はてなキーワード: 徹頭徹尾とは
子供第一っていうか、要するに「子供を苦しめることはみんな悪、何をおいても子が泣きを見ることだけは避けるべき」みたいな感じだよね。
そんで、その命題でもって何もかも語ろうとしすぎてる。
でたでた。
「相手の論陣を極端化して論破しやすくしてから戦う」という典型的藁人形論法。
「子供を苦しめることはみんな悪、何をおいても子が泣きを見ることだけは避けるべき」
俎上の母親は自分の子供にシリアルと買い弁当ばっか食わせて夜更かしさせて放置してるわけだわな。
子供の為に出来る、追加リソースゼロの方策(助けてくれそうな人に頭下げてすがる、交渉する)すら真剣にとってきてないわけ。
今回子供が喜んでるの見てもただ「報われない自分が可哀想」って泣くわけ。
0点じゃねーか。
その子はとっくに苦しんでるし泣き見まくってるよバーカ。
「30点ぐらいなら取れなくないように見えるから30点は取れよ」って言われてるだけだ。
そしたら被害者面で「100点を取れと強要された!」とかトンチキなこと喚く。
どこの誰が0点人間に100点なんか期待するんだバーカ。
あのな、そういうのはボチボチ最善と思われるルートをたどってからほざくことだ。
自分の感情のためだけに、「両親や従兄弟に頭下げてお願いする」ということすら回避した母親を
「無いなら作れや!」ってなるのはいいんだけど、そこで母の過去の選択がどうのこうのって責めたって策なんか出てこねーんだよ。
過去の選択について間違いを認識して反省してるならみんなだって責めやしねーよ。
まるっきり認識してないじゃん。
そのことを認識して後悔や反省をしてるなら追加で責めたりしねーよ。
目の前の「策」である従兄弟のことも生かせそうにない状態だよね。
「策」は目の前にいくらでも転がってるんだよ。
あくまでこの母親が、自分の理想のために、それを掴むのが嫌なんですってよ。
バカじゃねーの。
普通のシングルマザーはこの母親みたいに恵まれてねーし、理想とか寝ぼけたこと言ってねーよ。
てめーこそ勝手に他の罪の無いシングルマザーを巻き込もうとすんなバカが。
文中の登場人物で「誰かを蔑ろにしてる」人間は一人だけ、この母親だ。
「両親の思い」も「わが子の健全な発育」も「出来すぎた従兄弟達の親切心」も全部蔑ろにして
いまだに「理想どおりに出来なかった私が可哀想」と抜かしてる。
こいつが可哀想だとすればそれは
徹頭徹尾自分のことしか考えないで生きてるせいでそうなったんだよ。
厳しい批判を受けたら
ダメ人間の典型パターンだけど、その攻撃方法がクズ丸出しだな。
「幼少期に可哀想な目に遭った奴だろう!」なんていう人格攻撃の手段があるか?
2chのネトウヨのチョン呼ばわりなんかより更に人間として下だわな。
「きちんと養育されない子供が可哀想な目に遭う」、なんてことについて
心を痛めるんではなく攻撃に使えちゃうその神経。
こういうレベルの人間が人の親やってたらと思うとマジでコワ!としか言いようがない。
まあそういうレベルの人間がこの問題の母親みたいなことも出来るんだろうけど。
そのためなら「今泣いてる母親は泣いてて当然」となるわけだ。
この「泣いてる母親」は
誰にもこんな奴を助けることは出来ない。
自分で自分の了見を改めて、他人のことや他人の気持ちを考えられるようにならない限り
もっとはっきり言えば、
つまり、
馬鹿だな。
それだ。
齋藤孝ではこうは行かない。彼は見た目の通りインテリ眼鏡って感じだが、
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111013/1318467309 (世の中ってのはこういうもんなんだ。私は私の好きなようにやるぜ)
のあとに
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111013/1318467309 (最後は根性よ!自分が正しいと思うことを貫いてたらきっとみんな分かってくれる)
