はてなキーワード: 個性とは
小さな会社で1日8時間、週に5日働く。私は一人住まいだから、家族といる時間よりよほど長い。
3年半働いた。
でも、私の居場所はなかった。作ることができなかった。
溶け込めなかった。溶け込むことを私自身が良しとしなかった。
誰も彼もつまらなかった。誰も自分自身の話をしようとはしない職場だった。でも、それは私も同じだった。
私には相応しい職場だったのだろう。
でも、やっぱりおかしい。何がおかしいのかはわからなかったが、嫌な感じはずっと付きまとっていた。
退職した。定年まで働きたかったが、あと30年もあの場所で暮らすのは苦痛以外の何物でもないと気づいた。
定年まで働きたい理由が、少しでも多くの退職金が欲しいっていう理由だけだと気づいたから。
そのために私の30年、1日8時間、週5日を犠牲にすることはしたくない。
見つからなければ見つからないで、やり方を考えよう。ひとつのところに留まることができないことを、個性と割り切ろう。
私は私の中に素晴らしいものがあると信じている。
http://d.hatena.ne.jp/sukebeningen/20120212
も〜読んだけど全然わかんない!ヽ(;▽;)ノ
折角だから、ここに何が書かれているのかということを、
「もしかしてこんなことじゃないのだろうか」という感じで書いてみる。
以前、友人と「ユニクロって結局アリなのかナシなのか」
という話題で盛り上がったことがある。その時は結局は「ま、求めるレベルによるわな」という、
なんとも味気ない結論に至ったわけだが、その会話のなかの友人の言葉で
「ユニクロって、良いとか悪いとかじゃなくて、もう"ユニクロ"としか言えないよね」
というものがある。
ユニクロは大衆服だ。大衆服だからファッション的な価値は要らない。
デザイナーとのコラボやその他「それなりにこだわってますよ」的なやつ(日本製を強調したジーンズなど)は
あくまで大衆に売る為の最低限の質の保証の為の言葉に過ぎず、他の服との差別化なんて全く考えられていない。
マクドナルドのトレイの中に敷かれた紙に書かれた、食材はこれだけこだわってるんです! ってやつと一緒。
大衆服は大衆の服だから無名だ。匿名性の高い、注目のない服だ。それが本質だ。
大衆服だから匿名であるはずなのにユニクロとしてのアイデンティティがそこにある。
一方で、マルジェラはハイブランドだ。ハイブランドだから、独自のデザインや個性など、
そういった価値が求められる。自分はマルジェラって良く知ってるわけじゃない
(ミスチルの桜井さんが好きらしいということをどっかで聞いたことがあるなあ程度)んだけど、
たまに見るネット上の画像とかだと、随分とスッキリしてて、匿名性のようなものを感じる。
ハイブランドだから個性的であるはすなのに、(マルジェラらしさはありつつ)どこか匿名的だ。
つまり、ユニクロって、マルジェラから最も遠いようで、実は構造は同じな逆位相みたいな感じで
ひっくり返して重ねるとピッタリ重なるんじゃないかと思う。
その構造こそが、この中で書かれてる「現代」なのかな、そう理解した。
だから、マルジェラの次の世代を考える時は、ユニクロについて考えるべきなのかもしれない。
ジュンヤワタナベは、なんかコラボが凄いところってのは知ってる。
渋谷のパルコの一階を抜けるときに良く目にするけど、いつもなんかとコラボしてる。
ブランドって、自分の価値や個性を強調したい筈だから、通常はコラボをしても自分の価値がメイン。
あくまでコラボは相手の知名度や特徴を借りて、自分の宣伝をするもの。
でもジュンヤワタナベのコラボは、むしろコラボ相手の服に依って自分のイメージを形作ろうとしているように見える。
つまりコラボ相手の服の価値がジュンヤワタナベの服の本質の重要な一部として、宣伝ではなく取り込まれる。
そしてそうすると、母体であるコムデギャルソンすら、ジュンヤワタナベの利用すべき一ブランドとして、
ジュンヤワタナベの下位に置かれることになる。この貪欲な構造がジュンヤワタナベの「現代」だと、自分は思った。
エイプはもう全然知らない。高校時代に、友人が読んでたファッション誌にエイプの服があって、
「えっこれこんな高いの!? 」と驚いたことがあったけど、それ以来特にまともに見たことはない。
確かどの商品にも大体猿のマークがくっついてる。
うちの実家にあるタオルにもYSLって書いてあるし、デパートに行けば
でも、それは本体の価値がちゃんとあって、それをロゴが借りてる、というものだ。
でもエイプはもはやロゴが本体って感じ。猿の記号が本質。サンリオグッズと一緒。
権威付けしてくれる本体と記号が同一だから、アーノルドパーマーのように
それがすごいところなのかなーって思う。
ここまで思ったことをなんとなく書いてみて、終着点が全然見えないから
ここでやめようと思う。
>・ムービーが我慢出来ない
>・メッセージは読まない
>>>読みたくなるようなメッセージの出し方を工夫していない
>>>ナビゲーションが適切でない。
目的や方向がいつでも確認できるようになってない。
再プレイの時にはて、どうすんだっけ?で 無理ゲー化するとかたまにある。
>「○ボタンを押しながら×」の動作ができない
>>>チュートリアルの不備 つーか なんでWiiで同時押し・・・
>・諦めが早い
>>>謎解きなんて、パズルゲーム買ったのならともかく、その他のゲームでやられたら1度で諦められも文句は言えない。
好みの問題すぎる。
ちなみに、謎解きは大好きだが、たとえば、アクションゲーム買ったときに謎解きがあったら許せないタイプ。
謎解きアクションゲームとして売っていればOK.
