はてなキーワード: ボディランゲージとは
情報化社会の黎明期、人同士のつながる量が加速度的に増えていくことで可視化された問題の一つだ。
当時は言葉の響きだけが独り歩きして、本そのものをちゃんと理解できた人は少なかった。
その反応は大きく分けて2つ。
「自分の言いたいことをはっきりと言ってくれた」と肯定的な反応と、「バカとはけしからん。人は言葉でわかりあえるに決まってるだろう。」と否定的な反応だ。
しかし、その反応のどちらもがこの言葉に対して大きな勘違いをしていた。
それは、「自分の話が相手に伝わらない理由は、相手がバカだからであり、そこに越えられない壁=バカの壁があるから」という理解で読み解いてしまったことだ。
「人は自分の話が相手に通じなかったとき、相手がバカだと決めつける性質がある。」ことこそが、本当の意味でのバカの壁の存在を意味している。
しかもこの時、聞き手側にも「自分が相手の話を理解できない時、説明できない相手の方がバカであると決めつける性質がある。」というバカの壁も同時に存在している。
なぜなら、人の理解というものはその人の経験や知識から成り立つものであり、それらが両者に存在していない限りは、お互いが理解しあえるなんてことはありえないからだ。
つまり、相手がバカなのではなく、相手をバカと決めつける自分がバカなのだ。
これについては著者すら気がついていなかったと思う。
だからこそバカの壁の本質を理解できないやつは全員バカだ。という論調であの本は締めくくられていた。
自分の話が相手に伝わらなかった時、自分が「相手はバカだ」と思うのと同時に、相手も「説明がしっかりできないだなんてこいつはバカだ」と思っている。
だから、あの本の本質を理解できなかった人にしてみれば、著者はバカであり、バカの壁なんて概念は無駄なものだと考えられていた。
そうして、著者と読者それぞれがそこにバカの壁が存在していることを証明してしまうという皮肉な構図に至っていたことは、あまり知られていない事実だろう。
そもそも、言語というものはコミュケーションの中でそれほど多くの情報量を持っていない。
人同士がコミュニケーションを行う上では、ボディランゲージや声のトーン、表情、目線などのほうが、伝える情報量はよほど多い。
なぜなら、言語という道具を使い始めた歴史はそれ以外のコミュニケーション方法に比べれば非常に浅く、言語だけで情報を伝えられると思っていることのほうが誤解だからだ。
残念ながらそのことを理解できている人間は少ない。妄信的に言葉で情報の全てを伝えられると思いこんでいる人がほとんどだろう。
ここまで考えてみれば、つまり本当の意味でのバカの壁とは、言語のみで自らの思考や情報を伝えられると思いこんでいるおごりのことであることがわかる。
受け手に置き換えても、言語のみで説明されても理解できるはずだというおごりがそこにある。
今だってSNS上では当たり前のように誤解が繰り返され、真意が理解されることもなく説明も釈明も許されないまま受け手の都合によって勝手に解釈が広まっていく。
しかし、バカの壁の存在を認知できているだけで、人の理解力はまったくもって変わってくる。
情報が理解できない理由を相手ではなく自分に求めることができれば、足りない情報を自ら補うことができるからだ。
自分が理解できなかった理由は相手にあると考え、誤解させた人間を責める行動を取る。
自らのバカを棚に上げて、相手がバカだと罵るだけの野蛮な行為に走る。
ただただ情報や人の人生をエンタメとして消費するだけの、消費行動のみだ。
声高に批判する相手そのものに成り下がるというのも、バカの壁に見られる特徴的な行動の一つだ。
果たしてはてなユーザーに、バカの壁を越えてこの内容の真意を理解することはできるだろうか。
結局はこうして、バカの壁の話をする度にそこにバカの壁を可視化させることでしか存在を理解させることは不可能なのだろう。
今一度一人ひとりが自らの心にそびえるバカの壁の存在を見直すべきときに来ている。
人にはバカの壁が存在していて、相手に話を理解させることも相手の話を理解することもそもそもできないのだ。
