はてなキーワード: 水からの伝言とは
飲み会などで血液型占い(性格診断)の話題になると歯がゆさを感じる。
血液型占いは全く根拠のない迷信なのだが、日本では結構当たり前のように話題に上る。Wikipediaによれば血液型占いが広まっているのは日本・韓国・台湾くらいらしいし、実際日本人以外でその話をしているのを聞いたことはない。
コミュニケーションのとっかかりとして使われているのは百も承知で、確かに便利なのだが、絶対に自分はこのオカルトに関わりたくない。だからといって、血液型占いなんて根拠のないオカルトです、と主張しても誰も聞いてくれないし場がしらける。下手すると頭の固いつまらない人と思われるのが落ちである。なので、僕は必ず「カギ括弧」をつけて、O型っぽくないって言われるんですよ、とか、人によって僕の血液型が何型っぽいかっていう意見がバラバラなんですよ、などと、人がどう言うかという観点で話すようにしている。これなら、場の空気を壊すこともないし、自分は信じていないという立場を守れる。
(ちなみに、嬉々として血液型占いの話をしている人に会うと、その人の知性の評価が何割かダウンする。特に理系の男が言っていたりするとかなりがっかりする。)
同じ非現実であっても、僕にとっては、サンタクロースや幽霊について話すことは全く問題ないけれど、血液型占いや水が人の優しい言葉に反応する(「水からの伝言」)といった話は受け入れがたい。それはやはり、前者は非現実であることを前提に語られるの対して、後者が科学的文脈で語られるからであろう。このような感覚は僕たち科学者・理系の人以外にも共有してもらえるだろうか?
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日本では、血液型占いや水からの伝言が代表的なオカルトだが、日本と同様科学大国であるアメリカでそのような非科学的な話がまかり通る例と言えば、創造論(=進化論の否定)である。
最近Scientific Americanの記事で見た(http://goo.gl/vb3CD)のだけど、アメリカの高校教師の28%しか進化論を十分に教えず、13%は創造論を教え、残りの6割は臭いものには蓋で適当にごまかすか、あるいは両方教えて生徒の判断に任せるという状況だそうだ。創造論は宗教的な考えに基づくので、否定すると信奉者からのクレームが面倒だということもあるのだろうが、科学教育の観点からすると非常に危ない。
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血液型占いよりは創造論の方が生物学の根本に関わるだけに、信じることによる害が大きい気がする。一方で、血液型占いにおいては、創造論に対するような大々的な科学的批判(アメリカでは裁判も起きている)がなく、人が当たり前のように信じているという気持ち悪さがある。このように質は違えどオカルトがまかり通るということはどこの先進国でもあるのだろうか。たとえばヨーロッパなどはどうなのだろう。
切込隊長のブログ記事「なんかエコ活動とかやってる奴がいるけどさ」に、ブクマを見るとほぼ全面支持なのに驚いたのでちょっと書いてみる。「エコ」がこれほど不人気となると正直、日本や人類の未来は暗いと思わざるを得ないからだ。またその一方で、そうなるのも仕方がないのかなと諦観する気持ちもある。理由は、グリーンピースをはじめとする「環境保護団体」には確かに、隊長が指摘するような非合理性と偽善性がつきまとっており、一般人が不信感を抱いて当然だからだ。
なお、私は環境問題の専門家ではなく、市井の理工系の人間に過ぎない。ただ、多少の科学知識があればこの程度のことはわかるはずだということを示すためにこの記事を書いている。
隊長曰く、
なんかみんな、エコバッグ持ってたり、スタバとか逝ってマイカップ持ち込んで飲んでたり、してるけどさ。
本当にエコとか考えてるなら、風呂の回数減らせよ。一日おきでいいだろ。ドライヤーも使うなって話だ。マイカーでぶんぶん通勤してる奴が、得意げになって使用済み天ぷら油の再利用とか言ってて馬鹿なんだろうかと思う。
これは全くその通りと言わざるを得ない。ここでは話を単純化してCO2の削減についてのみ考えることにすると、生活の中でCO2を直接的・間接的に最も排出しているのは自動車と光熱費(特にエアコン)であるのは余りにも明らかなのだ。CO2は基本的に炭素を含むものを燃やしてエネルギーを取り出したときに排出される。そして、物理を少し学んだことがあれば自明のことなのだが、日常生活の中ではものを動かしたり熱したりというのが圧倒的にたくさんエネルギーを使うことなのだ。そして、50kgぐらいの人間1人を動かすために、1tぐらいの乗り物を使い、そしてゴムタイヤでアスファルトの上を走る自家用車というものがいかに、たとえば鉄道と比べればエネルギー効率が悪いかは明らかなわけで、エコバッグとかマイカップとかをやっていても車通勤をしているだけでおつりが来るぐらいのCO2を排出することになる。
つまり、個々人が「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」るような「エコ」活動は自己満足以外の意味はほとんどないのだ。
では、本当の「エコ」とはなにか。上に書いたことからおわかりだろうが、エアコンや冷蔵庫を高効率のものに買い換えさせ、人間やものが移動する必要を減らしつつ、できるだけ自動車に依存しないように路面電車の整備や業務のIT化を進めていくといった社会構造の改革をするほかない。同時に、エネルギー源をできるだけ化石燃料に依存しないように、その方面での技術開発も進めていくことだ。
