稗とか粟とかは置いておいて、ゴジラとは白米である、というのは優れたメタファーであると思った。
60年間に初めてゴジラが提供された時、ゴジラは添え物なしの白米として提供された。
しかし、その後ゴジラを提供する人間たちは、添え物なしの白米を出すことをずっと躊躇してきた。
初期においては添え物が、梅干、漬物からハンバーグになり、海老フライになり、ある時はステーキや刺身になった。
やがて本来主役であるはずの白米の方がむしろ定食の中の添え物のような位置づけとなった。
高度成長に伴い、映画の観客たちの舌は肥え、肉や油を欲しがったのである。
何度かの、もう一度最初の白米を出そうという奮闘努力は甲斐もなく、今日も涙の陽が落ちていた。
やはり時代の流れから、彼らはシンプルに白米の力を信じることができなかったからだ。
だから、添え物を減らして再出発しようとしても、最初の白米と同じような提供の仕方はできなかった。
ニンニク醤油が絡められ、レタスにマヨネーズで味が整えられた丼物が提供されることになった。
やがて時代が流れ、当初は邪道だと思われたカリフォルニアロールも何度かの失敗の後に「割と美味いんじゃないか」という情勢になった。もう、すでに白米にマヨネーズが付いていても気にならなくなった客たちは、別に日本の白米にこだわる必要性はもうないと思うようになっていた。というか、彼らはもはや、日本の料理を諦めていた。
その頃、日本の料理はすでに、白米に豚肉、ニンニク醤油をかけて、上からイチゴチョコレートとハチミツでコーティングして出すのがスタンダードになっていたからである。それと比べれば、少なくともカリフォルニアロールは人間の食物であった。
白米に梅干のみである。
人々はそれを揶揄した。今更白米はないだろうと、粟と稗しか食ったことないのか、と。
しかし、常に付属していたイチゴチョコレート味に辟易としていた人間はそれを食って美味いと言った。
普段、カリフォルニアロールを食べていた人間たちも、さっぱりとして淡麗で、深い味わいを白米に見出した。
提供した側が、どこまで白米の持つ力を信じていたかはわからない。
彼らも白米はそこまで好きではないと語っていたからだ。
しかし、結果として、白米オンリー丼は、日本人がすっかり諦めていた「白米の力」を提示した。
もちろん、白米のみ、という提供のされ方が口に合わない人間もいるし、その方が多数派なのだろう。
そういう人々が多数であるからこそ、白米は定食の添え物となり、マヨネーズやチョコレートが掛けられてきた経緯があるからだ。
「白米の力」はあまりに日本人むけで海外に受けないのではないか、とか国粋主義的すぎるのではないか、という批判もあり得る。
まあ、どっちにしても、美味いとか不味いとかは個人の感性の問題であり、人が美味い美味いいってる横から、