>・集中力が持たない
>>>つか、ゲームは1日15分とかなかったっけ? ないし40分も集中持てば十分だと思うが・・・
なんでもいいけど、他人をやや下に見る文章に見えてどうかとおもった。
個性とか個人差とか、好みの問題に起因する所が多すぎる。
個人的には某アクション系ゲームの アクションの真っ最中にムービーインされて、ブチ切れそうになる事もあるので・・・
ムービー見ろってのは暴論だと思う。
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
乙武氏周辺騒動のアレコレを見ていて思ったことを。傍観だけど。ツイッターのアカウントないから。
具体的にはこういうの。
基本的には自分は乙武さん批判派っつうの?きのこ派?っていうのか?探耽求究さんという人がものすごいド正論言ってるように見える派っぽいなという自覚があるんだけどたけのこ派の批判が嫉妬がどうとか努力が足りんとかばっかりで全然クリティカルにキてないのでなんか延々もやもやしていて、
そこでふとこれを見たらちょっといろいろ繋がった。
kyamonohashiというひと?のツイート、
手足が無くても頑張れる、と言う希望を示そうとしている乙武さんだけど、例えば手足の無い他の方がそれを見て「あいつは恵まれてるから」「例外だから」と妬んだり嫉んだりする可能性だったあるにはあるのか。
手足がなくても頑張れる、という希望がおおっぴらに晒された時、「手足がなくて頑張れない」人間はどういう立場に立たされるかっつうと、努力が足らん根性鍛えなさいの精神論教信者に食いつぶされる側にしかなれないんだよね。それか従来の「かわいそうな障害者」枠。
現に乙武さん応援派で非乙武さん的障害者をそこから出してやろうとするやついねーじゃん。むしろみんなそこへ叩き込もうとばっかりしてる。
だから叩き込まれる側は、大人しく叩き込まれるか、「努力が足りない」とかいう問題じゃなくて向こうが恵まれてんだっつうのー!という論を組むぐらいしかなくなる。
「恵まれてる人を妬んで、それで誰が幸せになるの?」とかほざいてるのがいるけど、少なくとも不幸自己責任論の渦中にブチ込まれるのは回避できるよ☆
恵まれてない人は恵まれてる人と違って、誰も助けてくれないという点でサイコーに恵まれてないことがほとんどだと思うんだけど、
誰も助けてくれないのならば自分で自分を助けてやるしかないじゃないか。
っていうのをなんか判ってないしたぶん許さないのですねたけのこ派は。妬みとか言っちゃうんだもんね。
うぜえだろうなあ。
「誰も助けてくれないのなんて当たり前、みんな同じ」「そこで助けてって言ったり、障害を個性にしてネタにするくらいのとっかかりを作ってくれないとこっちも手が出せない」とか言う奴が出てくるよ。出てくるっていうかすでにいるのよこの胸の中に。
一匹ならともかくハエの群れのようにわんわん湧き出てきて声が延々こだまするのよ。
えー話を戻すが「そこで助けてと言えない、ネタにできない」ってとてもデジャヴなフレーズじゃございませんか。
そう、ちょっと前のNHKの三十代無職男性が生保とれないだの餓死するだのっていうあの騒ぎでございますよ。
言えねんだよな。何故か。何故だか。いや何故って他人の負担なんかなりたくないからに決まってんだが。
何なのかな。何なのでしょうかねこのテニスボールをネットのあっちとこっちに分ける何か目に見えないくせに決定的な要素のようなものがある感は。
ジョジョだっけこのボールがどっち側っての。ジョジョでは「運命」だったっけ?
何処ってそりゃボールの落ちどころがどっち側でもいいようなところに決まってるんだけど、それはつまりたとえばこの俺がネットの両側を行き来できる必要があって、最悪俺一人でもラリーをかませるようなことになってないと話にならんのだけど、たとえを外すと要するに「お前助けるのなんか別に負担じゃねーよ」っつって軽々と誰かに手を差し伸べられねばならないってことなんだけど。その手を払いのけられること前提で、手がダメなら他のもの、人脈でも金でも選挙権でもなんでも使ってやらねばならないってことなんだけど。
なんか乙武さんには無理そうですね。手ないし。物理的にもないけど、いじめられっこに関係するツイートがアレじゃ義手つけても厳しい。根っこがアカン。
いやその実俺にもムリだけどね。少なくとも人脈と金と選挙権は厳しい。
ツイッターもミクシーもフェイスブックもやってない真性ぼっちのワープア、しかも都政はあの小心者が担うのを食い止められなかったレベルの一票。
正直に言うと手自体厳しい。ワープアは身体と心が資本なのに手を払いのけられるついでに豆腐メンタルが潰れそうで、いちいち成形しなおすのに他人の手が要るレベル。
でも「誰も助けてくれない」。いやいいけど助けとか。俺の豆腐はまだ平気なんで、誰か他の砕けたガラスハートの欠片を集めて火にかけてまた作り直してやっておくれ。
どうでもいいけど何か昔のディズニーアニメで一人ラリーするウサギいたよね。イソップ寓話アニメ化したやつで『ウサギとカメ』に出てくるウサギで、レースの前座に俺こんな足はえーんだぜーっつってカメに見せつけるためにボールより素早くコートを行き来してた。肝心のレースでは確かカメがクビ伸ばしてゴールインして勝った。
追記:
さらにどうでもいいんだけどツイートまとめ読み返してたらものすごい気持ち悪いのが結構いてマジ引いた。いわゆる「信者」ってやつですかあれは。
結論から言うと、企業は就活サイトや就活業者よりも、心情的には学生に近い立場にいなければいけない。
しかし「どんな学生が望ましいか」「どんな方向性を学生と共有したいか」というメッセージは具体的に、学生に迫るように撃ち出す必要がある。
この部分を就活サイトにアウトソースし、結果として就活サイトや就活業者が学生を食い物にしていることを放置している状態で
競合は、同じ業界の他社だけではない。 就活サイトとか就活業者、あるいは2ちゃんまとめ記事などの悪質な情報業者も含む。
彼らに打ち勝って、正しいメッセージを学生に届けられないなら、優秀な学生ほど自分の会社を選んでくれない。
「競合の他社がこんな感じだから、うちの会社もこの程度で」とか言ってる人事だと、お話にならないわけです。
実際、今まで「企業側のメッセージ」と称して悪質な情報を提供する各種メディアによって学生が翻弄され、道を誤るというケースが多かった。
もうどっぷり社会人側に染まった私としては、若者への嫉妬を込めて
「就活前になっていきなり慌てて準備するから、ろくに考えずに企業とか就活業者のメッセージに躍らされるんだよ」と言いたくもなるがそれはアンフェアというものだ。
学生も確かに怠けてはいる。だが、それ以上に就活業者の悪徳ぶりは批判されてしかるべきである。
そして、そういうものを駆逐するのに第一義的な責任を持つのは、企業側である、と私は思う。
自前で自分たちの魅力が全く伝えることができない、学生に仕事のイメージを伝えることができない企業ばかり。
