はてなキーワード: 公立校とは
ココ読んでて思ったのだが。605とかね。
まぁ高校は普通に進学校だったし基本的に自由、生徒もまぁ常識的な行動を取ってる感じで。
それで、今になって小中学校のような環境に戻って生活しろ!と言われたら
小学校とかどーなん。
まぁ公立校だから生徒(児童)は本当にピンきりだったのは勿論だけど
それ以上に、2学年に1人くらいは有り得ない教師いるよな?
それが何とも苦しいだろうな、って。
会社なら、まだ「やるべき事」が明確かつ評価・判断基準も合理性が強いから
やっていけるとして、
小学校は
「強引な強権者」に「大声」で「思想・倫理を押し付け」られながら「社会・道徳教育」を施されていく場だ、というのが
非常に耐え難い苦痛になりそうだな?と、ふと思った。
大学(※別に自分のいた所がFランとかではないが)でさえ、「何だか退屈な授業に縛られる苦痛」を感じるというのに。
なんだろうかね。
辛酸を舐めるっつーか。
自分は教師運も悪くなかった(小学校高学年の担任は嫌いだったが)、
んでどっちかっつーと真面目キャラでいたってのもあって
逆に言えば1ミリ運が悪かったら、そういった不遇に見舞われてたかも知れないんだしな。
とにかく、小学校生活怖い。
今公立校では高齢者部分休業とか言って定年前の先生が体の負担などで
昔ならやめてただろうに、ぶらさがってる。
そして、若い人が穴埋めで非正規で入れられてる。
同じ時間、というよりそれ以上働いていて若い人は前者より2分の1、下手したら3分の1。
自治体によるけど、どれだけふざけた教員でも簡単に首切れないし
教育にまわせる金のなさから常に一定で1割以上の非正規講師がいる。
そうやって十数年、正採用されないのに搾取されながら非正規が教育現場で働いてる人も少なからずいる事実。
受からないのに働かせる。働かせてるのに受かってない。
企業とおんなじと思う。
大学の出身講座の教授群が全部他学科出身者に変わって3年。名前と場所は同じだが、中身は別物になってしまった。とはいえ、大学自体のカラーは未だに同じようなイメージで残っている。伝統風物詩も残ってる。
もっと凄いのは高校で、親父も同じ高校なのだが俺の時と校風は変わってないらしい。いま、従兄弟が同じ高校に通っているが、やはり同じ校風だそうだ。戦前からある古い高校とはいえ、公立校である以上は校長だって定期的に変わるものだし、先生だって異動するだろう。そもそも、その校風自体教師から見れば好ましいものじゃない。こういうものはどうやって受け継がれているのだろう?地域性とかも関係するのだろうか?
さて、最近企業が海外の学生をとるという。別にそれに反対はしないが、いわゆる企業カラーというのは、そういった場合にも受け継がれるのだろうか?海外における日本企業の優位性は(特に工業製品のおいて)、日本人のやたら几帳面とか不必要にマニアックという特徴から生み出される実績とイメージに依るものが多かったのではないか?