という記事を書く、その流れの完璧さにもう萌えが止まらない。さやかとあんこがイチャイチャしているようにしか見えなくて困る。
わたしこういう人物像が大好物どまんなかなんだわ。
いや、憧れるじゃなくて、自分もそうなるのだ、ならなくてはいけないと決意する。
自分をそういう人たちと一体化させて、同じように行動し、同じように思考しようと普段から務めるわけだ。
まぁたいてい自分は強くなったけど誰も周りはついてこないってオチになるよね。
そうやって張り詰めた生き方をしている人が、ふと孤独を実感する瞬間でうおおって興奮する。
そんな時に、ちょびっと不安を覚えながらも、自分は間違ってなんかいないと涙を拭いながら、
夜中に一人でボールを磨いたり、魂の書を読み返したり、家族の位牌なんかと会話したりとかね。
さらに、実は一人じゃなかった、数少ないけれど、自分を理解してくれる人がいたってことがわかる瞬間が続くと・・・鼻血出そうになる。
さらにさらに、そういう子が、仲間と一緒に挫折を乗り越えて何かに到達するってなところまで来ると・・・
もうベタでもなんでもいいよ。これぞ物語だよ。すべてを許せる気分になるよね。
最も有名なシーンは「SLUM DANK」の赤木とメガネ君だと思う。
あの時のメガネ君が輝いて見えた、あるいは涙で霞んで見えたのは私だけじゃないはず。
いまこういう熱血シーンは少年漫画ではできなくなって全部少女が行うようになってる。
「少女ファイト」とか「ロウキューブ!」とか「ゼロの使い魔」とか、
「神のみぞ知る世界」の空手娘とか、作品名忘れたけど剣道部のポニーテールの主将さんとか。
最近で言うと「輪るピングドラム」のりんごちゃんとかもあのまま貫いてたらいい感じだね。
「真剣で私に恋しなさい!」の川神一子なんかもすごく良い感じ。
とにかく私はこういうのが好きなんだ。
そういや「百年の孤独」とか軒並みSFって、スケールや壮絶さが全然ちがうにせよ大枠ではこういう話だわね。
こういった、今は「女の子の特権」みたいな印象がある話を、女でない、若者ですらないオッサンが頑張ってる。
これを新たなムーブメントとしなくてどうするよ。
「働きマン」でもあったじゃん。50歳からの女子高生と恋愛する物語を企画して成功する話が。
お前ら「うさぎドロップ」みて、ニンマリしただろ? オッサンになっても人生終わりじゃないよ。むしろこれからだよ。
そう言ってくれてるように思える。応援しなくてどうするよ。
こういうのが大好きな私にとって、「もしドラ」という作品がいかに期待を裏切るクソ小説であったかは分かっていただけるかと思う。
多くの人がもしドラを「良質の百合」と表現した。私もそのとおりだと思う。途中までは完璧な展開があった。
来るべきラストシーンへの期待に胸をふくらませ、ドキドキしながらページをめくったわけだ。
そういう話じゃねーからコレ!
「ナルキッソス」やってんじゃねーんだよ。「いつから半分の月がのぼる空」になったんだよ。
そういう物語をやれる構成じゃなかっただろうが。なんでいきなり路線変更してるわけ?
おとなしくスラムダンクやってりゃよかったんだよ。「本当、女子高生は最高だぜ!」で何が不満だったわけ?
「小説の読み方の教科書」で「筋書きを予想しながら読むべきではない」ってドヤ顔で書いてたけどそういう問題じゃねーよ。
筋書きはぶっ壊せばいいってもんじゃないんだよ。読者の予想を裏切れば良いってもんじゃないんだよ。
それならそれで、納得出来るだけのものを書けなきゃいかんのにできてないやん。
夕紀の死を支えるだけの備えなんて物語のどこにもなかっただろうが。徹頭徹尾二人の物語だったろうが。
書かれていない行間からチームメイトとの絆を読み取れっ・・・てそりゃねーわ。
わけがわからないよ。これコミック版でどうにかなるのかよ本当に?
