はてなキーワード: 一面的とは
あの戦争でアメリカは大いに国際的信用を失った。現に外交面で中国がのさばるようになってきた一要因はそこ。しかしアメリカは民主的選挙による政権交代という機会があるので、ブッシュ政権さらばオバマ政権で仕切り直しというイメージ転換が出来る点が独裁的国家との大きな違い。
なお、「ロシアの国力を前にして抵抗できる国はありませんよ」という見方は一面的過ぎる。国力とは軍事力だけではないし、軍事力すらもそれ単独で存在しているわけではない。さらに今回の事態も含めてあらゆる軍事的外交的事態はそれが起こる場所の地政学的な条件によって大きく左右されている。ロシアが同じ事をしようとしても、場所がウクライナかオーストラリアかブラジルかで全く状況が変わるので、一概には言えない。
大学で電通の元偉い人から広告論の講義を受けたことがある。面白かった。様々なこだわりを持って、マーケターとクリエイティブが組んで製作しているというのがわかった。別に、そういう広告は今後もなくならないとも思う。
ただ、大抵の一般人にとってテレビCMとは観たい番組の邪魔をする「理屈はわかるけどない方が嬉しいゴミ」であったし、雑誌の広告は「なんだかよくわからない胡散臭いもの」で、WEB広告は「うっかり踏むと別に使いもしないサイトに飛ばされる邪魔なリンク」だった。つまり、全部ゴミだ。そりゃ中には綺麗なゴミもあるかもしれない。ゴミ捨て場に転がってるビー玉みたいな。でも、ゴミはゴミだ。ゴミを拾ってパッチワークを作ったり、廃材アートを作る人がいても、ゴミなのは変わらない。
そういう意味で、そもそも『クリエイティブ』であろうとする古い広告業界と、『営業』であろうとするWEB広告業界は別物なんだろう。いや、WEB広告の世界にも面白い広告はある。思わず見てしまうようなものとか。Adblockをわざわざ止めて探したりする。でも彼らは根本的には『営業マン』であり、『営業マン』が数字に命を賭けるのは当然だ。正直、そっちの方が潔いし、顧客に対しても親切だとも思う。
そもそもアートがやりたい、見たいのなら立場や相手はアーティストであるべきなのではないだろうか? 日本は看板だらけで街並みが汚いという言葉がある。つまりこれも広告だし、「広告が沢山ある」ことを賛美する話なんて聞いたこともない。廃材アート的な文脈でなら、ともかく。
……自分はこんなに広告を憎んでいたのだろうか? 実のところ、確かにWebマーケ業界については就活の際に覗いて、「これを仕事にするのは大変だな」と思った記憶はあるのだが。ただまぁ、それは数字を追いかけることが苦手だったからでもある気がする。
つまるところ。アートをやるならやるで、やはり数字は大切という話なのではないか。
PR企業で電通にコンペで勝っている会社もある。ベクトルという、アイデア重視で非常に『バズらせる』のが上手い会社だ。アーティスティックだし、興味深く、面白い。大金を積んで豪快なPRをするだけではない魅力がある。
オタクは作品のメッセージ性に向き合う度に思想関連の造詣は深くなるが、今現在の政治について関心を持てるかどうかは無関係だな。
今現在の政治のゴタゴタした時事トピックに物申そう首を突っ込もうとしたがるのはゴシップ感度が高いうちだけの若気の至りのようなものだ。国際情勢への関心くらいならまだわかるが国内政治ニュースを消費するなんてしょうもないゴシップ趣味の域と言えよう。
それに思想の分野は政治よりもまず経済学的教養との結合が深い分野であって、そちらの土台を整えたほうが作品に込められた社会的要素を理解しやすくなる事が多いだろう。それが欠けた者は思想を右か左かの一軸の対立くらいでしか語れないのでお察し。しかも政治への関心から知識を得てきた人は知識が偏りやすいのでより認識が一面的で浅薄だ。しかしそうして社会派なオタクになったところで、作者と共同オナニーができる達者な豚であるか、はたまた萌えやミーム的なデータベース消費ができる程度にはオタクぶれる豚であるか程度の些細な差しか生まれない。いずれにしろ自分が楽しむために消費する趣味の域の話にすぎない。それを通して大層なポーズを取ろうとするか否かも好きずきだ。
稼いでる女(と言っても年収400~500万円くらい)くらいからすると男のほうが稼ぎやすい世の中で、なんで私より稼げてないの?能力的に劣っているんでしょ?
