はてなキーワード: 観念とは
ラックスマン来航(大黒屋光太夫が同行)時に、幕府は慌てて直接蝦夷の国境警備を行おうとする。
さらに最上徳内・近藤重蔵らの調査により、北方警備の怠慢・アイヌ人虐待などの不祥事が明らかになり
松前藩は直轄領にされ、さらに翌年函館奉行の預りとなり、20年あまり藩を召し上げられることになった
※とはいっても、この間にアイヌ人は人口が2割以上減少するなど、それ以上に悲惨な境遇だった)
※今まで騒乱が起こったレザーノフ時も、ゴローニン事件(この時高田屋嘉兵衛がロシアに行く)も、どちらも幕府直轄時代の騒動。
その後返還がかなって34年経ち、去年ようやく松前城の新築が完成したばかりだったが
この松前城はいきなり時代遅れだったりしてどうしようもないので幕府が直接統治して国防拠点としようとする。
「樺太が日露雑居となり函館開港となれば待つ前には荷が重い」という理由で松前藩から土地没収)
(松前藩の言い分としては、幕府にしたって外国船上陸のさいにろくな対応ができていなかったし
そもそも松前藩が十分に対応出来なかったのは、対応の権限が松前藩にない上、情報すらよこさなかった幕府の怠慢が原因であるし、
今まで騒乱が起こったレザーノフ時も、ゴローニン事件(高田屋嘉兵衛)も、どちらも幕府直轄時代の騒動なのだが、そんな道理が通じる幕府ではない)
実際は、函館開港が大きな利権になること、その他蝦夷地に寄港する船舶からの租税徴収権などに目を付けられた形。
松前藩は領土返還、通行税回復を幕府に願い続けたがかなわず明治維新を迎える。
勤勉実直な父と、陽気な母の性格、さらにとびきりの好奇心を受け継ぐ?
(福沢諭吉の命名の所以は清国の法律書「上諭条例」から一文字とっている)
下士身分であったゆえ、身分の壁に悩む。諭吉も父を見て封建社会を憎むようになる。
父は諭吉が2歳になる前に病死。その後福沢一家は中津藩に戻るも福沢一家は言語・風習の違いから疎外されたりもする。
(父の死後も母が常に父の偉さを子供たちに話し続けたため、父の教えは強く受け継がれる)
幼い頃は、家事手伝いや内職をして過ごし、内職名人として有名に。
少年になってから親戚の中村家の養子に(跡継ぎが耐えないための保険にすぎず中村家に養ってもらったわけではない)
中津藩では儒学のみならず「鉄砲とそろばん」の教育にも力を入れていたため諭吉も儒学のみならず算術に大いに才能を発揮する。
子供の頃の諭吉の夢は「日本一のお金持ちになって好きなだけお金を使いたい」であった。
諭吉は西洋文明に出会う前からかなりの合理精神の持ち主であった。
14~15まで一切本を読んだことがなく、当時としては勉強を始めるのが非常に遅かったが
白石塾に入門した時身分制度の障害にぶちあたり、なにくそと死に物狂いで勉強。あっという間にトップに。
しかし能力で抜きん出ても認めぬ身分制度になおさら嫌気が刺していたところで、中津藩にも黒船来襲。
18の時に砲術訓練の名目で長崎行きを志願し、中津を離れ、長崎ではじめて蘭学に出会う。
クリミア戦争は兵站補給、爆薬、衛生学の3つで革命をもたらしたとされる。
ロシアはノーベルの父エマニエル=ノーベルにより機雷を発明したり戦力的には奮闘したが、
産業革命により鉄道輸送を実現したイギリス・フランスとくらべて長期戦において不利を取り敗れる。
アレクサンドル2世は、国家の経済を中世以来の農奴制に依存してきたため産業革命が遅れ
クリミア戦争の敗北を招いたことを大反省し、農奴解放例を打ち出す。
大改革の過渡期には様々な矛盾が一気に吹き出すもので、逆に一揆・反乱・独立運動が続々と起こり
それらの打開策のため皇帝は軍事力を強め、国外戦を起こすにいたり、大改革は、大混乱へと突入していく・・・。
(日本も時間の余裕さえあれば、こういうことを経験できただろうということもできるし
逆に時間の余裕がなかったために、ロシアのような悲惨な流血時間や長い内乱をある程度避けれたと考えるべきか)
現代の愛国心というのが観念的な薄っぺらいものであるのに対し、
間宮林蔵は、この時代の誰よりも日本全土を自分の目と足で実際に把握し抜いた。
さらにロシア船が日本沿岸を海賊のように荒らし回った時に、択捉島で直接砲火を浴びつつ応戦するという経験までした。