日本人が優れているという気はさらさら無いが、そういう特徴が有利に働いていたのは事実ではないだろう。非日本人が会社の中で主体となったときに、そのイメージは維持できるのか?もしくはそんなものがなくても互角に戦える、もしくは戦う覚悟がある企業がどれだけあるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20101009194100
公式を覚えるが、定義は覚えていない。
定義を覚えていても、公式は導き出せない。
例えば、第二余弦定理の a^2=b^2+c^2-2bc*CosA と、角を求める CosA= (b^2+c^2-a^2)/2bc を別に覚える。全く別な概念だと思ってる。そして一方から一方を導くことができない。こういうレベル。
もっとひどいと教科書の問題一つ一つを覚えようとする。だから二次方程式の係数が違うだけで「教科書に載ってない」と騒ぐ。
お受験私立高校からストレートで高学歴になった人はこういう底辺の現状に立ち会ったことがない。知らないまま死んでいくのではないだろうか。
ついでに言えば、彼らにはもちろん職がない。これは自業自得だろうか。自己責任だろうか。
ちなみにこれは僕の母校の話ではない。僕の母校と部活動で交流のある、公立校の話である。
思うに、高校レベルに達してはいない。しかし、高校には通っている。もちろん、彼らが中卒だったとしても、やはり人生は厳しいだろう。
言葉遣いだとか、ものの見方とか、そういうのは学校であっても伝染するからね。
伝染したスタイルは、他校の子供との軋轢を生み出したり、進路や勉強に対する消極的な態度をもたらしたりして、
そうやって人間そのものが変えられてしまうことによって、半永久的に不健全な精神構造のタネが植え付けられてしまう。
早期にタネを抹消または回収できれば良いのだが、周りの大人が気付いたときにはもう手遅れということが非常に多い。
同様の理由で大人もブラックな仕事をしないほうが良いのだけど、子供に比べれば判断能力があるため、根底から価値体系を覆されることは少ないだろう。
また、大人であれば、社会に出たら多かれ少なかれ有害な文化、有害な思想に接するのであり、そうしたことへの免疫をつける責務があると
言っても過言ではない。ブラックな仕事がその一助になるということは十分ありうることだ。
といっても、なんだかんだ言って、ブラックな仕事の悪影響は絶大であるから、出来ることならブラックな仕事で免疫をつけるのではなく、何か別の精神力と思考力を鍛錬してくれること、
例えば資格取得とか勉強会とか、そういうもので免疫をつけるのが良いだろう。
やはり、子供も大人も害悪なものには関わらないほうが良いというのが最終的な結論である。
心には明るいもの、楽しいもの、快いもの、美しいものだけを入れたい。
そういうことが綺麗事扱いしかされないこんな世の中じゃ。
http://anond.hatelabo.jp/20100303214523
↑の続き、つか蛇足で個人的な話
自分は現状、日の丸と君が代が国歌・国旗なんだから公立校でやるのは当たり前だと思う。
特に教師は分かって公立校に志願した訳だからちゃんとするべき。
ただあまりやるべき論が強いと、可哀想な子が出てくるような気がしている。
というのも妹の友達が卒業式に参加出来なくて本人も周囲の友人たちも残念がっていたのを目の当たりにしたので。そこの親がどっかの新興宗教の信者らしく、その関係で日の丸掲揚の時は立てません、君が代も歌いませんと言ったら学校側と揉めに揉め、最終的に売り言葉に買い言葉で欠席になったと。ちなみにそいつは経済的理由でやむなく公立に進んだそうなので、余計不憫だと感じた(ちなみに確かキリスト教系の新興宗教だったはず。特に勧誘される事もなく、性格的にもまともで、普通に友人としてつきあう分にはまったく問題なしだったとの事)。だから式典で使用するのは当然としても、それへの(生徒の)対応は色々あっても許してやってくれないかなーというのが自分の意見。
