つまり一種の処世術みたいなものです
それが一人歩きして今日に至ったというわけです
このことを知ったらより血液型性格診断に疑問を抱くと思います
あたしもこの話を聞いたら科学的な根拠はないんだなとキッパリ思えました
しかし、それでも、結構当たる…という体験がある
初対面ですぐB型だってわかる子がいたりする
だから血液型性格診断を科学的根拠が無いから信じるなんて馬鹿げている
なんて説得させられても、それでもな~という気がしてしまう
そこであたしは当たる原因として
ある仮説というか、これぐらいしか無いんじゃないかな~
ということを感じ始めました
以前思い込みの力がいかに凄いかという日記を書いたんだけど
http://anond.hatelabo.jp/20090720165732
やっぱりこの問題も思い込みなんじゃないかな~と思えてきました
あたしが生まれたときから漠然と
O型…大雑把
あたしの場合はよく親から「あなたはB型だから部屋が汚い」などと言われた方なので
余計にそういうレッテルを気にしていたと思います(笑)
また家族に言われなくても学校などで一度は話題にはなったと思います
このような環境の中で育ち、自分の血液型の性格のレッテルを意識していると
思い込みでそのレッテル側に寄っていってしまうのではないかと
そう思いました
これはある意味で能見先生の考えたポジティヴな捕らえ方ではなく
どちらかというと「あたしは●型だから~」といった開き直りのような気持ちの方が
強いんじゃないかなあ、と思います
人間は何かの型にはまりたいと思いがちな気がします
最近の「草食系男子」とか「森ガール」とかはまさにその典型ではないかと思います
その考えが無意識的に血液型性格診断のレッテルに自分からはまりにいっている
そう考えることもできなくは無いんじゃない
この考えで行くと血液型診断を信じている人はドップリ型にはまっているんじゃないかな
「俺B型だから適当なんだよな~」って男、周りにいませんか??
500万の読者のうちのこのような考えの人がいないとは言い切れないんじゃないか
↑決め付け(笑)
とここまで完全に憶測でしゃべってきたけど
そんな考えもあるんじゃないかな~って思ったので書いてみました
1年で治るのが普通だと思っているお医者さんも甘いよなあ、なんて思います。以下、自分の体験:
パキシル飲み始めて、4 年 9 か月か‥‥‥。
仕事のストレスなどで何度もぶり返しを経験しつつも、長い目で見れば着実によくはなって来ています。無理矢理、家族と離れる環境を作ったり、なんなりしながら(正直言って、家族と一緒に暮らしていると治りにくいような気もする。ネガティヴであれ、ポジティヴであれ、一人暮らしよりもストレスは多いのだから。特に、うつ病の場合)。本当になが〜〜〜い目で見ないと回復しているのが分からないのが辛いところ。
増田さんへ:
お医者さんに、ご自分がそのように思われている事は、伝えるべきだと思います。まさにそれが長引く原因だと(素人、とはいえ患者の立場からすると)思えます。うつ病になったストレスを被るような環境なんてそんなすぐには変えられないのだし、それも含めてお医者さんと相談しないといけないんじゃなかろうか、と思うのです。
テキトーに書きなぐって放置します。恐らく二度とアクセスするつもりもないし
レスも読むつもりはありませんので返信はしません、あしからず。
・妬み、嫉み、自分を卑下する愚痴のような内容しか書きこまれていない。
・そういったネガティヴな事象に共感する人間が集まる、ある種の温床になっている。
・そんな人間が集まって言いたいこと言って、それに対してのレスもネガティヴなものばかり。
ポジティヴな発言をしてもそこにつくトラバは大抵悲観的で、2chの書き込みよりも攻撃的で、とにかくタチが悪い。
・対して、「自分はこんな根暗な奴らとは違うんだ」という、これまた輪をかけて根暗で攻撃的なお馬鹿さんたちが
凹んでる人間を叩いていい気になれる恰好の場となっている。
・弱音を吐いてせいせいすると思ってる人がいたら大間違いで、亡者の如く弱った人間が現れたと思ったらそれを叩く場となっている。
負のフィードバックループが大好きで自虐的な精神をお持ちの方で、尚且つそれで構わないと諦観している人間だけが集まればいい。そうじゃない私はもう二度と見ないと思います。
はてなってもう少しマトモな倫理観、道徳観を持った企業だと思ってたけどそうでもないのね。
もっともっとネットを限定的に使うように心がけようと思った次第。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080303/1204546873
