はてなキーワード: 不細工とは
確かに貧乏で風呂に入れない場合は仕方ないか、それは配慮が足りなかったので申し訳無い
でも不細工が原因で風呂に入れないってのは無いでしょ、というか自分も相当容姿悪いけどそれが原因で風呂に入れないことなんて今までまったくなかったが
パトレイバー2が4DXで劇場公開してる。めでたい。コロナじゃなかったら行ってたなって思って、アマプラでパトレイバー2を見た。
私は押井守が嫌いだ。
詳しいわけではない。
なんで嫌いなのか忘れていた。
パトレイバー2で、第二小隊の息の根を止めたから大嫌いだったんだと思い出した。
テレビ版が好きだった。子供の頃に、毎週土曜日の朝BSで再放送を見ていた。衛星アニメ劇場とかだったと思う。
楽しかった。キャラクターたちがいきいきして、楽しそうだった。みんな笑っていて、いい加減なところがあっても、出動がかかればビシッと警察官なところを見せてくれていた。
勇んで見た。楽しみだった。またあのキャラクターたちの活劇を見せてもらえると思っていた。
劇場版パトレイバー。第一印象は「キャラクターが不細工」押井作品のリアルテイストにかなり寄せられていた。話の内容に、ゆうきまさみの絵だと浮くと判断されたからだろうか。
その時点で、この話はパトレイバーでやる必要があっただろうか。
話はとても面白かった。面白かっただけに悲しかった。映画として面白かったけど、これは第二小隊の物語である必要があっただろうか。
こわごわと、パトレイバー2を見た。
第二小隊は離散していた。
遊馬と野明は篠原重工のつなぎを着ていた。あの埋立地にはおらず、イングラムを「1年前までこれに乗ってた。今はデータ収集をしている物にすぎない」と言い、あんなにアルフォンスアルフォンス、あたしのアルフォンスと言っていた野明が「もういいんだ」と言った。
太田は訓練所の教官になっていた。進士は本庁の総務課長になっていた。残っていたのは、山崎と隊長たちだけ。
熊耳はどうなったんだろう。漫画準拠なのだろうか。正しくどうなったのかは、読み返さないと思い出せない。
映画冒頭12分で、大好きだっった第二小隊が無残に息の根を止められていた。
後藤隊長の「いいわけないじゃないの」に、とても苦しい気持ちになった。
時代が移り変わるときを描いた作品だから、今どきの若者をつつくような話題が出るのは自然なことだ。
でも私は1998年から進んでほしくなかった。いや進むのはいいとして、変わってほしくなかった。
パトレイバー2は変わっていくものを描いている作品だ。でもそれをやってほしくなかった。
後半、それでも変わらないものを描いていたが、それでも変わってしまった。
活劇の中にいたごきげんなキャラクターに、頭を押さえつけて現実を教えてやると言っているように見えた。
大好きなキャラクターたちが目の前で殴られているような気持ちになった。
技術は高かった。面白い映画だった。でもパトレイバー2は第二小隊を終わらせた。
悲しかった。ただただ悲しかった。目の前で惨殺されたような気持ちだった。
私の大好きだったあの人達をよくも殺したな。よくも。
よくも笑顔がすてきなキャラクターたちから笑顔を奪ったな。よくもはりついたゴムみたいな皮膚でぼーっとした表情に描いたな。
よくも明確な終わりをわたしに突きつけたな。
見たくなかったものを見せられた。レビューにはお子様は帰れと書いてあった。大人向けのパトレイバーだと書かれていた。
子供の頃に大好きだった作品に続きがあると知って、喜んでTVシリーズを見直した。コミックスを購入して読んだ。満を持して劇場版を見た。
クリスマスの朝に、サンタクロースはいないんだよって言われたような気持ちになった。
実写の映画は見ていない。押井守はキャラクターのカタキなので見ていない。面白いんだろうか。また寂しくさせられちゃうんだろうか。
映画としては面白い。でもキャラクターをなんであんなに殺して回るんだろう。技術はめちゃくちゃ高い。評価されるのもわかる。でもわからない。
押井守に原作のあるものを触らせないでくれー!大好きなキャラクターを装置みたいに扱われるのはいやだー!
悲しい!つらい!くやしい!何もできない!でも映画はおもしろかった!でも大嫌い!!最悪だ!!!
きらーーーーーい!!!!