そろそろまた卒業式がやってくるな。またぞろ国旗国歌問題で皆さん盛り上がる季節です。
自分がこの手の問題で荒れてるのを見て不思議なのは、国旗・国歌反対=反日と即認定されがちな事
ざっと見た感じ、公立学校式典での日の丸・君が代の反対してる人の主張を見ると、反対してるポイントが3つに別れてる
2:日の丸・君が代が国旗・国家にふさわしくないから反対(違う国旗・国歌になればおk)
で、こう分けると、式典での日の丸・君が代反対ってのはイコール反日なのか?という疑問がわいた。
これは日本じゃなくて、国家とか政府というシステム自体に反対してる。
面倒だからそれ以上踏み込まない。
3の主張の根拠にも色々あるけど、ここで主に問題にされてるのは日の丸・君が代に宗教性があるかという事だと思う。
宗教性があると判断した場合、公立校で強制的に使用するのは問題があると主張する人が出るだろうし、宗教性がないと判断すれば無問題だろう。
日の丸・君が代に関しては宗教じゃなくて歴史・政治的な観点で反対してる人もいるので、あえて分けた。
こうやって考えると、
必ずしも反「日」だから日の丸・君が代に反対してる訳ではない、と見えるのだが。
勿論、それぞれの中にも他の理由もあるがいちおう代表的なものだけ。
日の丸・君が代こそ日本である!それに反対する奴は日本人じゃない!というタイプの人たちにとっては2と3(の一部)の主張は反日にあたるんだろうけど。
まあ議論は色々あって当然だが、それぞれ違う理由から反対してる人たちをまとめて反日認定して反論した気になってる一部の人たちはちょっと違うなと感じる。
俺俺と東大主義的な香りを取り除けば、そこまで悪くないと思う。
私も私学に援助金を出すのは反対。あれはある程度親にお金のゆとりがある人がいく場所だと思ってる(だから援助は無用)
子供の立場からしても、私立もあるから大丈夫~と気を緩めるより、底辺公立校or優秀公立校って二択のほうが勉強がんばるんじゃなかろうか。
個人的には高校卒業後に一年間ほど社会経験を積んでから、大学へ再度入学みたいな流れが出来たらいいなーと思っている。
高校3年生で受験→一年間は社会へ出る→昨年受かっていた大学へ入学みたいな。実現性は低いとは思うけど、少しの期間でも毎日働いてみれば夏休みのありがたさや、4年後今の勉強をどう仕事につなげるか…みたいなことも少しは考えられるんじゃないかと思うんだけど。
それにしても学費って高いよね。
親に感謝。
でもその意味が本当に理解できたのは、働き始めて何年も過ぎてからだったよ。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
「これだからゆとりは」って言い回しを見かけますけれども、「これだからゆとり(世代/教育をされてきた人間)は(頭悪い/しょうもない)」くらいの意だと思うんですけど、この言い回しをしてる方はおいくつでいらっしゃるのよ?
wikipediaによると、ゆとり第一世代っていうのは1987年度生まれらしいんですけど、彼ら彼女らが今いくつかというと、22歳、まあ飛び級も留年もしてなければ大学4年生な年齢なわけです。とうに成人済みだぜ? 立派に大人だぜ?
「ゆとり」を相手へのネガティブな言葉として使う以上、その人は「ゆとり」じゃないわけでしょう?少なくとも22歳な彼らより年上なわけでしょう?その歳でそんな頭悪い罵倒とか、ひく。
さらに付け加えると、総合学習とか公立校週休二日制とかもゆとり教育の一環なわけですけれど、これを体験していない世代ってどこからかなっていうと完全週休二日制は2002年度からなんでまあ1984年度生まれまでにしておくと、彼らは今年で25歳ですね。
「これだからゆとりは」を言っちゃえる人っていくつよ。少なくとも20代後半より上の人間が口にしてることになるんだけど、恥ずかしくないのかなあ。
ちなみに自分は1983年生まれなのでこの定義だとゆとりに入らないけど、月に二回は土曜日が休みっていうのを経験してるし、年下の子と話してて、そりゃ個人で「あちゃー」な子はいるけどその世代まとめて頭悪いとかちっとも思わない。比較対象の私の頭が悪いって可能性はもちろんあるけどね。