要するに、「エコ」とはどこまでも今後のエネルギー・資源戦略の話であり、マクロ経済、都市工学、そしてエネルギー工学といった堅い分野の成果を積み上げていく話なのだ。本質的に、「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」たり、経済成長を否定したり、科学技術を悪と糾弾したりするような話ではない。
ちなみについでに言うと、温暖化CO2原因論に対する懐疑論も跋扈している(どういうわけか、池田信夫氏を筆頭にラディカルなリバタリアンは判をついたようにそうなのだが)が、化石燃料の枯渇を見据えればどのみち取らねばならない対策は同じである。だからそのことは考えなくてよい。
もう一つ、隊長の書いている
「環境を考えて、太陽電池パネルをつけました」とかさ。太陽電池パネルを生産するのにまず二酸化炭素やエネルギーロスがかかるっつーの。
はよくある誤解で、最近では太陽電池では余裕でエネルギーの元が取れるようになっている。
ではなぜ、このような誤った「エコ」のイメージとそれにたいする反感がここまで広まってしまったのか。それは、グリーンピースに代表される環境保護団体の姿を考えてみるとわかりやすい。彼らの中には菜食主義、呆れるほど不合理な反捕鯨運動、経済成長や科学技術や物質文明への否定的評価、そしてオカルトじみた「スピリチュアル」といったイデオロギーへの親和性が強く見受けられる。これは本来、上に述べたように「エコ」と必然的な結びつきはどこにもない。にもかかわらず、世間では「エコ」というと、もっぱらこうした偽善的で胡散臭い印象ばかりがはびこってしまっている。これはなぜなのか。
答えを書いてしまうと、これは近代現代欧米に特徴的な「ニューエイジ」と呼ばれるある種の疑似宗教的社会運動の産物なのだ。ダーウィンの進化論などの影響によりキリスト教的思想基盤が揺らいだ後、既存の価値観を否定し、オルタナティブを「東洋」に求める動きが西洋社会には発達した。それが「ニューエイジ」なのだ。西洋にはなぜか、日本のあらゆる事物を「禅」に結びつけ、むやみやたらと親日的な人(それでいて捕鯨のこととなると途端に北朝鮮まがいの反日戦士になる)が多いが、これも一つには「ニューエイジ」の影響である(日本がそれを利用した面も多分にある)。このほか、北京オリンピックへの反対運動の旗印がなぜ「チベット解放」ばかりで「ウイグル解放」ではなかったか、本質的に同じ宗教の分派であるイスラム教があれほど嫌われる一方で紛れもない異教徒であるダライ=ラマがなぜあれほど尊敬されるのか、そういったことにもこの「ニューエイジ」が背景にある。そしてついでに言えば、オウム真理教とか船井幸雄とかはたまた「水からの伝言」といった訳のわからないものは、日本にこうした「ニューエイジ」が「逆輸入」された結果であるといっても間違いではない(早い話、オウム真理教が伝統的な漢訳の仏教用語ではなくサンスクリット語やパーリ語をカタカナ書きした用語を使っていたのはこのためだ。これが「阿吽真理教」であったり、ホーリーネームが「マイトレーヤ」や「マンジュシュリー」ではなく「弥勒」や「文殊」だったらあれほど信者を集めたかどうか想像してみるとよい。オウムは仏教の原理主義でありつつ、伝統回帰ではなく伝統否定なのだ)。
少し脱線気味になったが、要するに「エコ」を敵視している人は戦う相手を間違えているのである。グリーンピースをはじめとする「ニューエイジ」運動がキモいことには何の疑いもない。ああいう偽善的かつカルト的なものは叩いておくべきだと私も思う。しかし、「エコ」全体を一緒くたに攻撃するのは誤爆もよいところなのだ。
鳩山内閣のエコ政策が嫌悪されたのはこう見ると当然の話だ。鳩山氏の「いのちを守りたい」というエコ政策は、本物の「エコ」のような国家戦略ではなく、もっとナイーブな感情に端を発していて説得力がまるでなかったからだ。鳩山夫人のオカルト嗜好ともども、これも「ニューエイジ」の影響の産物である面が多分にあり、国民が偽善臭を嗅ぎ取ったのはおそらく当たっている。
しかし、エコは本来国家戦略であり、未来にわたる豊かな生活を保つために不可欠である一方で、日本の国益にも繋がる可能性をも秘めているのだ。上に述べたように「エコ」のためには重工業の技術力が強く求められるのだが、これは日本の得意分野であって、中国や韓国といった新興国に対して優位を比較的強く持っている分野でもある。同様の事情を抱える独仏が「エコ」に梶を切り、オバマも「グリーン・ニューディール」を提唱しようとしているのはこのためなのだ。日本政府がこの方面に消極的なのは、重電産業に身を置くものとして実に歯痒いものがある。どうか、もっと事実を冷静に理解し、お涙頂戴物語としてではなく国家戦略としての硬派な「エコ」の推進の世論の形成に手助けをしてくれる人が一人でも増えて欲しいものだ。
担任にしろ校長にしろ、何かを言いに行くときには冷静で相手に分かりやすくを心がけるようにな。
少なくとも元増田の文章は、「水からの伝言」憎しのあまり、誤解を招きかねないものとなってる。
問題なのは、「うざい、だるい」という言葉を使ってはいけない理由が「自分に返ってくるから」になること。この時、私と母は「じゃあ、ありがとうって言葉を使うと、ありがとうが帰ってくるということかな?」と対応しました。偏った価値観を持ってほしくないという思いからのものです。「ありがとうって言ったらそれも自分に返ってくる、だからありがとうをみんな言おうねって先生が言っていた」と弟が返答してくれるかと期待しましたが「う、うん…」と言葉に詰まってしまうのでした。
