はてなキーワード: ゼロ年代とは
ところで、エロ年代の想像力って知ってる?ゼロ年代の想像力っていう2000年代のサブカルチャーの批評本のパロディ。
2000年代のエロアニメの批評してる本とかサイトらしいので詳しくは検索で。
最初そのパロディを知った時はすごいいい着眼点だと思ったけど、コンセプトの「未来のエロの想像云々」で、自分が思ったこととは違う事に最近気づいた。
自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
ゼロ年代なんて複雑すぎて無いに等しいようなどうでもいいものなんだけどゼロ年代のエロアニメにまで焦点を絞ると確かに
マニアックだからこそ明確な変化があると思った。しかもそれは意外に最近の傾向と関わりがある。
それはエロ年代では半ばに一つのエロアニメのレーベル、グリーンバニーが資金難で消えたことに象徴される。
今思うとこの会社があった頃までは火の車なのが見て取れるクオリティーが多々ある作品を出さざるをえない業界にも関わらず、コピーのコピーのコピーだとしても
物語もエロと同じくらい随分と凝ったものが多かったように思う。だからこそ妙にシュールな雰囲気に惹きつけられるものがあるとさえ思わせた。
それにそのシュールさを極めた人はエロの枠を火の車からか、意欲からか飛び越えざるをえないのかもしれない。結構メジャーな所で活躍してますからね。名前変えたり変えなかったりして様々な方面で。エロ年代は縁の下の力持ちなのかもしれませんがここでは割愛。
最近のエロアニメはそういった雰囲気は無視して、エロに突っ走るので本来はこっちが需要に従順で正しい。それに最近は美少女文化の社会での浸透率の高さがあると思う。
つまり、一々物語から順を追ってエロしなくても「二次元美少女」は無条件に主人公(特定の青少年)に惚れるよ!⇨(エロいとこ観れるかも!?)ということがあらゆるサブカルチャーっつーかもうメディアを通して誰にでもわかるパッケージ化した社会になったということ。
つまり自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
最終的にこの文脈で行くとけいおん!だってすごい。なにがすごいって「「二次元美少女」は無条件に主人公に惚れる」んだから主人公(特定の青少年)を消して「誰にも惚れない美少女」というある意味偶像の境地をパッケージ化してんだから。
ワールド・ワイドなウェブ上のコンピューターネットワークでハイパー・テキスト・トランスファーをプロトコル方式で
音声バイナリ。128kbps 44.1kHz ムービング・ピクチャー・エクスパーツ (MPEG) 音声ファイルが東京ポッド許可局
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「聴いてみっと、インタレスト、インターネットのゲットーで行う The無節操 つっこみ高ボケ低の世間に
悪性のエンターテイメント ミニマルかマキシマムか突き詰めれば0点か 真っ赤なズポーツカー
現象ピックアップ、言語カットアップ、セッションビバップ、汁はタッパ、ユーモアの人 マキタスポーツ」
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「わかります、わかりますそれ、ウサギ飼う心優しきなりすまし詐欺 愛の手差し伸べる合いの手病
ガムいる?いらない 半信半疑 プロレス、プロレス、プロレさないときOL気分 オヤジジャーナル
過去フラッシュバック 鶴田バックドロップ 見立てはポップ 見かけはキュート ザワッとウィットの人 プチ鹿島」
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「女は感情 男は理屈 理屈以外になにを信じればいいの オンリーな論理は孤独ロンリー 大切な人1000年後の友だち
ソシュールのルールでシュール考える BL パクられる 論をセットアップ データバックアップ 議論ヒートアップ
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「ポストゼロ年代の現在、私たち人類は科学と技術の発展により。エネルギー資源の限界、生態系の崩壊、道徳の退廃、
限界、崩壊、退廃、Technostress、to the breath, yeah!
network architecture 密室的に消費され続けるギフト化する物語、我々人類が住む、地球というamenity space where?
いったいどこへと向かおうとしているのでしょう。これからはじまる気になる show!」
それはただの傲慢だよ。
反例はいくらでもあるが、搦め手としてゼロ年代のゲームオタクが生み出した最大最悪の二次創作「ゲハ戦争」がコミュニティに何を還元したのか考えてみればいい。
加えて言えばオタクはコミュニティ外のものを当然のように収奪する。
オタクコミュニティ以外の、例えば映画やドラマをネタを引っ張ってきた同人誌を読んだことはないか?ニコニコで洋楽や邦楽を無断使用した動画を見たことはないか?それらは正しく元のコミュニティに還元されているか?
スラムダンクやジョジョやハンターハンターなど有名漫画は海外文化(ファッションやアート)からトレスによって平然と収奪しているが、不買運動を展開したことがあるか?