ノリで発される流行言葉のひとつってことは分かるけど、やっぱり「これだからゆとりは」を言う人の方が恥ずかしい人間に思えるなあ。
車の行き来がある通りをペットを連れて渡ろうと歩道のふちで機会を窺っていたら、その歩道を走っていた子乗せママチャリのおばさんが
「邪魔なんだけど!」
ガンを飛ばしながら言い捨てて行った。
どれだけ急いでいたのかわからないけど、私は急に出てきたわけでなければ視界の良い場所で、しかも広い歩道だったから、誰にだって回避することが出来る場所だった。
そのおばさんは幼稚園か小学校低学年ぐらいの子供を後ろに乗せていたから、操縦の勘が利きにくい、できれば真っ直ぐ運転し続けたかったという気持ちがあったかもしれないけれど、それなら悪態をつくのではなく、「すみません、通してもらえませんか」という言い方を選べないものなのだろうか。その場合でも、1mぐらい左に回ればいいだけなのに、とは思ってしまうかもしれないけれど、気分が悪くなることはない。
赤の他人に、しかも自分の子供がすぐそばで見ているところでそんな態度を取る大人に驚いて、ママチャリの後姿を見送ったら、近所の小学校のPTAテープのようなものが貼ってあった。
全員がそうでないことは分かっているので偏見染みているとは思うけれど、公立の学校には本当に色々な人がいるものだと思わされることが最近多い。
自分は幼稚園から高校まで一つの学園で育ってきて、その中でも色々なタイプの人がいたけれども、礼儀がなっていない思わされるタイプの保護者を目にしたことがなかった。学習院みたいなハイソサエティの集まる学園などではなかったから、上品マダムばかりなんてことはないけれど、道端で知らない人にあんな口の利き方をする人がいるとは思えない。あと、ファッションもおしゃれな人から没個性な人までいたと思うけれど、小汚い印象を与える人や下品な雰囲気の人はいなかった。
大学に入ってからは公立の学校を経験している友達が何人かできたけれど、かれら自身下品な印象を持ったことはないし、ご家族にもそういうものを感じたことはなかったので、しばらくは公立校の可能性の広さについてあまり感じたことがなかった。
でも、最近ペットを飼いはじめて近所を歩くようになると、公立校で今を生きている人たちを目にする機会ができて、冒頭のおばさんじゃないけれど、今までの自分の感覚では信じられないような態度の大人にも気づくようになった。
子どもも含めて、ペット連れの私に話しかけてくる人たちはみんな普通の人たちで、良い意味で「地域」というものを意識させてくれるし、今回のことは初めての経験だった。けれども、時々目にする子連れグループなんかには、子どもの躾、ケアが不十分に見える保護者がいたりする。
これはあくまで育った環境の違いによる常識の違いなんだろうけれど、これを実感して初めて、私立の、それも特に一貫校とやらに子どもを入れたがる保護者の気持ちがわかった気がした。
私自身は公立の方が色々な人がいて面白そうと思っていたし、子どもの視点からいったら今でもそう思う。一貫校よりも社会勉強には良さそう。
でも自分が将来子どもを持つかもしれないことを考えたら、自分が納得できないタイプの育て方をする大人を保護者仲間に持ちたいか、そして教えの違う彼らに育てられた子どもと自分の子どもが親しくなり、自分が望まない影響を受けるようになってもよいのかと考えたら、ある程度感覚の似た保護者が集まりそうなところに通わせた方が良いと思うようになった。
地域やその年によって校風は変わるというから、満足できるときもあるだろうけれども、できない時を考えるとそれが怖い。高校まで公立育ちの先輩が通っていた中学校は、なぜかその時だけ風紀が悪かったようで、同じ学年には少年院に行った子もいれば、犯罪歴は作らずとも危ない生徒が何人かいたらしい。その後は地域内でも成績の良い学校(印象の良い学校)になったりしたらしいけれど、危ない時に在籍してしまっていたら怖い。
