はてなキーワード: チョムスキーとは
自分は毒親育ちの左翼だった。子供の頃から、毒親の影響からか、友達ができない、もしくはできても健全は友達関係ではない
(要するに共依存関係)ので長続きしない、友達付き合いに必要な小遣いとかをくれないとか・・で友達のいない子だった。
20過ぎてから、毒親を自覚してカウンセリング等、受けまくって今では人並みに人付き合いができるようになったが、昔は本当にだめだった。
そんな自分が左翼?になったのは大学から・・最初にサブカル(洋楽)にはまって、友達がいないからカラオケで歌う曲を覚える必要もない。
流行とは真逆の音楽やら映画やらばかり追求し、だんだん政治にも興味を持ち出すと、チョムスキーの本とか読み出した。
大学を出てからも派遣で働きながら、田舎で自給自足しようとかNPO法人で働きたいとか内田樹とか安富歩さんの本とか読みあさり、
そんな自分が35過ぎてから、社会人サークルに参加しまくりだす。
職が変わって週休2日になったのが大きいのだけど、茶道教室、陶芸教室、英語カフェ、読書サークル、等。
思うに私はずっと自分の中学~大学まで友達がいないこと(特に大学では究極ボッチ)を正当化しようとしていた。
ショーペンハウアー曰くに「孤独を知らないものは自由を知ることが出来ない」
でもやっぱりずっと心に欠けてるものがあったのも事実で、それが社会人サークルに参加させてのだと思う。
以前もmixiとか流行った頃とかそういうサブカルや左翼の集まりに参加したけどそれはもともとそっち系の人の集まりだった。
今は、全く思想もなにも関係のないいわゆる普通の方々ばかりだ。
でも参加すれば受け入れてくれるいい人ばかりだった。
そういうアットホームな所に継続して通うようにしてたからなんだけど。
そしてとうとう掴んだのだ、共同体感覚・・と言うものを。そしてアドラー曰く
「共同体感覚を掴んでこそ、人は承認欲求を捨てれるのだ」ということを身を持って体験できたのだ。
毒親に対するカウンセリングを受けてたころ、幼少期のトラウマ(専門用語で言えばインナーチャイルド)は克服できた、
それは街中で見る子供と親の様子を見ることで、ああ自分もああやって受け入れられてれば愛情にも飢えないし、
人を怖いと思う必要もないのだと思えたから。・・としかし青春期のトラウマはずっと克服できていなかった。
どういう学生時代が理想なのかずっと掴めていなかった。それを30後半にして掴んだのだ。
それを掴むと、もう「世の中を変革するために何かをしなくてはいけない」とか
「みんなが右を向いてるとき自分は左を向かなくてはいけない」「自分は何か人より頭1つ出てなくてはいけない」
どれだけ世のため人のためと思っても結局承認欲求だったのだ。
この間寝る前に、
ふと考えて行き着いた答えが、
だった。
原人AとBがたまたまバイブスが合って共に行動するようになり、狩りで捕った肉や魚を一緒に食べる時、問題が発生する。
Aは植物の葉で包んで蒸し焼きにするのが好き。
Bは直火で焼くのが好き。
しかしお互いに言語を持っていないので、ウホウホ主張するだけで中々意思疎通が取れない。
この段階でどちらかがキレて「ウホウ!!」って相手をぶっ殺すことがきっと何万回もあったと思う。
「相手は何かを主張している」
とBのことを考えて、最初は言葉ではなく木の枝とかで地面に何を描いて意思疎通をとろうとしたのでは?と個人的に考えた。
そうやってAはBの主張をどんどん汲み取って、簡単な記号を作り出し、それが発展してようやく言葉になったのだろうと!
とここまで考えて実際はどうなんだろうとウィキペディア(これから本借りて調べてみるからね)を見たら!!驚愕!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
と、つまり徐々に進化したと。つまり自分が考えたウホウ理論はこれに分類される。
ちなみに、
もう一つの異なる理論は、言語が概して一般的に符号化された生来の能力であると大抵みなしている前二者と違い、言語を主に文化的な、つまり、社会的な交流を通じて習得される体系だとみなす
とにかく、意外にも言語がどう進化したかが分かっていなく驚いたし、不連続性理論のぶっ飛びっぷりといったら。
ノーム・チョムスキーは不連続性理論の卓越した唱道者だが、この問題に関して彼は同僚たちの中で孤立している。
ほうほう。
?!