彼にはまだ「この結末」が書けなかったのだと考えた。
逆に考えるんだ。ハックルさんはまだメガネ君がいない未完成、つまり一番美味しい状態だと考えるんだ。
私たちの社会が徹頭徹尾資本主義の国家であれば文句はいえないだろうけど、そうでないんだから疑問をなげかけるのは自然なことだと思う。
おいおい、「ボロ儲けし過ぎじゃね?」って疑問をなぜテレビ局に投げかける。
筋が通ってねぇ。
ボロ儲けは、まあそうだけど、生産によって利益を得るという視線において共産主義が「儲けないこと」を標榜しているとは言えないだろうと。
私たちの社会が徹頭徹尾資本主義の国家であれば文句はいえないだろうけど、そうでないんだから疑問をなげかけるのは自然なことだと思う。
ボロ儲けは、まあそうだけど、生産によって利益を得るという視線において共産主義が「儲けないこと」を標榜しているとは言えないだろうと。
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。
私自身は読者が誤読をしていたらなるべく指摘するようにしているので、一応いくつか誤解を指摘させてもらいます。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
①②③の理路が正しいかは判断不能なので留保しておきますが、私はそういうロジックで文章を書きました。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
宗教の多様な存在形態のうちのどのような形態を指しているかが具体的ではないので分かりません。
とりあえず宗教と文章表現は異なりますという簡単な指摘だけで留めておきましょう。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
相手から文章を理解してもらい、内容を批判的に検討してもらい、受容されるというプロセスを経ない限り、文章に真に共感してもらうということはできないのではないでしょうか。
んーそうなのかなあ。わからないなあ。
あれって感覚だけのおおざっぱな理解なんじゃないかなあって思うんだよ。
あんまり言ってる意味が分からないけど、なんとなく心があたたまるような詩ってない?
「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんてことはないと思うんだー。
もっと人の自由な感性を信じてるよ。ぼくは。
日常会話であればこうしたプロセスを経ずに共感(した振り)してもらえる可能性は残されています(そもそも日常会話においてでさえ共感してもらうというのは中々に困難であり、共感は僥倖ですが)。発信者が内容の理解しやすさに配慮しない場合でも、です。何故なら相手の誤解をコミュニケーションによって即時的に取り除くことが可能だからです。
あーたしかにそれはあるね。
口で話すより、こうやって文章に表したほうが伝わりにくくなってる気がするよ。
しかし文章表現であれば、発信者と各受信者で使ってる語句の定義や用法が異なるので、発信者側が文章を極力正確に、シンプルに記述し、理解へと促さないと共感など到底望めません。例を挙げると
「なんかわかるかも」って感じ
「難しいことはわかんない」って感じ
庶民感覚
という語句が曖昧すぎて何を含意しているか分からないので個人的には共感以前の状態です(理解できれば共感するかもしれませんが)。
うんwこれは何言ってるかわかんないかもねw
例えば
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」とか
そういう理解でも充分かな?
文章表現にすると伝わりにくいっていうのならなおさらね。
もっとシンプルに書ければいいんだけど難しいなあ。
それは書いて練習したいなーって思うよ。
よって読者(受信者)に文章を理解(そして共感)させるには、文章を破綻させたり読者をミスリードさせたりする詭弁のような不当な推論はなるべく(能力的に可能な範囲で)避ける必要があります。もし詭弁表現を使うのであれば留保を付記してから用いるのが良いでしょう。
もちろんここまでの水準での共感を望んでいない(つまりみんなに共感した振りをしてもらいたい)場合には別にどのように記述してもよろしいかとは思いますが、全うな読者の多くからトンデモだと思われる可能性は覚悟しなくてはなりません。
トンデモだと思われる可能性は常にあると思う。
ぼくはむしろ、完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しいんじゃないか?って気がしてて
それで、「文章を書きたい」とか「何かを伝えたい」って思い、行為は
そんなに敷居の高い行為でなくてもいいんじゃないか?とはぼくが個人的に思うところだよー。
理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。
ぼくはそれでいいかな。
ちなみに私は「こいつはウソを言っている」とは思いません。
ほんとに??
それだけでもすごい助かるよー!