・Happy Days -「真の日米の関係は、依存する、し合うことではなく甘えにおぼれないことだ。
そうすれば真のHappy Daysは来るだろう」。という歌だ。だが、
というセルフツッコミは、その来る関係はまだ来ない、という本人の深い嘆きなのかも
しれない。
「ブラックジャック」の主題歌にこれだった時の日本国民の反応の拒絶ぶりは
スゴイものがあった。だが、今から考えると、これは米産牛肉輸入停止を歌った
物だということが分かる。
「誰よりもあたしだけ1番にして、心の中にあたしだけ映して」
とは、アメリカが牛肉の輸入ナンバー国のうちの1つが日本だ、ということを現している。タンももちろん輸入停止になったので、
仙台の牛タン屋が潰れまくった、という話を覚えている人も少なくはなかろう。
アメリカは日本に輸入面で依存していた。だが、依存だけではダメなこともある、
メスを入れなければいけない事もある、という事を大塚流に歌い上げた、ということなのだろう。
・ネコに風船
「気づけば ネコ科の なんとかっていう 種類にわけられてた
あたしを見て にゃーぁおって言ってくる
バカじゃない?と言っても通じなくて かわいいと一瞬のもてはやし」
これは、日本人のホモフォビア、及び差別的意識に的を当てた作品だと思われる。たとえば、日本においては海外から
渡来してくる人を「ガイジン」扱いし、日本国民であるはずの在日中国人、在日韓国人などをひたすら罵倒する。
そう。この歌はネット右翼に関する歌だったのであった。
「今こそ人種隔離を! 明日も人種隔離を! 永遠に人種隔離を!」
と発言したが、今日本にいる差別主義者たちは「ヨソモノ」を永遠に人種隔離したいのだろう。
彼らは日本人を日本人だけで染め上げたいのだ。他人がそれに介入してくるのを心の底から許せないのだ。
このやろうって 言っても通じなくて 冷たい眼差しで見てくる」
これはそんな卑劣なネット右翼による荒らし、スクラム行為である。ゴミみたいなコピペ内容を書き散らし、
「それはおかしいんじゃないの?」といっても通じず、「お前は工作員だ!」とレッテルを貼られる。
「火のついたたばこ」とは、これらの内容により炎上する、という暗示だ。
「国籍法改正」騒動などを見ていれば、おのずと良くわかることだろう。
・ド☆ポジティヴ
「堅物反対
まったく動かない
思い込みって 自由がなさすぎる
ストレス反対
貯めても家買えない
そんなことに時間使いたくないやん」
彼らは、お金をためて家を借りる状態ですら出来ない。急激な経済の悪化で解雇されて、色々と大変な状態なのだ。
「派遣村は甘えだ」「自己責任だ」「国に甘えるな」「無駄金を投入するな」「ホームレスを見ろ」
彼らはダメなくらいに堅物なのだ。想像力の「そ」の字も存在しないのだ。
本当は「あんまり興味もない」んだろうが、ともかく「甘えている」と思う奴らが許せない、叩きたい・・・
それほど心の余裕が無くなっているんだろう。そんな思い込み、自由が無いよね。
キバヤシ「そう、大塚愛を「このカマトトが」「パクリばかり」「ぶりっ子」「下品」「歌詞が陳腐」
「整形している」と彼女を批判しているのはすべてネット右翼の陰謀だ!
ネトウヨが反論出来ないから、人格を貶すことしか出来なかったんだよ!」
_人人人人人人人人人人人人人人_
> な なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
自分は超絶ブサだけど詐欺並のメイクで中の上くらいにはなるよ!
化粧で化ける女は詐欺だ!という世の中の男性にフルボッコされそうなくらい変わるよ!
メイクの本とか2chの化粧板とかBAさんとか、色んなとこから情報を集めて、顔面で実験しまくって思考錯誤の上現在に至るけど、化粧の世界は奥が深いと思った。
奥が深いんですよ。マジで。
これが自己ベスト!とか思っても使う化粧品ひとつ、テクひとつで変わったりするんですよ!
高い化粧品だから良いってわけでもないし!
パーソナルカラーをプロ診断で調べて本当に似合う色を選ぶだけでも印象が違うよ!
だから「化粧ではここまで、どうせ元がブサだし」って見切り付けないで頑張ってみて欲しいなあ。
3D的に大がかりな問題(ゴボ口とか)は化粧では誤魔化しにくいけど、目が小さいとか肌が汚い、顔デカイ、鼻ぺちゃとか鼻の形が変、くらいはかなり改善の余地があるよ!
一番化粧で化けるのは薄顔ブサだけど、派手(顔のパーツが主張する)ブサも腕の磨き次第では結構見込みはあると思うよ!