だからこそそのまま情報の一つとして受け止めて、その情報を役立つものへと活かしていく。
それができる人だけがバカの壁を越えた向こう側に行ける人なのだろう。
これすらできる人にはとっくにできていることで、できない人だけがバカの壁の内側に取り残されているという皮肉でしかないのだが。
いまのはてなを憂い、向こう側に行きたい人にだけ届いてくれることを切に願う。
※蛇足
かつて士郎正宗氏は無知の知ではなく「不可知の知」であると置き換えていた。
人は何かを知れば知るほどに、知ることができないことを知るのだという。
そしてその時の自分は、それがコミュニケーションにおいても同様なのだと悟った。
どれだけ理解を深めようとも、最後まで理解することも理解させることもできないのだと。
それならば、そもそも理解を深めることだけを目的にすることはナンセンスである。
そこには最後まで取り払えないバカの壁があるのだから、相互理解はそこそこに、目的や行動を優先すべきだと悟ったのだ。
そこに少しでもヒントがあれば吸収し、利害がなければ自分には関係のない情報なのだと切り捨てるようになった。
確かコミック版攻殻機動隊のあとがき(BLACK MAGIC M-66だったかも)だったと思うが、他にも人生は螺旋階段を登るようなものだとか、士郎正宗氏の哲学の一部を垣間見ることができてとても興味深かった。
御堂筋くんがイキることで初動時ちょっと話題になったサッカー漫画、ブルーロック。
あんまり興味なかったしあのシーンが煽りにしても漫画的好印象を受けなかったのでスルーしてたが、
内容も面白いらしいと再度耳に入るようになってきて読んでみた。
当然好感度は最低ラインから読み始めたから批判的に読み進めちゃうことは前提として覆す面白さを期待した。
ストーリーは御堂筋くんこと勉強小僧こと絵心(えご)コーチが18歳以下のFW300人を集めてなんやかんやするってやつ。
んで、300人は可視化されたランキングをつけられて(主人公は299位)多分12人ごとに班分けされて密室に入れられる。
なるほど監獄。
絵心コーチは備え付けのディスプレイで映像付きで課題を出していき…
と、まあ、FW至上主義は鼻につくけどエゴイストテーマとしては読めなくもなさそうなスタート。
絵心は大量のディスプレイ(おそらく各班の室内カメラか)がある部屋でひとりごちたりするわけですよ。
最初の課題は入寮テストと称して136秒間の「ボール鬼」。終了時のオニが失格で残り11人が班のイレブンだーって展開なんですが…
テスト内容はまあまあまあ。協調か逃げ切りか挑戦か蹴落としかと、濃い内容の136秒でよかったです。
今後の脱落者は一生日本代表入りの権利を失うという超絶後出しじゃんけんにもまあ目を瞑ろう。
絵心ちゃんご本人が(ディスプレイから)直接労ってくれるのです。
ついでに失格者も名指しで出て行けと。…ん?
失格者はチームを捨ててやってきたのに136秒で一生代表の権利を奪われて帰れと言われて当然ご立腹。
ディスプレイに猛抗議。
それに対して絵心ちゃんが懇切丁寧に試験の意図を説明してくれるのです。
途中の反論にもテスト中の動きに言及しつつ応じ、およそ20ページほどのエゴトークが続くのです。
高圧的で煽り気味だけど懇切丁寧に説明してくれて絵心ちゃん…しゅき…
はー。密着指導かよはー。
え?リアルタイムで見て?シメのおしゃべりを毎回するの?これから?毎回!?
1班12人なら300人で25班。絵心ちゃんこれから残り24回ボール鬼の監督すんの?(描写的に主人公の入室直後のスタートだし時間差を作った感はない)
20ページのおしゃべりは置いておくとしてもだよ?
約2分のテストだけでも最後の班がテストを受けるまで50分近く放置されるんですけど???
来て2分で帰宅も悲惨だけど来て50分放置かリアルタイムで見る必要ない能力検査とかして待たされて入寮できません帰れもかわいそうだよね。
てか本当に名指しするまで映像は録画だと思ってたんすよ。
だって300人見るんだぜ?