あ、でもぼくは「あなたがウソだと思ってる」とは思ってなかったけどね。
そっか~少なくともあなたにはウソとは思われてなかったのか~^^
「この人は言説に詭弁を用いてる自覚があっても言説を真だと思える人なんだろうなあ」(私は詭弁があると真偽の判定以前の問題だと思うので)
うーん。どうなんだろう。
そうかもしれないなあ。
この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになるけど
ぼくはどっちでもいいなあ。
「他者から批判された時に『悲しいなあ』というフレーズで自身の文章表現のまずさの責任を他者の誤解へと転嫁してしまうことを恥じない人なのかなあ」(そもそも他者が誤解するのは当然というか必然的ですし、きちんと理解されることの方が異常ですから他者の誤解に一々落ち込む意味などあまり無いのですが)
恥ずかしくないよー悲しいのは事実なんだよ。
文章がまずいのか誤解してるだけなのか(自分の文章がまずくないとは思わないけど…)
自分の文章がうまくなくてもいいって思ってるんだ。
相手の理解力にあまり期待もしてないし。
わかりやすいようには書いてるつもりだけど、自分が書きたいって思う気持ちを優先させてる。
だからといって、「まず人様に見せられるちゃんとした文章じゃないといけない」なんてことは思わないから
だから、誤解されるのは仕方ないけど
やっぱり悲しくなるなあ~凹んでしまう。
ぼくも仕方ないから気にすることないだろうと思ってたんだけどね…。
どうも、他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられないみたいだ。
どう思ってくれてもいいんだよ。
こういうタイプは、「女だから得している」「女だから免ぜられている」事柄については丸々無視する。
男女の概念がなくなってしまったらその権利も消失してしまう事は考慮していない。
論が甘い。
例えばこの論の甘さを誰かに責められるとしよう。
その際、
「これだから女はだめなんだ」
と言われるのと、
「これだからこいつはだめなんだ」
と言われるのと、どちらが自分にとってダメージが大きいか? 逃げ場がないか? と考えた事はおありだろうか。
元増田に多少なりと「狂っている」部分があるとすれば、それは親族への個人的恨み辛みそのものが「じぇんだーもんだい」の一部たりうると思っている事か。
もっと言えば、自分の思い通りにならない事は自分の被害妄想などではなくちゃんとした学問的問題だ、だから向こうが悪い、で片付けようとしている所。
ジェンダー云々を言うなら、まずジェンダーというのはこういう問題であって、それについて自分はこう思う、その例の一つとして自分の親族が……という提示順序であればよいのに、もうしょっぱなから自分の親族への苦情、その理由としてジェンダー、と逆になっているから説得力に欠ける。
あげくの結論が「人に合わせるのがジェンダーフリー?」。
女だから、と言われ続けて来た事への反論を、自分の頭で考えず、ろくにその内容も理解せずに「ジェンダー」という単語だけ拝借してきて吠えているだけだからこその、この怨念たっぷりの結論であろう。
「男だから」「女だから」は、ケースによっては確かに個別判断を放棄した愚かな思考停止だ。
それと同様に「ジェンダーだから」も、ケースによっては個別判断を放棄した愚かな思考停止だ。
親族からなすりつけられ続け、嫌悪しているはずの安易な思考法を、自分が見事に引き継いで血肉としている事を自覚する、それが安寧への第一歩では。
コーチのお客さん(クライアント)にはプロのスポーツ選手や社長さんもいるそうだよね。
目標設定も観察も相手にゆだねるのがコーチング。目標設定や観察をこちらがやってあげるのがティーチング。コーチングでは、クライアントのことを一番知っているのはクライアント自身だし、どうしたらいいかについても、クライアント自身が答えを出せるというスタンスで接する。徹頭徹尾。
クライアントをどこかに向かおうとしてるマラソン選手に喩えるなら、コーチは飽くまで支援のための伴走者で、実際に走るのはクライアント。どこに行きたいのか、どうすれば行けるのか、今どこまで進んだのか、どうすれば障害を乗り越えられるのか、こういったことについて考えるきっかけとなる質問をすることで、クライアントのモチベーションを上げつつ、クライアントが自分のことを自分で考えて自走できるように支援していくのがコーチの役目。