ここまでくると、日本という領土に敬意を示さず土足で日本に上がりこむ外国人に激しい怒りを燃やすようになった
(しかし、土地のありがたさを知らず軽んじる人たちにはそう感じなかったのかな?そこまで考えてたらきりないか)
#その他#
昔生きていた人たちが、この本の中では今も生きてる。そう感じられる。これはスゴイことですよ!(安彦良和)
子供の頃から「こういう漫画を誰か描いてくれないかなあ」と、本気でずっと思っていました。そうしたら、ズバリみなもと先生が描き始めて下さいました。「よし!」とばかりに読み始め、「こりゃなかなか終わらないだろうな嬉しいな読みでがあるなあ」と思っていたら、本当に終わらなくて、もうずっと読み続けられて嬉しいことこの上なしです。いつまでも描き続けてください。ちなみに、小学生の頃みなもと先生のキャラをソラで描けるのは、クラスで僕だけでした(京極夏彦)
クソ映画だとわかってて見たのにそれでも見てられないぐらいの凄さだった。
一応全部見なきゃいけないと思い録画して早送りしながらなんとか最後まで見た。
が、『ICHI』では演技が下手っていうレベルを超えているのでまるで演技する気がないように見える。
だいたい綾瀬演じる市は
極度に感情も表情も乏しく能動性の無い女、というつまんない人格に設定されていて
ほとんどのシーンでただ周囲の人の話を無表情無反応に聞いてるだけということになる。
こんな役を大根にやらせるので、本当に「ただ立ってるだけ」「座ってるだけ」をしていて、演技する気がさらさら無い。
(このただ座ってるだけの女にオッケーをだす監督も凄い。
静かな役なんかだけはやらすなと言いたい。
あまりの異様さに「こいつなんなの……!?」と違和感を覚えるのも最初だけで、
視聴者はすぐに市がどうでも良くなる。
他の登場人物も全くキャラが立ってないにもかかわらず。
眠くなるのとも違う新感覚。
悪役は中村獅童演じる「万鬼」という剣客が頭目の不良グループだが、
この万鬼は顔の火傷で仕官出来ないのを悩んでるだけのしょっぱい奴で
万鬼党は狂気と破壊衝動で暴れるだけの、バカが好んで描くタイプの悪役。
経済観念すら乏しくわざわざ住み心地悪そうな岩場に男だけで住んでおり
唯一の寄生先である宿場で無意味な殺戮を始めるようなアッパッパーだから
話の溜めもクソも何も無い。
悪い親分のところに市が上がりこんで行って
下手に出たりとぼけたり脅したりするような駆け引きも全く無い。
ほとんどショッカーレベルの悪役なので中学生以上だとシラフで見ていられない。
日曜朝の30分戦隊物でも『ICHI』よりはマシな脚本を書いている。マジで。
(一方、善良な民衆側の宿場の顔役は復帰直後の窪塚洋介がいつものあの抑揚で演じているが
全てが意味不明な『ICHI』ワールドの中では大変好感の持てる常識的なアンちゃんに仕上がっている。
この映画を見た人間はみんなちょっと窪塚洋介を好きになれる。)
・八州周りが宿場にやってくると街道の民衆が総出で土下座。大名か。
・八州様を宿場の顔役達が供応してるところに脈絡も無く万鬼党襲来。
よりにもよって八州様の目の前で住民の殺戮を始める。
「やや展開が無茶だけど万鬼党に抱きこまれてる八州だったかー」と思って見ていたら
血刀下げた万鬼党は震える八州の胸倉を掴み「見なかったことにしろよな!」と恐喝。
無頼の主人公が八州周りを殺しちゃうトンパチ展開も時代劇では稀にあるが、
田舎ヤクザが八州周りを単純に脅しつけて帰す展開は何気に史上初なんじゃないだろうか。
脚本書いてる奴〇ね。
綾瀬演じる市はただ杖持って伏し目がちにしてるだけ。
盲人の剣客、という役作りが物凄く大雑把に、
2「その上で自分なりの市の癖を作る」
だとして、
1すらやる気が全く無い。
歩き方も話掛けられたときの反応も何もかもが健常者。
一応目をはっきり相手に向けないことだけはしているが
内向的な市の性格なので多分目が見えても同じような動作になる。
平時でも修羅場でも、耳や全身で周りを窺う演技がまったく無い。
市の挙動は常に、ただ物事への反応が鈍い重度の鬱病さんかなんかにしか見えない。
というか、これさあ、製作陣は盲人を描く気なんか無かったんじゃないか?