必要な情報や行動指針が与えられない学生は不安になり、その不安にゴミどもが群がる。
最近2ちゃんまとめブログのステマ騒動などが起こったらしいが、ああいうのは、企業側の社会的責任が全く果たされていないことを意味している。
現実的には、責任を果たさないどころか、積極的に社会的不正義に加担して、自分たちだけが得をしようと抜け駆けを図る腐った企業もあるらしい。
企業側がここまで腐っている今の状況で、学生を責めるのはちと可哀想かな、と思ってしまう。
もちろん、学生が可哀想だといっても、別に学生が今のままでいいとは思わない。
学生は学生でよくよく考えるべきだ。就活業者の2ちゃんまとめ等の示す甘い言葉にホイホイついて行っちゃう奴は成人式からやり直すべきだ。
しかし、それを差し引いても現状を放置するのは企業にとっても学生にとっても大きな損失である。得しているのは就活業者だけだ。
この状態を改善しようとしない、あげく「最近の若者は」とかいっちゃう人はビジネスマンの資格などない。
間違ってたら間違ってると言う。誤解されていたら誤解を解く、それは当然やるべきだろう。
それぞれの企業が「就活本とか就活業者はあんなこといってるけど、うちではこうだよ」と示さないといけない。
学生側が、就活業者や就活本を捨てて、自社サイトをじっくり見てくれるように情報を発信しなければいけない。
そして、その手間は「ちゃんとした人事戦略があって、それが共有されている会社なら」たいして手間はかからない。
人事戦略を理解してる人が一人、毎日1~2時間使ってブログで情報発信するだけで十分すぎるほど効果があると思う。
ちょっと本屋に行って調べてみれば、そうやって就活サイトを使わずに成功してる会社の話が幾つも出てくる。
そんなことすらやってない、というかやろうにも明確な戦略を持ってる会社が全然ないのだと思う。それが現実だ。
「会社の中に入ってもわからない」ものを、学生が理解して実践しよといわれても、さすがに無理だ。
学生に文句言いたいなら、まずちゃんとした基準を持つ。自分というものを持たないまま他者を批判していいのは中学生まで!
優秀そうだから、話がうまいからといったフィーリングでおぎやはぎを採用ような企業はどこか問題がある。(おぎやはぎを批判シてない。彼らは本当に優秀だろうから)
論理的にはかなり怪しいけれど(※)読者の感情を揺さぶる形で学生の勘違いを指摘してる記事があるので引用する。
就職活動の直前になると、自分自身に少しでもハクをつけたいからなのか、
「資格の勉強をしようと思います」「インターンを見つけて行ってこようと思います」
資格を取ったりインターンを経験したりしたことそのものが就職活動にプラスになるわけではないってことです。
例えば、TOEICで920点を取ったとします。だから就職に有利になるかというと、それ自体がすごく有利に働くことはほとんどありません。
むしろ、「TOEICで900点以上という職種はないかな…」と自分自身で職種の範囲を狭めてしまったりして、逆に自分の可能性を縮めることの方が多い。
「920点取りました」ということ自体は、大して意味がありません。「私は、TOEICで920点取りました!」「なるほど。…それで?」と、その後を聞かれます。
「920点取ったから、何ができるのか」「920点取ったから、どうしたいのか」といった、その後が重要なのです。
そういう話をすると「言っている意味が分からない」という人も多いので、身近な例に置き換えてみましょう。
例えば、定食屋や中華料理店に行ったとします。何か食べたいとしたら、何と言うでしょう。
「私は、920円を持っています!」「そうなんですか。…それで?」と、店員さんはキョトンとしてしまいますよね。
保持しているモノを自己申告されても、何を与えたらいいのか、何を求められているのか、提供する側は分からないわけです。
「920円持っているので、麺類が食べたいです!」「920円持っているので、杏仁豆腐を食べます!」
などと言ってくれれば、「かしこまりました」とか「こちらもお勧めですよ」とか、提供するものに関する話が進んでいくわけです。
それと同じことで、資格や体験を「持っています」と自己申告するだけでは、相手は何をしていいかさっぱり分かりません。
920点持っているから、何ができるのか、何がしたいのか、ということを明確に伝えなければ、全く意味がないのです。
とは言っても、「920点持っているから、英語でコミュニケーションができます!」
とかいった自己PRも、大したPRにはなりません。資格に見合う強みではないからです。
「私はTOEICは受けてないけど、英語でコミュニケーションができます!という人と、言っていることは大して変わりません。
「資格は何を持っています」「こんなインターンをやりました」ということ自体は、そんなに有利な条件ではありません。
「いや、そんなことはない」と反論したい気持ちも分かります。「この学生はTOEICで920点もあるなら、英語ができそうだな」と思われるからいくらか有利、と思うかもしれません。
でもそれは、「この学生は九州生まれだから、九州のお客様と仲良くなれそうだ」ぐらいの、個性レベルの長所に過ぎないのです。
今どき、資格を持つとかインターンをするといった程度で目を見開くような採用担当者はいません。
そんなことが採用の可否に影響していたのは、昭和40年代ごろの話です。
だから自分は何ができて、自分は何がしたいのか。そういう、その後のことを伝えなければ全く意味がありません。就職活動は、自慢大会ではないのです。
これはガチです。
ほんとに企業の意識としてはすでにこんな感じなんですよね。社会人なら誰でもうなづくでしょう?
現実はこっち側なので、学生側も早くこれを受け入れたほうが、結果的には楽なんですよ。
というか、普通に考えて、これってすごく自然なことだと思いません?
一括採用って前提を無視して、一対一のコミュニケーションで採用を考えたら、こんなの当たり前ですよね。
少なくとも、一括採用とか早期採用に反対なら、シグナリングなんて無効になって、こっち方向になるよってのは受け入れる必要がある。
現時点では、学生は目的の企業よりも就活サイトとか就活本の方が「近い」んです。
学生は基本的には安易なメッセージの方向に流れようとする。それで下流喰いの代表格である就活ビジネスにまんまと引っかかるわけです。
この氷河期になっても、今まで自分でなんにも考えたことがない、なんにも考えたくない、答え「らしいもの」が欲しいっていう人は、
未だに彼らのあまーいメッセージにひっかかる。
こういうのを、甘えだというのは簡単です。私もそう思うよもちろん。
就活サイトを活用してる会社であれば、就活サイトが寝ぼけたこと言ってるなら、ちゃんと文句を言う。
そこまで出来ないなら、少なくとも自分の会社に来る学生だけには、ちゃんとしたことを理解してもらう。
そうしないと「イラない学生」「甘えた学生」ばっかり集まってきますよ?
