はてなキーワード: 小学校とは
重い マジで重い
「普通の家庭は親が子どもを褒めるものだ」と冷静に理解できたのは大人になってからだった
父も母も、もう変に年齢を重ねているので素直に褒めて褒めて〜とは言えないようで
些細な事でも「感謝しろよ!ほら!もっと感謝しろよ!!」と言う形で
上から目線で認めて欲しがっている
まあ、父親は小学校低学年でお父さん(私の祖父)亡くして祖母は働き詰めだったから辛かったと思うし
母親は何故か「長女だから」と言うだけの理由で祖母に謎に厳しく当たられている(側から見ていても祖母の行動は意味が分からない)
一度母がしつこいので「褒めて欲しいなら自分の親に言えよ!」とブチ切れたら「言えるわけないでしょおおおお!」と大泣きされて鬱陶しいことになった
母の気持ちが理解できないことも無いだけにそれ以上は言えなかった
私からするともうお前ら夫婦がお互い褒めあってろよって感じなんだけど
承認欲求に飢えてる人ってプライドが邪魔してできないみたいなんだよね
今用事があって父にLINE送ったらすかさず母から私も頑張ってるアピールが届いて
返信考えるのが苦痛で仕方ない
洗濯不足ではない。何かしらの悪い夢を見ていたに違いない。
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妻と子どもの騒ぎとTVの喚きと朝の交通で増加する外からの音量。
目を瞑って気持ちを整えなければならない。出勤まであと40分。
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もともと私が兼業主夫、しかし夜のシフトがある現場への異動要請。
子どもが小学校入学にあたるタイミングで誰も面倒を見られるなくなる。
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家庭の事情による転職、別業種、向いていると言われ、自分でもそう思った。
契約社員、その程度の仕事だ。手取り16万弱、ただ8:30-17:15、休暇は取れる。自宅から25分。
給料は除いた条件で選んでそうなった。
正規への道もあることはある。求められる資格の通信教育を始めた。
でも好きな仕事ではなかった。入って3ヶ月で気付いてはいた。1年7ヶ月、介護職。
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大学卒、小学校教諭、1年で迫られた自主退職、諦め切れず臨時採用で続けた。
児童に厳しくできない。荒れる。やはり、向いてはいなかった。転々とし安定しないのもネックだった。
職業訓練校、ビルメン、7年続いた。便利に使われたが楽しかった。結婚できた。子も授かった。
最後の挨拶では皆ちょっと涙ぐむほどだった。円満な退社だったと思う。
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アクシデントの責任を一方的に取らされた。眠れなくなった。仕事中ふらついた。詰められた。休んだ。
休みが続いている。いや、もう無理だ。もういい。
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そうだ、転職しよう。
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ところで一行空けができないんだが。
小学校低学年の頃まで僕は毎年夏休みに、田舎にあるおばあちゃんの家に遊びにいっていた。
とても豪華なことに源泉かけ流しでそしてとても広い風呂だった。
子供2人と大人1人で入っても余りがあるくらいで、さらに小学2年生の僕には足がギリギリつかないほど、とても深かった。
そしてそのお風呂は潜ると、「村」が見えるのだった。
どんな村だったか、いまだによく覚えている。
とても覚えやすい、単純な地形だった。
一番左に、大きな学校にあり、その近くに個人の商店があり、そして右に行くにしたがって個人の民家が広がっていた。奥には病院があり、その先には森林が広がっている。
おばあちゃんちのお風呂に潜ると、そんな具合に、この村が上空から俯瞰できるのだった。
何度潜っても、いつでも同じ景色であり、それはとても当たり前のことだった。
小学生の僕はこの話を大人にしたが、誰も信じてはくれなかった。ただし、5歳の妹を除いて。