なんか意図があっての事か、単にめんどくさかったのか、なんだかわからないが。
(少なくとも市の盲目設定を取り除いても『ICHI』には全く支障が起きない。
また、斬り合いだったら斬り合いで、
息を詰めたり飲みこんだりするような演技も綾瀬は全くやらない。実力伯仲の命懸けの斬り合いでも。
クールビューティとかそういう問題ではなく、もはや製作陣は脳や神経に障害がある。
こいつらが持ってる感情演出手法は目の端からポロリと流れるふざけた一粒涙だけ。
ダイジェストでレイプされる市の目の端から同じ涙がポロリと流れるのはもう完全にギャグ)
酷すぎる。
下手とかじゃなくてもはや意味不明。
監督は剣劇なんてもんに全く興味が無い上に勉強する気すら無いのが雄弁に伝わってくる。
動きの流れにケレンミ・リアリティどっちも求めない凄い奴なのはわかっていたが
『ICHI』ではそういう酷さが悪化している。
その綾瀬の棒みたいな動きばっかりクローズアップする撮り方するので
もうどういう攻防なのか誰にもわからない動きをする。
手傷を負うシーンは必ず腕や腿がアップになって服が破れるカットで説明し
どういう流れでそこを斬られたかは多分考えるつもりすらない。
時代劇を見てれば殺陣の下手糞な役者なんかはいくらでも出てくるし
(スローモーションでバチャバチャと血を出すのだけはお気に入りみたいで、
市も蹴られて盛大に血を吹くがあれはどう見ても内臓破れてるレベルの量。
何も考えて無いからどうでもいいんだろうが。)
市が能動性皆無なので
「稽古中の事故で母親に怪我させてから真剣が抜けなくなった」という
万鬼の顔面コンプレックスに匹敵するぐらいしょーもないトラウマでグジグジ悩む男で
万鬼党との戦いに加勢しては刀と鞘を持って「抜けないいいい」とパントマイムをするのが持ち芸。
毎度渾身の力で刀を抜こうとするが
いや、「真剣が抜けない」ってそういうことじゃないだろ。
この演技指導した奴も素直に従う大沢たかおも、脳腐ってんのか。
一応筋を最後まで書くと
それを綾瀬はるかはお得意の何も演技をしてない「本当の無表情」で聞き流し、
でもなんか心が動いて戻ってきて
宿場は救われた!終わり。
だんだん浪人に惹かれていった(ような描写は乏しいので鑑賞者が補わないといけないけど)市の脳裏一杯に
フラッシュバック的に大沢たかおの笑顔が映し出されるとこが感動シーンの最高潮ですが
盲人の市がどうして浪人の顔を知ってんでしょうね。
そこは聞き覚えた声とかかつて握った手とかで演出しろよと感じますが
前述の通り市の盲人性を真面目に扱わない製作陣にはどうでもいいことだった。
根本的な間違いとして、
更に自閉的な性格をあててしまったらどうにも話が成り立たない。
なんだかんだ言いつつ相当な世話焼きで、
腰は低いけど欲も意地もあるし優しいしよく怒る。
これぐらい濃い人格が噴出してくるから目の見えない体と釣り合いが取れる。
主役の人格はやはりアクの濃い悪い奴になっている。)
中学生が初めて書いた小説の主人公みたいにおもしろみのなーい傷心由来の内向的な性格で
こんなもんを目の見えない体に入れたらそりゃ話が動かずつまらん事になるのは当たり前。
おわり。
家事の時間が多すぎなのは女性の意識の問題かも。 家事にクオリティ求めすぎ。
食事つくりすぎだし、食器洗いすぎ、あと専業主婦多すぎ(自然とキッチンにいる時間が長い層がいる)、あと効率も悪いらしい。
http://allabout.co.jp/gm/gc/373180/
P&Gは、家事労働と自由に使える時間とのバランスに関する意識と実態を調べるため、
日本の主婦1000人と、アメリカ、イギリス、スウェーデン、中国の主婦各300人の計2200人にインターネット調査を実施しました
(『家事と自分時間とのバランスに関する意識・実態調査』)。この結果によると主婦の家事時間は1日平均
日本……264分
スウェーデン……162分
アメリカ……144分
イギリス……132分
中国……114分
■1日に3回以上料理をすると答えた人の率
日本……55.5%