でも絵心ちゃんしかでなかったってことは、ルール説明も事後解説も事前録画しておいて、内容も録画しておいて、
失格者(オニの判定)だけは謎システムで出来てるから一斉にテストして今晩絵心ちゃんが寝ずに録画見て内容精査すると思うじゃん?
いやいや説明は録画としても内容はあのたくさんディスプレイがある部屋で絵心ちゃんの超人的な視野で25画面同時チェックしてるのかも…
って見てるの1部屋だけかーい!あのディスプレイ部屋ミスリードかーい!
そしてあの気合の入った事後解説。煽り、説明、顔芸にボディランゲージ。俺ならあのテンションを24回も保つことはできない…
3回目ぐらいで「君失格。お疲れ」まで簡略化したくなる。単純に重労働。
あ、試験官はたくさん居るけど主人公チームの担当が絵心ちゃんだったって可能性もあるけど、わざわざ全権責任者が最下位班を担当するってのもよほどの裏がある計画的行動でなければ不自然なのでナシで。
つーわけで、頭がよさそうな男がお送りする超絶非効率なお・も・て・な・しにわずか2話で俺様ノックダウン。
ストライカーとしてのエゴイズムがテーマなことは承知しておりますが、大勢の人の時間を空費させるだけのエゴイストは申し訳ありませんが容認できませんでした。
リアリティラインっていうの?違うかもだが。演出のためだとわかるけれども大人数の中の一部と一々おしゃべりするトップってのがフィクションでも受け入れられなかった。せいぜい10班120人ぐらいが限度か?
だから、この話はここでお終いなんだ。
最初の言語ともいわれるボディランゲージは地域や民族によってそれぞれ独自の発展を遂げたもので、
言語とは一種の約束なのでコミュニティ内の合意がとれていれば外から見たときにどれほど不合理でも、そう成り立っているのならばそれが維持される。
仲間内だけで通じる冗談なんかを想像してもらえるとわかりやすいが、ボディランゲージはおそらくはじめは些細なきっかけで生まれた。それが世代を経て「そういうもの」として伝わり、
もともとの由来は不確かでも、そのボディランゲージ自体が意味を持つようになる。
物心ついたときにはその言語の中で暮らしているから、それに違和感を持つこともないというわけだ。
そしてそのボディランゲージの持つ意味というのはその共同体の中で決まるから、同じ動作でも別の場所ではまったく別の意味になるということも多くある。
しかし世界さまざまな地域民族を較べてみても、一つだけ共通のものがある。
それが「イヤイヤ」だ。首を横に振る否定のポーズ。これだけはどの地域・年代でも等しく同じニュアンスを示している。
それはなぜか? その秘密は、この仕草の由来を考えるとすぐに分かる。
赤ちゃんがおっぱいを飲んでいるところを見たことがあるだろうか?
母乳を飲んだ赤ちゃんがお腹いっぱいになってもう飲めない、と主張するとき、首を横に振るのである。
ミサンドリーとか異性嫌悪とかセックス恐怖症とかそういうのじゃなくて、ごく普通のフェミニストにとっての理想のセックスってどういう手順で行われるのか、知りたい。
男女でのセックスね。男性器と女性器を使ったセックスのことね。ただの生殖目的じゃなくて、愛し合う行為としてのセックスね。
煽りとか、揶揄とか皮肉とかそういう物はすべて捨てて、純粋に理想のセックスを教えてほしい。
セックスってボディランゲージとかスキンシップの延長にあるわけで、最高に好きな相手とするセックスは幸せなもののはず。
もちろん、理想のセックスは人それぞれ違うので、「過激派ではなく、ごく普通のフェミニストのあなたにとって、理想のセックスは?」が正確な質問かと思う。
なんかブクマとか見てると「セックスする前に同意書を取れ」とか書いてる人がいるので、それは本心なのかが知りたい。
ちゃんとした書類を作って、セックスに同意するのが「理想」なのか、知りたい。