最初に見たとき、元増田と母親が「自分にしてほしくないことは、相手にもしない」という基本的な道徳を、「偏った価値観」と言っているように見える。相手に誤解されて「モンペがネチネチと細かいこと言ってきたよ」とか思われたら損でしょ?
水からの伝言というのをご存知でしょうか
水にありがとうなどの良い言葉をかけるときれいな結晶ができ、反対にばかやろうといった悪い言葉をかけると汚い結晶ができるという、そういった類のものです
この水からの伝言を、道徳の授業で扱う先生がいるという問題は、少し前にネットで盛り上がったかと思います。実際にはそんな先生の話を聞いたことがなかったのですが、最近小学生中学年の弟がこんな話を私と母の前でしてくれました。
「うざいとか、だるいという言葉を使うとそれは自分に返ってくるんだって」
いきなりこんな話を弟にされ、非常に困惑しました。なんと一方的な思考をしてるんだろうと。聞くと、担任の先生から言われたことだそうな。
問題なのは、「うざい、だるい」という言葉を使ってはいけない理由が「自分に返ってくるから」になること。この時、私と母は「じゃあ、ありがとうって言葉を使うと、ありがとうが帰ってくるということかな?」と対応しました。偏った価値観を持ってほしくないという思いからのものです。「ありがとうって言ったらそれも自分に返ってくる、だからありがとうをみんな言おうねって先生が言っていた」と弟が返答してくれるかと期待しましたが「う、うん…」と言葉に詰まってしまうのでした。
そしてその話の後に「水からの伝言」が弟から話されるのでした。私はつい熱くなってしまい「そんなこと嘘に決まってるだろう、科学的にありえないことなんだよ」といった悪態をついてしまいました。今はとても反省しています。そんな言い方をしても小学生の弟に分かるはずがないのです。今は冷静になり、ネットで水からの伝言の資料を探して読んでいます。
非常に憤りを感じてしまいました。
弟に「誰がそれを確かめたの?本当にそうなの?」と聞くと弟は「だって見たもん、学校で見せてもらったもん」と言います。子供にとって先生は正しい存在なんですよ。だから、その先生が話したことは正しいことになるんです。
母も私同様の思いを持ってくれています。直接その先生に言っても変わらないだろう、校長先生など上の方に言わないと、と母は考えて行動してくれようとしているので一先ずは安心しています。
492 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/02(月) 21:50:41 ID:i3F0bPCb0
http://h.hatena.ne.jp/hokusyu/9258649500411272639
http://b.hatena.ne.jp/entry/h.hatena.ne.jp/hokusyu/9258649500411272639
ただ、あらゆる「水からの伝言」に対して科学の知識の不備といいだしかねない人はいそうですが。
それから、ネットにおける「水からの伝言」の議論が、科学の観点から、
テクニカルな問題として「水からの伝言」は可能かどうか、という議論に偏りすぎていたので
そのような危惧を抱いたということもあります。
それが政治的対立であることが見落とされてしまうと、「水からの伝言」に反対することがたとえば
科学の文脈において正しいのだ、とされている「水からの伝言」反対派のコンセンサスの中で
(それは正しいとも間違ってるともいいませんが)、「水からの伝言」に賛成する立場が、単なるレベ
497 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/03(火) 08:44:29 ID:fW9YdK1iO
北守はアレだな。
まず最初に子供じみた正義感があって、そこにテンプレで知識を肉づけしてる。
だから同じ理屈で正反対の思想でも単語を入れ替えたらそのまんま擁護できる。
結局は内実がないというか、童貞が集まって「理想の女の人はどうあるべきか」を語ってるレベル
これじゃあ他人に対して影響力なんか及ぼせるわけがないんだが…
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
現場で実際にどんな感じで本を買ったり捨てたりしているかを書いてみます。
ボランティアのお母さんたちが手伝っている所もあります。
それは化学に置いちゃダメ! - 子育て歳時記 - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/honbon/diary/200905110001
小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。 - 北沢かえるの働けば自由になる日記
http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20090515#p2
うちの学校にはどちらも入ってません。
水からの伝言は論外、七日間戦争は私が勤めた時に入っていなくて、
今が旬の児童向けの文庫を優先的に入れたいな、と。
うちの学校は本を買う、捨てるの判断は司書教諭の先生と相談の上、
校長・教頭に許可をもらってさらに市の決済を受けます。
・・・そんなわけはありませんW
国語なら掲載されている作者の他の作品や同じ傾向の他の物語など。
そんな学習に関する本と趣味的な本、読書をバランスよく入れるように心がけてます。
捨てる場合はあまりにも壊れたり汚れた本、
内容が古くなって学習に使えない本(市町村合併やら国の独立やらで結構これが多い)など。
でも本の冊数を増やせというお達しがあってそんな本を捨てられず
段ボールに詰めてしまっておくことも。
校長の一言で本が捨てられるか?