子どもを私立に通わせるだけのお金を稼ぐのは大変そうだ。しかもこの不況。経済が好転するまであとどれぐらいかかるんだろう?私が就職するまでには変わらないだろうから、自分に満足できる親になるのも難しいかもしれない。でも頑張りたいと思った。
進学校の話が出たから、
あんま関連性がないけど、
進学校なのに、文理でクラス分けしないし、きっちり男女同数だし、
と思うような学校だ。
まあ、中にいた人にはどこかバレバレだけど、
多少脚色して書いてみるよ。
まず用語解説から
| スーパー内部 | 小学校から高校にあがって来た連中のこと。基本的に金持ち。 |
|---|---|
| 内部 | 広義には小・中校から高校にあがって来た連中のこと。狭義には中学入学組。中学外部とも言う |
| 外部 | 高校入学組。平均偏差値がいちばん高い。 |
恋愛に関して言えば基本的にスーパー内部はビバリーヒルズ高校白書状態。
一応、中学から付き合って、そのまま結婚という一途なのもある。
スーパー内部>>(越えられない壁)>>内部>>(やや大きな壁)>>外部
って感じ。
本当に凄いやつは、スーパー内部にいたりする。
「○○くんが医者になったとき、
そばに居られる様に」
外部は平均的にお勉強ができるけど、よくもわるくも大人しい秀才が多い。
あんまり恋愛しない。
そういう連中は、雅俗の両方OKなところがあって
何で今まで公立校にいたんだろうってのが多い。
で、面白いのが、ビバリーヒルズ高校白書が、
大人になったら、ビバリーヒルズ青春白書になるところ。
やっぱり内部生は似たような空気を纏った人としか付き合わないのかね、
とよく思うよ。
(「あんな狭いコミュニティーで気持ち悪くないんだろうか」への返信)
公立校だったら、学校は、生徒の非行化を防ぐためにやってるつもり。
実際に部活動をさせることで、生徒の非行化を防げてるのかどうかは、知らない。
もしそういう効果があったとして、部活動を強制させることが、いいことなのかどうかも、知らない。
でも、実際に生徒を学校に置いておくことで、
生徒が外で何か問題を起こしたときに(公立中学ではよく起きる)担任教師が駆けつける、なんてことを少なくできる。
現場的には、これが頻繁にあると全く仕事にならないから、現場からすると、ある程度合理的。
教師の都合というよりは、教師が面倒見なきゃいけない範囲が広いから、その皺寄せが善良な生徒に来ちゃうって感じだと思う。
俯瞰的な視点で言わせてもらうと、
挫折を知っている人と挫折を知らない人がいるとするなら、挫折を知っていることがプラスにはたらくケースも長い人生の中では出てくる。
だから、今は打ちのめされている感覚で心がいっぱいなのだろうけど、まずその心の持ち様を何とかしていかないと自分に自分で落伍者の印鑑を押し続けることになっちゃうと思う。
次。例えばだけど、半年間運動してなかった人がいきなり1時間マラソンしたとしたらどうなると思う?30分でバテるとするよね。でもそれはある意味運動生理学的に当然な肉体反応なのかも知れないよ。ただそれでへこまずに2ヶ月トレーニングしたら(ここでの時間の長さはかなり適当だけど)1時間バテずに走れるようになるとする。これ仮定ね。
でもこの仮定で話を進めると、半年ぶりの勉強が思うように行かないのって落ち込む事じゃないかも知れない。当然の結果、個々人の能力差とは別に、だいたい普通そうなるわけで、ならない方が異常なのかも知れない。じゃあ落ち込む事じゃないのかも知れない。落ち込む事じゃないのに落ち込んでいるとしたら、なぜ落ち込んでしまったんだろう、落ち込まないためにはどうすれば良いんだろうと考えざるを得なくなってくると思うな。今はそういう気分にはなれないのかも知れないけど。
あと君の考えと私の考えの違う点を一つ書きます。友だちは自分を弱い人間と自覚している人ほどつくるべきです。(でも自分と合わない人を友だちにしちゃダメだよ)傷のなめ合いをしていてはダメかも知れませんが、強い人間はそれこそ自分だけで生きていくこともできるでしょう。でも自分に能力がない人間が社会で生きていくときに友だちはものすごい武器になります。自分の精神を安定させる意味で。だから、「友達が居てもいい身分じゃない」のは君のような普通の公立校出の人ではなくて、親のスネで一生安泰のお坊ちゃまの様な人の方だと思う。
