「観念」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 観念とは

2024-03-15

anond:20240314172500

呪術とヒロアカとアンデラとDr.STONEあたりを単行本で買ってて

あかね噺が始まったあたりで観念して20年ぶりくらいにデジタル定期購読始めたけど

最近呪術とヒロアカとアンデラは本誌で読んでも何をしているのかわからんなったわ

単行本派に戻りそう


本誌はジャンプ+で当てた作家がことごとくコケたのが痛かったね

有望な新連載が深刻に少ない

2024-03-13

anond:20240313124004

ホテルが潰れる

跡地にパチ屋を作る話が出てくる

住宅街の真ん中かつ小学校の近くにパチ屋なんか作るなと反対運動が起きる

色々あって何年も工事が止まる

ついに観念して出店を諦める

余った土地を隣接するショッピングモールが買い、増築してリニューアルオープンして大成功

 

って、感じやったな

葬儀場の建設住民運動で潰してたし、うちの地元住民運動が強すぎて草

2024-03-07

自殺すれば殺されずに済む理論ブクマカ

表現規制に関する議論で「自殺すれば殺されずに済む」理論を唱える連中が多くてマジで辟易する。

過激な」水着ポーズNG 県営公園での水着撮影会新ルール公表朝日新聞デジタル のブクマ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASS356S3FS35UTNB00G.html

規制の不在や曖昧さをタテに「自由に」やった結果がコレ。オレは「規制派」だが、これは最悪に近い落としどころと思う。行政の介入の口実を与えただけだ。こういう事態を避けるために自主的規制は行うべきなのよ。

典型的な、「自由」より「行政に介入されないこと」の方が重要だと言っている例。

群馬の森朝鮮人追悼碑も、自主的撤去していれば、行政の介入(代執行)は無かっただろうね。

校則が厳しいのは基準を示さないと加減がわからず荒れていく底辺校って相場が決まってる、それと同じだね。

単なる偏見

この件で得られたのは公共施設バカチキンレースやると行政無駄ルールを作らなければいけなくなる、という当たり前かつ不毛な教訓。なぜ過激なのがダメなのか説明しろやって人らが他者自由を奪ってる。

そうだね、各地の公共施設で行われ、自治体の冠付けが行われてきた反戦平和歴史認識問題に関する催し物について、行政ルールを作って排除するようにしてきましたけど、素晴らしいことなんでしょうね。

表自界隈が毎度の如く暴走した結果、アホな規制を呼び込んでしまった例がまたひとつ暴走族が二輪通行規制を呼び込むのと同じ。

黙ってたら、単に排除されて終わりでしたね。

こういうしょーもない規則を作らせたのは撮影会側なので撮影会側が悪い

日本共産党破防法規則)に基づき監視されているのは、日本共産党が悪いってことですね。

つか、こうまでしないとわかんないのか?ってくらいには、あれを擁護してる連中の公共性のなさが、ひたすらに情けない。

そうだね、ちゃん社会暗黙のルールに逆らわずに生きてくださいね

ロリコンや表自が騒ぐから行政が細かいルールを決めざるを得なかった。

左翼が騒ぐから警察が細かいルール決めざるを得なかったんですね。

こう言うめんどくさいことになるんだから撮影会側は権利とか主張せずに距離感を保つべきだったと思う。

権利を主張しなかったら、今頃全面禁止されてますよ。

自由を「俺らのやり放題」と曲解すると首を絞めるという話。社会性に欠ける表自戦士他者存在という観念がないので公共私物視する。逆に他者政治主張を排除したがるのも公共空間私物勘違いしているから。

そりゃ、最初から水着撮影会なんかやらなければ規制もされないですけど、それって意味あるんですか?

あと、公共において、一方の自由を「私物視」として、別の一方の「政治主張」をたれ流すことはそうではないとするのは、非常に恣意的ですね。

社会的調整の領域コンセンサスを取る努力をしないで「禁止されてること以外は全て自由だ」というスタンスで好き勝手やってると、結局その中間領域もどんどん統制側がコントロールするようになるのよね

正義道徳を笠に着て、政治的圧力をかけてくる民主集中制の連中は交渉不可能でしょ? こっちが譲歩したら許すの? そんなわけないでしょ?