あるいは、実は書類が必要ではなくて、単に男性が「完璧なふるまい」をするのであれば書類は不要なのか。そしてその場合、「完璧なふるまい」とはどのようなものなのか。知りたい。
こういう話は5chではできないし、Twitterでもできないし、もちろんFBでもできない。
しかし俺は知りたい。フェミニストにとってのセックスのイデアを。
セックスというのはそんなに高尚な世界ではないから、「セックスについては、『~でない』『~でない』としか言うことができない」という古代インド哲学の奥義みたいな話ではないはずだ。ちゃんと「これが理想のセックスです」と言えるはず。
「それはフェミニストではない」という古代インド哲学の奥義のようなフェミニスト論ではなく、「こうしてほしい」「こうしたい」「これが理想に近いはずだ」というごく普通の話がしたい。
別に下世話な話をしたいわけじゃない。セックスなんて誰だってする。したことない人も、明日するかもしれない。そういうレベルの普遍的なものだ。
もちろん、これは多分に個人的嗜好が入る話なので、「これは個人的な嗜好だな」と感じたらそこは省いたっていい。俺も髪コキしたいとか思うけどそれは個人的な嗜好の範疇だから「髪コキこそ理想のセックス」とは言わない。
まぁ手順を教えろというのはハードルが高すぎると思うので、「こういう雰囲気で、こういう男性との、こういうセックスが理想である」という形式でも全然いい。
増田の制限なのかこれ以上URLを貼れなくなってしまったのだけれど、いただいたトラバの中にどうしても読んでほしいものがひとつあるのでこの記事を読んだ人はなるべく目を通してほしい。目に触れないままだと残念すぎるので。
こっちも読んでくれ
認識の仕方が「英語圏に住む日本人」という1方向からの視点でしかなく議論の整理としてはあまり良いとは言えない。
ブコメも含めて日本人の他言語者への態度とアメリカ人の他言語者への態度についてあまり実態が知られていないように見える。
これは日本が凄くてアメリカが駄目とかその逆のことを言いたいわけではないけど。
トランプの件でわかったかもしれないけど、アメリカ人は実は訛りにうるさい。
正しい発音を求めてくるし聞き取れなかった場合、大げさなボディランゲージと共に皮肉交じりにジョークを言われることもある。
ちなみに日本人の英語はEngrish(日本人はLとRを聞き分けられないから)と言ってからかうスラングがある。
一方で在日外国人からしばしば聞こえてくるのは、日本人は日本語が母語ではない話者に対してかなり寛容であるという事実がある。
大抵の店員や日本人は日本語があまり聞き取れなくても繰り返し聞こうとしてくれるし、少なくとも馬鹿にはされないという点をよく強調される。
ただ、日本国籍を取得した元外国人や日本語がうまくなり始めた外国人に対する態度に最大の違いがある。
これは
「今までは外国人だから特に言わなかったけど、日本人になった/なろうとするなら話は別ね」
という日本人の文化的規範そのものに由来するとしばしば言及される。
つまり内と外を分けて態度を変化させているというわけだ。
これが在日外国人に
という感想を抱かせることになる。
これが非常にストレスを感じさせるらしい。
・日本は日本語は喋れなくてもしょうがない、でも日本に溶け込みたいなら厳しく指摘するよ
という違いがある。
上記を踏まえて考えると
「日本人はある特定の言語を喋ろうとしている時、訛っている人に対するアティチュードをどう行うべきか」
という点についてよくよく考えなければならない。
問題点は、単に訛りについて寛容になればよい、という単純なものではないことがよく分かる。
訛りを許容するなら日本人の漢字間違いやミスに対する態度をどうするか
例えば、安倍や麻生が日本語を間違えることに対しても許容すべきか否か?
