ただの小売・サービス業にウィキリークス引き合いに出されて、書いてるやつ含め、関連する全ての人間のレベル低くて笑えてくる。よくこれでナメクジ煽りする気になれたなっていう。
最近増えているのか、自分が古いだけなのか分からないけど、お客さんや取引先にもちょいちょいタメ口になるので横で聞いていてハラハラする。自分だけかと思っていたら、その部署の部長も気になっていたらしく、この前ちょっとその話をしていた。
芸能人だと… 例えば狩野英孝なんかもこのタイプでちょいちょいタメ口になる。
共通して言えるのは、基本は丁寧語や敬語なんだけど、20%ぐらいの確率でタメ口語尾になる。それも別にくだけている会話ではなく、割りとビジネスシーンで。
そういえば書いていて思い出したけど、前の会社にも何人かいたな。
彼らを観察して思うのは、そういう教育(体育会やバイトなど)を全く受けてない人に多い印象で、平たく言うと甘やかされてきたんだろうな-という人達。
勝って終われずすみません
次につなげられなくて…
力不足で…
涙、涙…
あー、もう! お前ら銀メダルだろうが。準優勝だろうが!!
謝ってばかりいるんじゃねー。お前らに負けた人間の立場ないだろが。
胸張れよ!
単に庵野がアニメ出身だから、アニメっぽいに違いない。という前提で鑑賞してるだけでは?
石原さとみを始めとする、リアリティを欠いた大げさでくどく、わかりやすいキャラクターは、別にアニメ特有の記号ではないから。
商業主義が全面に出ており、ユーザーの満足度を犠牲にしている感がある。
赤字らしいが現状の広告形態を改めないかぎりは黒字化は難しいだろう。固定プラットフォームでのディスプレイ広告はその表示領域に限度(すでにパンパンな印象)があり、また、単価を上げるのは容易ではない。そもそも広告はユーザービリティと反比例するものであり、漫画を配信しているのに漫画で稼がないのはジレンマ。コンテンツで勝負して欲しいが(まあそれが難しいんだけど)、版権の構造が謎なのでなんとも言えない。講談社が版権を持ってるのかな?
収益化のために、マンガボックス内である程度人気が出た作品はアニメ化するだろう。そのアニメの結果次第でアプリの方向性が大きく決まりそう。
アプリのターゲットは恐らくライトな漫画ユーザーであり、色々チェックしている人であれば連載陣の半分くらいはすでに別媒体で読んだことがあるだろう。
別媒体作品を懐かしんで読むのは危険である。大抵突然連載が終了するからだ。楽しみに読んでいた作品がいきなり終了した場合、絶対にマンガボックスにはお金を落としたくない心理が働き、Kindle等で購入する。
連載陣のテイストは謎である。まあビジネス駆動型連載陣だと思う。
そんな中、オリジナル作品は中々良作揃いであり、以下を読んでいれば十分だろう。
連載初期と比べると絵の上達が凄い。面白い。キャラづくりがうまい。題材は箱庭系とよくある感じだが随所に個性を感じる。人気なのか少年マガジンに出張掲載したことがある。
恋と嘘
看板作品。絵が可愛い。どう見てもメインヒロインは仁坂くんである。面白い…が毎回の更新が4~5ページとかあまりにも少なすぎる。遅筆であれば分散更新せず、隔週で良いからまとめて掲載して欲しい。これも商業主義の弊害やな。
骨が腐るまで
面白い。どこかで見たことあるような絵柄だが、良く言えば様々なハイブリッド。最新話ではまさかの海苔が登場(iPhone版だけかな?)