コンセンサスを取る」って、人民裁判コンセンサスを取るのは屈従しかないですからね。まだ、行政ルールのほうがなんぼかマシでしょ。役人憲法擁護義務があるし、変なことをすれば裁判で負けるからね。

良識に照らせば判断できるものバカの振りしてナイナイしてきた馬鹿どもがこういうルールを呼び込む。馬鹿表現の敵でしかない。

なるほど、良識に照らせば、慰安婦などの歴史認識問題についての展覧会については判断できるでしょうね。(なんせ、各地で排除されてきてますからね)

2024-03-06

anond:20240305203952

「一時停止はホイールが停止して1秒以上」とお巡りさんに言われ観念した思い出があるが

2024-02-28

布団から顔を出すとクシャミが止まらなくなる

そろそろ観念して薬飲むか

2024-02-27

anond:20240227125513

失業=まともな人生からドロップアウト」のような日本観念意味不明なのだ


これを「観念」だと思っている時点でお前が社会というものを分かってないのが秒でバレる。

これは明確な日本社会の「仕組み」であり、それは個人の感想で覆せるものではないよ。

anond:20240227035206

刑法175条は、「わいせつ」な表現は罰する、としか規定していません。

モザイクが有れば合法などということは全く関係ないです。モザイクが有ろうが無かろうが「わいせつ」ならOUTです。

モザイクが有ろうが無かろうが警察が「わいせつ」だと決め付ければ、そのままOUTになるのが現状です

モザイクガッツりかけていても「わいせつ」だと判断された例もあるし、逆に無修正でも(芸術から)「わいせつ」でないと判断されて無罪になった例もる。


法律で「わいせつ」とは何かが全く示されておらず、警察恣意的運用されてるけれど、

一応わいせつとは何かは最高裁判例

わいせつとは、徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの

とある

一方、着衣の上からの無断撮影が「羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為迷惑行為防止条例違反逮捕されたりしてるから