というか、現状そうなってますよね。それで文句言うっておかしくありませんか?
甘えた学生しか来ないと嘆いている会社は、その原因が自分がやるべきことやってないからだってことくらい認識しろ
まとめ
就活は、コミュニケーションです。コミュニケーションに第三者を挟むな。
「グローバル化の話」でも書いたのだけれど、
・コアの部分があるならまずそっち!
・コアの部分が固まってないなら急いで考える!
・コアの部分がないような企業は滅びろ!
twitterからグローバル化まで何でもそうなんですが、道具の部分でごちゃごちゃ喚くな。うるさい。
twitterのローカルルールとか、匿名か実名かとか、そんなことはどうでもええわ。
何か語るときに「自分が何者か」「自分がどう思うか」を起点にして語れない奴は滅びろ。自分のない意見はつまんないんだよ。
こういう事言うとすぐ自分の都合の良い用に勘違いする奴いるけど、「自分探ししろ」とか「自分語りしろ」って言ってんじゃないよ?
探さないと自分が見つからないような奴は、他人の文句言ってる暇があったら、何でもいいから必死になってやってみろって言ってんだよ?
最後に一つ。学生は、就活で悩んだら、まず親に相談してみること。
どこそこに就職しろとかいう話は無視していい、どういうことを考えて仕事してるかとか、何を支えに仕事してるかとか、会社の新人の話を聞け。
「実際に仕事をしている人」と仕事についてコミュニケーションができるかどうかは致命的に大事。
その中で、一番自分を知って、かつ遠慮無くコメントしてくれる可能性が高いのは親だ。まず親を避けるな。
必ずしもまともな話が聞けるとは限らない。それならそれでいい。ただ、まず就活サイトとか就活情報を通さずに生の声を聞く。ここからスタート。
特に女子学生はこれやるとやらないで全然変わってくる。自分の親をクソだと思ってる人こそ、それこそ圧迫面接に耐えるつもりでやってみ。
基本的に、就活の面接なんぞ親(他の社会人でもよいが)と仕事について3時間くらいぶっ通しで話せるようになれば楽勝です。いやまじで。
本来こういうのはそれこそ「就活ぶっ壊せデモ」をやってた奴らがきっちり問題を整理して、自分の主張としてしっかり訴えていくべきことだと思うんだがな。
あまりにむしゃくしゃしたので怒りにまかせてこの記事書いた。口調が悪くなって申し訳ないけれど、ほんとに頑張れ。オレも頑張る。じゃあの。
というまとめが話題になっているけど、創作だろ、事実だろと言い合っているのもちらほら見られた。
個人的には、創作だろ、と思って、それゆえに途中からスクロールして結末読んだ。
たぶん、ちゃんと読んだら感動するんだろう。
なので内容については批判はしないけど、創作を事実として提示することについて感じたことをメモっておきたい。
もちろん、
創作だと分かっているよ、その可能性はあるだろうよ、でもさ、別にいいじゃん、書いてある事が良ければ
という意見があることも分かる。本当はどちらかというと、そのポジションでありたい。
「別にいいじゃん、書いてある事が良ければ」よりの考え方である根拠について。
昔、4日間の奇跡という小説を読んで文章あまり上手くないなあと思った。でも、最後まで読んでちょっと泣いた。
創作でも、文章や構成が甘くても、表現しようとするものが確かであれば評価されるべきだろうと思う。
2chまとめでも、イラスト描くようになって同じ趣味の彼女もできたけどイラスト勧めてくれた親友が亡くなった話とか、
風俗嬢を好きになって親友と一緒にAV出演の契約をさせられようとしている窮地を救う話とか、
ああいうの読めるし、いい話だなーって思う。でもゲーセンは読めなかった。
たとえば、あの話の導入部分で違和感を感じた箇所が二点あった。ちなみにこの違和感は4日間の奇跡の文章に感じたものに近い。
一つは、少女と喫煙所で会話をするシーン。もう一つは、イラストと口にした途端、少女が暗くなるというくだり。
細かくは書かないけど、どっちも不自然だった。(そしてそれ以降スクロールした)
些細かも知れない。でも自分で小説書いた事ある人なら分かると思う。
登場人物の立場だったら、どういう振る舞いが自然か、自分の好みやご都合主義が混ざってないか推敲する。
作者の偏好や、その状況の想像不足、物語の展開のため仕方なく不自然になってしまったシーン。
創作ならその不協和音を作者の稚拙さということにして、読み進められる。
ん?ここ作者の個人的な好みで展開しているよねってことも、その作者の傾向として許容できる。
だけど、それが現実にあったこととして語られると、その不協和音はどこで解消すればいい。
事実と言われれば受入れ難い展開も「事実なんだから」と否定できなくなる。「事実」にはその強要がある。
あの話は不協和音の方が強すぎた。その不協和音は事実というの名のもとに感性への受け入れを強要し、受入れ難いあまりに拒否感を起こさせる。
創作と知っていれば、作者の個性や技量ということにして看過することができたのに。
「そうとは言ってもあれは創作」と鷹揚に構えられないのは神経質なだけと言われればそれまでだが。
まあでも、他のまとめを押しのけてああいうのが盛り上がるのは、ギリギリ有り得ない感だからこそかも知れない。
常にトップを雌雄していた。
GLAYの曲を始めて聴いたのは
「口唇」だった。
徳光さんとエミリーさんが司会だった
小5の心にも響いてきた。
理由が無いのに惹かれることほど、本物の感覚ってないと思う。
■直接対決
Mermaidとstay awayの同時発売はとても刺激的だった。
(確かどっちも初登場週は50万枚近く売れて僅差でGLAYが一位だった記憶がある)
周りにGLAY好きが多かったせいもあってか
そして今もなお(というか今になって響いてくる歌詞の方が多い)
前置きはこんな感じ。
どっちを好きだったかということで
なぜか最近になって思った。(なんのエビデンスもソースもない感覚的なことなのだが)
勝手な印象として
が、
支持される根底にあるような気がしている。
深層が分かっちゃう?かも??知れない比較を下記に羅列してみる。
■外見
ラルク派は見た目ハデ。服装も主張している気がする。
GLAY好きは調和が取れている感じ。あるいは、こだわりがあるか無関心かハッキリしている印象
■性格
■SM
ラルク好きはS
GLAY派はM
のような傾向がある気がする
■職業
職種というよりは
動き回るか、
腰を据えて働くか、という事に
ポイントがあるような気がしている。
■恋愛
GLAY好きは
どうも魅力的に写るのに恋愛はうまくいっていないケースが
多いように思える。
優しすぎるのかしら。
■音楽
■音楽②
■異性の好み
■異性の好み②
■サッカーチーム
…
とまぁ
なんの根拠もない妄想的な推察を
綴ってみました。
何を好きか?によって見えてくる自分ってあるなぁと最近は思っています。
特に理由が明確でなければないほどに。
これはきっと、好きなものは
そんな事を綴っているうちに思ったのが
「なぜ、この人が好きなのか?」という事を考えていくと、
相手という鏡を通して自分が見えてくる。
そんなことが言いたかったのかもしれません。
…
これと言って意味はないです。
脳の整理というか、とりあえず文字にしてみることで
脳にスペースを空けたという感じです。
http://kakopipe.blog38.fc2.com/blog-entry-385.html
身体の大きなクマみたいな青い眼のオッサンが、こんなこと言ってた。
スケベが見ればスケベに見える。
優しい者が見れば優しく見える。
みんなの言うことを聞くとわけわからないよ。
けど一枚の鏡だと思えばどうだい?