イギリス……14.7%
スウェーデン……7.7%
アメリカ……26.0%
■1日に3回以上食器洗いをす ると答えた人の率
日本……55.5%
イギリス……27.3%
スウェーデン……7.7%
アメリカ……8.3%
中国……26.0%
さらに「家事を効率的にできていると思いますか」という問いに対し、「効率的にできていない」と考えている主婦の割合は、
日本……44.7%
アメリカ……16.7%
スウェーデン……15%
考えてみると『3食自分で作れる』って専業主婦か。。。 あとcookpad社員か?
http://halfwaymark.blog114.fc2.com/blog-entry-284.html
しかも、音だけ大きくて吸い込みが悪い掃除機だと、何度も同じところをやったりして効率が悪い。
追記
http://allabout.co.jp/gm/gc/61707/
科学技術白書が昭和42年の段階で、すでに以下のように指摘しています。
「洗濯機の普及状況から見て、洗濯時間が大幅に減少するのではないかとの予想に反して
かえつて増加現象さえ見られる。これは一家庭当たりの衣類保有量の増加と洗濯の省力化によつて
そう、家事の労力は確実に減っても、家事の機会や頻度は増えているのです。
昭和の時代は、家事の省力化に平行して暮らしが豊かになることで、
持ち物が増えたり、食事やインテリアに関心が向いて家事機会が増えるという現象がありました。
洗濯が楽になると服を増やしてしまう 。調べるといろいろ面白いね。
昔から変わらないもんだなー。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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だから
と言っているし、その少数派の大声だけが拡大されて慎ましやかに音楽を聞こうとしているミュージックラバーズ(笑)が過剰に避難されたり、周囲を気にし過ぎて脅迫観念に縛られるのがおかしいんじゃないかと思っているわけでして
今度はキミが、「うるさい音漏れにはちょっとくらいのシャカシャカ音は含まれないと皆思ってる」っていうデータを探してみるべきじゃないかな。
という意見に対しては色々探っているんだけど、統計というかきちんと議論をしているコンテンツがないんだよね。
そもそもこれにいちいち反応しているのはマナーやモラルを理由に大声で0.1dbの音漏れも許さんぞっていう人間は実は少数派の声がでかい神経症なんじゃないかという主張だ。
http://anond.hatelabo.jp/20111221124303
「音漏れ=爆音=難聴」というのもおかしい決め付けだと感じる。
これはもう脅迫観念なのかもしれないけれど、ほんの微小な音(プレイヤーの最小設定)で聴いていても「シャカシャカ音」が漏れているんじゃないかと不安になる。
もちろんそういう奴もいるかもしれないけれど「シャカシャカ音」に関してはそういう場合だけではない。
本質として音楽は自由なものだし携帯プレイヤーがこれだけ普及しているのに屋外で音楽を聴く人間はジャンキーなんて意見は頭がおかしいとしか思えない。
まとめると音漏れが良い・悪いの話ではなくて
「盛大に音漏れするのはもちろんダメ。だがイヤホンや音量にも気を使っているのにほんの微量の音漏れだけでも許されないなんて息苦しい。」というのが通勤時に音楽を怖々最小音量で聴いている自分の考え。
たとえば以下のページを見てみると大体わかるんだけど
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=47922
音漏れはどこまで許せるのか、というような議論になると大抵過激な電車内無音至上主義者がマナーやらモラルやらを盾に音楽を聴くのがそもそも悪いというような論になるのだけれど(統計をとったわけではないが)シャカシャカ程度なら気にならないという意見もある程度あるなかで「音楽をいつでも楽しむ権利」を阻害されるのはいかがなものなの?