例えば普通の服を着てても性欲を興奮または刺激せしめ=エロい絵なら、わいせつに該当する可能性がある


刑法175条に関して一切のエロ絵を上げないが正解

モザイクが鬱陶しいからではなくあいまい恣意的運用されている法律罪刑法定主義に反しているか刑法175条は

日本人はなぜ「生産性の高い社会」を理解できないふりをし続けるのか

https://anond.hatelabo.jp/20240227085257

この増田トラバほとんど完全に的外れで、今回に限ったことではなくいつも同じような流れで本当に不思議なんだけど。

生産性の高い社会とは、個人能力が高い社会のことではない。

同一の投入能力あたりの生産量が高い社会のことだ。

個人能力が高まって生産量が上がるのは自明であって社会は何も進歩していない。

そうではなく、設備投資イノベーション、配置換え、何でもいいが

効率を上げることで同じ投入能力でより多くのものを得られるように、システムを変更することが「生産性を上げる」ということだ。

これはしかし決して簡単なことではない。投資リスクテイクを常に行い、市場に結果を評価される必要がある。

それが本来経営者仕事だ。



零細企業生産性が上がらないのはなぜか。

経営者がもはや設備投資取引先変更などのリスクテイクを行う気がないからだ。

零細企業は長期的な利益の最大化ではなく、経営者ライフイベントによって動く。

経営者がそれなりの報酬を得ている老人ならもはや設備投資リスクテイクもやる気は起きないだろう。

死ぬまで低賃金労働者をつかって現状維持し、資産を減らさずそれなりの年収を確保できればそれで満足してしまう。

これは個人の行動としては合理的で、だれかの能力の介在する余地はほぼない。

からそうなったらもう生産性を上げるには外圧で潰して資源を開放するしかない。

ストなどで賃金水準を上げていくのも重要だし

政策レベル強制的最低賃金を徐々に上げていくことはこの一つの外圧だ。




もちろんこの過程失業率は上がるだろう。ストにもレイオフリスクがあるし、企業破綻するかもしれない。

しかし単純に労働力分配という観点からみればそれはあくまで、ほかの効率のいい仕事へ移行する際の待機時間であり

永久労働市場から消えるなどというバカなことはない。

失業=まともな人生からドロップアウト」のような日本観念意味不明なのだ

もちろん失業率が高すぎないに越したことはないが、それは単に待機時間が短いほうが効率がいいというだけの話だ。

社会全体の生産性の向上を止めてまで失業率を下げるのは本末転倒ではないだろうか。

経済効率だけから考えれば失業者の生活社会保険でカバーすればいいだけの話だ。

実際に最低賃金を上げていった国は徐々に生産性が上がっている。




むろん、人間には感情というものがあり、労働に参加していないと社会無力感を感じるし

それを抜きにしても人間関係などの社会資源から切り離され個人レベルの損失はあるから

そういった部分には対処する必要があるだろう。

しかし少なくとも経済学的には、雇用状態/失業状態個人能力を表すわけではなく、単に今労働力市場に利用されているか否かを表すに過ぎないし

最低賃金の水準は個人能力とは関係ない。しいて言うなら社会能力に関連している。

もちろんただ最低賃金が上がればいいという話でもなく結局は生産性を上げることが重要だ。

そしてそもそも低賃金労働者能力が低い、というのは必ずしも正しくない。

単に生産性の低いクソ環境で働いてるだけかもしれないからだ。

ほかの指標がないから「現在賃金個人能力代表値」とすることが横行しているが、雇用流動性が低いほどこれは不正確になる。

もちろん能力評価による昇進や転職機能している場合には個人能力に相関はするだろうが、能力のものではない。

さらに言えば生産性が上がれば必ず賃金が上がるとも言えないので

可能ならば労働者側もストなどをして労働者パイを増やすことをやる必要がある。



ここまで書いてきたことは教科書レベルの話で、流石のはてな民といえど本気でこれを理解できないほどアホとは思えない。

なぜここまで理解できないふりをし続けるかに興味がある。

明らかに一部の世代日本人が病的なまでに設備投資リスクを嫌っており、それをしなくていいように逆算してロジックを組み上げているとしか思えないのだ。

こっちにも仮説はあるのだが、本当のところはよくわからない。

なぜ皆さんはここまで「生産性」を理解できないふりをし続けるのか?

2024-02-25

anond:20240225234947

それはただのディストピアでしょ

問題は、社会が真っ当な場合でさえ、一部の金や地位権力を独占している連中が、大衆洗脳し、自分たちに都合の良い観念を植え付けようとすること。

2024-02-24

anond:20240224004459

以前どこかの本で読んだ、

道徳的な行動をする者が道徳的な心を持つとは限らない」という文句を思い出した。

たとえば強迫的に社会道徳観念に従っている者の心は「道徳的」か?という意味理解した。

迷いがあったとしても、あなたは身の中の不道徳を振り払い、道徳のために行動した。

それは真に道徳的な心を持つ人間の為すことだと私は思う。

2024-02-18

anond:20240218142849

そもそも

全ての自然数加法による計算は、感覚ではなく公理定義から導出出来るものであるということの一例と私は考えています

1+1=2は直感的に正しそうだけど証明可能不可能かは大問題証明できないと数学破綻している可能性があります

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613

みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。

いや、定義自体が、人間インプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的観念/身体感覚依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから

感覚あいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。

anond:20240218092748

突然これらの定義を見せたら, ただの絵や呪文に見えるでしょう

でしょ?それでその定義を(いずれ大数学者になる人も含め)初学者に教えるのには多少なりとも自然言語を使うでしょ?

その自然言語によって形成された理解内容が、数学的にいうなら「一意」である保証はあるの?

定義や一覧表が、定義者の頭の中の観念の「表現」に過ぎないというなら、それはそれで「定義者」と「それ以外」とで観念が一意に共有される保証ってこと?不可知論的だけども。

anond:20240218040049

別の話と分けて考えられると言い切るには無理があるよ思う。

虹に対して認識する色の数が言語によって異なる話じゃないけど、数学者定義を構築するとき記号列、といっても記号はなんでもいいはずなので、その並び方というべきだが、それを考えること即定義を作り出しているということなら、

そもそも定義を構築するときの,外部への伝達表現としての機能も担わされている記号と、「定義に対する認識」でもあり「定義という概念自体」ともみなせる思考内容?を、分けて考えるところはできるのか?と思ってる。概念実体とそれへの認識との主格未分?(だいぶ言ってみただけ感強いけど)

「~主張する人をどう説得するか」という考えには、自分自分定義した推論規則事実として正しく理解していて、その理解を共有してやるんだ、という前提があるが、果たしてその理解(上記で言うなら「定義に対する認識」)は事実なのか。

ようするに有名な話だけど人間言葉を抜きに思考(少なくとも数学範疇に入る高度な思考は)できないということで、言葉観念(ここでは、定義者が定義を正しく理解してるという前提なので、定義という事実に相当)はわけられない。

2024-02-17

anond:20240217131111

数学実在存在する→実在記号関係はいくら言葉を尽くして厳密にしたところで経験的なものに過ぎない

  

数学実在存在せずただ規則のみが存在する→規則はどのような次元存在するのか?

