はてなキーワード: ハルキストとは
ハルキストだ。
目覚めたのは高校生の頃。
たまたま手にしただけなんだ。嘘じゃない。
ちょうど年頃だったので恋愛やらセックスやらの話が読みたかったんだ。
1q84は楽しかったし、多崎つくるは80点くらいで正直あの話題になったアマゾンレビューの方がクリエイティブだったかな。
彼女には俺がハルキ好きなこと伝えている。好きになった経緯も、好きなところも。
でもだめだ。
もうハルキをディスるのが体に染みついているみたいで、ご飯食べて仲良しムードになった帰り
「どこが楽しんだろうね」
とディスってきて、俺は「そうだね」と返した。
それ以外返せなかった。
「ハルキストの男たちはみなセックス下手って友達と言ってるw」
「ハルキストは厨二」
そういう言葉に俺は心えぐられてきた。
もう、たくさんだ。
どうやら俺はここまでだったようだ。
あとは任せた。
本当に好きだったんだよ、嘘じゃない。今でも目をつむればあのころのことを思い出せる。
でも思い出すのに時間がかかるようになっただけなんだ。
ねほりんぱほりんが好きだ。
自分では経験できないディープな話を聞くのって、すごく面白いと思う。
もともと、「○○だけど質問ある?」みたいなスレのまとめが結構好きだった。今は2chまとめサイト自体アクセスしなくなったけど、数年前はよく見てた。
ゲストの人達は自分の人生では出会うことさえなさそうな人が多いし、実際会っても根掘り葉掘り聞くなんて絶対無理だろうから、代わりにそれをやってくれるモグラ二人の存在がありがたい。
ゲストも司会も皆ぬいぐるみになってるのも、気持ち的に視聴しやすくて良い。私の場合、ドキュメンタリーみたいに生身の人間が出ていると、真面目な心持ちで見なきゃいけないような気がして疲れてしまうのだけれど、ねほりんぱほりんなら気楽に観れる。
人の人生を娯楽として消費しているというのは、ゲスいのかなーと思わなくもないけれど、ゲストだって話してもいいって思ったからスタジオまで来てるんだろうし!と割り切って観ている。
何より好きなのは、今まで見逃してた日本社会の闇っぽい部分にハッと気付かされたり、いつの間にか自分の中にあった偏見がほどけていったりするところだ。
みんな思ってたより普通の人なんだ。どこにでも居そうな。さっき「出会うことさえなさそうな」って言ったけど、もしかしたら相手が伏せてるだけで、会ったことだってあるのかもしれない。
ほとんどの場合、その人の人生を否定も肯定もせずに、30分の放送が終わる。そんなところも、すごく好きだ。
ついでに言うと、自分自身を見つめ直すきっかけになったりもしている。
自分がどういう話にどんな反応をするかによって、自分の価値観だったり、過去の傷だったりが見えてくるのだ。どことなく小説を読む時と似ている。
そういえば正月のスペシャルの時に、過去に出演したゲストからの手紙を紹介していた。ゲストにとってもやはり、自分を見つめ直すきっかけになるらしかった。色々と聞かせてもらっている身としては、番組の出演がゲストの方々にとって良いきっかけになっていることを、願わずにはいられない。
そんなねほりんぱほりんが、もうすぐ最終回を迎えてしまうらしい。とても寂しい。でも、何らかの形でまた戻ってきてくれることを期待している。
もし今後も企画が続くなら個人的には、国家資格を取り消された人、ネットで炎上して個人情報を晒された人、裁判員経験者、ハルキストあたりの話を聞いてみたい。
村上春樹作品って全般的に何が言いたいのかよく分からないんだよね。かと言って単純な娯楽小説と切り捨てることも拒んでるような感じだし。
ハルキスト自称するならその辺分かっててほしい(そして教えてほしい)、みたいな期待があって、「あ?ハルキスト自称するならお前じゃあ教えてくれよ」みたいな態度になりがちになる。
これがサリンジャーとかドストエフスキーなら、こっちも大体テーマが分かってるから、ファンに対して優しく接することができる。
僕は村上春樹が好きだ。
町田康とか舞城王太郎とか池澤夏樹とか、他にもいろいろな作家が好きだけど、一番好きな作家を選べと言われたらやっぱり村上春樹だ。
今回発売された新作『騎士団長殺し』も、マスメディアで恒例として取り上げられて騒がれている。
マスメディアで騒がれると当然、全く興味のない人の目にも付く。