http://anond.hatelabo.jp/20111205081836
風俗に限った話ではないけど、他人と関わるということは、相手の資源(金銭、時間、労力)を奪うということなんだよ。
極端な話、挨拶を返してもらうにも金を払わなければいけない社会があったっておかしくない。
他人と付き合えるかどうかということは、言ってみれば「資源の収奪戦に勝つか負けるか」なんだよ。
だから、「付き合ってほしい」と言ったほうが負けなの。
相手の資源を奪いたいと言っているんだから、相手にその補填をしなければならない。
相手が自分と付き合うことによって失う機会を補償しなければならない。
「惚れた方が負け」とはそういうことだ。
人付き合いは戦争だ。
もう勝てない、この人なら身銭を切って人生を買い取ってあげてもいい、
と観念して初めて、交際を申し込むのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20111127124344
この引用元の人は、基本的に就職は恋愛と一緒じゃないとだめだって観念の押し付けする人だから、恋愛っぽい理由じゃ納得しないだろう。
一方で、俺はたくさん内定もらったけど、内定でたあとも色んな会社を志望していろんな話聞かせてもらって楽しかったぜといってるから、
別に相手が自分にとってオンリーワンである理由は必要だと思ってないだろう。それは不自然だしね。
あくまでこういう理由で好きですって告白のメッセージを伝えろって言うことだと思う。
つなげると、たくさんの企業(女)とたくさん真剣にお付き合いして、その中からいい企業(女)選びなさいって言ってるのだと思うわ。
自分が興味あってそれを伝えれば受け入れてもらえるという自己信頼があるんだろう。天然系プレイボーイだな。
格好いいと思う。こんなこといって拒否された怖いしとか、恥ずかしいし、とか言わない。とっても積極的。
逆に言えば、絶対自分で自分に言い訳しないってことだからな。多分こう言う発言を支えるだけの努力もしてるんだろう。
こういう人がモテるんだろうな、というのは分かるんだけど、
全ての国には文化というものがあり、全ての国の人間は文化を持っている為に融通が効かない。ジョークを言うのが貴方の国の文化で、我々の国の文化は靴を並べないと怒ることなのだ。
日本が戦争に負けたことが原因なんじゃないだろうか。本当の感情というものがよく分からなくなっている。
2の質問に通ずるところがある。
2の質問に(以下略)
2の(以下略)
おいしい食べ物を食べると、気分が良くなってくるからビッグマウスが発動しちゃうのだろう。
2(以下略)
ぶっちゃけるとこれも2の質問に通ずるところがあると思う。日本人には損得だけでしか物事を考えられない側面があるから、男女がそれぞれ持っている特徴をダブルスタンダード的に評価することができない。要するに融通が効かない。
教育の方法が悪い。また、日本には『英語が絶対に必要だ!』という観念が無い。
2(以下略)
将来、母親と同じように自分も普通に子供産みたいとと思う女子児童は異常なの?
その女の子が最も身近にいる母親と同じような人生を送りたいと思う事はだめなの?
固定観念を子供に押し付けているのはあなたみたいな自称フェミニストだろ?
子供でも幼いなりに将来の夢、なりたい姿はあるよ。
福島の女児が言わされたという、「私は普通の子供が産めますか」って、すげー女性蔑視な言葉だな。
まだ自我も固まりきっていない女児に、女の子は子供を産みたいと思って当然、そういう人生を歩んで当然という観念を植え付ける訳だ。吐き気がする。
なんで日本でも海外でも、フェミニストの人達はこれに文句言わない訳?
(いや、少なくとも私は文句言ってるけれど、無名の一般人だから相手にされないんだ。)
そしてやっぱり子供の障害は全て女のせいにされてる。男性側が原因て事はないの?精子も放射線の影響受けるんじゃないの?