答えは「NO」だ。「俺たち」は他文化の収奪には抵抗を持たない。
これも的外れだろう。
今オタク言論で主流のゼロ年代、そしてこれから生まれる10年代のオタクは迫害の歴史を歩んでいない。にも関わらずコミュニティの排他性を継承している。
なぜならこの攻撃性は迫害の歴史が生んだのではなく、韓国文化の流入に激怒しスポンサーに突撃するような、典型的な日本人が持つレイシズムが源流にあるからだ。
アメリカは「俺ら」側として洋画を許容し、韓国は「彼ら」側として文化を抹殺しようとする不寛容さを、「日本人の外れ者」のはずのオタクが色濃く引き継いでいるのは皮肉な話だね。
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「現代アートコミュニティは〜著作権者の申し立てまでもに反逆する気はない」については、今後のカオス*ラウンジの動向に注目していこうと考えている。
動向に注目するまでもなく、法に逆らうことはできない。
「俺」の作品が奪われたならば訴えればいい。それが文明人として正しい態度だ。
「俺ら」の作品が奪われるかもしれないと恐怖に怯えるフリをしているが、実際に「俺ら」の胸の内にあるのは怯えなどではなく弱った獲物を追い詰める、野蛮な肉食動物の歓喜じゃないのか?
むしろ、彼らには彼らの信じる「現代アート」を徹底的に突き詰めて、オタクコミュニティも納得する作品を世に出すことを望んでいる。
その未来はありえない。
オタクコミュニティの不寛容さは、一度敵対した人間の作品を評価することはないだろう。より正しく言えば、評価することを許さない。今現在にしても、評価した人間も敵と見なされる。それが、永遠に続く。
まだ宇野氏が「善良な市民」というHNを名乗り、ウェブサイトで萌えオタ批判に熱心だった頃、私は彼の言説と2ちゃんねらーの煽りとの区別がつかなかった。批評家っぽい言葉を使う2ちゃんねらーだな、と思っていた。その後、東浩紀批判を展開し、「東浩紀の劣化コピーがうんたらかんたら」と言っているときは単なる喧嘩屋だと思っていた。
今でも彼の言葉選びや論説には意地の悪さを感じるときがある。性格が悪いなあ、と思わず呆れる。
しかし、それでも彼とブログで息巻いているだけのほかの凡百の批評家気取りは違う。彼は「ゼロ年代は決断主義の時代だった」と主張し、その正当性は確かに認められ、コンテンツ批評の刷新に成功した。その際、展開したエロゲー批判、萌えオタ批判はいささか強引ではあったが、デスノートや仮面ライダーなどを俎上に上げ、「数字」という誰の目からも明らかな根拠でもって想像力の主流が変容したことを浸透させた。
また、批評の対象にジャニーズドラマやNHK連続小説を持ってきたことも見逃せない。これらの作品は大勢に受容されながらも、批評家たちのあいだでは「ないもの」とされてきた。コンテンツとしてまともに認識されてなかったのだ。宇野氏の活動が批評の対象を拡げたことは、確かな功績だ。
ほかの批評家気取りが有名な批評家の言葉を真似てしか語らないのと違い、彼は自分の言葉でほかの人間が語っていないことを文章にした。彼の作った言葉には「レイプファンタジー」「サークル貴族」などいまいちなコピーはあるが、「ゼロ年代」「サークルクラッシャー」は、これらの言葉が出てきたことでずいぶんと語りやすくなっただろう。そして、それら自分の言葉、自分の考えを雑誌にしたり、商業媒体に売り込んだりする努力を怠らなかった。
やれSFだとかそれファンタジーだとかいけ魔法少女モノだとかまたゼロ年代だとかいう文脈で語られるまどか☆マギカ。
だけど私は思う、まどか☆マギカは徹底的なリアリズムだ、第三話以前と最終回を除いて。
もっとも、その除かれた物も、現実の只中にある視聴者が希求してやまないものだった。
一部の人間は日常の延長としての水着回を、あるいは美化された青春に永く留まっていたかった。
現実を突きつけられた視聴者は少女たちの救済を願って止まなかったし、事実それは達成された(視聴者の意図とはずれようとも)
少女たちは友人の死、避けられない宿命、隠されてきた歴史、対価と代償、資源枯渇の様々な現実を見せつけられ、翻弄された。
そしてそれは「よりよい終末」という政治的な解決(そしてそれは因果律を書き換えるほどの困難)によって救われる。
さて、なぜこれがリアリズムなのか。
数年前、蟹工船がブームになったのは、まだ記憶に新しいだろうか。
内容や当時の潮流などはさておいて、平成の世にまたブームが巻き起こるのは当然理由がある。
もちろんそれは今でも色褪せぬ現実がそこに描かれていたからにほかならない。まさに共感による再燃である。
つまり、文学的、思想的な背景は無視され、そこに描かれた現実のみが人を動かしたのである。
むろん、そこからの解釈は薄いと言わざるを得ない。表層的な一致が、ブームにつながったのだから。
しかしながら、それは今となっては関係がない。理解の程度はブームとは無縁なのは、バナナダイエットが示したとおりである。
さて、リバイバルヒットというのは、ときに悲しい事実さえも教えてくれる。現実は変わっていないということだ。
悪く言えば、成長していないということでもある。
いつか働かなくても生きていける社会が来ると、望んでは嘆き、を繰り返す。
そしてまた時が経って再評価されるのである。
いつか、まどか☆マギカが忘れられたときに再評価されるだろうか?