http://vipsister23.com/archives/5037013.html
たとえば私はこれ見ても、全然アニメのDVDを買おうという気にならなかった。
ところが筋トレスレのプロテインオススメとかはかなりの確率でポチるんだよね。
で、これ読んでみた。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2011/12/post-9dbf.html
● 一番多いのは「詳しくないけど、必要に迫られて」
クチコミというのは「特定の趣味に根ざした友人間での情報交換」よりも、「必要に迫られて買う場合の選択肢の増大」の方向へ作用するものじゃないか
刹那的に「いま、求められる情報」「いま買わなければならない商品、サービス」というよりは「そういえば、あいつがあのブランドの製品が良いって言っていたような」という情報のトリガー
長い時間をかけて、あまり自分で触らないような例えば幼児用おむつに対する評価だったり、航空会社、証券会社、弁護士事務所など、素人にはぱっと見違いが分からない分野においてより手にとってもらえる可能性が高まるためのフックを作る
以下、特に結論なし。私が思ったことを書いてるだけ。
あと私は口コミを「無個性な多数の紹介をまとめたもの」と捉えているので、そのつもりでお読みください。
なるほどなー、と。特に3つめの「長い価値」ってのは最近なんとなくわかってきたかも。長い価値というか繰り返しが大事というか。
「おすすめ漫画」については2ちゃんサイトを見て買うことは殆ど無かったけど、最近ちょこちょこ買うようになってきた。
10回くらい繰り返しいろんなサイトでおすすめされるとようやくさすがによんどこっかなーみたいな気分になる。
単にこれがオススメって言われるだけの場合、一回言われた程度では心動かないかも。
これとは別のパターンとして、
去年の11月くらいに、どっかの2ちゃんまとめが、みんなではなく個人のラノベオススメ○選みたいなのを紹介してた。
んで、それが一時的に流行ってたけれど、これについては購入率はちょっとだけ高くなった気がする。
ただし、その人との感性が合うかどうか次第で、紹介車の個性がかなり強く出てるから、口コミとはちょっと違うかも?
Amazonの「これを買った人はこれも買ってます」のオススメは、基本的に利用しない。
あえていば、すげえ気に入った作品があって、それのAmazonレビューを見た時、自分と同じような評価をしている人が
「この作品の元はこれだと思う」とか「この作品を読めばもっと楽しめる」とか「この作品を読んだ後これを読むと感動した」
みたいなコメントと一緒に紹介してれば買う。 これも口コミとはちょっと違う気がする。
ちなみに、個人的に好きなサイトの管理人さんがおすすめしてる本は、ほとんどノータイムで買う。説明が豊富だしね。
これはもう完全に口コミじゃなくて、セールスとかその人のメディアブランドに属する話だと思う。口コミによる商品ブランドとは違うよね。
結局
amazonレビューはまったくあてにならない。必要なのはクチコミの量じゃなくて、自分のスタイルにあった批評者をすぐに見つけられるシステム
というありきたりな結論になるわけで、基本的には2ちゃんまとめって見ても意味ないはずなんだけれど、それでも繰り返しの魔力ってすごいな、とか。
あと、美容系など、自分が全く知らない系はついうっかりポチってしまったりするから怖い。
「とりあえずないよりはなにかためそう」が一番のターゲットなのかな?
ずっと違和感があったことなんだけど。
本当はみんなが面白がってる物の何がどう面白がられたのかすらわからないんじゃないだろうか。
ツイッターで他人のヒットツイートを自分のもののようにパクってることがあったけど
単にみんなの反応があったツイートを機械的にピックアップしてたんじゃないのか。
あの人のブックマークを眺めても
「世間ではなにが流行っているかな?」っていうフォロー意識ぐらいしか感じない。
そういうのが無いと、すごくボンヤリした市場リサーチにしかならない。
方針が定まらないまま市場観測してるみたいな感じのボンヤーリした手触り。
口調は「です!」とか「しました!」とか一見元気がいいけど
あれも「!」の意味を心で理解したことがないままやってる擬態じゃないのかな。
2chまとめってあれも実はセンスや技術で全然面白さが変わるんだけど、
あの人の2chまとめぐらい面白くなくてぼんやりしたまとめってむしろ常人には作れない。
そのへんの中高生でも彼よりは上手く作ると思う。
技術がなくてまとまりが悪くても、その子なりに面白いと思ったとこが強調されたりしてると思う。
本人はどこも面白いと思ってなくて、他人がどこを面白いと思うかもわからなくて、
読む人間の感情の流れなんて全然想定できないまま、理解できない文字の羅列を並べてる。
もはやヘタクソって言うレベルを超越してて、
それをこれまでは「物を作るセンスがない」「ひらめきがない」みたいに評してたけど実はそうじゃなくて
そもそも面白さを感じるための脳の機能が全然無い人なんじゃないのかなあの人。
世によく言われる「才能が無い」っていうのは正確には「才能が足りない」んだけど
あの人は本当の意味で「無い」のかもしれない。
ただの低センス者であった編集長とは全く質が違う。
無センス者。
それの亜種なのではないだろうか。
おハロー。
聖おにいさんはオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。
http://anond.hatelabo.jp/20081210172325
とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。
http://anond.hatelabo.jp/20091216230059
「このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!