この話を僕らが大人にしつこくするものだから、近所の高校生のお姉さんが真実を確かめようと一緒にお風呂に入ってくれた。
「さあさあ潜って、潜って」と僕は大はしゃぎである。妹も同じように、はしゃいでいた。
お姉さんは「どれどれ〜?」と半信半疑でにやけた顔をしていた。
僕と妹とお姉さんで湯船に入り、いっせーので潜った。
隣には村を見ている妹が見えた。
そしてもう一方の、お姉さんの方を見た。お姉さんも村の方を見ていた。でもなぜかお姉さんに金のリングや宝石のネックレスのようなものが身体に巻き付いていたのだった。好奇心からそれを取ろうと手を伸ばしたところで水面に引きずり出された。
「やっぱり何もないじゃない」
お姉さんはそう言った。僕は「あるじゃん!そこにあるじゃん!」と抗議した。妹も抗議した。
お姉さんは困った顔をして、それ以上は何も言わなかった。
結局、それでその場は終わった。
夜、寝る前に僕は気になっていた。
あの宝石はなんだったんだろうか、と。
妹にもあれが見えたのだろうか、そういえば抗議することに必死で聞きそびれた。
もう一度見えたりはしないだろうか、そう思って、夜中に1人でお風呂へと向かった。
おばあちゃんちのお風呂は源泉かけ流しだったので、いつでもお湯が張ってあるのだった。だから夜でも朝でも入り放題であった。僕はみんなが寝静まった夜に、お風呂に入って、そして潜った。
村が見えた。
そして、宝石が落ちていくのも見えた。
潜って潜って、手を伸ばした。全然手に届かなかった。病院の近くの標識の方へと落ちてくのが見えた。
息が苦しくなったので、引き返して水面に戻った。
もう一度潜った。
また宝石が落ちていくのが見えて、それを拾おうと必死で追いかけた。
でも息が苦しくなって引き返した。
僕はこれを何度かチャレンジして、無理そうだと諦め、布団に戻って寝た。
誰もが泣いているなか、僕だけは泣いていなかったように覚えている。
あれから何十年も経った時のことだった。
彼女とデパートを歩いていたら、催しで小規模なリアル脱出ゲームが開かれていた。
平日ということもあってか、並んでいる人は誰もおらず、僕は興味を惹かれた。
僕と彼女は2人でその脱出ゲーム『沈んだ村からの脱出』をやることにしたのだった。
ストーリーはこうだった。
誰もがこの村を愛していたが、特にその中でも1人の5歳くらいの女の子が村から離れないと言って聞かなかった。
村からの立ち退きの日、その女の子が忽然と姿を消してしまった。僕たちはその女の子を見つけて、無事脱出することが目的である。
その女の子はいつも「宝物(どんぐりや綺麗な色をした石など)」を村の至る所に隠して遊んでいた。僕たちはそれを最初に探し出し、そこから得られるヒントで女の子を探すというものだった。
僕は驚愕した。
手元の資料に書かれている村の地図が、まさにあの、おばあちゃんちのお風呂で見たあの村と全く同じであったからだ。
そして同時に、僕には「宝物」がどこにあるのかが全て分かっていた。あの風呂場で見た宝石が、だいたいどの辺に落ちていったか、全て覚えていたからだった。
病院の近くにある標識の横、学校の校庭、個人商店の鉢の裏、僕はなんのヒントもなく全ての「宝物」の位置をピタリと当ててしまった。
自分でも怖かった、なぜ分かるのか、なぜあの光景がここにあるのか、何もかもが分からなかった。
彼女やスタッフは僕が当て勘で見つけているのだと思っているらしい。事実、確かに「宝物」がありそうな場所は10数箇所ほどしかなく、たまたま全てを見つけてしまう可能性も、なくはなかったからだろう。
その宝石に書かれたヒントをつなぎ合わせると、「おばあちゃんちのお風呂の中」と読み解くことができた。民家にあるおばあちゃんちにいって、お風呂を覗くと、そこには泣いてうずくまっている女の子がいて、いい感じに説得して、一緒に帰るという流れで脱出に成功した。
とてもいるような気がする。
だけど、僕は忙しさにかまけて、まだおばあちゃんちに帰れていない。
自暴自棄になった弱者男性による無差別殺傷事件といえば川崎通り魔事件は典型だからちょっとは言及されてもよさそうなのに。
小学校のスクールバスが狙われ子供が犠牲になるというショッキングな事件形態で
おっす俺アラサー(34)。
小学校で教わった「オナニー」という言葉の意味をオヤジのパソコンで調べて以来かれこれ24年間ソロ活動。
小学生当時の俺にとっては18歳(自称)のAV女優であっても肌のきったねえオバサンだったのでもっぱら二次元でシコった。