それはわからない。
報われない彼女らと、報われない私を重ねて。
人間には社会に対する抵抗力が全然ありませんだからボクも必然的にこうなりました、みんなもそうでしょって論理は
僕らはゼロ年代として辛い状況だったので今僕がこうしてるのはしょうがないんですってか。
じゃああの頃はバブルだったからしょうがなかったんです、って言い訳を認めなさいよ。
上の人がずるしてるとか言わない。時代がそうだったんだからしょうがない。
全部時代が悪かったのです。そして今はもっと苦しい時代だから皆で一緒に苦しみましょう。頑張ろう日本って何も考えずに言ってりゃいいじゃん。
時代の話をするなら、オタクなんてそもそも80年とか90年の頃は否定されなきゃいけないだろ。
あの時代は人間のクズみたいな存在だっただろ。なんでその存在が胸をはって時代を語ってるわけ。
人の話をするなら、世代で分けるより 「この体験があるかないか」で分類されると思うんだが。
その体験があるから今の俺があるんだっていったほうが、聞く側としては納得できるよ
お金があっただの無かっただのって
今現在25歳以下程度なら、「高い」頃に自分で接続料金払った経験もなかろうから、ある意味生活実感の埒外であり、「大昔」という感覚は妥当するかと
みたいな分析のほうがよほどまし。
少なくともゼロ年代の人間が「貴族的な人間」「特権階級とか特殊な力を持った人間」を中心としたファンタジーを求めなければいけなかったのかって考えもしなかったなら、オタクとしてダメダメ
http://anond.hatelabo.jp/20110518205435
わざわざ太字で書いてるけど、これは一年前に論破されてるよ.
そもそも2ちゃんねるというのがある種の欲望のはけ口であって、という点からするとそれはそれで完結したいい話かもしれないけど、そのような前提が忘れ去られているのか隠蔽されているのか知らないけど、そのような欲望の排泄物をベタにありがたがるってのは、やっぱりその「批評」の敗北じゃないの。
「ゼロ年代」とかの問題は、本当は各人が別の事話してるのに、なんとなく同じことを話してるかのように話が進んじゃう事だよな。
そういう前提条件の違いは、本田何某とか東何某とかが、不特定多数の自意識を満たすために垂れ流す分にはいいんだが、評論を戦わせる場になると致命的。
結局「定義」の話になって、各人が自分に都合のいい定義をしてることが発覚して、「これだから○○は・・・」みたいな属性攻撃に移っていくのが、日常的光景。
まあ、いずれにせよ2005年までのゼロ年代と呼ばれたものとそれ以降ではかなりオタク文化が異なっている事を体感として周知してないことには、ゼロ年代の総括なんか出来やしないよな。
あと、CLAMP的なものをサブカルと呼んでいいのなら、サブカルの歴史をフラットに総括できる奴は多分いないよw
女の子側のサブカルの話になればなるほど、彼女らのゼロ年代で鍛え上げられたSNSをベースとしたステルスコンテンツ消費を知ってないとむりぽ。ケータイ小説も含めて、なんだが実態としての女サブカル者の動向は隠されまくっている分当事者以外には分からんw
批評クラスタの悪いところは、この増田にも表れているように、「ゼロ年代」とかの言葉に必要以上の意味を持たせちゃうことだよな。
こうした言葉は、人によって受け取り方が違い、かつ適度に都合よく解釈されるため、みんなが勝手に納得しちゃう。
一つ一つ言葉を尽くして説明しても「みんなが納得できる」文章が、本当にいい文章なんだけどね。
普通の人がそれをやると、細かいところで行き違いが起こるから(つまりは実際のところ細かい分析などしていないから)、「ゼロ年代」とかに逃げちゃう。
「批評クラスタの人」(あえて使ってるけど、この言葉で想定する層も人によって違うはず)にとって、とても都合がよい言葉なのだよね。
何かを言った気になれるし、何かを知った気になれる。
「ゼロ年代」と対比して、「80年代」や「90年代」で「けいおん!」が流行る可能性の検証や、その根拠も語られない。
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。
90年代に「ぼくのかんがえたじせだいのあるべきすがた」が挫折して臆病になった人たちが日常ものに依存し、今度は00年代の人たちが考えたいろいろなものを否定する。「ぼくのかんがえたありかたですらだめだったのに、自分たちより若いヤツが考えたものが正解だなんて認めないぞ」と下の人間に嫌がらせを続ける。しらんけど80年代にもそういうのがあったかもしれん。悲しい連鎖よのう。
そんなことを思ったのがこの記事でのやりとり。
まおゆう批判の話。批判の内容は結構納得行く話だった。実際突込みどころは沢山あるからね。
でも、そうやってやれ特権少数の支配肯定だとかエリート様だけ実存回復はずるいとか言ってる人が