http://anond.hatelabo.jp/20111224192828
を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。
「かわいそうだね?」
って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞のネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。
はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大の自分を直視できないのかねえ。
「格好をつけないことで、格好をつけている」
「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」
やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。
ぼくはきみたちの断末魔の叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートはエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。
ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。
これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。
きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかにカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね。東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。
では、いきますよー。
「ボンクラ」なんていう安っぽい価値観で連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスターの宇多丸や町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。
「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。
中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。
自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚のフンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。
彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸のラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。
そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画のポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。
この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフルで宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画、町山智浩がキラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画をネタにしているのを見たことあるよ」でも可。
「人生で大切なことは、すべて伊集院光のラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。
映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャーを必死に否定してくる。「最近のアニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。
自分が中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画やアニメは伊集院が褒めるものだけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。
映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットのMP3音源を違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴や職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメな自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。
もうなんでもあり。
こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛な自己肯定は。
「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽな自分を必死にデコレートしようと頑張っている。ビレバンに下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分がビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。
こういう奴がセンスいいと思われたい一心でカルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画が悲惨な犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。
なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍なマリオネットたち。
こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。
さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローをリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。
もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。
そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆
はてブやツイッターなどの安全圏からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。
文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ。
大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後に勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。
このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報をいかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。
以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者4タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性が大事」という間違った教育と、「作品の解釈は受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。
確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。
ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督の紀里谷和明か、小説家の岩崎夏海くらいか。
特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代のクリエイターズ・バイブルだね、この本は。
みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽな自分を直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスもプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。
http://opitziu.hatenablog.jp/entry/2011/12/14/220016
わかってないよ、おまえ。凡人であることを主張するあまり、自分が「虚栄心の奴隷」になることを恐れるあまり、おまえは大切なものを捨てようとしている。それは向上心や自尊心とかプライドとか誇りとか呼ばれるものだ。そしてこれらは、虚栄心とは異なるのだが、凡人にはすべて同じように見えるのだ。凡庸な人間の目には、すべて同じように見えてしまうのだ。自律できない人間の目には、虚栄心だと映るのだ。馬鹿だ。
向上心を虚栄心だと変換された人間は、どう思う。化粧をする人間は、「少しでも自分を美しくしよう」という向上心、もしくは自尊心を持っているのではないか。これは虚栄心ではない。見栄っ張りではない。現にそこには美しくなれる手段としての化粧があり、肌の手入れがあり、スキンケアがあり、美容のための、半身浴が、食生活が、睡眠が、存在する。これは虚栄心なり哉?
認めてもらいたくてお金を稼ぐのではない。お金を稼ぐことが人生の目的になっているのではない。お金が大切だという人間は、お金を使うことができないからその人生は不毛である。しかし、「お金がないけど楽しめる」というのは、まさに向上心の放棄であり、自尊心の欠落であり、プライドの自堕落である。誰がそんな人間を魅力的だと感じるのだろう。努力することをやめようとしている人間に魅力があるというのか。なぜなら、お金を稼ぐことが目的となっていないのであれば、お金を稼ぐことによって楽しめることが増えるわけであり、それは結果的に人生をより豊かなものにすることになる。
虚栄心の奴隷を扱きおろしたおまえの文章は、どっからどうみても、「向上心を捨てた人間による言い訳」にしか見えない。つまり、向上心の放棄に対する後ろめたさからくる、圧倒的な虚栄心によるものなのだ。誰の目から見ても、虚栄心の奴隷はおまえであり、おまえの虚栄心はそのエントリを書くことによって満たされたことだろう。虚栄心の奴隷はおまえの方だ。
自分がどう思うか、ということに焦点を当てて人生を贈ろうとしているぼくにとって、おまえのそのエントリは心にまったく刺さらなかった。虚栄心はコントロールできないのだ。好きな人によく思われたい。尊敬する人によく思われたい。不特定多数の人に共感されたい。全方位的にモテたい。人の欲望というのは際限がなく、まただからこそ生きる原動力になる。
果たして、本当に「自分」というのは存在するのだろうか。人間は関係性の中で生きている。「自分」というのは、その関係によってその都度その都度規定されていくものであり、枠組みが違えば変化するものである。会社では偉い社長でも、家ではクソダメな親父ということがありえるように、関係が違えばそこの論理だって変わってくる。人は、評価してくれる他人がまずそこに存在して、はじめて「自分」というものを見つけることができる。
だから、虚栄心はあって当然なんだ。自分が思っている自分というものが、そもそも虚構なのかもしれないと思いつく人ならばそうではないのかもしれないが、自分の持っている感覚を疑うことが出来る人というのはやはりどこか人間味があるとは言いがたい。だから不毛であるとわかっていながら、理解されないことを嘆き、「自分」探しの旅に出かけようとし、結果、「自分」が何であるのかわからず終いで終わる。
没個性化が進む大学生ども、自分の頭で考えろ。何のためにその企業へ行くのだ。何がしたくてその企業へ行くのだ。自分に正直になったとして、自分の感覚に正直になったとして、それは果たして本当の「自分」だと胸を張って言えるのか。目標を失った人間はおもしろいだろうか。夢を持っていないと公言する人間はおもしろいだろうか。
騙されるな!