たまに気まぐれで三次元でシコることもあったが、基本的には二次元でシコってきた。
今までのオナニーの回数を雑に「365日*24年/2日おき」で計算すると8000~9000という所だが、そのうちチャンポンも含めて三次元でシコったのはせいぜい500。
俺のチンコは二次元をシコる対象とみなし、三次元はあくまで二番手とみなすように調教されてきたと言っていい。
最近性欲が衰えてきたのか、ついに三次元で全く興奮しなくなった。
素人自撮りは肌の汚さやカメラワークの雑さが見ていられないし、女優男優の演技が棒すぎるのもアニメばかり見てきて身にはキツイものがある。
特に若くて可愛いだけの三次元女優は演技を一切しなかったりやたりわざとらしかったりで股間に訴えかける物が少ない。
30すぎているような女優と比べると肌が綺麗に見えるが、二次元と比べればサメやトカゲのような革っぽさすら感じてしまう。
静止画の場合も三次元の場合は単なる写真でしかなく、二次元のポルノが持つキュビズムや抽象画のような時空を歪めながら性欲に訴えかけようとする趣が一切ない。
そもそも文化が違っていて、三次元のエロというものはある種の盗撮趣味のような世界の上に構成されているのだろうが、私の股間はそういった覗き見だとかリアリティだとかいったものに対して興奮するようには出来ていないらしい。
結果、私は三次元で抜くことが出来なくなった。
こないだ試しにDMMで人気上位のエロ動画のサンプルを順繰りに見ていったが、どれも私を興奮させることは出来ず息子は下を向いたままだった。
人生とは積み上げてきたもの、味わってきたものによって構築される。
誰が最初に言うでもなく誰もが自然と知ることになる人生の本質である。
性欲とは刷り込みによって構築され、刷り込みによる性欲の構築こそがフェチズムの本質であるとデカルト(フロイト?ユング?サド?マゾ?)は言ったらしい。
最近、支援学級生の話を聞くことが多くなった気がする。しかも、割合としては悲しい話が多すぎる。
自分にとって、小学生のころに出会った支援学級の友達と重ねてしまうのだが、環境の違いにびっくりする。
あまり聞かないので、支援学級生にメロメロだった私(たち)の話をここに書こうと思った。
私の学校は規模が小さかったこともあり、4年生になったころに支援学級に双子の姉弟が入ってきた。めちゃめちゃかわいい妹・弟みたいな存在で、休み時間は支援学級に毎回遊びに行っていた。ぶっちゃけ同級生と遊ぶより全然楽しかったし、私が遊んでいるところを見かけた友達も(同級生もだが後輩の子たちまでも)一緒になって遊んだりしてた。本当にかわいい純粋な子たちで、まじで周りのみんなも可愛がっていた。自分にとって天使のような存在であった。
彼らはハキハキと話すのは難しいようだったが、一生懸命ゆっくり話してくれるところに毎度キュンとした。二人とも未熟児だったこともあり身体も小さくて、運動も激しいものや速さが必要なものは難しかったけれど、私含めて周りの皆が、彼彼女の歩幅に合わせて遊んでいたし、常に2人の体調を気遣っていたようにも感じられた。
一緒に遊ぶときは、外に遊びに行って自然を見てまわったり、絵本を読んだり、すごろくしたり、キャッチボールしたりした。おんぶして走ったりすると、キャッキャと後ろで喜ぶ笑顔を思い出す。妹や弟がいたらこんな感じなんだろうなと思った。
支援学級の先生や学級参観で親御さんから、いつも遊んでくれて本当にありがとうとお礼を言われたが、こちらこそ私と遊んでくれて本当にありがとうという気持ちだった。
卒業するとき、私のために一生懸命手書きでお手紙と似顔絵を書いて渡してくれた。6年生ながら寂しさに涙を流して卒業した。
『おねーさん』と呼んで遊んでくれて、本当に楽しい小学生時代だった。今でもお礼を言いたいくらいだ。
だから、世の中でこんなことあるのってくらいのイジメや虐待、事件を聞いてびっくりしてしまった。
私の学校は、彼女たちをのけものにしたり、いじめたりする子たちは本当にいなかったと思う。また、彼女たちと遊ぶ私の友達も、彼女たちに自然に合わせ、心から親切に接していたと思う。
大人になって、小学校のあの姉弟と一緒に過ごした日々を思い出す。物騒な話をたくさん聞いては、私はあの姉弟を本当にいじめてなかったか?と自問自答するのだが、彼らのあのまぶしい笑顔は偽物ではなかったのではないかなと思って信じている。あの姉弟にとって、忘れていてもいいから、嫌な小学校の思い出が存在しなければいいなと思う。