という気持ちがどうしても出てきてしまう訳なんですよ。私の500万円とお前の500万円は違うだろ?と
はてぶのちょっとしたキャリアウーマンとか、そんな気持ち少なからずあるでしょ?
そう、これは男に対して年収マウンティングを異性に対して無意識に取っている行動の結果であり、
もし男女の収入格差がなくなれば、そのような年収マウンティングではなく、ただ年収が低いだけの人とみなされることになり、そこに内面を推し量るスキが生まれるはずである。
年収が自分より低いに対して、数字以上の意味が存在するのである。もちろん、年収が高いと能力も高いことは否定できないが、年収と能力は比例しないことは分かっているはずである。
そして何より、人間的魅力ともだ。そこを伺わせる隙間すら年収という一面的な味方で潰されてしまうのである。
フェミですらない性嫌悪ミサンドリストツイフェミの矛盾に突っ込んでいる暇があるなら、ちゃんとフェミニストの活動している人を応援すればいいのに。
稼いでる女(と言っても年収400~500万円くらい)くらいからすると男のほうが稼ぎやすい世の中で、なんで私より稼げてないの?能力的に劣っているんでしょ?
という気持ちがどうしても出てきてしまう訳なんですよ。私の500万円とお前の500万円は違うだろ?と
はてぶのちょっとしたキャリアウーマンとか、そんな気持ち少なからずあるでしょ?
そう、これは男に対して年収マウンティングを異性に対して無意識に取っている行動の結果であり、
もし男女の収入格差がなくなれば、そのような年収マウンティングではなく、ただ年収が低いだけの人とみなされることになり、そこに内面を推し量るスキが生まれるはずである。
年収が自分より低いに対して、数字以上の意味が存在するのである。もちろん、年収が高いと能力も高いことは否定できないが、年収と能力は比例しないことは分かっているはずである。
そして何より、人間的魅力ともだ。そこを伺わせる隙間すら年収という一面的な味方で潰されてしまうのである。
フェミですらない性嫌悪ミサンドリストツイフェミの矛盾に突っ込んでいる暇があるなら、ちゃんとフェミニストの活動している人を応援すればいいのに。
以下のツイートとそのブコメの着眼点が一面的で残念だったので考えを述べる。
@koshian
というか学者なんてのは真理探求のために一般よりずっと不道徳であることが認められたり奨励されたりするもんでしょ
https://twitter.com/koshian/status/1485127978162229252
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/koshian/status/1485127978162229252
その変更が主流派にとって受け入れられないものであれば不道徳と批判される。
パラダイムシフトと呼ばれるような重大発見であり、学者はそれを目指すべきだ。
中世の神学的な道徳に反してコペルニクスが地動説を主張したり、
ニュートンが地上も神の世界である宇宙も同じ自然法則で物体が動いていると証明したからこそ、
素朴な感覚に反して実験と理性が導き出した世界観を採用する科学という営みが生まれた。
それを継承して相対性理論や量子力学や遺伝学を生み出し、人類の科学技術はここまで発展できた。
逆にソ連では共産主義的に道徳的なニセ科学あるルイセンコ農法を採用し、
大量の餓死者を発生させ、正当な遺伝学社達を投獄・粛清して生物学の後退を招いた。
学問のために不道徳であることを恐れない学者と、道徳のために学問を利用しようとする学者だったら
おそらく後者の方が問題を引き起こすであろう。そもそもそれは学者ではなく活動家だ。
ダビンチや平賀源内の時代は間違いなく解剖という当時としては非道徳で奇妙な行為が必要だった。
ただ現代では過去の失敗やいざこざがあってこういう手順でしましょうねって基準がある。
それは「日本大好き外国人」による「他国人が日本の着物を着る行為への批判」みたいなものだ。他文化の人間がそれを指摘する立場にはない。
また、アラビアンナイトに限って言えばイスラム教に侵略される前の時代の地域の物語なのでイスラムとは関係のない場合が多い。