これはあるともないともはっきりは言えません。
ただ、幸か不幸かそこまで学校図書館に興味を持っている校長はほとんどいません。
そんなことがあったとしても学校の方針に意見を言う事は難しそうです。
今の小学生は「リアル鬼ごっこ」とかひぐらしとか携帯小説なども
お小遣いで買って友達同士でどんどん回し読みしてます。
昔ほど大きな影響を与えているとは思っていません。
ただ、いろいろな問題があって本に触れる機会が少ない家庭の子も多くいますし
どこの学校にもあればいいのに、と思いながら仕事をしています。
そう言う立場に立つんであれば、別にネットにホントのことが書いてある必要なんて無いじゃん?
ウソだろうがホントだろうが、多くの人がそう思ってれば良いってのは学習とは言わないな
信仰ではあるかも知れないが
今の技術や方法で観察できるものから論理的に推測していくとそうなったってだけですから、新しい観察方法が見つかって、別の真実にたどり着くかもしれないわけですよね。
「そう思っていれば良い」のではなくて、論理的にそうなるってことです。
数学が新しいルールを決めたら変わるみたいに、私と違うルールの中で生きていらっしゃる話なのかもしれないですね。と言ってみる。
まぁ、あらゆる事を知ることは多分不可能なので、信じてるって部分もある程度は出てくるのはやむを得ないだろうけど
「信じてる」所には疑問を感じても無駄だし、「疑問」がある時点で「信じて」ないよね?
自分の知ってることなんてたかが知れてるのはわかってますからね。確証持てないまま進めることもあります。
ここでの話は初期の学習段階では模倣する必要性から手順なり思想なりを信じて、次の段階として周辺を見て判断しろ、疑問はないかってことです。
「水からの伝言」を読んでいないのですが、偽科学問題についてなんですね。自分は現代の最大の宗教は‘科学’だと思っています。宗教の信仰は自由ですよね。多くの人によって‘おそらく’正しいだろうと判断されたものでしかないですから。ですが嘘でも‘良い嘘’と‘悪い嘘’がありますよね。嘘でも人を救えるのであれば、それは価値のあることなんです。後から嘘だとわかっても笑えるくらいならいいじゃないか。そんなスタンスです。
そう言う立場に立つんであれば、別にネットにホントのことが書いてある必要なんて無いじゃん?
ウソだろうがホントだろうが、多くの人がそう思ってれば良いってのは学習とは言わないな
信仰ではあるかも知れないが
「自分」がおそらく正しいだろうと思えることを収集するのは学習だけど
「多くの人」が恐らく正しいだろうと思えることを収集するのは宗教の教義を暗記してるのと変わらん
もちろん、宗教の教義を暗記するのに価値がないって話ではないよ
ちなみに「水からの伝言」は「ありがとう」って声をかけられた水の分子が作る結晶は美しくなるって話
ただ、学び始めたときは何もわからないわけですから、まずは信じるしかないですよね。そして自分の目で見始めたときにバーッと今までのことに対して疑問が沸いてくる。
論理的に解決できない疑問が多く沸いてくるって場合は、そもそもその言説がウソか
そうじゃない場合は前提をすっ飛ばしてる
まぁ、あらゆる事を知ることは多分不可能なので、信じてるって部分もある程度は出てくるのはやむを得ないだろうけど
「信じてる」所には疑問を感じても無駄だし、「疑問」がある時点で「信じて」ないよね?
そのレベルだと、学ぶ事そのものが不可能じゃないのかね?
水からの伝言とか、嘘しか書いてない本も有るし、その辺はどうやって調べるの?