日本人は訛りに対して厳しくあるべきだと言うなら、外国人に対してもそうあらねば多様化社会の中では疎外感を覚える人が出てくるだろう。
逆に訛りに対しては許容すべきだと言うなら、安倍や麻生にもそうであらねばならない。
なぜなら彼ら元外国人は日本人になろうと努力している人もいるからだ。
日本人に対して厳しくあろうとするのであれば、当然彼らも将来的に厳しく追求されることになるであろう。
日本人が英語を話せないのは馬鹿にするのに、外国人が日本語を話せなくても馬鹿にしないのはこういった内と外の使い分けという側面が大きくある。
まだ今ほどナンパセミナーなんて胡散臭いものが跋扈してなかった牧歌的な時代の話。
大学時代の友達と飲んだ帰りに友達とナンパしようぜって話なった。
男ばっかりでつるんでたから。
俺はナンパなんて全然経験もなくて、「お姉ちゃん飲みに行かない?」みたいな事言って撃沈してた。
だけど友人の一人が声をかけると明らかに女性の反応が違ったんだよね。
最初はそれこそ俺と同じ感じで、少し声をかけてはあしらわれていたんだけだけど、数人に声をかけるうちに女性が足を止めて話を聞いたり、連絡先を交換したり、挙句の果てには俺たちを置いて女性と二人で飲みに出かけたんだよね。
後日詳しく話を聞くことにしたんだけど、言ってることが意味不明なんだよね。
まず相手を選ぶときにはオーラが出てる人と出てない人がいるとか、目があった瞬間に脈のありなしが分かるとか、あとは少し会話をしたら相手のボディランゲージや視線や声の抑揚でイケるかどうか分かるって。
彼はあんまり経験が無いって言ってたけど、俺からすると理解不能だった。
よくいる大学生で、特にトークがうまいわけでも、イケメンなわけでもなかった。
それでもたまに街に出てナンパをすると、彼は必ず成果を出してくる。
そのままワンナイトのときもあれば、彼女を作ってしばらくナンパに付き合ってくれなかったこともあった。
ナンパ遊びをはじめて日が経つと、彼は服装や立ち振舞いが変わってきて、それに伴って更にナンパが上手くなった。
会話も俺たちや大学のサークル内の人相手でも、自然に言葉を引き出したり、伝えたいメッセージが明確に伝わるようになった。
サークルの女の子も彼に惹かれる人が何人か出てきてたみたいだけど、サークル内で付き合ったりって話は聞かなかった。
何度も彼のナンパを眺めていると、ぼんやりと彼のやっていることが分かるようになってきた。
言葉で相手とコミュニケーションを取るんじゃなくて、音のリズムだったり、距離感だったり、非言語的な部分で同調するのがとても上手かった。
ただ、何度聞いてもコツは教えてくれなくて、相変わらず雰囲気がどうとか、バランスとか、リズムみたいなことを繰り返すだけだった。
同じ場所でナンパをしていると、スカウトだったり同じナンパをしている人と一触即発になることや、逆に仲良くなることもある。
俺は数撃ちゃ当たる戦法のヘボナンパ師だだったけど、友人は違った。
他のナンパ師が撃沈した相手でも、彼が声をかけると足を止める。
彼の噂を聞き、人が集まるようになり、その地域ではナンバーワンって言われるようになっていた。
芸能人をゲットしたり、誰もが認める超一流企業(激務なところ)の美人彼女を作ったりしていた。
飽きたって言ってたけれど、本当かどうかは分からない。
俺は彼とは少しずつ疎遠になり、大学でも顔を合わせることはなくなった。
ヤバい人の女に手を出したとか、事業に失敗したとか、イベンターで大成功して得たお金で投資家やってるとかよく分からない噂だけは聞いたけど、真相は分からない。
彼はフラっとナンパで一番になって、フラっと見えないところに消えてしまった。
でも、俺が見た彼の魔法のようなナンパだけは未だに忘れることができない。
もういい歳のオッサンなんだけどさ。
よくいる強引なナンパじゃなくて、本当に空気みたいにフワッと相手の心に入り込んでたんだよ。
彼は元気にしているだろうか。
生きているといいし、幸せだといいな。
あんまりぼかせてないから、当時のことを知る人は読むと想像がつくかもしれないな。
あ、そうそう、一番ヤバイなって思ったエピソードが、たまたま歩いてて横を通った女性を彼が捕まえたんだけど、匂いでイケると思ったって言ってたのが意味不明だった。
それでも、ものの数分で出かけてその日は帰って来なかったから、俺は一生足元にも及ばないんだろうなって思った。
あとマッサージがすげーうまかった。
ちゅはないわー。
語尾伸ばしと、繰り返し通知はやってもいいとおもいます。
語尾に「ない」をつけただけで逆の意味になる日本語の仕様として語尾ははっきり長めに発音してあげよう。
よくあるへんな赤ちゃん言葉「ブーブー」「まんま」とかは無駄に日本語の語彙能力が高くないとあとで困るのでやめたほうがいいよ。
一つ二つ~ここのつとお、も、いちにい~きゅうじゅうで統一してやるほうがいいとおもう。
あとベビー向けボディランゲージで顎をたたくとごはんの意味になるのとかあって、アメリカ人が開発したやつ。
それだと2語文が出るのが早いらしいけどそちらも最終的な効果はよくわかってない。
無理させないように考えたらいいとおもいます。
アサーッス!どうも、アサスしてますか?