自分の解決策として挙げたのがコレか。
インキュベータに搾取されないためには、向上心なんてものは一旦よけて、まず、ありのままの自分を肯定することから始めるべきだと思うのです
すごい違和感。いや、ガッカリ感。同時にとても納得。
この人の主張は結局「ゼロ年代的なるもの」が嫌い、ってそれだけだったわけだ。
ああこの人90年代のオタクなんだなと思い、実際にブログを確認したらドンピシャだった。
その思想はさ、精神的に搾取されないことだけを考えていればよい物理面が最低限満たされている人間の話だよね。精神守るために物理面での搾取はある程度受け入れる余裕があるってのが前提じゃない?それこそ90年代の悩みという気がする。00年代そのものに否定的なのは、単純に90年代の夢が忘れられないって事じゃないの?
この人の立ち位置はすごく気に食わない。 インキュベーターと直に向き合いながら頑張ってる人をインキュベーターの手先であるとして批判している一方で、インキュベーターそのものとは敵対しようとしない(というかちゃんと見えてない、理解できてない、突っ込んでも無駄と諦めている)ような卑怯さを感じる。「ゆとりがあるからこその潔癖さ」「他人に都合の悪いところを押し付けての正論」にすぎないのでは。自分がテクノクラートだったらどうするか、を示していただきたい。ああいや、そういうのから降りた人たちが90年代のオタクでしたっけね。失礼失礼。
こういう卑怯な人な立ち位置にいないと安心出来ない人のために、まどマギの世界の主人公が少女じゃないといけなかったんだなとわかる。インキュベーターと対峙するもの、特別な力を持つものが、オタク以下の存在じゃないと納得できない人達がいるんだ。自分より上の存在が肯定され、生き残るのが怖いんだ。そういやまおゆう批判してたkagamiがまどマギ全肯定しててびっくりした。お前はまどマギにすくってもらう資格ねーだろが、と突っ込みたい。私はamamakoのことが嫌いだが、それでもまおゆうもまどマギ双方を否定した彼の一貫性は評価したい。
別に爺さんのように「戦時中の苦しさをしらないやつらが贅沢言うな」とまで言う気はない。昔の物理面が絶対だって考え方ね。「誰が養ってやってると思ってる」の傲慢さは私も死ぬほど嫌い。けれども、さっきの解決策はちょっと00年代の若い人の苦しさに対してあまりに鈍感すぎるのではないか。のんびり過ぎるのではないか。私も90年代のにんげんだから正確には理解できてないけども、彼らの不安や苦悩を軽視して今までの日常を維持しようじゃないか、ハーレム最高だよ、幻想に閉じこもり続けようよってなんだそれ。空気読めないオッサンにも程がある。もうオッサン時代遅れだからブヒ系のアニメ以外についてくちだすなよと言いたい気分。
もちろんゼロ年代の発想が90年代より優れているとは言わないよ。個人的にはゼロ年代の発想ってやっぱり問題が大きい、より病的で余裕がなくて、貧しいカンジがするのであんまり好きじゃない。でも、それに対してただ「近頃の若いもんは」と言い続け「90年代にもどってこい」というメッセージしか出せないのでは、ただの老害であると私は思う。(さっき年寄りたちの話しを持ち出したのは、老害にはさらなる老害を持って、老害の何たるかを理解していただきたいという趣旨)。少なくともゼロ年代の人間が「貴族的な人間」「特権階級とか特殊な力を持った人間」を中心としたファンタジーを求めなければいけなかったのかって考えもしなかったなら、オタクとしてダメダメでしょう。良し悪しだけで考え、「なぜ」をすっとばすような人間が、オタク評論をする資格などないと私は思うね。
ただし、このあとで同じ人が
って言ってるアタリが、もしかしてこれからのオタとオッサンオタクとの理解の架け橋になりそうな気はする。 本当に地震って、すでに変わりつつ合った認識の変化を後押しする大きな事件になるような気がする。もう90年代は終わったんだよ。00年代の決断主義も違うってことになったよ。90年代回帰論も、00年代のエリート正当化もやめて次考えようよって話になるんじゃないのかな。
最後になりますが。お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、わたくし、まおゆう読んでおりません。読まずにここまで偉そうなことを書いたことを深くお詫びいたします。
それは失礼。こっち側とやらがどこにあるのか存じませんが、ずいぶん壮大なお考えがあるようですね。はやく体系だった形としてまとまるよう応援しております。
そうでないと無視されたというかあなたが求めてる物がまずどこにあるのかわからんので
せっかくの崇高な思想も、今回のように表面部分だけを見て個別の叩きというか、コレジャナイ病の人と同じだと判断してしまいそうです。それは勿体無い。