福島の女児が言わされたという、「私は普通の子供が産めますか」って、すげー女性蔑視な言葉だな。
まだ自我も固まりきっていない女児に、女の子は子供を産みたいと思って当然、そういう人生を歩んで当然という観念を植え付ける訳だ。吐き気がする。
なんで日本でも海外でも、フェミニストの人達はこれに文句言わない訳?
(いや、少なくとも私は文句言ってるけれど、無名の一般人だから相手にされないんだ。)
そしてやっぱり子供の障害は全て女のせいにされてる。男性側が原因て事はないの?精子も放射線の影響受けるんじゃないの?
スレは最低だけどな
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961 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:14:30.94 ID: dAmp84eb0
>>956
ほらwなんで頭からソレなのwあんた954か?www
「そりゃ」の根拠はなんだつうの
しかも何でそんな高圧的で上から目線で偉そうなの?wホントうけんだけど
随分前のやつだけど、自分の書き込み読みたくなって、憶えてた差別化できるキーワード
(ちあみに時は平成前、淫行条例施行前の出来事だから法的に大丈夫だよー☆)
http://bingtsept.blog98.fc2.com/blog-entry-479.html
http://blog.livedoor.jp/moekopi/archives/50121110.html
で期待に応えて書いてやるが、全部書いたら超長文になっちまうから、箇条書きで主なもんだけな
・一人暮らしを始め、毎日路上ナンパ即ハメとツーショットダイヤル(まだケイタイもネットもない時代)
・・中学生2人、高校生数人、専門、大学生、店員やOL多数(この時期バツの女はあるが人妻の経験はなし)
962 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:24:27.77 ID: dAmp84eb0
・仕事辞めて専門時代、路上ナンパに明け暮れる、パーティーライン(ポケベル、PHS)
・仕事辞めてナンパの弟子だった専門の友達のとこで居候、ナンパに明け暮れる(ケイタイがほぼ普及)
・ナンパを仕事にしようと友人と決意、東スポの求人欄の「芸能スカウト募集」に応募、正体は宣伝材料詐欺の事務所
知らずに毎日昼から終電までスカウト、数え切れない数の女と知り合う
・詐欺事務所であることに気が付きトブ、改めて東スポの求人欄でスカウト事務所に応募
・どうせ東スポに一般芸能の事務所の求人なんてねえことは前回で身につまされたため、AVスカウトと振ってある正直な事務所に行く
・事務所の面接前に前もって数人ナンパしておき、面接後にどどっと女を連れていく
・最初、お前スカウトなんて出来んのか?って不審がってた専務の態度が豹変
同時期に入ったスカウトのなかで自分だけナイショで日払いの行動費が支給される(ちょっと自慢話)
・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行くつく
963 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:26:01.67 ID: dAmp84eb0
・日々一日100人以上の声かけはノルマにし、そのうち10人はケイタイ番号を訊け、その10人のうち1人は脱ぎまで行く
(稼動の数ヶ月間を平均化するとほぼこの確立に収束する)すると月に30人は脱ぎの宣材撮影までこぎちけることになり
その30人のうち数人がAV女優となる、キャッチと平行し女優の管理も命じられる
・幸運にも始めて三日で単体が挙がり不労所得を得ることに成功(ただし現金化されたのは3ヶ月後であった)
・始めリードを許したキャバのキャッチの友人の所得に圧差を付ける
・ナンパやキャッチで知り合った女の子のとこ日替わりで泊まり歩く、数え切れない女のこと知り合った
・昼から終電までキャッチ、電車のなかでもかわいい子がいれば途中下車をしても声を掛ける、ホームでもキャッチ、帰宅中の徒歩でもキャッチ
深夜のコンビニでも外でタバコを吸いながら店から出てくるのを待ってキャッチ(これは全部ナンパ時代と何も変わらない)
964 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:26:51.68 ID: dAmp84eb0
・数年経つとスカウト仲間ができネットワークが築かれ、キャバ、風俗、AVそれぞれの得意分野で女の子を回し合う
・フリーになりスカウト事務所を設立(設立というほど立派なものではないが)し、スカウトマンの管理と指導を数年
・風営法や迷惑防止条例の施行でスカウトが違法となり、これを契機に現場のスカウトから足を洗う
・キャバ、風俗、AVのスカウトが禁じられるなかで、何故か芸能だけは現在も路上でのスカウトが許されている
・時代の変化に合わせざるをえず、着エロ、グラビアのスカウトを始める、なんとか超弱小規模ながら芸能の末端に席を置く今日
965 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:27:20.93 ID: dAmp84eb0
スカウトの面白さが消え失せてしまった為だ、ネットの普及から女のこ自らが自主的にAV事務所に申し込み、その門をくぐることが珍しくなくなり、今やそれが主流と言える