あとおまけ的なことというか、反則というか、そんな感じのこと。
君にとって受験は、「たかが受験、されど受験」だとする。(我ながら超身勝手な推測だな)これを「されど受験、だが、たかが受験」と順番を変えることのススメ。
今は差し迫っているから中々そうは思えないのは分かる。受験のシステムそのものがおかしいというのも負け犬の遠吠えになりやすいのも分かる。分かるけど、「たかが受験」は別の面からは正しい指摘でもあるということ。(例えば、私は大卒で、私の従兄は専門卒だけど、私の親には、従兄の方が人生幸せに生きられていると言われたりもする。幸せの形はそんなに単純なものじゃないという意味ね。)かつそう考える方が前向きになれるのだとしたら、そう考えた方が良いと思う。
えらそうに書いたけど、それは私も君ぐらいの年には似たようなことで悩んだし、精神的にも不安定になった。たぶん君より不真面目だったけどw。できないことを君ほど自分のせいにしなかった。環境のせいにした。
一般化は出来ないけど、高校出て数年くらいの年齢だったら、悩みが色々あるのは普通だと思うな。決していけない事じゃないし、自分を否定する必要はないと思う。
最近勉強のできる子はそれが理由でいじめられるってネタの文章がたくさん書かれてるけど、私は小学校の時の知能テストでIQ175って出て進学塾では小5の時に飛び級して小6受験クラスで授業を受けてて学校のテストは全教科100点以外取ったことがないどこから見ても「勉強のできる子」だったけど、特にそれが理由で虐められることはなかった。
良家の子女ばかりいるような私学にいたわけじゃなくて、むしろ暴力団員の子供とか結構いるような公立校。確かに浮いてはいたと思うけど、虐められるというよりは「宇宙人」扱いされてただけで、学級委員長も児童会長もやった。
自分に「勉強ができる」ことが優れてることだって意識がそんななくて、単に自分とは違うロジックでものを見ているらしい他の人たちの思考経路が知りたくて対人関係は常にそういうスタンスで臨んでた。こちらも周りを宇宙人扱いして溢れる知的好奇心で相互理解を試みようとしていた感じ。
入試の成績1番で入った中高一貫の進学校では虐めの対象になったけど、別に成績が理由ではなかった。小学校の頃近所に住んでた同級生が男ばかりだったのでそのノリで同級生の男とジャンプネタとかで盛り上がってたら「男に色目を使っている」とされて同級女子からハブにされた。机の中をゴミだらけにされたこともあるし、椅子の上に画鋲を置かれたこともある。体育等のペアでやらなきゃいけない体操とかでいつも余って先生と組むことになるのには閉口したけどそれ以外は特に困ることもなかったので勝手にしろって感じで毅然と振る舞ってたら事情を知らない人たちからは「周りの女子が畏れて距離を置いている」と受け取っていたようだ。
そんなわけであまりあのエントリーはぴんとこない。受け取り方とか対処の仕方とかの問題ではないのかなと思わないでもない。「口が立つ女」を嫌う男から個人的に敵視されることはあるけどあくまで個人間の問題で他の性質による気が合う気が合わないと同じようなものだと思っている。でもあんなに共感エントリーがついてるってことは、私の周りの環境がずっと特殊だったのかなあ。
誰かしらがいくら「決め付けるな」「そうとも言えない」と斜に構えたとしても、世間で”そういう空気”になってしまってることをたんたんと羅列してみます。
何か間違っているところがあれば指摘してください。
※↑「この意見は間違ってる!」というような指摘ではなく、「世間は”そういう空気”ではない」というものを指摘して欲しいという意味です。
では、はじめます。
※これらの”空気”を前提にふるまえば、正常な方の人と思ってもらえます。
http://anond.hatelabo.jp/20081107120312