女なのでしょうがない
完結作品。アラサーの葛藤を描いており女性向けだと思うが面白かった。綺麗に終わったと思う。
境界のないセカイ
言い換えればアニメの記号や文脈をすんなりと把握する能力があるかどうかの差。そしてそれを違和感なく受け入れて物語に入り込めるかどうかの差だ。
アニメを鑑賞するっていうのは実は結構技術がいる。私は普段アニメを見ないので、特に最近のアニメ、萌えアニメ等はハイコンテクスト過ぎて何が面白いのか、何が行われているのかさえもさっぱりわからないこともある。
ディズニーアニメ等ではそのリアリティーラインを丁寧に示してくれるので、違和感なく物語に入り込める。だが、庵野のシン・ゴジラ(≒アニメ)は何の示唆も無しに次々とアニメ記号を連発し、普段そういった表現に慣れていない人を置き去りにしてしまうのだ。キャラクター、ストーリー、背景、セットやディテール、あらゆるものが「アニメ的」でその記号を感覚的に理解できないので、ただ「陳腐」なものに写ってしまう。若しくはただ「面白い表現」と言うだけでそれを物語に繋げることが出来ないのだ。
特に今回は実写でアニメをやってるんだということを理解するまで時間が掛かった。
序盤の実写政治ドラマのやり取りから予想していたリアリティーラインが、石原さとみが登場した時「??!!!」と、破綻し、全く理解できなくなった。「ん?なんで急にコメディーになったんだ?」と。どういう視点で鑑賞していいかわからず混乱した。が、しばらくしてこの感覚前にも経験したと気づいた。エバンゲリオンだ。
エバンゲリオンブームの頃、評判を知り、見た。はじめはその質感に興奮した。が、すぐにズッコけた。葛城ミサトとペンギンが登場してシンジと如何にもアニメなやり取りを始めたからだ。あー、硬派なアニメって訳ではないのねと。そして最後まで物語りに乗りきれなかった。
シン・ゴジラもそれだった。石原さとみは、アニメキャラだったのか。アスカ・ラングレーだったんだ。登場した瞬間には気づかなかった。アニメを見慣れている人ならすぐに理解してしまうだろう事でも、私にはしばらく分からず、何故こんな大仰な演技してるんだろう?と不思議でならなかった。そうか、アニメとして見ればいいのかと気づいたはいいが普段見慣れていないのでどうしても乗りきれない。面白いのは面白いが、とても覚めた自分がいる。こうして絶賛組との心の距離が離れていってしまうのだ。アスカの声がスクリーンから聞こえる。
「気持ち悪い」
http://anond.hatelabo.jp/20160813134444
で。もうぶっちゃけ嫌気がさしてきた。
家族連れて行くのに野良の川辺なんかはもうDQNの溜まり場にしか見えないし、
海側なんか砂まみれになってBBQやってるのなんて馬鹿にしか見えないし。
それが嫌でキャンプ場とか使うようになったんだけど、
最近はカップルや子なし夫婦が異常に飾り立てたオシャレ雰囲気出してるのも違和感があって楽しくない。
なんつーかキャンプとかBBQってのがすげーバカのやる遊びに見えてきてしまったんだよなー。
好きなんだけどなー。
稗とか粟とかは置いておいて、ゴジラとは白米である、というのは優れたメタファーであると思った。
60年間に初めてゴジラが提供された時、ゴジラは添え物なしの白米として提供された。
しかし、その後ゴジラを提供する人間たちは、添え物なしの白米を出すことをずっと躊躇してきた。
初期においては添え物が、梅干、漬物からハンバーグになり、海老フライになり、ある時はステーキや刺身になった。
やがて本来主役であるはずの白米の方がむしろ定食の中の添え物のような位置づけとなった。
高度成長に伴い、映画の観客たちの舌は肥え、肉や油を欲しがったのである。
何度かの、もう一度最初の白米を出そうという奮闘努力は甲斐もなく、今日も涙の陽が落ちていた。
やはり時代の流れから、彼らはシンプルに白米の力を信じることができなかったからだ。
だから、添え物を減らして再出発しようとしても、最初の白米と同じような提供の仕方はできなかった。
ニンニク醤油が絡められ、レタスにマヨネーズで味が整えられた丼物が提供されることになった。
やがて時代が流れ、当初は邪道だと思われたカリフォルニアロールも何度かの失敗の後に「割と美味いんじゃないか」という情勢になった。もう、すでに白米にマヨネーズが付いていても気にならなくなった客たちは、別に日本の白米にこだわる必要性はもうないと思うようになっていた。というか、彼らはもはや、日本の料理を諦めていた。
その頃、日本の料理はすでに、白米に豚肉、ニンニク醤油をかけて、上からイチゴチョコレートとハチミツでコーティングして出すのがスタンダードになっていたからである。それと比べれば、少なくともカリフォルニアロールは人間の食物であった。