続いて哲学的主張が手短に行われた。
まず、進化について知られている者から:一個体における偶発的な遺伝的変化によって種のいかなる生物学的変化も起こり、
第二に、言語理論の計算機的観点から:求められる唯一の能力は心の再帰的データ構造(いわゆる離散的無限の性質、
ヒトの心に離散的無限という性質を付与するこの遺伝的変化は(Nを定数として)
Nまで数え上げることができるなら無限に数え上げることができる(つまり、Nまで構成できるならN+1も構成できる)ことになる、
とチョムスキーは主張している。
そしてこのウィキのページ長ぇぇぇぇええ!!
でも気になるよね。
ジェスチャー理論では、簡素なコミュニケーションに使われたジェスチャーからヒトの言語が発展したとされる。
↓
ジェスチャー理論の重要な問題は、なぜ音声言語への移行が起こったのかである。さまざまな説明が提案された:
ヒトの祖先はどんどん多くの道具を使うようになっていった。
それらの道具に手が占拠されたのでもはやジェスチャーを行う余裕がなくなった[98]。
手でジェスチャーを行うには話し手と聞き手が互いに見合うことが要求される。
例えば夜や、葉によって視界が遮られているときなど、多くの状況では視覚的なコンタクトを取らずにコミュニケーションを行う必要がある。
時間がある時に本を読んで調べてみるかなー。
http://anond.hatelabo.jp/20161204095016
驚いた。全く真逆の感想だ。アメリカといっても、サンフランシスコのイケイケスタートアップからウォール街のクオンツからシカゴのコンサルまで、全く違うだろうけど、5年以上東海岸の米系企業に籍をおき、向こうの地でもそれなりに働いてきた自分からすると全く同意できなかった。あくまで個人的な感想であるけど、いくつか反論してみたい。
俺が米系企業の日本支社に就職したとき、最初に「会議で発言しないのは存在しないのと同じだ」と言われた。少なくとも俺の5年以上の経験で、会議に出て黙ったままただメモを取っているアメリカ人は見たことがない。
誰かが発言しない会議があると「君は何も喋ってないけど、この会議はそもそも必要なのか?」と言われる。真顔で。
これは、日本とアメリカのコミュニケーションの違いも大きい。例えば、日本人が「お世話になっております。表題の件ですが…」と書いているうちに、アメリカ人は「ok」の二文字だけで返信する。件名が「ok / EOM」で本文なし、なんてメールも多い。
必然的に報告だけの会議というのは少なくなるし、会議というのは発言をする場であるということが意識として徹底されている。
本国から来たマネージャーは、日本人が会議に出席していながら全く発言しないことに驚く。日本人は、会議という場が意見をぶつけ合う場にも関わらず異常に萎縮しているように見える。間違ったことを発言したら怒られるのではないか、と。俺自身はどんな馬鹿な質問をしても怒られた記憶はないが、発言しなかったらマネージャーに呼び出されてアドバイスされたことがある。
元増田はアメリカの大学のディベートを見たことがあるのだろうか?ディベートというのは、(悪い言い方をすれば)いかに黙らずに早口で屁理屈を言い続けるかを競うスポーツだ。イエールでもハーバードでもエリートが日々「どんな論点をどんな立場でも」ディベートに勝てるかを検査し続けている。(チョムスキーは、深い思索のないディベートがリーマン・ショックを引き起こしたと言っていた)アイビーリーグ卒業生が多い会社はそういうディベートの文化が根付いていて、会議のスピードが異常に早い。
アメリカ人はちゃんと主張する人を好む。給料上げてください」って言うと結構上がる。言わないと上がらない。大抵の企業では「1/1」という、マネージャーと一対一で話してアピールする場が設けられていて、そこの場でどれだけ自分が頑張ったかを語らされる。
それは、年功序列が薄いことと裏表だ。アピールできるやつはずんずん登っていくし、うだつが上がらなければそのままか、クビになる。だから、ボスにアピールすることはむちゃくちゃ重要なポイントだと考えられてる。
日本人のように「頑張っていたらいつか認められる」なんていうことは考えないし、キャリアというのは自分でアピールして掴み取るものだという意識が徹底している。
これはもう匿名ブログの宿命上、想像でしかかけないのだけど、元増田はあくまで「日本人」として接してもらっていたのではないかと感じた。それも日本人が多い多国籍企業の。
アメリカ人(特にサンフランシスコとかシアトルあたりの)は英語できないやつには慣れているので優しいし、日本人が入るような会社なら、シャイなのも知っているから話も振ってくれる。カリフォルニアなんか白人が4割しかいない。インド人の聞きづらい英語に四苦八苦し、イタリア人のコーヒーブレイクには付き合う。多国籍企業とはそういうものだ、と割り切っている。
そして、文化が違うこと、ネイティブじゃない言語で話す人との仕事の仕方をきちんとわかっている。だから、口ごもる人にはちゃんと時間をくれるし、わかりやすい英語を使おうと頭を捻ってくれる。それはポリティカル・コレクトネスに近い。(日本人だって日本語が下手な外国人がいたらじっと聞かないか?)