例えば目標を設定するフェーズでは、「今まで一番ワクワクした経験は何ですか」とか「今までで最高の瞬間はどんな時でしたか」とか「今一番したいことはなんですか」とか「1年後に死んでしまうとしたらこれから何をしてみたいですか」とか質問して、クライアントのビジョンが膨らむようにお手伝いする。
描いたビジョンにたどり着けるのか、どうすればたどり着くのかを考えるフェーズや進捗をチェックするフェーズでも、例えば、「どうしたらたどりつけると思いますか」「どんな段取りを組めば良さそうですか」「その計画が頓挫するリスクはありますか」「そのリスクはどんな理由で生じますか」「予防策や発生時の対策はどんなものが考えられますか」「何が障害になっていますか」「誰に相談したら解決しそうですか」「手がかりはどこにありそうですか」なんて質問をして、相手に考えてもらう。
これらの質問に対する答えをこちらからクライアントに提示するのはティーチングやコンサルティングになる。ティーチングも悪いことではなくて、コーチングとの使い分けが大事。あと、自分について自分で考える精神状態じゃない人を助けるのは、コーチングじゃなくてカウンセラーや精神科医の仕事になってくる。
物語性のない物語にあてられると虚脱感がすごい。なんていうか、いい意味で疲れてしまう。馬鹿馬鹿しすぎて、他のことに手が付けられなくなってしまう。
といいますのも、今さっき聖痕のクェイサー2の十話を見たわけですよ。違法動画を。最低なことをしてしまいました。反省します。すみません。
以降、本来視聴を憚るべきものを見てしまったという罪悪を踏まえて続けていくわけですが、ありゃね、すごいですよ。べらぼうに。頭がショートするって、今の自分のことを指すんだと思う。
そもそもはランキングに本編が上がっていて、ああこんな酷いアニメあったなあ、どんなタグついてんだろうな、ちょっと覗いてみようって思って開いてみただけだったんです。
どたまかち割られました。なにこれぇ状態でした。本当に。
一話から九話まで見てなかったのもあるけど、だとしても徹頭徹尾意味不明。何も物語がなくてただひたすらにエロ描写を盛り込んだエロくないへんてこな内容が続くという恐ろしい物だった。
自分はけいおんを一度も見ていないんだけど、けいおんを含め日常系と呼ばれるアニメの魅力というのに、今回見た聖痕のクェイサーから虚脱感ってキーワードを見出した。
本当にもうどうでも良くなってしまう。現実問題とか全部ほっぽり出して、純粋にアホだなあとしか思えなくなってしまう。
これってめちゃくちゃすごいことで、空恐ろしくもあるように思える。馬鹿になってしまう気がするもの。ナンセンスとかなんとかいうよりも恐ろしい物の片鱗を見た。
あれはヤバい。性的な視聴年齢制限を設けるよりも、内容的な視聴年齢制限を設けるべき。まだ頭がグラグラしてる。意味がわからん。
いや、MADなんかだったらそれ相応の心持ちで準備ができるんだけど、無防備なところに圧倒的な刺激でもってやられたもんだからクラッシュした。
普段は考察厨の強引過ぎるこじつけにうんざりしてたりするんだけど、まどかマギカとその放送中に起こってしまった東北関東大震災(東日本大震災)に関しては共通点を思い浮かべずにはいられなかった。
第9話でQBが"エントロピー"という言葉を出してまどかに対して語っているが、このシーンを見て「ついていけない」と感じた人もいるかもしれない。でもこれは現実でも起きる可能性のあるエネルギーの問題を抽象化したものだと考えられる。QB曰く「エネルギーは形を変換する毎にロスが生じる。宇宙全体のエネルギーは、目減りしていく一方なんだ」 実際に化石燃料などの資源から発電する時や、遠距離の送電をする時、あるいは電化製品などで別のエネルギーに変換される時に起きるロスが生じている。化石燃料は無尽蔵では無いし、一度発生させた電力を増やすことができない以上は、エネルギーは問題自体はいつか直面せざるを得ない状況にあった。多く国では比較的効率の良い原子力発電を使うことで問題を先送りできていたが、実際に福島第一原発が危機的状況になりさらに関東地方を中心に電力不足に陥ってはじめて、これまでの原発が抱えていたリスクがどういうものだったのか誰にでも理解できる形で表面化した。QB達のような異星人と同様に、なんらかの新しい発電システムを模索していかないといけないのは間違いないだろう。