最新の情報に触れたりした日には、1年後には、書いてる事が嘘だったって判明する事もあるし
「水からの伝言」を読んでいないのですが、偽科学問題についてなんですね。自分は現代の最大の宗教は‘科学’だと思っています。宗教の信仰は自由ですよね。多くの人によって‘おそらく’正しいだろうと判断されたものでしかないですから。ですが嘘でも‘良い嘘’と‘悪い嘘’がありますよね。嘘でも人を救えるのであれば、それは価値のあることなんです。後から嘘だとわかっても笑えるくらいならいいじゃないか。そんなスタンスです。
結局出来る事ってのは、暗記するんじゃなくて、理解するようにする
理解するのが苦手ですね。この文章の構造はどうなっているのか、ベターな構造のために追加したらいいもの、削除すべきものまで頭が回らない。構造主義を実践している人はすごい!
ただ、学び始めたときは何もわからないわけですから、まずは信じるしかないですよね。そして自分の目で見始めたときにバーッと今までのことに対して疑問が沸いてくる。
ホントにホントか分からない情報でかつあまり論理的に調べる気にもなれなくて、さらに、それがどうしても必要なんて状況有るか?
3つもANDが取られていて、そういった状況があるのかわからない、というのが正直なところですね。ですが必要なら嫌でも調べますし、調べ方がわからなかったら人に聞くでしょう。問題の提起の仕方が悪いのか、前提条件が間違っているからダメなのか、論理が飛躍しているのか、ジレンマに陥るような問題なのか、そういった判断をすると思います。
学ぶということから、情報の判断に話がずれてしまっていますがご了承をください。
そのレベルだと、学ぶ事そのものが不可能じゃないのかね?
水からの伝言とか、嘘しか書いてない本も有るし、その辺はどうやって調べるの?
人から聞くのでも、嘘の情報を信じ込んでる人も居る
最新の情報に触れたりした日には、1年後には、書いてる事が嘘だったって判明する事もあるし
結局出来る事ってのは、暗記するんじゃなくて、理解するようにする
理解して、結果、今までの自分の理解と矛盾が無く理解できる情報なら覚えておけばいい
矛盾が有るんであれば、どっちかが嘘だ、周辺情報を探って頭の中に二つの説を同時に組み立てておけば
片方にリンクする理解が極端に減るか、自分で確かめた情報と矛盾する結果になって片方が嘘と分かる
私は情報に対して、こんな風に接してるな、逆に聞きたいんだが
ホントにホントか分からない情報でかつあまり論理的に調べる気にもなれなくて、さらに、それがどうしても必要なんて状況有るか?
http://anond.hatelabo.jp/20090121023411
にお返事。NATROMです。他の方のコメントとかぶりますが。
http://b.hatena.ne.jp/titton/20081229#bookmark-11467052
「半年ロムれ」とまでは言いませんが、「みんなもっとちゃんと読もうね!」などと上から目線で仰るのであれば、該当者の過去の発言ぐらいは読んでからにしてはいかがか?kozimaさんの過去の発言も調べてみましたが、はてなブックマークもはてなダイアリーもご利用されていないようなので、わかりませんでした。
疑似科学批判は『水伝の実験はダメダメなんだぜ』までで留めるべきで、『だから水伝の思想はダメダメなんだぜ』までは、「科学を使って」言うべきではない。
もちろん、その通り。まっとうな主張です。で、どなたか、「科学を使って」「水伝の思想はダメダメなんだ」と言っています?(いるなら個別に例を挙げて批判してくださいな)。「水伝の思想はダメダメなんだ」と言っている人はいます。でもそれは、科学の文脈から外れて言っているものと私は認識しています。「偽装はよくない」というのは一般的な社会通念ですが、科学的な主張ではないです。
の三種類の人が居る状況で、aにしか通用しない『水伝の実験は科学的じゃない』っていう主張に意味は有るのか?ってことですよ。(ましてやその主張が再三されてaはほぼ絶滅してる状況で)
「水伝の実験は科学的じゃない」という主張が再三されてaはほぼ絶滅してるんですね?すごいぞ!ニセ科学批判の意味は本当にあったんだ!科学的じゃなくても信じる人はご自由に。それはそれとして、ウソ宣伝は絶滅していないんだから、ニセ科学批判としての水伝批判はまだ必要ですね。
いや別所でtittonがしっかり主張してるだろ。
tittonさんが言いたかっただろうこと
ということは「科学を使って」言える。
しかし、
ということは「科学を使って」言うことはできない。
『科学は水伝が科学を装っている点だけ批判している』という実態が見えないtittonが持論を繰り返しているだけだな。
疑似科学批判は『水伝の実験はダメダメなんだぜ』までで留めるべきで、『だから水伝の思想はダメダメなんだぜ』までは、「科学を使って」言うべきではない。
『科学を使って思想まで批判している水伝批判者』っているの? 誰?
tittonやあんたの脳内にはいるのかもしれないが。
実態が無い物に対する批判的主張は真っ当どころかの無用の長物だって分かるか?