事務所の強さとは以前は、スカウト能力に長けた一人のスカウトマンの腕によって決するものだった
それが今や広告をどれだけ投下できるか、その宣伝量の物量のみの勝負になってしまったのだ
また情報が閉ざされていた時代、女のこの判断基準の全ては目の前のスカウトを信じられるか否かに掛かっていた
お金や条件がどうのではなく、「あなたを信じるからその仕事をしてもいい」という判断があったのだ
そして自分を信じてくれた女のこのため、好条件の仕事を得るため身を粉にし奔走しそれに応えるという矜持があった
966 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:28:15.59 ID: dAmp84eb0
末期に時代に呼応するよう新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
路上で止めた女のこと話をつなぐ為に彼らはケイタイを開くのだ、そしてネット上の情報を誇示し信用を勝ち取ろうとしてた
まったくナンセンスに思えた、自身の態度、会話で女のこを止めることこそがスカウトマンの能力であったハズだ
これなら誰がやっても一緒、ネット情報の優越なら女のこ自身で決められること、路上の遇機の出会いなど必要もなく
もちろん若いスカウトマンは我々が通ってきた路上で凌ぎを削るナンパも経験もなく
ケイタイNSNによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
※これ以前にもナンパにはケイタイの登場と普及という大きな転換期もあったのだが、これについては稿をあらためることとしよう
軽く行こうと思ったのに、途中からマジメに書いちまったよ…
全て落涙すほど懐かしい
968 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:43:30.94 ID: dAmp84eb0
○末期には時代に呼応するように新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
×末期に時代に呼応するよう新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
969 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:48:33.01 ID: dAmp84eb0
○・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行きつく
×・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行くつく
970 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:59:41.59 ID: dAmp84eb0
○ケイタイSNSによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
×ケイタイNSNによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
↓のうち5つが当てはまれば境界性人格障害(ボーダー)なんだってさ。
1.現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気も狂わんばかりの努力(注:5.の自殺行為または自傷行為は含めないこと )
→あるある
相手の望むもの推測し、望むものを提供する努力は惜しまないかも。
チャラ男じが好きな相手にはチャラく。おとなしい感じが好きな人にはおとなしく。
まぁ、あとは見捨てられるのが怖くて、無茶な仕事も受けてしまいます。
2.理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式
→1.の通り自己像なんて無いな。
4.自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質濫用、無謀な運転、むちゃ食い)
6.顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな強い気分変調、いらいら、または不安)
→これはある。
何をやってもむなしい。
8.不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかをくり返す)
→怒りはないなぁ。何があっても虚脱感しかない。
9.一過性のストレス関連性の妄想様観念、または重篤な解離性症状
→慢性的な見捨てられ妄想があります。・・・一過性ではないな。
周り(友人・同僚・恋人)を振り回してる自覚はある。
今思えば長く続いた恋人はお互いメンヘラで正に共依存の関係だった。
お互いがお互いにもたれかかってたんだよね。
付きえば付き合うほど摩耗して、だけど自分の視界には目の前の相手しかいなくて。
仕事で時間が合わなくなったら相手は当てつけのような浮気をくりかえして結局離縁した。
それを無条件に受け入れてくれる人・環境を探してるのも実感してる。
何か相手に迷惑をかけてしまうと、それがどれだけ些細な事でも
相手にとって俺への評価が0点になると思い込んでしまう。
だから、周りからしたら感情の起伏が激しい人に見えるんだと思う。
わかってるつもりなんだけど、不安感は抑えられないんだよね。