また、魔法少女は"魔女"という人間に害をもたらす存在と戦っているが、そのことを他の人に気づかれることは無い存在として描かれている。これはリスクというものがいざ問題に直面しないと認識するのが難しいと言うことを表現してるように思える。もちろん事前にリスクに対してある程度まで対策を行うことは不可能ではない。しかし、未来を完璧に予知できない以上はリスクに対して完全に対策を行うことはできないし、なによりも普段の生活だけで精一杯な全ての人々にこのようなリスクの本質について認識させるのは難しいし時間もかかる。しばしばマスコミによってパニック的な消費行動が起きているが、それを避けるためにも個々人で様々な分野の研究結果やフィクションなどに目を通して悪い可能性というものについて普段から考えておくことは有益だと思う。本当に起こるかどうか不確定な物事へ、対策を行うと言う判断をしてそのための時間的・金銭的なコストを支払うことになるのは他でもない自分自身である。そういう意味で「徹頭徹尾自分のためだけ」なのだと思う。
ヒットしたフィクションの作品には、その時代の人々が抱えている問題を何らかの形で表現していることが多い。このような作品は将来的に生じるかもしれないリスクというものについて考えをめぐらす絶好の機会になり得る。だからこそ、自粛や自主規制は最小限に抑えて欲しいところである。しかし、すでに放送された「ワルプルギスの夜」後の破壊されて水に沈んだ町並みについては、被災地の現状を強く連想してしまう。もちろん偶然の一致によるものだろうが、現実問題としてそのような映像は被災者のPTSDの回復に悪影響を与える可能性もあるので、放送する側がどういう判断を下すのか気になるところである。
僕の心には響かないな。
こういうのもやっぱり「なってみないとわからない」のかね。残念だ。沖縄に行くことがあったらこの話は徹頭徹尾しないようにしよう。
最近の政治家が養護老人ホームを作って、年寄りを囲い込んでいるわけ。それは、事理弁識能力のない”大人”からの一票、
というか集団票がほしいから。というのはだいたい推察が聞く話のようなのだけれど、そのへんの”大人”は、そこに入って、
何をしているのか、というのは、あまり知られていないとおもう。何をしているのか・・・?
それは、いわゆる、うんこのなげあいらしい。いや、某アルファブロガーが好む比喩ではないが、うんこの投げ合いを
しているらしい。それで、老人ホームあたりの土地が、ものごっついくさいらしい。
老人たちは、おむつである。老人たちは、おまるである。実にうんこが身近にある。
そのためか、歯止めのきかなくなった”大人”たちは、うんこの投げ合いをあからさまにするらしい。
そして、最初の話に戻るのであるが、政治家たちは老人をしつけようとは、しない。
さて、彼らはどうなっていくのだろうか・・・。
まー先にやられちゃったのは不運だったね。
けれども、よっぽど徹頭徹尾自分の仕事に絶望してない限り、つまりあなたの作るものが一切新しい知見を付け加えないというのでない限りは、たとえ納得がゆかなくても、修論としてまとめるところまではやることをおすすめするよ。
つうかさ、何か作ってく上で、そうそう納得ゆくものはできないわけよ。いつだって心残りも後悔もある。けれどほんの少し、実現できた部分もある。それを足がかりにして、また上に登ってゆくわけさ。もし納得ゆくものが一生のうちに一度でも出来るとすれば、それは自分の積み上げたゴミの山の上に立ったからこそ手が届くものなんじゃないかと思うのさ。
ゴミを産み出すことを恐れるな。それが積み上げる足場になるなら、ゴミにも意味はある。避けるべきは、登ることを恐れるようになることだ。
昼間の仕事でもみんなの前で叱られて恥をかいたりすることはたまにあるが、
何がいけなかったか理由と対策を示してくれるし、理不尽な理由で叱られることは無いから、
叱ってもらえることはありがたいと思いこそすれ、不満を抱くことは無い。
何も言われないよりもずっとましだ。
風俗では客が女としてあるいは人間として魅力を感じるか感じないかが評価軸のすべてだから、
自分の行いで管理できないところで評価が決まってしまうことの方が多い。
自分の可能な限りの努力によって結果を変えられないことの理不尽さといったら。
お客さんも大人だから気に入らないと思っても露骨に態度に出したりしない。
あとから、お店から感想を聞いたり、2ちゃんの書き込みを見たりして、
実は不満だったんだとわかって落胆することがしばしば。