気に入りの漫画の続編がアニメ化されるということで、昨日は久しぶりにTwitterを開いた。
予想通り遊郭が話題に登っていたが、そこで私が見たのは恐るべき光景だった。
「フェミが⚪︎⚪︎の刃を燃やしているらしい」
………こんな呟きが8割。おいおい、肝心のフェミはいくら探しても出てこない。
「燃やしたがるフェミがいるかと期待して検索したが、燃やされるぞと囃し立てるオタクしかいなかった」
「キ⚪︎ツに噛み付いてるフェミってどこにいるんだ?」
…こんな呟きが1割。そうそう、私もそう感じた。
…こんな歴史オタク(?)達による呟きが最後の1割。ほうほう、…「遊郭に噛み付くフェミ」って彼らのことか?いや違うな。噛み付いてるのって誰だよ。
恐らくは、「遊郭に噛み付くフェミ」なんていないのだ。昔の非モテ男性が遊女や花魁に勝手に理想を投影するのと同様に、現在の非モテオタクは屏風に「フェミ」を投影するんだなぁ。
それに、あの漫画を読むと遊郭は、「鬼を生むほど酷い場所」としか読み取れないので、原作未読勢はとにかく黙っていてくれ。「原作を読んだけど遊郭は良いところじゃん?」………センター国語、いや中学国語からやり直してくれ!
以下は漫画とは一切関係のない蛇足だ。匿名なら、徒然なるままに書き殴ったっていいだろう。このコロナ禍で私たちは働き詰めだ。とても疲れた。好きに書き殴らせてくれ。
私の中での遊郭は、今の感覚でいう「風俗(上はトップ女優級の美女から下は売れない不細工や病人まで、予算に合わせて全部取り揃えております)」だという認識だった。
千年に一度の美少女にヤバい借金背負わせて、バリキャリレベルの教養付けさせて、国のお偉いさん向けに春を売るよう仕立てたのが花魁。でもほとんどの女の子は借金漬けの上、二束三文で春を売らされてる。美女も不細工も孕んだり病気になったら………
彼女ら全員、人身売買か拉致でやってきた遊女という商品(モノ)。時代が進むにつれ今の日本の性産業と同様、価格が暴落して待遇は悪化。
私は大学時代に歴史を専攻したわけではないので、専門家がこれを読んでいらっしゃるなら、ぜひとも詳細な解説を聞きたいところだ。
あぁ、そうだ。もしも「その道」の専門家が見ていらっしゃるなら、もう一つ聞きたいことがあったのだ。我が国のTwitterでは、「フェミニズムの在り方の議論」ではなく、「フェミニズム自体に反対」する人が多いのはなぜでしょうか。
そしてフェミニズム自体に反対する方々はまずTwitterで喚くより先に、「女性には人権は保障されない」、という改憲運動をやるべきである。そうすれば性犯罪はやり放題、女性を奴隷のように働かせ、好きなだけ子を産ませて、どんな漫画アニメも大手を振って読めますよ。もう、あなたが「フェミ」に噛み付かれることもありませんね。
あの許嫁、決して美人には描いていないものの、不細工だとは思っていなかった
(成人したら美人になっていて主人公に「ええっ!」と驚かれるけれど、主人公の気のいい部下あたりと結ばれるタイプと感じた)ので、
それはともかく、ぶっちゃけ、許嫁をあまりかわいく描いてしまうと、「最期」が生々しすぎるんだよ。
「略奪の上惨殺」って、大人はもとより、ちょっと耳年増な子どもなら何をされたかなんて一目瞭然だもの。
単に殺されたと表記するだけでもいいのでは、という考え方もあるかもしれないが、
そこはごまかしたくなかったんだろう。
それだけの理由だろ。
http://blog.livedoor.jp/kudan9-culture/archives/27926645.html
ネウロも暗殺教室も読んだことはないが、逃げ上手の若君を見る限り松井優征は書き割り(類型)タイプの漫画家だなあという気はする。
書き割りを極端にすると例示されている嫌煙家のようなキャラクタが誕生する。こう書くと書き割りが悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはひとつの表現手法であり上下も巧拙もない、と思う。
書き割りは類型であるがゆえに読者に「つかませやすい」し、その上にキャラ固有の内面や奥行きを見せることで魅力を上乗せさせることもできる。これだけ創作物が溢れかえっている世の中で新しい作品を読者に読ませることは容易ではない。キャラに限らず世界観や設定も書き割りにすることで「摩擦係数」を減らして脱落する読者を減らそうとするのはひとつの戦略と言っていい(松井優征作品の世界観や設定が書き割りだと言っているわけではない。むしろその点がユニークな作家だと思う)。