まあ旅行とかお泊まりとか面倒なので、笑ってカミングアウトできるようなキャラ&それでも逃げないくらい好きになってくれる人を得られたことも私にとっては大きいのかもしれないけど…。
でもそこまで辿り着くには化粧のおかげでコンプレックスが軽くなってポジティヴになれたことが超大事だとおもった!
なんか分かりにくい文章ごめん。前向きに頑張ろうぜって言いたかったんだ。
女は顔で評価される部分が大きくてブサには辛いけど、女だから使える武器もあるんだぜ。
昔から母親に「手に職を持ちなさい」って言われてきた。
おおむねこんな感じの論調。
昔からお口サワーに言われてきていながら、特技とか資格の欄に書けるものが一切無い。英検どころかそろばんも習字も経験したことが無い。ついでに言うと学歴も無い。大学入ったけど、いい年こいて登校拒否(というか過度の遅刻)起こして中退した。
しかしまあ考えれば考えるほど私に何ができるんだろうって、いやできないだろうって思いに至って、何もしない。何もできない。正直その手のやつって試験会場に時間通りに行けるかどうかすら怪しい。
指定の場所に指定した時間通りに行けるならむしろ病院通いたい。歯科と眼科と耳鼻科と精神科。おうちで黙って暮らしてる分には、もしくはお客さんとしてふらふらどっか行く分には問題なく過ごせてるけど、もし社会に出て働くことになったら治しとかなきゃまずい。
精神科に行って馬鹿が治るかどうかがよく分からないんだけど、最近は馬鹿につける薬も馬鹿のタイプによっては存在するらしいから、駄目元でぶち当たってみたい。ちゃんと任意のどこかに時間通りに行けるようになったらって夢物語だけれども。
昔は精神科ってひどく精神を病んでる人が行くもんだと思ってたけど、よく考えたらそんな人が指定した時間に電車がたんごとん乗り継いでちゃんと到着できる率は低いように思えてきた。自分が普段はこんなお気楽精神なのにひとりで歯医者にも通えないんだから、っていう、母親と同じ「私がそうだったから」メソッドによるものなんだけど、実際のとこは知らない。
登校拒否中に、大きな病院の精神神経科ってのに通ってた。通ってたというか、奇跡的に通えてた。あれどうやって通ってたのか今となっては謎。自転車で行ける距離だったのと、あと指定時間に行っても三十分~一時間は待つのが常だったから、そこら辺がでかかったのかもしれない。
ついでに言うと、何故自分がそこに通ってるかって理由もついぞ分からなかった。通い始めは母親と友達の勧めからだったんだけど、継続した通院が必要な理由が分からなかった。病名無かったのか、単に秘密にしていたのかも分からない。話をしてた先生がお医者さんだったのかどうかすらいまいち分からない。一度だけお薬処方してもらった覚えがあるからおそらくお医者さんだったんだろうけど、他は何か話するだけで、お会計千円札と小銭って通院っぷりだった。
その病院は別の事情で通えなくなったんだけど、もしあのノリでまたどこかに通えるならもっかい通って、今度は自分がどんなタイプの馬鹿かはっきり聞いときたいと思った。つける薬の無い馬鹿ならあきらめもつく。
そろそろ手に職の話に戻る。親元離れてしばらく経って、母親から資格取る勉強してるってメールが来た。その後鬱っぽくなってたらしくてしばらく音信不通状態になってた。こちらからメール出さないから後から知った話だけれども。それ以後手に職の話をされてない。多分何かしら母親にイベントが起こって、新しい「私がそうだから」で上書きされて、手に職神話が消えたんだと思う。
でも未だに自分の中で手に職持ってないことへの焦りがある。傍から見ると全く焦ってないように見えるだろうけど焦りがある。現状そんな無理しない方がスムーズに生きていけるんだけど、呪縛が解けない。
非生産的な方向に思いを巡らせながら増田にぽちぽち文字打って、やたら赤い朝日を眺めて、そろそろ洗濯してごみ出して寝ようかなーとか考えて、考えるだけの、のらくら日記。トータルではほのかにポジティヴ。
いや、だからさ、なんで努力できる能力一般、とかいう話をするのだろうか。
比較的、何に対してでも集中力を発揮できる人というのはいるけれど、集中力=努力ではないしね。
マインドセットを切り替えて、何に対してでもなるべく積極的に取り組もうというポジティヴ・シンキングの人とかは確かにいるけどね。
それは努力する能力といえば、努力する能力なんだろうけれど、方法論だよなぁ。
むしろ、何かに対して努力しないことを決めて、今、手持ちの自分の能力・時間資源を何かに集中して仕向けるとかっていうのはあるとおもうけどね。