ところでそれって、エロゲや今のアニメに求めるよりは、もっと昔のアニメや手塚治虫や一部の少女漫画に求めたほうが早いものだと思いますよ。
あずま ひろき風を感ずる
全然意識してないけど多分それあなたの勘違いだと思う。全部が東風に見えるとか、モルダーあなた東さんに恋してるのよ。。
話変わるけどあんまり東先生バカにすんなよ。別に信者じゃないけどとりあえずベースとなってる物くらい読んでから批判しろよ、とはいつも思ってる。
信者が本買って無批判にマンセーする一方で、批判する側が著書の一冊も読まないとか、この今のねじれ構造はどないなっとんねん。
本の一冊読む程度の興味もないなら、放っておけばいいのに。どんだけ暇なの。
誰も整理なんかしようとか思ってねーし。なんでそこ基準で評価されなきゃいけねーんだよ。別の店行け。シロクマさんにでも頼め。
整理しようと思ったらそれこそ90年代をまた数個に分割しなきゃいけねーじゃん。誰がやるかそんなめんどいこと。
どんだけ整理されてあとは召し上がるだけのメニューを期待してんだよ。そう言う学術的のが欲しかったらプロの仕事にもっとちゃんと金払え。
「〜年代」っていう、10年単位で区切ってその間の大多数のムーブメントを指す言葉を「私も90年代のにんげんだから」とか使うところからして既に間違っているよねw
言葉の使い方は大事だよね。確かに私が間違いですすすみません。できればタイポ的な問題以外も指摘してくれると嬉しいけど。
上のと合わせて、この言葉を使うと、どういう内容を想像されるか始めて知った。童貞とかオタクとかと同じくらいイロイロな意味がくっついてるのな。
これは単に私の無知。普段はこういう言葉を使って会話してないんで知らんかったわ。
おまけ。ゼロ年代には元気だったけど次の世代に対して老害として振舞う可能性が高い人達一覧はここね。
自分の手持ちのものさしでしか人を測れなくなったら(評論する相手の中に新しいものを発見しようとする気概を失ったら)それはもう寿命だろ。
元ページ読んだが、別にしょぼいとも俺すごいとも言ってないね。
演出の話もしてくれって言ってるだけ。
そして、「まどマギ」に関しては、古典的な作品であるとも言ってるが、これにも同意する。
あれが目新しく見えてしまうのは、「演出」や「ギャップ」じゃないの?ってのは、ストーリーや思想を評論する人間こそが言わないといけない。
(以下、私見)
それをこぞって「素晴らしい」ってなってるから、市場にただ乗りするだけの低俗って思われても仕方がない。
かれらこそ、ゼロ年代だの、エヴェ世代だの言わずに、ただ普通に「普通の古典的物語じゃん」と言わなければならない。
その上で、なぜ流行ったか、なぜ評価されたかを、解釈に任せた空気語である「ゼロ年代」とか使わずに論評してこその批評家だろ。
それはですね、近年のアニメ事情を鑑みればすぐ分かるかと思われますよ。
近年の青少年向けアニメでは、とかく男女間の恋愛を描くことを避けてきました。何故なら、恋愛はToLoveるがつきものなので、昨今ゼロ年代の特徴と言える「平和な日常」を描写するには向かないからです。くっついたり離れたりして、最後にはどうなるかまでを描かないと、恋愛ドラマは成立しません。
そうなると、「恋愛を描かない」ために「男を登場させない」という選択肢をとらざるを得なくなった作品がいくつもあります。
『けいおん!』なんかが代表例ですが、こういった作品に男性は形而上存在していたとしても実体としての男性はおりません。
従って、近年のアニメにおいては男性キャラクターは圧倒的に少なくなっているという傾向があり、必然的にそれらのキャラクターを選ぶ時には女性キャラクターを選ぶ確率が高くなってしまうのです。
結果、アニメが好きな男性のtwitterアイコンには女の子のキャラクターが多く登場することになります。
もう一点。なぜ毒のある発言が多いのかについて。
近年のアニメを語る上で外せないものが「属性」です。そのキャラクターを端的に示すラベリングのようなものですね。「熱血」とか「恥ずかしがり屋」とか「天然」とかいろんなものがあるんですが、この中で一番人気の属性として「ツンデレ」というものがあります。
ツンデレというのは、口や態度で悪しざまに詰ったりするのですが、心の中では好きという感情が勝っており、時折それが表に出てきてしまうという二律背反なカワイイ性格のことを指します。
ブームとして一過性のものかどうかは図りかねますが、ここ10年間は登場キャラには必ずツンデレが含まれていて、たいていはその作品の中で一番人気のキャラクターでした。
なので、やはり気に入ったアニメキャラクターのアイコンを使うとなれば、ツンデレ的性格のキャラクターを選択されうる可能性はかなり高くなるのではないでしょうか。
以上です。おわかり頂けたでしょうか?