日本人が考えずに喋っているとは思わない。むしろもっと怯えずに発言すればいいと思う。どだい、会議というのは話すためにある。ただ単にボスの報告を聞くだけならメールでいい。わかっていないことがあれば空気を読まずに質問すればいいし、気になったことがあれば深く考え込まずに発言すれば良いのだ。
いささか乱暴な言い方ではあるけど、日本人はもっと適当でもいいからどんどん発言するべきだ、と言うのが個人的な結論である。発言することが時間の無駄になるようなメンバーが会議に居る事自体がおかしいのだ。
素晴らしく有能で深い思考を持っている日本人が、発言しないために低い評価に甘んじているのをよく見てきた。とてももったいないと思う。少なくとも、米系企業で働こうとしている人は、とにかく何でも良いから発言する癖をつけたほうが良い。わからないことがあれば聞く、考えていることがあったら意見を言う、適当でも良いから改善ポイントを言う。発言量を増やすだけでキャリアが変わる。
一応20世紀の哲学者だけど、最後の本である『哲学探究』を書いたのが、確かギリ第二次大戦の終わり頃だったと思うから、最近というほどでもない。「初歩的な勘違い」と言うけどさ、20世紀の初めごろなんて、それこそ「科学万能」の期待がまだあって、ヴィトゲンシュタインさんの分野である論理学にしても、「論理学が完全に言語の曖昧さを解消し、哲学の問題を解決する」という期待感だって、まあ、あったわけ。
というか、むしろ、それからたった半世紀で「言葉には定められた『意味』がある、というのは幻想だ」ということが常識として定着しちゃったということ自体が、すごいことなんだよ。
それに、前期の哲学だって、全く無効というわけではないんだよ。ごく日常的な場面とか、あらかじめルールが定まった言語の世界…たとえば、コンピューターによる日常言語の分析みたいな分野で、大きな力を発揮してる「生成文法」の考え方(N.チョムスキーさんなんかの)は、「論理哲学論考」がその出発点になったと言われてる。ネットの翻訳サイトとか、翻訳アプリとか、意外なところで前期の哲学の子や孫たちは、今でも活躍してるんだよ。
ノンバーバルコミュは重要だが統御が難しく、もともと似通った人間どうしがそれなりに仲良くなる程度であればさほど苦労は無いが、
まったく異なる人間どうしが信頼関係を結んだり、利害関係のある他者と交渉したり、恋人ときわめて親しくなったりしようとすると多大な困難がともなう。
なぜなら、これらはマニュアル化されたやり方が通用しないイレギュラーな状況だからであり、そうした状況では無意識のノンバーバルなメッセージを
自覚して臨機応変にコントロールするというとてつもない離れ業が必要になるのである。ドラクエ3にアカイライというモンスターがいたが日本語に訳すと真っ赤なウソである。
しかしよく考えてみてほしいのは、ネットではこうした苦労があまり伴わない。ノンバーバルなメッセージが伝わらないからである。
それはそうだがやっぱりネットだと伝わりづらいと思う人が大半だろう?たしかにネットではリアルとは勝手が違うので最初はとまどうかもしれないが、慣れればどうってことはないんだよな。
では何故多くの人が伝わりづらいと感じるかというと、一つにはノンバーバルコミュに依存しているから。もう一つには、バーバルだけど無意識なメッセージを伝達することで誤解を生んだりよからぬ本音を伝達したりしてしまっているから。
前者は解決がむずかしい。ノンバーバルに頼りすぎてノンバーバル無しにはうまく伝えられない人というのは総じてロジックが苦手である。周知のとおり、ノンバーバルは文化の差異が大きい。
チョムスキーはジェネラルグラマーを提唱したがノンバーバルにはジェネラルグラマーが存在しない。むろん、不機嫌なときに顔をしかめたりするといった生理的な共通性はあるが。
海外旅行ですぐ現地人と仲良くなれるようなリア充の友人がいるが、彼は生理レベルでうまくやっている。しかしだ、異質な人間と「深い」やりとりする場合はどうだろう?