今では悲しいかな、戦争を終わらせるために一番不当である「エイスース」呼びで固定されてしまったASUSなんですが、私達はやはりこれはおかしいと思っています。
2012年に戦争が終わり、今ではこの議論で荒れることはないのですが、やはり残党として再び主張しなければならないと思い立ち上がった次第です。
これは有名な話ですが「Pegasus(ペガサス)」の「asus」から来ています。
もうこれがほぼ答えなんですが「Peg」「asus」ならどう考えても「アサス」読みが正解なんです。
エイスースならば私達はペガサスの事をペゲイスースと読んでいる事になりますよ。
考えてみてください、聖闘士星矢で「ペゲイスース流星拳」って出てきたらユニコーンのジャブどころかカシオスに負けますでしょう。
由来から分かる通り、どう考えても「アサス」読みで正解なんですが、一応他の呼び方も見てみましょう
由来で当てはめてみると「ペガスース」。エイスースよりもそれっぽいですね。
私も本来「アスース」派だったので古巣の事は悪く言えません。「ペガスース」は聖闘士星矢のOPに当てはめてみると「ペーガススファンタジー!」と癖のある歌い方(奇跡をウォコセェ!のような)に見れなくもないのでかなりいい線です。私の親もアスース派でした。よく考えたら私がアスースと呼ぶのは父からの洗脳教育だったんですね、今では完全にアサスです。父はあきらめてエイスースと呼んでいます。父ちゃん待ってろ、いま助けてやるからな。
高校の時の二組の田中はアスス読みでした。彼は自作PCを作ると息巻く割になかなか自作PCを作らず、パソコンショップで買ってきた組み立てパソコンをいじっているぐらいの奴でしたが、アスス読みだったため、みんなに自作してないことはモロバレでした。
ただ、「ペゲイサス」をちょっとネイティブな英語っぽく発音するとそれっぽくなるので、若干ありかもしれません。
私の兄は「エイサス」派でした。兄はソフマップの店員に堂々と「エイサス」と言い店員から「あ、はい、アスースのパーツですね」と聞き返されても頑なに「そう、エイサスのパーツです。」と自分を貫き通して猛者なのですが、エイスース統一を気に「別に読み方はなんでもいい」と意気消沈してしまいました。兄ちゃんまってろ、今助けてやるからな。
この呼び方をするやつは確実に米国カブレです。ペリエとか飲んでいる。
このように「ASUS」は多くの呼び方がありました。ココで紹介しきれない珍妙な読み方も有ります(エイスズとか。ISUZUのトラックかよ。)
例えば「豚汁」。
「とんじる」でも「ぶたじる」でも「ぶたじゅう」でも通じればいいじゃないですか。吉野家いって「牛丼並、あとぶたじゅうな」と言っても店員さんは「牛丼の並がおひとつ、とんじるが一つでよろしかったですね?」と聞き返してくれます。
これがもし仮に「豚汁の事はポークスープと統一する」と吉野家が統一したら、「牛丼並、あとぶたじゅうな」といったら「お客様ァ!当店ではぶたじゅうなんてものは存在しなぁい!お帰りいただきたい!」となりますよ、そんなの吉野家にとってもマイナスでしょ。
「エイスース」呼びで統一された時、ASUS愛好者のみんなが「なんでマイナー派閥のエイスース?」「せめてアスースじゃねーの?」とか思ったでしょう。
この「エイスース」は、ASUSからの「おまえら読み方なんて細かいこと気にすんなよ」という戒めなんですよ。
例えば、重複の読み方とか、結局のところ通じるかどうかが言葉で一番大切ではありませんか?