つまりアラビアン~と形容しているからと言ってイスラムと直接関係のある概念だと指摘するのは無理。
日本だって、多くの地域の信仰は最初から「神道」によるものではなかった。
侵略(統一)のために神道として塗りつぶした部分があるわけで。「神道としてタブーな価値観」も、塗りつぶされる前はタブーではなかった可能性もあるんだ。むしろ、塗りつぶされたということは神道には都合が悪かった価値観である可能性が大きい。
宗教の○○主義、的な価値観に染まると、そういった歴史的事実や宗教価値観に反する文化が見えなくなってしまう危険がある。宗教を学問として学ぶ前にはその手の注意を先達から受けると思う。この人は個人の趣味でイスラムを学び始めたのだろうな。一面的な宗教観を振りかざすことに躊躇がない。
まあ一面的には正しいことを言っているような気がするな
長いけど全部読んだけど温泉むすめの企画に賛否含めて複雑な思いがあるのは分かるが
twitterやはてブとかは短文でやり取りするコミュニティだからね…
みんなが一面的な意見をぶつけ合って裏でしんどい思いをする人達がガマンしていく現実は中々覆らない。
丁寧に一つ一つ話し合えるコミュニティで温泉むすめが語られていけばあの企画は理想的な変遷を辿っていくのかもしれないが
現状はまた一つ対立が加速していくだけだと思うね。
一方でyoutubeとかで温泉むすめの騒動について丁寧に語ってる人達も散見された。
そのような人達がもっとクローズアップされるようなネットだったら良かったかもしれんね。
まぁつまりネットの言論の中心が一面的な物言いのぶつけ合いより丁寧に一つ一つ語れるコミュニティに移っていって貰うしか
裏でガマンしている人達の苦しみが解消されていく道は無いような気がする。
いやそんな良い未来があったとしても温泉むすめで今現在対立が進む状況には何の救いにもならんか…
どうすりゃいいんだろうな
「まさかとは思いますが、この「弟」とは貴方の想像上の産物に過ぎないのではないでしょうか」で有名な精神科医、林公一の回答が酷い。
http://kokoro.squares.net/psyqa1111.html
お恥ずかしい話しながら、過去に妹に対し性的な行為を行った時期があります。私は14歳~18歳の頃、妹は7歳~11歳位の間です。
無論SEXは在りませんでしたが女性への興味から「見る」から「触る」に、徐々に性器を愛撫しあう関係に発展。私が18歳になり真剣に付き合いたい女性が出来て同時に中学生になった妹が行為に嫌悪を示し終わりになりました。
これに対する回答があまりにも酷い。
幼い妹に未成年だったとはいえ性的行為をしておいて加害意識のない、妹の悪口を言いまくりの相談者に対して、林公一は味方している。妹を境界型人格障害といい、悪口に同調しているのだ。
しかも性的虐待を糾弾する父親をあろうことがお助けおじさん呼ばわりして非難している。
極め付けは、これだ。
一方は虐待であったと主張し、他方は虐待ではなかったと主張するというものです。このように双方の主張が食い違うのは、性的虐待に関しては、ごく普通のことです。
年の離れた兄が、妹に対して性的行為を行ったのであれば、それは虐待に違いないではないか。そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかしそれは単純すぎる考え方です。PTSDの図書室にも紹介した『近親姦に別れを』に、以下のような記述があります。
「近親姦のうちいくつかに痛みは伴っていない。ほとんどの近親姦的状況には、楽しい面がある。愛と忠誠心が含まれていることがある・・・。近親姦には相互的満足がある場合すらある。」
これは臨床的な事実です(関連として【0995】もご参照ください)。このような事実の理解なしでは、近親姦(および、家庭内のいわゆる性的虐待)の理解にはたどりつけません。被害者は気の毒であり、悪い加害者を罰しなければならない、といった、マスコミ的というか、正義の市民運動的というか、とにかくそうした一面的な考え方では何の解決にもならないのです。
ふざけんな!!
性的な知識のない、立場の弱い幼い少女に対しての性的行為が性的虐待以外のなんだというのか!!