聖杯グッズの科学的な効用を信じて買った人は疑似科学信者になるでしょう。
しかし、科学的な効用とは関係なく「信仰心から」聖杯グッズを買った人も居れば、聖杯グッズに関係なくキリスト教を信仰してる人も居るわけで、そういう人たちに『聖杯グッズの科学的効用の批判をしても信者には効果無い』っていう事は容易に想像出来るじゃないですか。
キリスト教が疑似科学的側面を有するようになれば、キリスト教信者も疑似科学信者と看做されるだろうねというのが、聖杯グッズの例えだろうに。
ところで科学面の批判で信者を説得しようなんて誰がやってるの?
の三種類の人が居る状況で、aにしか通用しない『水伝の実験は科学的じゃない』っていう主張に意味は有るのか?ってことですよ。(ましてやその主張が再三されてaはほぼ絶滅してる状況で)
そして水伝が残り続ける限り、規模や影響度に合わせて批判も残らざるを得ない。
終わりはまあ無いわな。ご苦労な話だが。
対するtittonの主張は、水伝は悪影響があるか分からないとか、将来的に良い物になるかもしれないなんてシロモノだ。
トンデモ以外の何者でもないだろ。
tittonさんの疑似科学批判批判の根本はここかなあ。bやcに対して、したり顔で「水伝の実験は科学的じゃないんだぜぇ」って言ってどうすんの?ってことかな。
『bやcに対して、したり顔で「水伝の実験は科学的じゃないんだぜぇ」って言ってるのって誰だよ言ってみな?』って言われて答えないのがtittonだ。
あんたも同類になりたいってんなら止めないが。
それを踏まえて今回の根本に戻る
で、TAKESANさんに↑みたいなヤツだなあって言ったのが今回の根本かな。
でも、少なくとも今回に関してはTAKESANさんが悪いのは確定的に明らか。
横から口出すならちゃんと状況把握してからにしような。
あんたが間抜けなのが確定的に明らかになるだけだぞ。
みんなもっとちゃんと読もうね!
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-4ad1.html
から始まった
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20090119
あたりでのもめ事に横から口出し。
・横やりとしてコメント欄に書くには長すぎる
・かといってこのためだけにブログを立ち上げる気力は無い
からで、特に意味はないです。
で、結論としては、そろいもそろって「トンデモが言うことはトンデモだからちゃんと聞く必要は無い」という考え方に取り憑かれている様で。
NATROMさんとかもっと理性的に相手の言うことを聞けると思ってたんだけど。
tittonさんは結構まともなこと言ってるのに相手がそんな状況だから理解されずに孤立無援になっちゃってるという。
以下、各論。
tittonさんが言ってるのは、『水伝批判に疑似科学批判メソッドを用いても無意味』ってことだと私は読み取りました。
tittonさんがはじめに水伝に言及したのは
これって水伝批判の構図と同じだよね。水伝自身は「これは科学ではない」とはっきり言ってるのに、「いや、科学と言っている。科学でないものを科学というのはけしからん」と批判しているわけだ。
これじゃ魔女裁判と同じで、いったん嫌疑をかけられた側は反論しようがないじゃん。こういう浅はかな人たちが疑似科学批判ブームのって、社会正義に酔いしれている事の方がよほど危険。
この文をTAKESANさんが変に読んで
って言い出した。これはTAKESANさんの読解ミス。
まあ、tittonさんもそのミスを指摘せずに
だから水伝は(少なくとも最近の水伝は)科学を自称していない。科学でないと明言さえしている。科学を自称していないものを疑似科学と呼ぶなら宗教だって疑似科学になってしまう。疑似科学も宗教も人心を惑わすという似たような面を持っているが、同じ方法では対抗できない。科学は科学でないものを批判できない。(有害な)思想は思想として批判すべきこと。
って返事しちゃったから、疑似科学批判側が誤解したのも無理はない。
でも、この文にしても、へんなフィルターがかかってなきゃ、
水伝は科学を自称してない→だから水伝批判に疑似科学批判メソッドを使っても意味はない
とも読み取れるはず。まあ、正直伝わりづらい書き方だとは思うけど。
で、この読解ミスと返事から議論が始まってるから、そもそも噛み合うはずがない。
ということは「科学を使って」言える。
しかし、
ということは「科学を使って」言うことはできない。
昨今の疑似科学批判者は科学の名を騙って思想を批判することが多い。それは科学を科学以外の目的に使っているわけで、疑似科学論者がやっていることと同じ。科学が批判できるのは提示された事柄が科学として見た場合妥当か否かだけであり、思想までは判断できない。
また「科学を装っている」という人もいるが、装っているかどうかは多分に主観的なものであり、文章をどう解釈するかとか社会通念に照らしてどうか等は科学が扱う問題ではない。もちろん科学とは別個に、有害思想や詐欺行為として批判するならそれは自由だ。しかしそれを科学の名の下に行うのは科学を逸脱した行為。
で言ってるのは多分そういうこと。
疑似科学批判は『水伝の実験はダメダメなんだぜ』までで留めるべきで、『だから水伝の思想はダメダメなんだぜ』までは、「科学を使って」言うべきではない。
これは至極真っ当な主張だと思うんだけど、疑似科学批判批判っていうレッテル貼っちゃうとちゃんと読み取れないんだろうなぁ。
水伝の思想が正しいとも間違っているとも言っていないことにも注意。
titton 俺はあなたのサイトの愛読者なのだがね。聖杯とかを騙ったグッズを売っている会社があればキリスト教信者も疑似科学信者になるの?会社が疑似科学なだけだろうに。rev-9人はそういう安易さに逃げたくなるものだw
がtittonさんの考え方の説明になってるっていうのはその通りだと思うけどなあ。この辺もみんなちゃんと読む気がないんだろうなあ。
sunagimo2 バチカン(江本)が聖杯工業(株)を設立して、そこのサイトに「主と聖杯を科学する」と書いていて、なおかつ信者がこぞって聖杯グッズ(なんか適当な科学っぽい説明つきの)を買い求めればそうなる
そうなりますかね?