白米に梅干のみである。
人々はそれを揶揄した。今更白米はないだろうと、粟と稗しか食ったことないのか、と。
しかし、常に付属していたイチゴチョコレート味に辟易としていた人間はそれを食って美味いと言った。
普段、カリフォルニアロールを食べていた人間たちも、さっぱりとして淡麗で、深い味わいを白米に見出した。
提供した側が、どこまで白米の持つ力を信じていたかはわからない。
彼らも白米はそこまで好きではないと語っていたからだ。
しかし、結果として、白米オンリー丼は、日本人がすっかり諦めていた「白米の力」を提示した。
もちろん、白米のみ、という提供のされ方が口に合わない人間もいるし、その方が多数派なのだろう。
そういう人々が多数であるからこそ、白米は定食の添え物となり、マヨネーズやチョコレートが掛けられてきた経緯があるからだ。
「白米の力」はあまりに日本人むけで海外に受けないのではないか、とか国粋主義的すぎるのではないか、という批判もあり得る。
まあ、どっちにしても、美味いとか不味いとかは個人の感性の問題であり、人が美味い美味いいってる横から、
考え方や価値観の相違というのはあるものだから、特にそのことに異を唱えるつもりはない。「反論」というほど論ではない。ただこちら側からは「考え方」でなく「想定」が異なるのではないだろうかという風に感じた。
一つ目。社会の成熟により、能力は明らかになりつつあるのでは、という意見については「『今のこの社会』ではね」としかいいようがない。あげられた能力のどの一つをとっても、全く的外れとは言わないが、定義があいまいな上に一元的に数値化もできなければそもそも測定できないし、三つの比較(たとえばコミュ力100%と論理的思考力100%ではどっちにどのくらいの価値・優位性があるのか?)も不明であり、結局、先に私が述べた通りそもそも人間に優劣を付けること自体が無理という結論には影響しないと思う。もし増田に「完全に人間の優劣を測定する基準とその方法」を示していただけるなら(※)まだ納得するのだが。どうも増田は「今の社会がそれほど大きく変わることはない」という素朴な想定に頼りすぎているように私には見える。たとえば人工知能の研究が一段階進んだだけで、社会で求められる「能力」なんてあっという間に大きく変わると私は思っているよ。
二つ目。増田が私の考えを「要は(現時点での)劣位者の飼い殺し」と捉えているのは、大変不思議に感じた。私が言いたいのは、たとえ社会的にさまざまなハンディを背負って生まれたとしても能力を十分に開花させられるような社会にしておくことが、特に転換期においては全体としての利益が大きいということだ。そういう社会であってこそ、万一何かあったときにそういう人があたかも突然登場してきたかのように前面に出てくることができる。そういう社会システムの整え方の話をしているのだが、それを「飼い殺し」と捉える増田の想定には、人材を「育成する」という観点がすっぽり欠落しているのではないか。さまざまな人間がそれぞれの完成を目指すことができ、それが認められる社会と、「最低限の金を与えて飼い殺し社会」とは、だいぶ違う。
http://anond.hatelabo.jp/20160821181828
※たとえば「コミュニケーション能力」という言葉などいかにも怪しい言葉である。友達がたくさんいる奴はその「能力」が高くて、少ないと低いのだろうか。いざというとき頼ろうとしたらそれは全然無理、みたいな連中と上手に付き合いつつつるむ能力、いわゆる「集団で浮かない能力」と、一人の人間に徹底的に信頼され、世界を敵に回しても一緒に戦ってやるぜ見たいになってもらう能力とは、能力の質も内容も結果する行動も全然違うと思うが、増田の定義ではどっちが「コミュニケーション能力」が高いのか。ディベートうまいやつはコミュニケーション能力が高いのか。入社試験には受かるかもしれないが、恋愛市場ではめちゃめちゃ敗北しそうだが、そこはどうなのか。いろんな異性をとっかえひっかえできる人の「コミュニケーション能力」は高いのか。一人の異性と添い遂げる人の「コミュニケーション能力」は低いのか? そういうことを、増田はきちんと定義できているのだろうか、と疑問に思う。これは単に一つの例に過ぎないが、まあそういうことだよ。
初めから歩み寄るとか理解してみようとかそういう選択肢が頭にないんだろう。
かといって自分に理解できないことで、自分以外に多数がわいわい盛り上がってると勝手に疎外感を感じる。
それが不愉快(不安)→どうしよう→ぶち壊せばなかったことになる。
こういう思考で生きてる。30歳後半以降のおじさんに多い気がする。
刺されないとでもおもってるのかね