こいつは、「理想なんかいらない、理想なんか捨てろ。人生の目標もいらない。それらはみな、叶えられなかった場合に自分を苦しめる原因となる凶器だ。」ということを主張することによって、虚栄心を満たしているクズだ。騙されるな。「俺はその辺の学生とは違う!俺はその辺のクソみたいな凡人とは違う!俺は自分が凡人であることに気付いている!」と主張しているクズなのだ。
凡庸であるということに気付くことと、そこから抜け出す意欲を持つこととは、また別の話だ。それは断じて虚栄心によるものではない。向上心によるものだ。そしてかの有名なKは、向上心のない者を馬鹿だと呼ぶ。これに従うと、馬鹿なのはおまえだ、opitziu. プライドを持て、自尊心を持て、向上心を持て。そうすれば、虚栄心は自ずと消えるのだ。自分を実質以上に見せようとするのではなく、現在の自分以上の存在になろうとするのだ。
「虚栄心の奴隷」で何が悪い おまえが捨てようとしているのは虚栄心ではなく、向上心だ。自分に自信を持て。そして、そのまま加速していけ。自信がないなら、「若さ」を誇ればいい。現状認識が済んだら、足を止めるな。一歩でも前に進め。
「虚栄心の奴隷」から逃れる方法があるとすれば、それは向上心によって常に実質以上の自分になろうとすることであり、現状認識と将来への努力とは別に語られるべきものである。最悪のケースを想定して、それに備えることができたのならば、進め。
おまえは他人の努力を揶揄するような人種になってはいけない。そうそれは、「意識の高い学生(笑)」と笑うことによって虚栄心を満たしている凡庸な学生と同じ人種になってはいけないということであり、おまえの書いたエントリに偉そうにコメントを書こうとするも考えをまとめることすらできない馬鹿な学生(そしてそいつらは総じて「意識の高い学生(笑)」である)と同じ人種になってはいけないということであり、海外の良いところと日本の悪いところを比べて日本オワタ論を唱える外国かぶれと同じ人種になってはいけないということであり、そして、こんなエントリを書くようなクズになってはいけない、ということだ。
特に近頃、空気が冷え込んで来てからは、二人に一人くらいはマスクを着けていると言って良いだろう。
「冬だね!マスクしてもいいよね?」
と言わんばかりにだ。
マスクの一般的な使い方として知られているのは、咳などで風邪を他人に移さないことと、外部からの菌等を防ぐための2つだと思う。
風邪を患うといっても2人に1人という高い割合になることはさすがに無さそうので、予防の為の着用というのが説得力がある方だと私は思うが、
果たしてそれがどれほど効果が期待できるのかは懐疑的である。つまり、予防の為に着けてると言うには着用してる人の数が多過ぎ、又効果の程も怪しいのである。
特に電車内でマスクを着ける人は多いと思うが、ではつり革に触ったあとで必ず石鹸で手を洗う人はどれ程いるのだろうか。
ニコニコ動画やyoutubeで個人作品を見ている人は分かると思うが、アップしている人達の半数はマスクを着用している。
もちろん、ネットに顔を晒すことと日常生活におけるそれは全く異なることだけれども、動画上でマスクを着けるのも不思議なことに日本人だけなのである。
日本人には明らかに、自分の顔をさらけ出すこと対して抵抗を覚えるという、国民的ともいえる性質があると思う。
例えば今も存在しているのか分からないが、日本のヤンキーの象徴の一つはマスクである。
私は、これは彼ら自身を強く見せる為に着けているのではないかと思っている。
表情を読まれることは、自分の弱みを悟られることに等しいからだ。
で、結局のところ一般人がマスクを着ける理由もヤンキーのそれと大差無いのではないかと思う。
日本人は感情表現に乏しく自己主張が弱いと外国人に揶揄されことがある。
個を前面に出してゆくのは日本人の苦手とするところで、常に周りに同化していたいと感じ没個性を望む。
まさしくこれが日本人らしさで、これを適えるのにうってつけなのがマスクなのである、と私は考える。
といってもこれらは全部私一人が考えたことなのでこんなふうにネットで意見すると色々有意な反論も貰えると思うので、
皆さんの意見をお聞かせ願いたい。
大学時代、とある講義で使ったテキストに『精神疾患の要因には、遺伝的要因と環境的要因の2種類がある』と書かれていた。
教授は眉間に深く皺を刻み、苛立ちの隠せないざらついた声で、室内の学生に命じた。
「これは間違いだから、遺伝的要因の部分を黒く塗りつぶせ」と。
随分と古い文献を参照しているのだなと、教授は憤っていた。
4年前、兄は統合失調症を発症した。元々、ストレスを感じやすい人だった。
こういう病院に行くことになったから、と母から資料が手渡された。精神病院のパンフレットだった。
父は4人兄妹で、そのうち3人が自律神経失調症を患っていたことを、その時に知った。
叔父の息子(つまり従弟)が長い間入院しているのは、兄と同じ病気に罹患しているからという事実も、同時に。
笑いたくなった。父から子へと、遺伝しているじゃないか。テキストの記述が正しかったんじゃないか。
腹を抱えて笑いたくなった。偽善者め。あの講義をした教授に後ろから飛び膝蹴りを喰らわせたかった。
出来なかったので、代わりにテキストを開き、塗りつぶした箇所の上に修正テープを貼り、それから「遺伝的要因」と書き直した。
兄は、そして私も、もう結婚してもいいような年頃だ。両親にはそろそろ孫の顔が見たいと言われている。
しかし、少なくとも私は、結婚する気はない。万が一結婚することになっても、子どもを産むつもりは毛頭ない。
少し前、胎内にいる子どもに障害があることが発覚したら、産むか産まないかという討論があった。
普通の人にとって、何らかの障害を持つ子どもを授かる確率は、1000分の1とか10000分の1とかの、比較的低い確率である。
しかし、私自身の場合はどうだろう。普通の人よりは、高い確率であるだろうと思う。
障害は個性のひとつ。素敵な言葉だと思う。これが常識となった世の中は、お花畑のような素晴らしさなのだろう。
兄のことを馬鹿にするわけではないが、障害は、重い。妹である私がそう思うのだから、親として兄を背負う父母の負担は大きいはずだ。
そして、自分の子どもがそうなってしまったとき、私には耐え切れる自信はない。
兄はこれからどうなるのだろうか。障害をなるだけ軽くし、自立しようと、兄は努力を重ねている。
しかし、時折、ぎらぎらとした危うい光を宿し、家族を睨みつける兄を見ると、それは無理なことではないだろうか、という思いが湧いてくる。
父母が死んだとき、兄を背負うのは恐らく、私の役目になるのだろう。
その時に結婚していようといなかろうと、一生、兄を支えていくことになるのだろう。
それが嫌ならば逃げ出せばいい。選択肢のひとつとして、それを思いつくものの、そんな非情なことは出来ないと、すぐに打ち消す私は、家族の絆という名前の鎖に縛られている。
父は私に言う。「お前は元気で良かったな」と。
人よりも感情の起伏が激しくて、落ち込みやすいという自覚はある。
名前は色々な読み方があるが、基本的に日本人は熟語を読む際「音読み・音読み」「訓読み・訓読み」の2種類で理解して読んでいる
特殊な当て字や、音・訓を混ぜた発音でも読める漢字は存在するが、初見で不特定他者が理解出来る読み方の構成は2種類なのである。
ではその基本から逸脱した読み方を与えられた名前(=DQNネーム)はどうなるのだろうか?