そこで、職場でも今日たまたま『騎士団長殺し』の話題になった。
(正確には「たまたま」ではなく、ある意味では必然的ともいえる。マスメディアかく恐ろしや)
Bさん「本屋で大量に平積みしてますねー。自分も春樹は1冊も読んだこと無いけど」
Cさん「同じく1冊も読んだこと無いっすね…」
おそらく、この人達はそれを分かって言っているのだと思った。
僕を試すようにわざと言っていると思ったので、
とりあえず一言
Aさん「ほー・・・」
見事にスルーされた。それ以上なにか聞かれたりはしなかった。
おそらく「村上春樹に興味がない人」にとって、「村上春樹が好きな人」は得体が知れない人物だと思っているのではないか。
転職したばかりでただでさえ上手く馴染めていない職場の人たちとの断絶が深まった気がした。
しかしなぜ、ただ好きなものを好きだと発言することに引け目を感じなければならないのか。
なぜ「村上春樹が好き」だと言うことに引け目を感じてしまうのか。
なぜこんなに持ち上げられているのかさっぱりわからない。
ひょっとしたら面白いのかもしれない。
ノーベル賞とはもっと孤高の存在ではないのか。ストイックな存在ではないのか。
そんな作家の作品が大衆に迎合される面白さを持っていてよいのか。
そうではなくて芸術的なのか。
およそコンテクストを共有していないであろうノーベル賞の選考委員らが
たとえ翻訳されていたとしても思わず唸ってしまうほどの作品なのか。
その割には世間はハルキストだとか深夜販売だとかはウェイウェイしすぎではないのか。
そんな奴らが興味を持ってしまうほど孤高のハードルは低いのか。
なんか間違ってないか。
本当によくわからない。
学生時代にねじまき鳥クロニクルを読んだものの体が拒絶した。
周囲の絶賛を横目に私の感性が歪んでいるのかとも思った。
こういうタイトルにしてみたけどさ、俺は村上春樹はすきじゃないよ。
一方で描写の巧みさに舌を巻きつつ、一文一文に「権力」が染み付いていると思う。
でも他方で、そんなハルキストを批判している人たち(ここでは安部公房とか伊藤計劃のファンを想定しています、外れている人は流して下さい)に対しても全く共感できない。
ラフに言って、三者ともにバカな調子こいてる物語作家でしょう。村上春樹が背伸びした上京したての田舎者であるとして、それなら安部公房は私的言語使用のボンクラだし、伊藤計劃はしょーもないオタクだ。
もうちょい真面目にいうと、安部公房はたとえば都会にたいして「砂漠」を持ってきてオッケーみたいなその安易さがヤバ過ぎる(逆にその安易さがいい、という批評はあり得る)し、クソどうでもいいレトリックでドヤ顔してるのがヤバ過ぎるし、普通すぎるセクシャリティがやばい。伊藤計劃は前野隆司とか真に受けてる時点でカス(こんなカスでもポストモダンは云々言えてしまうことが「ポストモダン」最大の失策ではないか?)だし、ブログの意識と物語を結びつけている文章とかカスだし(誰か意識と物語を多少なりともしっかり定義して、両者の関係性を論じられる?)、管理社会が云々いいつつそこでの社会とやらに一切の具体性を与えられないのがカス。
繰り返し言っておくと、こういう文章って村上春樹擁護として捉えられるのかもしれないけど、俺は全く好きじゃないから。
在野の村上春樹擁護とかクッソ気持ち悪いし。批評空間をそんなに批判したいなら中上健次の物語性をつく地道な仕事をしろよ、ボケ!
なんかモゴモゴいってさ、「あぁ〜村上春樹は〜だけれどもうんぬん」ってヨダレ垂らしちゃってさ、舐めてんじゃねえよ!
毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
今回のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。
私は村上春樹はいま日本で唯一世界に通用する作家だと思っているが、ハルキストではない。
現実世界で村上春樹の小説の中の人みたいな喋り方をしたり、ノーベル文学賞の発表のたびにカフェに集う奴らには鳥肌がたつ。
んで、ハルキストを村上右翼とすると、村上左翼的な「おれは村上春樹だけは認めねー」勢がいる。
こいつらもハルキストと同じくらい腹立たしい。
そういう奴らを目にする度「嫌いって言えるほど作品を理解してんのか?」と言いたくなる。
「終わり方がモヤモヤする」
「すかしてんじゃねーよ」