主人公の許嫁が明らかに周囲の人物に劣った外見に描かれることで悪し様に表現されていました。権力者と結婚して金持ちになってやるという明け透けな逞しさに私はむしろ好感を持ちましたが、作者は違ったようです。しかし、どうせ第1話で死ぬならいい人として描いておいて、主人公が見舞われた悲劇を強調してもよさそうなものですが。
これは明確な読み誤りであると思う。
1話で描かれたのは敵によって主人公の日常が壊され旅立ちを余儀なくされるという貴種流離譚の第1幕だ。この日常において主人公の周りにいたのはどんな人達だろうか。普通に読んだ人なら父、兄、許嫁がぱっと浮かんだであろう(諏訪頼重はキャラクタ類型でいう助言者。ゆえに日常の外から来る)。なぜか。それぞれ違うキャラクタだからである。
父…ボケてるのかな? というぐらいに愚将
兄…将としては平凡だが弟の才能を素直に評価できる優しさの持ち主
許嫁…容姿はよろしくないがそのぶん見る目がある。奇貨居くべしなタイプで商家の娘だったら大成した
それぞれ数ページから数コマしか出番がないが、これらのキャラクタがすとんと入ってくる。そしてそんな「主人公の周囲にいる色々な人が高氏の反乱によって根こそぎ殺された」とつなげることによって主人公の絶体絶命感(と諏訪頼重という一筋の光明)が強調されている。これが父、兄、許嫁が全員「いい人」程度の描かれ方だったらのぺっとして印象に残らず絶体絶命感も出なかったであろう。
鬼滅も逃げ上手の若君同様、物語類型としては貴種流離譚であり「行って帰ってくる物語」である。炭治郎にとっての日常とは家族との慎ましくも温かな暮らしに他ならず、それを失ったことで寒い雪山を往くハメになる。この場合の家族は平凡で優しいことが求められる。極めて愚かな人物が混ざっていたり、逞しいタイプがいたりすると印象がそっちに引っ張られて悲惨さや悲しみが強調されない。慎ましやかな生活感もでない。
逆に北条時行が失ったのは鎌倉幕府である。その巨大さを腑落ちさせるためには色んな層の人間が必要で、そのためにピックアップされたのがあの3人(父=幕府のトップ、兄=家族、許嫁=重臣(の娘だが層としては重臣))ということなのだ。
ちなみに許嫁の容姿がよろしくないのは他の二者との差別化もあるだろうが、明け透けに言ってしまえば生き汚さを出すためだろう。あんなに生命力が強そうなタイプがあっさりと死ぬことによって絶体絶命感が強調されている(こう書けば伝わると思って書いているが、もし分からないなら薄幸の美人という言葉を補助線にしてくれ)。
作品のあらゆる要素は作家の胸三寸なのであり、そのようにしているのには相応の理由がある。好き嫌いを語る分には構わないだろうが正しい正しくないの観点から論じるのであれば作者に寄り添ってそれによって何を描こうとしているのかつぶさに観ることは最低限必要な態度であろう。
基本的に歳取ると他人から迷惑に思われる度合いとか頻度って増えるよね
例えば電車で騒いでるのが小学生なら「元気だなあ」で済むけど、ジジイババアなら「死に損ないのヒトモドキが、人様に迷惑ぶっ掛けんじゃねえよ死ね」になってくる。
若ければ改善の余地もあるし、経験や知識の不足からくる失敗は取り返せる上に、未来があるってのは何よりデカい価値だから。
おじさんがマイナスなのは、歳取ってるのに経験や知識が不足していて、それなのに無根拠の自信だけでここまで生きてきたから、猪突猛進する歪なモンスターみたいになってるってこと。セクハラ、パワハラ、モラハラ、この辺は現代社会とおじさん達の齟齬から生まれたものだよね。
若さというものが価値なのはブスにとっても同じ。価値が高いうちに買い手を見つけて売却する。株なんかでも同じ仕組みで利益をだすよね。お互い不細工とか低スペックでも良いならいつ売却しても構わないよ。幸せの形は人それぞれだからね。
もちろん歳を取って一人で暮らすのは寂しい。話し相手も居らず、身体が思うように動かなくなっても誰かが面倒を見てくれるわけじゃない。脳は萎縮し感情や言動を自分でもコントロール出来なくなる。もしかしたら短期記憶すらまともに機能しないかもしれない。それでも一人だ。誰も居ない。金があれば誰か雇えるだろ現状そんな余裕も無さそうだ。