http://anond.hatelabo.jp/20141130202457
増田アドベントカレンダー2014の10日目です。執筆者は名も無き増田です。
ゲイの出会い系の何が楽しいかを書いていくので、皆さん参考にしてください。
オナニーのオカズは必ず女性と男性の絡みのアダルトビデオです。
男性相手に勃起もしますし、射精もしますが、それは単に刺激により反応してしまうだけで、私はノンケです。
でも、私はゲイの出会い系で、ゲイの人と知り合い、ゲイの人と恋愛をし、ゲイの人とセックスすることを楽しく感じています。
それを詳しく説明していきます。
中高と男子校で、大学は一学年に2人ぐらい、職場には3人ぐらいしか女子がいませんでしたから。
どのぐらい緊張するかというと、くるくるその場で回ってしまうぐらい緊張してしまいます。
それどころか、自分の要望を伝えたり、相手の要望を汲み取ったりと
「会話」すら成り立ちます。
これは大きな違いです。
女性相手には「会話」以前に、ボディランゲージですら自分の意思を伝えられません。
ところがどっこい、男性相手なら会話どころか、ボディタッチすら余裕です。
つまり、女性と男性を比較したとき、僕は男性といる方が楽しいということです。
○女性とのセックスはよくわからない、でも男性とのセックスはよくわかる
非モテですけど、私は風俗などで女性とセックスをしたことがあります。
いつハメていいのか、相手は感じているのか、相手はちゃんと行ったのか、風俗だからというのはもちろんありますが、さっぱりわかりません。
理解できません。
勉強しないといけません。
でも面倒です。
「相手が射精できた」
この2つさえ守れれば、何をしても多分大丈夫なんです。
(ケツ穴を使ったセックスはあまり経験が無いので、この場では省きます)
おちんちんを舐めてあげたり、しこってあげたり、乳首をつねってあげたり、アナルをさわさわしてあげると、相手のおちんちんが勃起して、それらを繰り返すと射精する。
そして何より、それらの機能が自分にも搭載されているので、練習や勉強も楽チンです。
つまり、女性とセックスするより、男性とセックスする方が僕は楽しいということです。
○年上の男性に「甘える」ことの楽しさ
皆さん、最後に甘えたの、何時ですか?
僕は先日の土曜日にたっぷり出会い系で知り合った男性に甘えてきました。
ご飯を奢ってもらい、銭湯を奢ってもらい、たっぷり責めてもらい、たっぷり射精させてもらいました。
そして何より、たっぷり相手に気持ちよくなってもらえるよう、必死にご奉仕しました。
たまに実家に帰ると、据え膳上げ膳でとっても楽ですよね?
それの数倍、年上の男性に甘えるのは楽です。
なんたって、親と違って、独身だし子供もいないから、金持ってますからね。
親に甘えるのとは違って、金銭的に甘えても、
「その分、たっぷりエロいことさせてもらいまっせ」という打算的関係で帳消しです。
まあ、僕はエロいこと大好きなんで、完全にWin-Winどころか
年上の男性は金持ってるから甘えられて、僕は楽しいということです。
「自分をよく見せよう」とか
「相手に好かれよう」という意識がとても強く働いて、
少なくとも僕はそうです。
僕はありのーままのー自分を見て欲しいですし、相手もありのーままのー自分でいて欲しいです。
特にビジネスの場や、社会ではそれは欠かす事の出来ない要素だと思います。
でもそれって楽しくないです。
僕は女性といるより、男性といる方が楽で、楽しいということです。
○結論
「恋人作るよりも、友達の方が欲しい」とかって思ってませんか?
でもそれって、友達の上に、セックスまで出来たらよりハッピーだと思いませんか?
僕の師匠は言っていました、
「男の人は男の人同士で 女の子は女の子同士で恋愛すべきだと思うの」と。
「すべき」はもちろん言い過ぎです。
でも、自分もそうだと決めつけていませんか?
自分がありのままでいられるのは、女性といるときですか? 男性といるときですか?
もう一度よく考えてみてください。
僕はよおく考えてみました。