この精神科医は性的虐待加害者の認知の歪みを肯定して助長している。
http://kokoro.squares.net/?p=4629
こちらの第三者の疑問に対しても「この兄妹に虐待があったかどうかはわからない」と答えている。
http://kokoro.squares.net/?p=10583
こちらでも、叔父の性的虐待に苦しむ人に対して「拒否しようと思えば拒否できたわけですから、合意の要素があった」「合意の要素があることは、家族内での性行為にはしばしばある」とか言っているのだ。
こんな奴が有名な精神科医やってていいのか…
もちろん、個人単位で探していったらいるんだろうけど、あえて聞きたい。
みんなが俺のことを大好きで、俺もみんなが好きなつもりだけど上手く表現できないし、自分の愛情が本物なのかも自信がないぜ。それにしても、お前らはほんとに俺のこと好きだな、って感じ。
基本的に孤高なんだけど、俗世を一瞬だけ横目で盗み見している。
読んでるときに「かっこつけてんな~」「でも、自分の身に置き換えたらくっそ気持ちいいわ~」って思うんだけど、こういう作風に響いてる自分の中の部分って、普遍的な人間性っていうよりは俺の男としての部分だって感じるんだよな。
当然、こんなのヘミングウェイの一面的な解釈に過ぎないだろうけど、それはそれとして。
上で書いたような印象が理解できつつ、女性だけど普通に共感する、って人はいるのかね。
あと、書いてて思ったけどこういう読み方が実際は男性読者に限定されないとしたら、たぶん、主人公を女性にしたヘミングウェイ的な作品もこの世にあるはずなんだよな。それも気になるな~。
菅の発言の記事https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0708kaiken.htmlは7月8日。五輪開催の約2週間前だ。
その頃、すでにワクチン接種が進んでいたイスラエルでデルタ株の感染拡大が取り沙汰されていた。
ワクチン接種が進み、感染者の減少が続いていた中東のイスラエルでは、インドで確認された変異ウイルスの感染が広がり、イスラエル政府は、25日から再び屋内でのマスクの着用を義務化しました。
16歳以上の人口の8割以上がワクチンを接種しているイスラエルでは、1日の新規感染者数が平均で10人台にまで減り、今月15日に屋内でのマスクの着用義務が解除されました。
ところが、21日には新規感染者が100人を超えたほか24日には228人に上り、イスラエル政府は、25日から、再び屋内でのマスクの着用を義務化するとともに屋外の大規模イベントでもマスクを着用するよう呼びかけています。
25日には、地中海沿岸のテルアビブで、性的マイノリティーの人たちへの理解を訴えるパレードが行われましたが、政府の呼びかけに応じて、マスクをしている人の姿も見られました。
イスラエル政府は感染者の増加について、インドで確認された変異ウイルスの「デルタ株」による感染が広がっていることを明らかにしています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210626/k10013104801000.html
先行してワクチン接種が進められた国々では、ワクチンを1回接種した方の割合が人口の4割に達した辺りから感染者の減少傾向が明確になったとの指摘もあります。今のペースで進めば、今月末には、希望する高齢者の2回の接種は完了し、1度でも接種した人の数は全国民の4割に達する見通しであります。
https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0708kaiken.html
この発言は菅が政権浮揚のために五輪をやりたい一心で、古い情報に基づいてワクチンの効果を一面的にアピールしているもの。実際はイスラエルの記事にある通りで、デルタ株にはワクチンが効きにくくなっていた。その後の日本国内でも、重症者、死亡者の割合は減ったものの、デルタ株は過去最大の感染爆発を引き起こして医療を崩壊させたのは今となっては明白な事実だ。加えて、菅内閣が緊急事態宣言を中途半端に出したり引っ込めたりしたことが被害拡大に拍車をかけた。
その緊急事態宣言の中途半端ぶりは増田が引用した記事で枝野が指摘している。https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20210527-00240088この発言は5月26日のもの。
岩瀬「まあそうなのね。やりそうですけど。二桁まで減らすには、まあ今日の新聞ね。あのー、緊急事態宣言、来月の二十日ぐらいまで、で、調整なんじゃないかっていう。ここまでで、東京もね、きっとそうなるんでしょうけど、減りますかね?」