深いやりとりには冒頭に述べたイレギュラーな状況が絡んでくる。そうした場合には、どうしてもロジックが欠かせない。でもさ、ロジック苦手な人って多いじゃん日本人。
ロジック苦手なこと自体はさほど大問題ではないが、ロジックを使わず「言わなくても分かるだろう」式コミュに依存しすぎてるのが問題なんだ。幼少からの長年の習慣ってなかなか抜けないよ。
そこで二つ目のアプローチ。「バーバルだけど無意識なメッセージを伝達することで誤解を生んでしまっている」。これを正す。実はこっちのほうが簡単なんだ。
バーバルなコミュニケーションは文字で視認することもできるし、非常にスカスカの内容なんだよね。dogなんてたったの3バイト。3バイトで犬の何が分かる!それが分かるんだよね。共通理解があるから。知識と経験。
視認できてスカスカだから修正は簡単。でもどこを修正すればいい?そこなんだよな最後の壁は。多くの人は自分のバーバルコミュのどこに問題があるか気付いていない。
たとえ気づいたとしても、それは特定の状況に限定される特殊な問題なんだ。だから、修正してそれでおしまいって話でもない。
たとえば、敬語を使うのが適切かどうか、どんな敬語を使うべきかは状況に依存するので、敬語を習得してそれでおしまいって話ではない。非常にデリケートでシビアな問題なんだ。
賢い大人はこの問題をどう解決してるか?なんと誤魔化しているのだ。自分にはどこかおかしな所があると気づいている人もいるが具体的にどこがどうおかしいか分からないし、
それを直すこともできないから、全部丸ごとオブラートに包んで、人々に受け入れられやすい形でパッケージ化してるんだぞ。もちろん、彼らはこれをほぼ無意識にやっている。
パッケージ化以外には、囮を作りダミーを叩かせている人もいる。自虐ネタとは一般的には自分の醜い部分を笑いに変える技術と考えられているが、そうではなくて、
正確に言えば、自分の醜い部分は「巧妙に押し隠して」、仮に作成した欠点を笑いに変えることで醜い部分自体への批判を免れる技術なのである。
たとえば、太っている自分をネタにする人は自分の肥満体を受容しているわけでは決してなく、一見自分の肥満をネタにしているように見せかけて、それとは微妙に違う「肥満キャラ」を仮設して受容させたり叩かせたりしているわけである。
ほかには、エクスキューズとか予防線を準備しておく手もある。何にしてもすべて同じで、ただ誤魔化しているだけである。決して問題そのものは解決していない。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
大学院試験の勉強をしてるときに、語学で英語を教えてもらった先生に「英語はどう勉強したらいいですか?」
って軽く尋ねたことがあるんだ。
その先生は辞書学・文法学の先生でチョムスキーの本とか出版してる。
おれは他学部で言語学専攻にすすもうとしてたわけじゃない。
そしたら「A3の紙に英文を書き写して、辞書をひいてすべての単語に文法的な説明を加えていきなさい」
って言われた。
結局、紙に書き写しはしなかったけど、全ての単語をマーカーで塗り分けながら文法的に説明する作業を
三日間ずっとやってたら急に英語が読めるようになった。
「英語は辞書を引かずにわからなくてもどんどん読んでいきましょう」って書かれてたんだ。
「A3の紙に・・・」とか「辞書をひきながら・・・」とか全然書かれてない。
どっちやねんw
営業トークと本音は違うんだろうか。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
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