実在する→数学実在論と同じ問題が発生

→人や林檎と同じ「観念解釈」の領域存在する→経験的な記述に過ぎず「完全な普遍性」は備えない

  

という感じかな。

この問題解決するためには結局、西洋哲学がやってきたように「理性」を神格化するしかない。経験を超えた世界を知覚する能力を理性は最初から備えているのだ、という理屈だね。

この意味で大抵の数学者は一種神学者だ。まあもちろん数学者以外の人たちのほうがもっと雑に神学者やってるけどね。

2024-02-16

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-02-13

ボーっと生きている

定年が見えてきた会社員だが特に何も成さずボーっと生きている

中流家庭に生まれて三食食べることはしてもらい屋根のある家でダラダラ過ごした

勉強は全く好きではなかったし幸い塾に行くほどのお金も無かったので家で漫画読んだり気合いでねだって買ってもらったパソコン雑誌ゲームを打ち込んで遊んでた

夏休みなどはじいちゃんばあちゃんの家に預けられて朝から晩まで山や海や川や草むらで遊んで過ごして当然宿題できずに終わるというのを繰り返した

学校勉強は嫌いだったけど教科書を読んだら分かる内容なのでダラダラと近所の公立高校へ進学

コンピュータが楽しくなったので大学へ行ってコンピュータで遊ぼうと思うが受験勉強をしなかったので大学不合格

近所の予備校がタダで通わせてくれるというのでダラダラ浪人

浪人中暇なのでバイトして自動車免許も取得

年末くらいからは観念してちゃん勉強して国立大学情報滑り込み

しか勉強できないので教養留年

家庭が貧しくなっていたので授業料をまけてもらってたのに留年でパー

たまたま収入だった父が職につけて払ってもらえた

生活費奨学金

専門に上がったら大変楽しくなったけど研究はできないし就職活動もしてなかったので教授先生にお願いして地元企業に放り込んでもらう

当時学生はそんなに就職に苦しんで無かった

学生の間力を入れていた同人誌作りを続けていたらコミケで今の妻と出会いすぐ結婚

一年くらいで子供ができてローンで一戸建て建てて引っ越し

計画なので子供も増える

奨学金もすぐに完済して子供健康に育ち長男特に勉強せずに国立大学入って留年

そこは似るのかよ

あとはこのままずっとヒラ社員で社内システム管理仕事して引退の予定

最近趣味はぶくま

意識が著しく低い

2024-02-04

anond:20240203082942

世界史の流れを見ても、結局最後に笑うのはキリスト宗教保守イスラムフェミニズム中国共産党などの規制主義立場なんだよな。

プール撮影会問題も再燃したというし、オタクもそろそろ観念した方が良さそう。

2024-02-01

法と情緒

日本法律テクニカル議論情緒をぶっこんでくる

それをさも当然のように

この悪癖をいい加減に改めませんか?

法は法、強制力のある社会秩序の根源

お気持ち個人価値観とは分離して議論して欲しい

そして情緒他人押し付けられても困る

「そういう考えもあるよねー」としか返答できない

 

漫画家自殺の件

全員が民事契約のセクションとお気持ちの話をごっちゃにして語っている

漫画家の件に限らず日本のすべての議論が同じ

法と情緒を同価同列に捉えている人が多すぎる

いや違うでしょと

 

漫画家の件で言えばテレビ局との契約書の議論に分離できるわけで

しかしこの人まともな契約を締結していないわけです

原作に「忠実」というても観念的な単語しかない

台本を誰が最終承認するのか、承認していない改変があった場合ペナルティはセリフ一つ、ストーリーの逸脱に対して何円か。

そーゆー取り交わしを文書でやってない

契約書がなければ口約束しかない、法的な効力は無い。

以上マルで終わる議論なの

日本文書契約主義ではないので口約束でも法的には有効なのだ事実上立証ができないし実務的には口約束に法的な効力はほぼ無い

まずはそういった法の議論を詰めなきゃならない

お気持ち議論はその後、別枠でやらなきゃダメ

ごっちゃに議論するから話が噛み合わない、論点拡散する

 

漫画家自分作品への思いれが関係者全てに理解され同意されると思い込んでいたのだろう

んなわけあるかい

金だよ金、世の中は金で動いてる

人や組織を金で縛り、金儲けのために全力を注ぐ、みなそうやって生きてる、資本社会もの

大事なのは契約契約書、口約束ではなく文書で交わされた合意

 

いや、そういう生き方否定するのも構わんのだが、そういう人は巨大システムマスコミなんかにわっちダメなの

 

マスコミメディアに関わるな、これ21世紀を賢く生き抜くための知恵

松本の件も然り

以上まる

 

ちな我が家にはテレビすらねぇよw

法と情緒

日本法律テクニカル議論情緒をぶっこんでくる

それをさも当然のように

この悪癖をいい加減に改めませんか?