枝野「うーん、まあそこでどこまで減ってるかですけど、まあたぶんその100切るとか、そういう話は、難しいだろうと思いますけどね。そうするとまたすぐリバウンドですよ。1ヶ月半ぐらいでまた、そのー、医療ひっ迫で大変だみたいな話。残念ながらなってしまいますよ。いやむしろ、変異株は感染力強いって言われてるからもっと早いかもしれない」
岩瀬「そうですね」
枝野「はい。だから、とにかく、徹底して抑え込んでからじゃなきゃダメだし、そこ我慢してくださいって言うのには金配んなきゃダメなんですよ」
たったこれだけでも、菅と枝野、どちらが妥当な情報に基づいて妥当な判断をしていたか明らかなのでは。
また、増田が引用した枝野の発言の主旨は、記事の筆者がまとめ直しているが、こうだ。
立憲民主党の枝野幸男代表が、26日に放送されたラジオ日本の番組で「菅首相はワクチン頼み」と発言したと報じられました。これを受けて「ワクチンなしでどう対処するのか?」と批判され、炎上しています。
一方で、枝野代表も「見出しが一部に誤解を与えていますが、本文中にもあるように、ワクチン接種の重要性を前提に述べた上での発言」と反論しています。
(略)
これはもう典型的な切り取り記事の問題になっていると思ったので、番組を実際に聞いて全文を書き起こしました。
(略)
ちょっと長いので理解が難しいところもあるかもしれませんが、まとめると
料理店も時短より感染対策をしてもらい、客席を減らした分の補償をするほうが良い
ワクチンの効果が時速するのもいまわかってるのは半年で、どれくらい続くかわかっていない
というような内容です。
「ワクチンだけに頼る」のではなく、それ以外の対策をもっと強化するべきといった内容です。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20210527-00240088
枝野を批判した元の記事は典型的な切り取り記事になっていて良くないからと、わざわざ筆者が枝野の発言を全文文字起こしして是非を改めて問うた記事を、再度恣意的に切り抜いて自説に都合よく使う増田の間抜けさ。
何か悪いことが発生してから、歴史上で似たような事例を拾ってきて偉そうな顔してるだけに感じる。
逆に、歴史に無いことが発生した場合は、歴史にどう学ぶのだろう。「想定外」とは、歴史に対する過学習の結果ではないのだろうか。
また、歴史にある失敗が新たな成功の種を潰している(失敗の隣りにある成功を見えなくしている)ということもある。歴史が未来を妨げることもあるのだ。
それらのことも語ってこそ、正しく「賢者」は学べるのだと思う。
もっと言うなら、そういう一面的な視野に陥らないよう「賢者は何にでも学ぶ」のが正しい。
歴史の重要性は、その「何にでも」の一部分としての重要性でしかない。One of them 以上のものはない。
歴史だけを特出しして「賢者は歴史に学ぶ」という言い方は、まさに「愚者は経験に学ぶ」のと同じくらい、誤解のある言い方である。
(追記)
トラバの通り、この慣用句が誤解から生まれたのだとしても、それが人口に膾炙するうちは、その誤りを述べ続ける必要があると思う。
さらに上記に付け加えるなら、「歴史」は未来の事象に直接結び付かないし、その膨大な蓄積を学ばないといけない
(「歴史に学ぶ」っていうけど、あれだけ膨大な蓄積があれば、何かしらヒットするものがあっても当然。
しかし、そのごくたまにあるヒットに掛ける学習コストがもったいない。歴史はコスパで劣る)
という点で、むしろ、愚者の学習対象とされる「経験」にさえ劣る。
教訓を得たい事象が決まっているのであれば、歴史という膨大な蓄積を学び直すより、その事象に関わる人間の経験を付き合わせた方が、効率よく教訓が得られるだろう。
そうやって、過去の膨大な蓄積に悩まされるという点では、歴史は若い人間にとって、まさに「呪い」に他ならない。
古い歴史というものが、若い人の経験の邪魔をする。むしろ経験こそ、これからの未来に直接結び付くものなのに。
だから、「歴史を学ぶ意味がわからない」という意識が、子供たちから表現されることがあるのも当然だと言える。
それなのに社会は、歴史を「学ぶ」べきものだと押し付ける。趣味や娯楽でなく、教訓の素材として「学ぶ」べきだと押し付ける。
それだから、若者にとって歴史は、スレッドに昔から居るコテハンみたいに見えるのだ。
学ぶべき存在というよりも、理由もない謎のルールを押し付ける目障りな存在になってしまっているのだ。
(過去がそうだったから。って、その結果は合理的なの?倫理的なの?最善手なの?)