以前「悪魔」という名前で申請し、役所から却下された事件は余りにも有名だが、この事件で取り上げられた「悪魔」はまだ名前として有効だと思われる。
道義上は問題ありまくりだが、誰でも読める。「貴方は悪魔さんですね?」といえば、誰が悪魔と呼ばれる人間か判別できる。
読めない名前はどうなるのだろうか?名前は世界に溢れる人間の中から個人を判別する為の大事な記号である、
その記号自体に意味を持たせようとしても無意味なのである、記号に人格や個性は宿らない。
家族と本人しか分からない、誰も読めない名前を与えられた人間はどうなるのだろうか、当たり前の話だが初対面の人は何と呼べばいいのか困惑する。
名前を呼ばれる場面だと、読めないので読み方を説明する事になる、人間から個人を判別する為に作られた記号の意味が無い。
名前を呼ばれないと、誰が誰を呼んでいるかも分からない、誰も理解できない記号に何の存在価値があるのか?存在価値を持たせる為に本人が余計な手間を他人に押し付けるのか?
素朴な名前でも、誰もがその人を特定できる中身のある人間にさせるという親の意思がそこには存在していないのである。
誰も読めない名前を与えられた子供はその後の人生を自分の名前を認知させる為に必要も無い奔走をする事になる、個人同士のコミュニケーションをとる前に。
でも辞めることは出来ない、自分の名前の読みを知らない人間しか居なくなると、大雑把にその人は苗字で区別される、そうなると同姓の人間と区別が付かない。
毎年、就職活動の時期になったら現れるのが、
「自己PRで、どのように長所を大きく言って、どのように短所を小さく言うべきだろうか」
はっきり言って愚問です。
何かの本を読んで「長所は良いように言って、短所はなるべく柔らかに」なんていうテクニック的なことを学んだらしく、
「短所は『ひと筋になりすぎることです』などと言ったら、逆に集中力があることをアピールできる」
など、小賢しいことを考え始めます。
そういう小手先のテクニックは意味がないというか、採用担当者は長所をプラス、短所をマイナスという風に捉えているわけではないのです。
むしろ言うなれば、小賢しいテクニックを使わない正直さがプラス、
小賢しいテクニックを使おうとする狡猾さがマイナス、というぐらいです。
単純に、面接官はその人の個性を見たいためであり、こんな長所があり、こんな短所があるという個性を見ているのです。
長所を誇張して短所を隠すといったことをやっても、 それだけリアルな個性ではなくなるので、
「こいつ、なんか変な奴だな。信用できないな」
と思われて終わりです。
ここまでだったら別にいいんです。別に間違ったことを言ってるとは思わない。
ただ、これをやられるとキレそうになる。
分かりやすく、スポーツで喩えてみましょう。
あなたは、サッカーチームの監督で、これから入部する選手を面接していると思って下さい。
入部を希望する選手に対して、「あなたは、どんな選手なの?」と尋ねた時に、
「自分はフォワードとして積極的に得点へ結びつけます。そしてディフェンダーとして守りもかなり固いと言われます。
また、ゴールキーパーの経験も1年間ほどあります。短所を挙げるなら、練習をしすぎてしまうということでしょうか」
「こいつ、良く思われようとしてるだけだな」と思いますよね。
というのも、サッカーはチーム戦ですから、いろんなポジションがあるわけで、
「自分はどの位置でも活躍ができます。短所はありません」などと暗に言ってくる奴よりも、
「自分は攻撃が得意です。守備が苦手です。短所はちょっとスタミナに自信がないことです」
と、端的に正直にきちんと申告してくれる選手のほうが、「なるほど、ではこういう場面で使えるな」と判断できますよね。
ポジションとそれに求められる能力がそんな明確に決まってて、それが開示されてるんだー。
ちなみに、私も割と就活は楽勝だったからかれの言いたいこともわかる。
ちゃんと考えて調べれば、ここいらのことはわかるようになってる。
どちらかというと自分のフィルタのほうが大事で、そのフィルタを通して情報を整理すれば大して苦労しない。
考え方次第で、就活の難易度はスポーツと同じどころか、それよりずっと下まで下げられる。
でも、そのやり方がわからんからみんな苦しんどるわけやろうが。
スポーツは予め向こうがフィルタを用意していて、それに合わせて努力するもの。
就活は自分でいろんな挑戦をしていく中で、自分のフィルタに気づき、見つけ出し、そこから会社を観察することを学ぶもの。
全く別のものを一緒にして語るのって、「すでにわかってる人」向けのアピールではあっても、
「わかってない人」向けの説明としては最悪だと思う。 やめたげてよぉ!
私は現在の就活自体が「能力がある人」以外にとってはもう異常なものだと考えています。
将来的に「正常なあり方・自然なやり方」になったときには、彼のような意見はとても貴重だと思っています。
ただ、今のところは、企業が「漠然とした能力がある人のイメージ」を求めている以上、学生がそれに適応すべく偽りに近い形で演出せざるを得ない状況について、学生だけを責めるのはアンフェアだと思います。
こういう話をするなら、まず「就活自体が一部の人間以外にとって異常である」というのを認めてあげた上で話しをすべきです。
まして、正常な世界と比較して、就活自体を正当化するようなことをすべきではないと思います。
(書き手の人間は「正常な状態など何時の時代もない、自分が何とかするしかない」という考えなのか、この部分をそもそも語るまでもない、と扱っているのでしょうが、自分がじっせんするならともかく、他人に語る場合、それはどうかと思う)
昔っから、この理性に、「悩まされてる」ことに気付いた。
自分を変えたい変えたい思ても遮られる。
些細な事で思考が必要以上に働く。
臆病、というのもあるかもしれないけど。
ちょっと怒られたぐらいで、気にして、自分の中で対処しようとして、対処できず、感情が体内ループして。
ちょっとfacebookの友達申請を無視されたぐらいで、気にしない自分が理想にいながら、実はめっちゃ気にしてて。
ちょっとtwitterでmention送っても返ってこなかったぐらいで、腹を立てないようにして煮えくり返って。
どんだけアタマで理解、教え込もうとしても、無駄だということ。
むしろ、それが本能を抑えてて、クセになっている。
思考をやめたい。
「いい個性じゃん」ていう見方もあるけど、いやなものはいやだ。