純粋に不思議だ。なぜ『まどか』はストーリーを持たないんだろう。
もう第7話だっていうのに、魔女の正体が徐々に明らかになるわけでもない、キュウベェの目的が明らかになるでもない。
ましてや最初期に見せたセッティングが深化を見せるわけでもない。
7話までに起こったことといえば、マミさんが死んだことと、さやかが契約したってことくらいだ。あと赤い髪のキャラが出てきた。一行で説明できる。
やっていることといえば、「葛藤」だ。本来自己の外部から襲ってくる「事件」、それらとの折り合いの中で葛藤が生まれるはずだ。
しかし『まどか』ではそういったコンテクストから独立した、抽象的な「葛藤」そのものを扱っているように見える。こんな歪な構成のアニメはそうそうお目にかかれるものではない。
碇シンジくんもエヴァンゲリオンに乗るかどうかで葛藤した。しかしそれは彼の周囲の人間関係が孕むドラマがあってのものだったはずだ。
『まどか』も、正体不明の魔女が襲ってくるだろう、とするには、その”魔女”の輪郭はあまりに抽象的なのだ。例えば、セカンドインパクトが起きて人類の半数が消滅…という具体的な輪郭を持たない。
さやかだけが申し訳程度にバックグラウンドを持っているくらいだ。
なぜだろう?魔法少女的なコンテクストをあえて無視した仮説を立てるが、
大きな物語を捨象して生活感・空気感、あるいはとめどないガールズ・トークといった要素を抽出した「空気系」のジャンルがゼロ年代に勃興したように、
セカイ系から大きな物語を排し、セカイ系的な空気感のみを取り出したアニメが現れはじめたのではないか?
エヴァンゲリオンからディティールを捨象し、「葛藤」だけを抽出したアニメ、
ええっと、皆さんお察しのとおり、大して何も考えず思いついたことをザザッと20分くらいで書いただけの頭の悪い記事です。なにぶん、こんなに多くの人に読まれるとは思っていなかったもので。
でもさすがに文意くらいは伝わるだろうと思っていましたが、ブコメを見るとkkobayashiさんくらいにしか伝わっていないようで少し残念です。言いたかったことを悪意むき出しにして簡潔に書くとこうなります。
どうしてこんなに広く支持されているんだろう。
それってもしかして「空気系」が受容されているのと同じ理屈じゃね?