それは、何かに対して努力することである一方で、努力しないことを決めて、それを切り捨てるという発想でもあるしね。
「ほんとうに何に対してでも努力できる人間」という人間像の理解モデルからして、それってどんなやつよ、ということをまず問いたいのだが。
「何かを努力することのできる人間」はいると思うけれども、「努力そのもの」ができる人っていう人間理解は(まったくの嘘ともいわないけど)、かなり限界含みだとおもわれ。
人に「良い」と思われたことが無い。ほぼ確信している。少なくとも「良い」と思った旨がこちらに伝わる類のものを持っていない。多分可視化させてはいけない部分で秀でてる部分はあると思う。スケープゴートっぷりとか。可視化しかけたら、「そんなのが良くったって、ねえ」「そもそもそれって良い悪いじゃないし」みたいな感じでそつなく押し込められる。「良い」ものの埋蔵場所が自他共にタブーがらみである認識があるみたい。
審査・試験っぽいもので「及第点」を取ることはある。でも魅力とか誰かの琴線とかそういう方向の、人に直接作用するような「良さ」は今のところまだ発覚していない。少なくとも自分で言及できるような類のものは。
何かしらのご縁で「私たちいじめとかしませんから、ハイソですから」って色合いの集団に身を投じて過ごしていくとなると、潤滑剤としての褒め合いが必要になる。社交辞令とそこに毛がもじゃもじゃ生えた類のあれ。そういうとこに自分みたいなのが混じると、排斥されるんじゃないかと予測されるかもしれないけど、これまたぎっちょんちょん。如何にしてこの駄目なとこしか見当たらないターゲットを褒め上げるか、というテクニックの競い合いが白熱して、すごいことになったりする。そういう集団内ではそれはそれは空虚に褒められまくる。
そしてそのまま過ごしていると、主に褒められたい念を内に秘めてる人から「あんた褒められたくてそんなポジションにいるんでしょ」みたいな野次を明暗関係なく飛ばされる。内に秘めたる思いは空虚にすらビビッドな彩色を施すみたい。こちらとしては集団に引っ付く理由は別のところにあって、良くないことを無理やり良いように言われるのはしっくりこないどころか時としてたいそう気持ち悪いし、言った相手も閻魔様に舌抜かれる危険性を孕むし、そういう褒め褒められは集団内に平穏にとどまるためのやむを得ないリスクとしてしか捉えられない。隣の芝生ブルー。そしてその誤解もまたリスクとして積まれていく。
リスクが許容範囲を超えてあちこち蝕んできたら、集団から身を引いて心身修復タイムに突入する。野次を飛ばした人はこれ幸いと後釜にすわろうとするんだけど、いくらでも良いとこある人褒めたってテクニックは競えないからいまいち白熱しない。人に自律的な悪意を飛ばせる人って、どっか別のとこで良さ確立させ済みで足場のしっかりしてる人が多い。良い所を良いと言うだけで済む人は、あっさりシンプルイズベストになる。退いた人が何故あんなに褒められていたのかが分からない当人は不服かもしれないけど、それがさしあたり一番失礼の無い、美しい振る舞いだからしょうがない。その人の頭上なり股下なりを素通りしていく褒め言葉は、顔面にべちんとぶちかまされる貶し言葉とはまた違った切なさがある。感じさせずに済むならそれに越したことは無い切なさ。
蝕みがマックス状態の時はいつも思うんだけど、恵まれてなくてかつ恵まれてる。適当な枠組みで恵まれてる方をメタい方に割り当てて、自分と過去もしくは未来の集団の平安を保っている。この恵まれ方も埋蔵してる部分だから、掘り返したら徳川様の祟りが起こる。そんな共通認識がどこかにある。集団を離れてなお集団に属している。しかもかなりポジティヴなこころもちで。
その場所に一匹狼はいない。
失礼な事いうから先に謝ります。すいません。そうした上で、そういえば「お前モナー」って2ch用語だっけか?
相手を軽くいなすには相手の自己の投影されてる部分を指摘して「あなたもそうだ」でいいだろうけど、この場合は「増田もそうなりがち」と自分を顧みているから、そこまで冷やかさなくていいと思う。喧嘩コミュでは「あなたもそうだ」と反論するとオウムがえしと言われて一番馬鹿にされたりするんだけど。ここは喧嘩コミュじゃないからまぁいいでしょう。
何かしら負のエネルギーをネットに放出すれば、誰しもそうなるものだよ。
ポジティヴで有り続けるって難しい事だと思うよ。
だから私もいつも相手に自分の投影やっちゃうのよ。
ハアッ釣られちゃた。