はてなキーワード: 日本国とは
もともと原因を作ってきた政治家や官僚連中が悪いのだが、米中朝韓でくっつこうとしているこの時期に超絶スキャンダルとはうまくヤラレタな日本国は。
http://www.afpbb.com/articles/-/3167078?cx_part=latest&cx_position=1
とりあえず代入してみよう。
”犯罪がなかなか撲滅されない現在において、黒人専用車両という解決には一定の合理性があり、それで救われる人が大勢いるのなら、私はそれに反対しない。”
彼は一定の合理性があるなら人種差別も許されるとお考えのようだ
追記
"仮にこの意見に合意したら次は差別だったら止めろになるんでしょ?馬鹿らしい。"に対する答えで"その時は「あらゆる差別は悪であり廃絶すべきだ」派と闘えばいいのでは。"
ということだが、日本国憲法第一四条一、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
横やり失礼、最後の箇所の意図がよくわからなかったからもう少し詳しく説明して欲しい。日本社会への貢献と個人の研究が論文として多くの人の目に留まることは全く違うベクトルじゃない?
文系の研究では、もちろん社会から遊離したことを扱ってる人も大勢いるけど、社会とか政治とか歴史とか文学とか言語とか、現実の普通の人の営みと切り離せないテーマを扱うことが(理系と比べて)比較的多いんじゃないかなと思う。そして研究者の問題意識もその研究者の埋め込まれた社会からは自由でいられないわけで、最先端の研究成果を日本語で発表することは日本社会への貢献としての価値も持っているという話(つまり、外国の政治学者に読んでもらえなくても無価値というわけじゃないよ)をしたかったんだけど、伝わりにくい文章だったらごめん。
国粋主義とまでは思わないけど、そう受け止められられるかもしれない気がした。
でも、国民の皆様の税金から研究費をいただくってのはそういうことじゃない? なんらかの形で日本社会に還元することを求められているよね(国粋主義を強く批判するような立場の研究だって、「日本国の国威発揚」には資してないにしても、「大勢の異民族や外国人が暮らす日本社会」には間違いなく貢献してるわけで)。自国の研究のプレゼンスを高めるために多くの論文を英語で書くべきだ、というのと、学術言語としての日本語の価値を守り育てていこう、というのは、同じベクトルじゃないかと思うんだけど。
杉田水脈さんは保育園を電波な妄想で責めたり↓みたいな事を国会質問で言ったり
本来日本は、男女の役割分担をきちんとした上で、女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。
女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。
男性ばかりか当の女性までが、女性にしか子どもが産めないことをネガティブにとらえる社会になってしまいました。
その結果、ドメスティックバイオレンスが蔓延し、離婚が増加。少子化や子どもの貧困の原因となっています。
次世代の党は、この男女平等参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます。
「男女差別撤廃条約」の破棄、男女共同参画基本法の撤廃を行い、男女がお互いに尊重し合える社会を取り戻すことを日本国の皆さんにお誓いして、私の質問を終わります。
女の子は本来『俺の可愛い女』って言ってくれる男とずっと一緒にいたいものです。本能に逆らうとGAPが出てきてしまう。日本全体がそんな状態になっちゃってしまっている。そんな気がします。
こんな感じで日本古来の役割分担を主張しながら自分は子供をゼロ歳から保育園に入れて公務員や政治家してたし、一般の女と自分を分けてるのだろうか。
名誉男性って奴なのかな。
ヴィーガンは食生活についての主義で、増田の言いたいのはアニマルライツ(動物の権利)論者のことと思われる。アニマルライツを実践すると大抵ヴィーガンにならざるを得ないが、ヴィーガンが必ずしもアニマルライツ論者というわけではない。美容・健康、宗教的戒律、食の好みでヴィーガンをやってる人もいるからな。フェミニズムを実践するとヴィーガンにならざるを得ないというのも、あんまりメジャーな主張ではないと思われる。全ての差別を否定するならヴィーガン&アニマルライツにいきつく、というのは概ね正しいが。
で、アニマルライツも一枚岩ではないが、メジャーな考え方としては割と能力主義的なところがある。例えば痛みやストレスを感じる能力がある動物は、人間社会においては人間と同じように痛みやストレスを出来るだけ受けないよう配慮される権利があるってことだ。
つまり能力に対して相応の権利が生じる。日本国においても社会的能力が足りないと見なされる未成年には選挙権が与えられないのだから、同じくコミュニケーション能力不足な動物だって参政権などの「社会権」は相応に制限されるって寸法だ。社会権や財産権は生存権などの肉体的な自由と比べて一歩劣る扱いをしてもよい、というのはアニマルライツに限らず極端な無政府主義者以外ならある程度賛同するものと思われる。
ただ、近代国家は知的障害者にも参政権を与えたり、必ずしも能力と権利を全面的に対応させたりしない。アニマルライツは能力差別なのではないかという批判は昔から根強くあり、それに対するアニマルライツ側の反論もあるのだが、俺はアンチ・アニマルライツなのでここまでにしておく。