そんな体なので「中身(=物語)」とは何ぞや?と言われても全く考えておりません。考えてないので代わりにエヴァに喩えて語ったまでです。ブコメに
>「如何にロボットに乗るか」で一本話作っちゃったタイプと思ってたからな
>エヴァにディティールがあったとは思えんがw
とありますけど、それはまぁそうなんですがもうちょっといろいろあったじゃないすか。例えばミサトさんとかね。何故まどかの母親はミサトさんではなく時々顔を出してアドバイスをする便利キャラなんでしょうかね。その辺りがすっごく不思議なんですけど。
「空気系」と一口に言っても多様ですが、念頭に置いていたのは『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』です。いや、あれはあんまりウケてないじゃん、と言われるとそうなんですけど。現在こんな体の『まどか』がラスト1,2話になっていかなドラマを見せようとも、それって『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の最後に戦争が起きるか起きないか程度の意味しかないよね、という意図で。
あと
>エヴァだ何だ持ち出すから厨二系と解釈されるだけで、実際は序盤のイベントドリヴンな展開から中盤戦の内面掘り下げに移った点を停滞と感じているというだけの話かと。常時イベントドリヴンな作品好みな人なのかな。
とありましたが、僕の好みは仰る通りですが、さすがに「常時イベントドリヴン」な作品しか見れないわけじゃないですよw 例えば同じ虚淵さんが関わっている『Phantom』(アニメ版)なんかは傑作だと思います。けど、『Phantom』の2クール目がなくて最初の1クールで終わってたら無いなぁって思うんですよ。『まどか』はそれに近いものがあります。もちろんあと5話あるので、残り5話の中に『Phantom』の2クール目みたいなのを破綻なく詰め込んできたら、僕は平謝りするほかありません。が、『まどか』でやりたいのはそういうことではないんだろうなと思ったんですよ。
まいしゅう楽しみにしていた「うぬぼれ刑事」が終わってしまった。これから一体なにをささえに生きていけばいいのだろう。
やけくそでなって、ゼロ年代批評風に「うぬぼれ刑事」を絶賛してみた。
宮藤が一貫して書いてきたのは、「中間共同体を経由した公共性の回復」であった。高度成長に代表される「今日よりいい明日がやってくる」というような広く共有される「大きな物語」に依拠できなくなった現代社会では、社会に包摂性が失われ、個人がむき出しの状態で社会と対峙することになる。
その生き辛さを宮台は「終わりなき日常」と評したわけだが、宮藤は「中間共同体」の生成によって、その日常を「輝かせる」ことで、「終わりがない」ことを業苦ではなく、愉楽に変換する回路を描いてきた。
「木更津キャッツアイ」の「キャッツ」たちのまったりとした日常、「流星の絆」の「血縁のない兄弟」の「スラップスティックなやりとり」、「うぬぼれ刑事」の「うぬぼれ5」の「ダベり」みなが、そうしたテーマの元に宮藤作品ではリプライズされ提示される。
また、この「うぬぼれ刑事」にそれまでの宮藤作品と異なる特徴があるとすれば、それは「恋愛」がきわだって前景化していることだといえる。
従前の宮藤作品に恋愛の要素が欠けていたわけではないが、ここまでメインテーマとしてすえられたことはなかったように思う。では、宮藤は今回、「うぬぼれ刑事」で恋愛を軸に何を語りたかったのか。
それはとりもなおさず、「わたしのかけがえのなさ」の回復といってよいだろう。宮藤が「うぬぼれ刑事」で、「わたしが死んでもかわりはいるもの」といった90年代のエヴァンゲリオン的心性の超克をはかったのであろうことは、「うぬぼれ5」のつどうバーの名称が「I am I」であることや、回想・妄想シーンでの「うぬぼれ」の口グセが「俺は俺だから」だったこと、何より最終話まで秘匿された主人公「うぬぼれ」の名前が「己」であったことからも容易に読み取れる。
その「わたしが死んでもかわりはいるもの」から「俺は俺だから」に至る回路として用意したのが宮藤にとって、今回の「恋愛」だったわけだ。
「ううぼれ刑事」で主人公「うぬぼれ」は次から次へと犯罪者であるゲスト女優たちに恋をする。その射程の広さ(節操のなさ)たるや加藤あいから三田佳子までと、宮藤の好みが露骨に反映されているわけだが、重要なのは、この節操のなさが、「運命の女性」の「とりかえ可能性」を表象しているということだ。
一方で、うぬぼれにとっての「(真の)運命の女性」である中島美嘉は、こうした「とりかえ可能性」から退避した、聖域にいるように書かれているが、最終話で彼女もまた「犯罪者」であることが暴かれ、「とりかえ可能性」のあるいままでの「(いつわりの)運命の女性」と同じ地平にいたこと明らかになる。
これにより、宮藤は「とりかえ可能性」と「とりかえの効かないかけがえのなさ」を同じ地平に接続することで、「とりかえ可能性」つまり、「私が死んでもかわりはいるもの」という状況と「俺は俺」という「かけがえのなさ」は共存・併存することを主張する。つまり、誰もがみな「とりかえの効く<つまらない存在>」でありながら、みなが「誰かにとっての代わりの効かない存在」であるというごくあたりまえの状況を恋愛という回路であぶりだすことで、恋愛という誰もが主人公になれる「自己承認の物語」の上で「わたしのかけがえのなさ」の回復を試みたということがいえよう。
上記のように「うぬぼれ刑事」はゼロ年代を代表する「中間共同体によるちいさな成熟」と「90年代のエヴァ的心性からの脱却」というテーマをあらためてここで提示し、かるがると超えていくことで、10年代の扉を開いたきわめて重要な作品ということができる。
・・・やっつけだし、本当にこんなこと思ってみてたわけじゃないです。
ふつうにクソくだらない小ネタに腹抱えて笑っていました。ここまで私を笑わせてくれるお笑いってあんまりないんで。
あと、加藤あいちょうかわいいし、石田ゆりこが出てくる回がすごいよかったです。プールで制服のままたわむれる女子高生って青山裕企の写真かって話ですよ。クドカン変態。
でもなんか日本の借金多すぎて家計の貯蓄も減ってきてるんでしょう?