また、遺跡発掘のせいで都市開発が遅れていくように、歴史的事物は人々に存在のための負担を強いる。
それのみならず、現代人が生きるための資産(子育て支援の費用、新しい技術への投資 等)を、歴史的事物の維持管理費用として食い潰す。
だから、今生きる人間のために、残すべき歴史的事物を今より厳選していくべきではないのか。
古い建物だから、古い遺跡だからと何でも残そうとするのは、若者に与える予算を残すために辞めるべきではないのか。
歴史的事物の押し付けは結局、世代間抗争に繋がるのではないか。
まとめると、歴史は現代人が生きるための資産を食い潰し、代わりに理由のないルールを押し付け、それでいて、後だしジャンケンの道具にしかならない。
だから私たちはまず、歴史というものを、教訓事項を得る素材なんかではなく、例えば数学などと同じように、社会から遊離した学問のひとつとして遠目に眺めるようにし、
そして、例えばスポーツのような個人的な趣味や娯楽のひとつとして扱うところから始めるべきなのだ。
今や「オオカミ少年」と週刊誌に揶揄されるまでになった8割おじさんこと西浦博教授。
彼の警鐘が国民に響かず、冷笑されまくっている原因を考察してみた。
去年の「42万人死ぬ」発言が典型例だが、数字が独り歩きするような物の言い方をしているし、独り歩きを抑えるような配慮が全くない。
42万人の件はもちろん前提付きのものであったが、「Aという前提なら42万人、Bという前提が出来れば2000人で済む」といったように、前提条件がちゃんと国民に伝わる言い方をすべきであった。
契約関係が西浦氏と国民の間にあるのならこの件のような一面的でしかない前提条件は伝わるが(それを確認しないと契約後に痛い目を見るから)、そんなわけは無いのだから、一方的でしかない前提条件付きの数字を言ったところで、その前提条件が消えた「42万人」だけが国民にインプットされてしまう。そして「42万人も死んでないじゃないか、嘘つきだ」と思われてしまう。
そしてその後も警鐘しか言わず、こうしてくれたので良くなったという正のフィードバックや正の将来予測をまったく発言しないから、ただのクレーマーのようにしか見えなくなる。こうなるといくら科学的に正しいことを言っても響かない。要はリスコミが下手なのだ。
身もふたもないが、西浦氏は「デブで禿」。もし20~30代女性部下と2人きりで部屋に入るようなシーンがあったらそれだけでセクハラが成立するレベルの見た目だ。この時点で医学の発信者としては信頼性が無くなる。禿はともかくデブなのはどうにかならないか。米国ではデブは信頼されず、要職につけないというし。
西浦氏が過去の予測に対する実績の差異について自分の言葉で説明するシーンを見たことが無い。探せばあるのかもしれないが、「探せば」という時点でコミュニケーションロスを起こしている。もちろん不確実性が高い中、予測を100%当てるのは無理だが、予測との差異について考察し、発信することをもっと積極的にやらないと、いつまで経ってもオオカミ少年、いやオオカミオッサンの地位から抜け出せないのではないか。
この西浦氏が典型例だが、科学の中で働いている人は、もう少し「国民に真意が伝わるプレゼンテーションは何か」を考えた上で情報や予測を発信して欲しい。2011.3.11の時は原子力の中で働いていた人が今の感染学の人達のように全国民から注目を浴びることになったが、業界として発信能力が欠けており、結局NHKのみずのん(水野解説委員)の翻訳に多くの国民が頼ることになった。それと同じ過ちがいまの感染学の世界で起きていることを感染学の中の人達は自覚し、反省し、今後に生かすべきである。
このシステム、ヤフコメでは確かに効果が出ていて、導入後はかなりコメント欄の治安が良くなった。今のヤフコメが優れた言論空間になってるかと言われたらなかなか首肯しがたいところもあるが、それでも、NGワードが平気で横行していた頃を考えれば雲泥の差だ。
それでは、何故はてブであんまりうまく行っていない感じなのかと言うと、はてブの問題のあるコメントって文面だけ捉えればマトモだからなんだろうなと思う。はてブの問題のあるコメントって、例えば、一面的な正義でもって何らかの対象を殴っているとか、揚げ足を取った上でそれをやたらと皮肉的に言うとか、全然関係ない記事で政治の話を始めるとか、そういうのが多いかなという感じだが、こういったコメントは文章の形式だけを見れば何ら問題はないわけだ。ヤフコメでの問題のあるコメントが、露骨にNGワードを含んでいたり、文章の長さや構成に特徴があったりしているのと比べると、状況が異なっている。
だから、はてブでコメントの質を判断しようとすると、ブックマーク先の記事も含めて、文脈・文意まで見ないと判断することができず、その点においてこのAPIが対応しきれていないのではないだろうか。
もちろんAPIの中身を熟知しているわけではないので、見当違いのところもあるだろうが、API導入後の傾向を見た個人的な感想として、そのように思った次第。