聖杯工業が疑似科学になるのはtittonさんも同意してますよ。(だからNATROMさんの『tittonさんがどうお考えになるかは自由ですが、だいたい読者のみなさま方は納得されたようです。tittonさん以外で、どなたか「バチカンが聖杯を科学的だと自称して売り始めたら疑似科学とみなされる」点について疑問の方はいらっしゃいますか?』は的はずれ)
聖杯グッズの科学的な効用を信じて買った人は疑似科学信者になるでしょう。
しかし、科学的な効用とは関係なく「信仰心から」聖杯グッズを買った人も居れば、聖杯グッズに関係なくキリスト教を信仰してる人も居るわけで、そういう人たちに『聖杯グッズの科学的効用の批判をしても信者には効果無い』っていう事は容易に想像出来るじゃないですか。
つまり、
の三種類の人が居る状況で、aにしか通用しない『水伝の実験は科学的じゃない』っていう主張に意味は有るのか?ってことですよ。(ましてやその主張が再三されてaはほぼ絶滅してる状況で)
tittonさんの疑似科学批判批判の根本はここかなあ。bやcに対して、したり顔で「水伝の実験は科学的じゃないんだぜぇ」って言ってどうすんの?ってことかな。
(個人的には社会全体に対して発信する事は意味があると思うけど)
で、TAKESANさんに↑みたいなヤツだなあって言ったのが今回の根本かな。
でも、少なくとも今回に関してはTAKESANさんが悪いのは確定的に明らか。
そもそも「確定的に明らか」でググれば「巨乳と貧乳では巨乳の方が優れているのは確定的に明らか」が三番目に出てくるんだから、どういう使い方をされるかくらいは想像できるはず。
それに対して
っていう言い方をして(しかも他人のページに対するブクマコメに対して)「バカにした」んだから、召還したtittonさんに煽られてもTAKESANさんはしょうがない。
で、私の個人的まとめとしては、
・「疑似科学ではない」と「疑似科学批判メソッドで批判しても意味はない」を混同している。疑似科学批判側もしてるし、tittonさん自身も多分混同してる。
・tittonさんは孤立無援になるほどトンデモさんじゃない。
・NATROMさんやTAKESANさんはフィルターを介さずtittonさんの文を読むべき。
てとこでしょうか。みんなもっとちゃんと読もうね!
当然ですけど、tittonさんの考え方を私はこう読み取ったっていうだけの話なので、ご本人の考え方とは違う可能性があります。
で、tittonさんの考え方に対して個人的に異論はあるけど、その辺はNATROMさんたちがやってるんで、今回は遠慮します。
諸君、私はニセ科学が好きだ
諸君、私はニセ科学が好きだ
諸君、私はニセ科学が大好きだ
水からの伝言が好きだ
ホメオパシーが好きだ
ゲーム脳が好きだ
インテリジェント・デザインが好きだ
教室で
テレビで
新聞で
物理学会で
家庭で
剥きになって否定する人間に「たかがテレビだ」と冷たく言う時など心がおどる
パナソニックがマイナスイオンをさらに進化させ、「ナノイー」を売り出した時など胸がすくような気持ちだった
極端な相対主義が好きだ
「信じるという意味なら科学も医学も宗教」と言い捨てる時など感動すらおぼえる
ベストセラーの10冊中3冊を血液型本が占めた時などもうたまらない
根拠もないのに「愛の存在は証明済み」と言い切るのは最高だ
偏狭な科学者がウェゲナーを否定し続けたのを
数十年のときを経て真実で捻じ伏せた時など絶頂すら覚える
毅然と抗ウイルス薬を拒み死んでいく姿はとてもとても悲しいものだ
諸君 私はニセ科学を 不実で厚顔無知の独裁者様なニセ科学を望んでいる
諸君 私に付き従うニセ科学好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なるニセ科学を望むか
糞の様なニセ科学を望むか?