日本の家計の貯蓄が、この3,4年やっと減り出したのは事実ですが、まだまだもの凄い額と貯蓄率を誇っています。
日本の借金(国債・地方債)と家計の貯金は、全く別のお財布の話ですから、直接には関係ありません。あえて両者の関係を言えば「国民(家計)が貯金ばっかりしてるから、国なんがその貯金をいくらでも安心して借りられる」というもたれあいの関係がある、ということになります。貯金の多さが、借金の増加を産んでるわけです。
貯蓄がなくなったら景気が戻るの?お金が余らなくなるわけだから
貯金そのものは景気に基本的に中立なのですが「消費しないで、貯金に回す」のが普通なので、消費の圧迫要因として「貯金は悪」なのです。「皆が貯金を止めて消費に回した」ことが原因で貯金がなくなったとしたら、現在の日本のような「需給ギャップ」による不景気は回復します。凄くばかげた話に聞こえますが、アメリカの90年代、ゼロ年代なんかは、貯金もないのに外国から借金しまくって消費に回して世界有数の経済成長を達成しています。マクロ経済においては、貸してくれる人がいるなら借金は悪いことでもなんでもありません(借りた金を上手く使わないといずれ誰も貸してくれなくなる、という問題は別にあるのですが・・・)
日本の文化が、かなりマズい方向へと進み始めている。私はこれを止めなければならない。そのためにこれを書く。
まずはひとつの記事を紹介しよう。あまり人に広めたくないあまりにも醜悪な文章だ。
しかし、現代における様々な問題を見事に一点に凝縮しているので、思い切ってリンクする。
http://blog.livedoor.jp/hitoshione/archives/51007015.html
例えば「格好悪いふられ方」とか「深夜高速」とか「ザ・ミーハー」とか「はっきりもっと勇敢になって」とか。
オレにはその絶妙なセンスがツボで
「おっ、大江千里か!」とか「フラカンね、はいはい」とか「森高かよ!」とか
「ついに岡村ちゃん使ってきたかあ」とか
毎回楽しみにしていて連戦連勝ですべて当ててきたのだが
去年の秋ごろに初めて「・・・知らんなあ・・」となった。
後悔した。やはり醜い。スノッブとはこいつのことを言う。
何が醜いかというと、モテキの作者がただ見栄えをよくするためだけに楽曲タイトルを引用する態度と
その引用元がわかることに喜んでしまうという読者との共存関係だ。
同じように注目されているマンガで『ザワさん』というものがある。このマンガでも全く同じ現象が存在した。
それは耳にイヤホンを指している男子高校生に対して矢印書きで書かれた「伊集院のラジオを聞いている」という文字だ。
「そんな高校生、今どきいるか」という二重の意味で驚愕したのだが、本当の問題はそこじゃない。
この引用は作品のクオリティに何の影響も与えていない。ただただ、作者が好きなものを作品内で提示したにすぎない。
わかってる奴だけが気づいて不気味にニヤリと笑うだけだ。この醜悪な一連の行為はいったい何なのか。
はっきり言うと「私はあなたの仲間である」というマーキングにすぎない。
ザワさんで言うと「私は伊集院のラジオを聞くような人間です」「伊集院のラジオが好きな人は仲間です」というメッセージ。
作品内にわかる人間だけがわかる符牒を忍び込ませ、その意図は仲間意識を強めるためだけ。
これはニッポンのサブカルチャーのもう至るところに散見される。
例えば映画秘宝文化圏。こいつらはやたらと「俺たちボンクラは」という言葉を連発する。
「ボンクラ」というキーワードだけでただ連帯している。このような囲い込みは排外主義を伴なう。
事実、映画秘宝は「ボンクラ」というキーワードに引っかかる人間だけを相手し、
お決まりの作法を繰り返して、自分たちの文化圏外を口汚く批判するだけでゼロ年代を終えた。
現代の創作はもうほとんど仲間意識を強める言葉や引用を散りばめるだけで成り立っている。それが最近の貧困さの原因でもある。
最近のサブカル好き同士の会話なんて、お互いが好きなキーワードを連発し合ってにやりと笑っているだけの、
本当に貧困で醜悪で、言葉にできない酷さだ。そんな人間が日本の文化を滅ぼすんだ。どんどん自閉していき緩やかに自滅していく。
島本和彦が『天元突破グレンラガン』を評した言葉を紹介しよう。