はてなキーワード: 貴族とは
現実として解放されてないのに、解放されたふりをするのが滑稽だって言ってるんだよ。
更にその上「人類が取るべきスタンス」って言う時点でアホでしょ? だって数的優位の側が少数者にたいして暴力を背景に「これが人類の取るべきスタンスだよな?」って意志を押し付けてるだけなんだから、そんなものスタンスもクソもなくてただの暴力じゃん? その言い換えにどれほど意味があるのかって疑問を呈したわけよ。
弱肉強食から解放されるべきっていうのも特に自明でも説得力もない。そりゃ誰だって暴力に対象になるのは嫌だけど、しかしながらその解放が暴力によるものである時点で、暴力を否定する根拠ゼロでしょ。「俺は暴力でこの社会を支配したんで以後暴力禁止」って言ってるに過ぎないじゃないですか。
歴史的に見て、王侯貴族が専有的暴力で民衆を支配してた時代から、民衆が多数決主義という数の暴力で社会を支配してた時代に変わった。それはでも、暴力の主体が変わったというだけで後者が正しいわけでもなんでもないんだよね。暴力性能で後者が優れていたってだけで。だから新時代により大きな暴力が出てくれば、新しい社会構造になる。簒奪者は他者の簒奪に対して異議を唱える資格ないでしょ、って言ってるだけの話だよ。
経済史的にだいぶ昔は封建主義と言って、偉い王様と貴族が統治するのが良いという考えだった。
そこで自由に商人が動き回れるのが理想的だという考えが生まれた。これを自由主義という。
その中でも重商よりと弱者寄りで別れていった。フランス革命後に重商寄りが右側、弱者寄りが左側に議席を配置したから、重商主義=右翼、弱者より=左翼という概念が始まっていった。
別の言い方をすれば重商主義=消極的自由主義(完全に自由にするのが良い)が右翼、弱者より=積極的自由主義(結果的に自由になるようにするのが良い)が左翼かな。
ただし、自由主義の行く末として、貧富の拡大と不景気、そして一部戦争になっていった。
その自由主義の批判として、ケインズ主義とマルクス主義が生まれていった。ケインズ主義は国が需要など経済に責任を追うこと。マルクス主義は国が全部管理したほうが良いという形。
その時点ではどちらが良いか優劣がつけ難く、世界が2分された。ケインズ主義が右翼、保守側、マルクス側が左翼、革新側となった。
ご存知のとおり、冷戦終結でマルクス主義は破れたのだが、ケインズ主義も冷戦終了の少し前にオイルショックが起きたため、完全じゃないと新自由主義に乗っ取られ始めた。
そして、冷戦終結、かつ、ケインズ主義国家の新自由主義化で低成長、長期不景気が起きている。
新自由主義はケインズの知見を全部捨てて自由放任フラット税制にすれば景気が回る程度の思想でしか無いから。
というのと、あまりわかってない国民を煽動するために、「敵か味方か、敵なら攻撃する、味方なら他のこれも賛同しろよ」という権威主義のもと右翼左翼利用しようと考えだした。
マルクスは負けたのはまあ、仕方ないが、だからそれと反対の自分たち右翼は正義だ!ということで思考停止させ、他の都合のいいことも賛同させようとしている。
更にそれが行き過ぎて、今では石破支持とか、グダグダオリンピックに反対するのまで、左翼扱いしている。
今の定義ではほぼ政権全面支持=右翼、政権をわずかでも批判するやつ=左翼ぐらいにまでなってるだろう。
もはや今では政権の問題点を批判するのすら抑え込むためのツールと堕しているもの。右翼左翼という時点で旗頭に乗っ取っている時点でバカにしていいと思ってる。
不便だ非効率だとばかり言うお前らのその自己中心的な主張、俺は全面的に支持する
いやどう考えても現代じゃ実用性において西暦の方が便利だマジで
ただ西暦よりも和暦が便利な部分もあって、特に時代の区切りに関しては西暦よりも便利であることは明白だったりする
西暦をメインで使っている文化圏の場合、時代認識というのは10年、50年、100年で考えることが通例
友人のアメリカ人も日本の和暦の存在価値が理解出来ないと言うし俺もそれには同意しかないわけだが、アメリカ人へ和暦がなぜ存在するのか?という疑問へはいつもこう答える
「アメリカはなぜ地域をブロックで管理してるのに道路は名前で管理してるんだ?交差点基準でブロック管理したほうが効率的だろ」
そういうとたいてい返ってくる言葉はこうだ
「建物を聞かれてもストリート名を教えればストリートのどこかに必ずある」
そう返してくるアメリカ人はその瞬間に気付いてくれる
「なるほど日本の歴史の物事は和暦の区切りのどこかにあるのか」
「まぁ俺も西暦の方が便利だと思ってるけどね」
貴族から僧侶、市井の民までもが記録をするのが好きで、それが同時多発的に起きていたため社会の空気感や天候、天変地異などの情報が非常に確度高くわかると
特に檀家制度の始まった江戸時代以降は当時の世界水準として驚くほど正確で、都市部だけでなく小さな村落の出来事や人口まで把握仕切っているのは驚嘆に値することらしい
国会図書館デジタルコレクションの各国(地方の意)の暦(記録の意)を読んでると、よく過去を振り返り、例えば「天明では〜」などと過去の時代を参考にしたり反省したり貶めたり誇ったりしている
和暦はこういった記録好きの国民性に上手く合致しているのではないかと思う
当然ながら中央の治世的な思惑もあるのだろうけど、そんな上から抑えつける強制だけだったらどう考えても商人を中心とした民草の日記帳・帳簿は別の紀年法へ移行しているはずなので、何だかんだで気に入っていたんだろうなと思わなくはない
とまぁそんなわけでお前らもあんまり和暦を叩かないでさ、固定した連続カウントの紀年法が良いと訴えて、いつか皇紀を正式化しようぜ!
そもそもリベラルの語源は自由なわけで、民衆が自由を得るために王侯貴族を縊り殺すとこから始まってんでしょ。
平和と弱者保護がリベラルの本質だなんてのはちゃんちゃらおかしいわけよ。「俺を抑圧する野郎どもは殺す」ってのだけが共有された熱狂だ。
リベラルのAさんはAさんを抑圧したやつを殺す。リベラルのBさんはBさんを抑圧したやつを殺す。両方リベラルで殺し合ったとしても何の不思議もない。にも関わらず理論武装をこねくり回して、衣のように論理をまとおうとするから、途中で目的と手段を間違える。公正だの公共空間だの議論だの平和的な対話だのは、相手を圧殺するために便利だから、あるいは負けないように持った武器であって闘争の目的ではないのよ。