高潔で人の心を大切にし、祈るだけで地球上すべての問題を解決できる絶対者のようなニセ科学を望むか?
よろしい ならばニセ科学だ
だが、2ちゃんねるのようなひどいインターネットで科学教信者の猛烈な批判に耐え続けて来た我々には
ただのニセ科学ではもはや足りない!!
我々はわずかに小数
納豆ダイエットがやらせだっただけで「騙された」などと手のひらを返す連中に比べれば物の数ではない
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の善意のMLM集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、他者の価値観を口うるさく非難する科学狂信者を叩きのめそう
髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう
連中に子供がいじめられるのは奴らが父親を嫌いなせいであることを思い出させてやる
連中にランドリーリングを使えば洗剤は必要なく地球に優しいことを思い出させてやる
ニセ科学には奴らの哲学では思いもよらない現代科学では説明のできない力がある事を思い出させてやる
1000人の真のビリーバーの集団で 世界をフォトンベルトのゼロ磁場で埋め尽くしてやる
「マコモ風呂 featuring EM菌」作戦 状況を開始せよ
征くぞ 諸君
私はニセ科学批判者が嫌いです
攻撃的な姿勢と 改心要求
知識のひけらかしと 優越感で生きている
間違いだ 詐欺だ 馬鹿だと はっきりと書き込んで人をはやしたてる無神経さ
私ははっきりいって夢邪鬼です
スルーのそぶりも見せない 遠慮のかけらもない
空気を読む心も 乱入された側への思いやりも 何にも持っていない
そのくせ 上から見下げたようなあの態度
次のエントリを上げる時は足でまとい
逃げ時は悩みの種
そんなお荷物みたいな そんなモヒカン族みたいな そんなニセ科学批判者が嫌いだ
私は思うのです このネット上からニセ科学批判者が壊滅してくれたらと
ニセ科学をブログで褒め称える そんな善良なブロガーだけのネットならどんなによいことでしょう
ニセ科学に無関心な そんな善良なブロガーだけのネットならどんなによいことでしょう
私はニセ科学批判者にならないでよかったと胸をなで下ろしています
私はニセ科学批判者が嫌いだ ウン 私はニセ科学批判者が嫌いだ
ニセ科学批判者が世の中の善良なブロガーのために何かしてくれたことがあるでしょうか
いいえ ニセ科学批判者は常に善良なブロガーの足を引っぱるだけです
身勝手で 右手が臭い!
七田式
赤い血液さらさら
簡単なものしか手を出したがらない 難しいものは見て見ぬふりをする
「それは科学の問題ではなくて別の問題です」と書けばすむと思っている所がズルイ
非の打ちどころがないニセ科学批判者も嫌いだ!
チクチクと細かい批判ばかり繰り返し 落としどころも決めずうろちょろしやがって
いつまでもヲチし続けて いつもどんどん群がってくる
あの大局を気にしないネガコメがいやだ!
あの計算高く揺らがないネガコメがいやだ! ネガコメが不愉快だ!
何がリテラシーだ! なにが落ち着いてまず調べろだ!
なぁにが目先の利益、安易な善意に囚われない冷静な思考だ!
そんなニセ科学批判者のために 私達善良なブロガーは なぁんにも対応する必要はありませんよ
第一私達善良なブロガーがこっそりとエントリを修正したところで
これだけニセ科学批判者がいながら一人として 感謝するニセ科学批判者なんていないでしょう
どぁったらいいじゃないですか それならそれで けっこうだ
ありがとう! ネ!
はっ 離せ 俺は善良なブロガーだぞ!
誰が何といおうと私はニセ科学批判者が嫌いだ
私は本当にニセ科学批判者が嫌いだあああああああ!
私は〜が嫌いですのガイドライン
http://ton.2ch.net/gline/kako/1006/10065/1006595233.html
http://jp.youtube.com/watch?v=0B2FZDzXUV4
追記:
映像、歌詞、解説付きなので、こちらの方が目の保養になるかも。
【苺ましまろ MAD】子供達を責めないで(私は子供が嫌いだ)【ニコニコ動画コメント付き】
http://jp.youtube.com/watch?v=32xLyAb_y9k
よくわかんないけど、デジタルで処理できるのはあくまでもデータとしての波型であって、それを出力したときにスピーカーから出てくる波型までは保障できないんだと思う。
どんなにすごいD/Aコンバータがあっても、結局のところ「出来不出来に大きな差のあった」かつてのアナログな銅線+スピーカに通した音は音的に再現可能であってもその「装置」を含めて音なので、そういう意味では再現不可能なんだろう。
逆に、外からは完全にレトロな真空管を使ったオーディオ装置に見えて中身は適当にフィルタかましただけのデジタルなシステムなら、人間の耳は容易にごまかせるとも思う。