法は法、強制力のある社会秩序の根源

お気持ち個人価値観とは分離して議論して欲しい

そして情緒他人押し付けられても困る

「そういう考えもあるよねー」としか返答できない

 

漫画家自殺の件

全員が民事契約のセクションとお気持ちの話をごっちゃにして語っている

漫画家の件に限らず日本のすべての議論が同じ

法と情緒を同価同列に捉えている人が多すぎる

いや違うでしょと

 

漫画家の件で言えばテレビ局との契約書の議論に分離できるわけで

しかしこの人まともな契約を締結していないわけです

原作に「忠実」というても観念的な単語しかない

台本を誰が最終承認するのか、承認していない改変があった場合ペナルティはセリフ一つ、ストーリーの逸脱に対して何円か。

そーゆー取り交わしを文書でやってない

契約書がなければ口約束しかない、法的な効力は無い。

以上マルで終わる議論なの

日本文書契約主義ではないので口約束でも法的には有効なのだ事実上立証ができないし実務的には口約束に法的な効力はほぼ無い

まずはそういった法の議論を詰めなきゃならない

お気持ち議論はその後、別枠でやらなきゃダメ

ごっちゃに議論するから話が噛み合わない、論点拡散する

 

漫画家自分作品への思いれが関係者全てに理解され同意されると思い込んでいたのだろう

んなわけあるかい

金だよ金、世の中は金で動いてる

人や組織を金で縛り、金儲けのために全力を注ぐ、みなそうやって生きてる、資本社会もの

大事なのは契約契約書、口約束ではなく文書で交わされた合意

 

いや、そういう生き方否定するのも構わんのだが、そういう人は巨大システムマスコミなんかにわっちダメなの

 

マスコミメディアに関わるな、これ21世紀を賢く生き抜くための知恵

松本の件も然り

以上まる

 

ちな我が家にはテレビすらねぇよw

2024-01-26

anond:20240126201910

何かを嫌うのは理由があったとしても望ましくない(望ましくないなので、やってはならないとまでは言わない)という道徳律に生きる者としては、嫌いなものを表明した時点で良くない結果に至ったことは自明だろうと感じる

なお、道徳律はギブアンドテイクといった実利主義に基づく観念ではないので、他人がそうしていなくても自分実践するという性質のものだということは、念のため付言しておく

2024-01-25

anond:20240125194918



今日判決では検察側の精神鑑定重要証拠を踏まえていない点が指摘され、弁護側の精神鑑定の結果である妄想障害採用された形となった。

弁護側の精神鑑定を行った精神科医によると、妄想内容が了解可能範囲にとどまっていること(いわゆる二次妄想妄想観念とも言う)から統合失調症ではなく妄想障害だという診断になったようだ。

統合失調症でみられる妄想は「一次妄想真正妄想)」といい、荒唐無稽了解不能ものを指す

心神耗弱または心神喪失かどうかは被告人現在精神状態判断するのではない。

あくま犯行時の精神状態がどうだったか判断される。

被告人犯行直前まで躊躇しており、妄想動機に影響を与えたことは否定できないものの、判断能力は十分にあったとされた。

ちなみに妄想障害妄想に対しては薬が効かないことが多い。

2024-01-23

性格の悪い婆さんは精神科治療して構わないか

https://blog.tinect.jp/?p=85005

え、なんで治療法が「ある」かのように話進んでるの?

実際治療法なんか無いか当人安定剤の類出すだけでお茶濁したわけで。

許されるものなら積極的な「治療」が可能かのように言ってるが、許した所で何もできないんだから人格問題をどこまで医療化していいか?なんていう問いはそもそも成立しない。

何なんだ一体?

追記

資格持ちに資格なしで講釈垂れるほどアレではないつもりなのでこれは「疑問の提示であるというエクスキューズはしつつ、

くだんの老婆のソレを病気というより障害と捉えるならそこにあるのは治療ではなく対処ノウハウの蓄積と運用であるはずで、

それについてはしかつめらしく「手を出していいのかどうか」なんて悩むひまもなく四の五の言わず現場で協力してできることをがんばろうになるはずで、問題があるとすればリソース不足ということで、いずれにせよ医療倫理だとかの観念的な話は出番がないはず。

よくネットでは人生の悩み開陳→とにかく病院いけ!このやりとりをプリントして見せろ!の無責任コールアンドレスポンスが見られ、そこにそういうタイプ問題の受け皿はないのにねえと思うことがあるが、

わざわざ本職がそれを助長しようというの? と奇異に思った。「ワシにも苦手なことはある」じゃダメなのか

2024-01-22

anond:20240122121532

現実世界イデアの影に過ぎないからな。

真の性欲、理想的な辟と向き合うのはイデアの姿と向き合うこと、つまり信仰に近付いて行く。

肉体性を捨て去った観念としての性、真の性欲は心の中だけにあるのです。

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