先日は、プレイに入る前に軽くトークをしていたら、
「面倒くさいからもう帰れよ」と言われた。突然だったので唖然とした。
お金を返して帰った。普通に会話していたのにいきなり怒りだしたから何が気に入らなかったのかわからなかった。
その後お客さんからお店に苦情があって
「わけのわからないことを話している。おかしい。」と言っていたそうだ。
私は普通に話していたつもりだった。楽しんでもらおうと思って話していた。
それでも嫌だったらしい。
今まで、私が普通に話していて楽しい時間を作っていると思っていても、実は相手はそうではなかったのかもしれない。
そのお客さんに罵倒されなければ気づかなかっただろう。
こういうことが続くと店も首になるので、徹頭徹尾黙ってセックスだけしていることにしよう。
罵倒された時は傷ついてその客を恨んだが、
彼に純度100%の無遠慮な感想を言われたことで、
今後失敗する機会を減らすことになったのかもしれない。
人は嫌だと思っていても態度に出さない。
風俗をやって学んだことの一番がそれだ。
だから気づいた時にはもう手遅れなのだ。
イエローカードを突きつけてくれる人はありがたい人だ。
大阪・難波の2児放置死事件を覚えておられるだろうか。誰も覚えていませんね。
いや、言われれば思い出すが、そんなことも昔あったなあ、レベルだろう。
事件の直後ははてなでも激しい盛り上がりを見せたが、しかし当初からどうも、誰かがうまくやって自分の目から不愉快な事件を消してくれと言っているようにしか見えなかった。
行政が悪いと主張するなら、体制を整えるコストは負担する用意がありますという意味でなければならない。が、役所が現有戦力で勝手にうまく処理してくれるべきというマジカルワードになっている。人員や費用(人員も費用だけど)が増えるなら、追加負担には応じるという意味でなければならない。行政に強権を付与せよと言うなら、その行使を(無制限にではないが)認め、自分が不利益を被っても協力を惜しまないという意味。その覚悟はあって行政のせいにするのか。踏み込めよというなら踏み込まれることを容認できるのか。近隣隣人が気を配れというなら、隣人付き合いをちゃんと行わねばならないし、通報した時にはその後ぎくしゃくするデメリットも含めて背負わねばならない。その覚悟はあるか。
おそらく誰にも、誰一人、なかった。
隣人は、行政は、社会は、自分ではない誰かは一体何をやっているんだ!と叫ぶだけ。哀れな児童に同情する自分、行政にガツンと言ってやる自分、この悲劇を呼んだ社会構造を批判する自分に酔うばかり。自分が、何かを、しなければならない、と考える感想は見られなかった。
これに限らず。
はてな界隈の議論は浮遊した観念論しかないんだよな。サヨク系の人々の理想というか。現実の被害者を直視しない、バッシングの快感を優先する言説ばかりが多い。
ま、言論を弄ぶだけの、正論をバッシングの道具にしたいだけの言説が多いことは、分かっていた。ただ、その裏に一片の善意はあろうと思っていたんだ。浮ついた言説やくだらない左右対立の底には、それでも集合知が埋れていると思っていた。甘かったよ。徹頭徹尾、遊びだったんだな。はてなーの言葉には何の重みもなかった。
俺は狂犬っぷりを発揮して児童虐待や民族差別に浅く首を突っ込んで噛み付きまくった自覚があるのだが、それで恐ろしいと思わされたのは、ノータイムで喉元に反論を突き付けて来る「また○○か」と言われるあの人ぐらい。いい意味で真っ直ぐに狂ってると思う。真摯だわ。どうも他の人には余裕を感じる。錚々たる面々でも。優越感ゲーム、と呼ばれていたか。自分とは無関係な議論ごっこの具としか考えていない余裕が見え過ぎている。本気で怒っていないのが見え見え。議論ごっこをして勝ち誇りたいだけ、撃墜マークが欲しいだけなんだ。マイノリティだの何だのを本気で案じているわけでは決してない。
いや、現に案じて現に行動している人はいる。しかしそういった人の言葉でさえ、なんか「ギャラリーにも見せつけながらプロレスをして自陣営にうまいこと隷属させよう」という言葉なんだよね、素で本音をぶつけてくる熱さがないんだよ、全く。
おそらくは、はてな界隈にとどまらないのだろうね。言説があまりに軽い。
社会がー行政がー都会の無関心がー言って自分は高いところから采配しているつもりになっているのでは無責任に過ぎる。多分、ブログで論者として発言する人はこの陥穽に陥るがちだと思うのだよね。自分が特権階級だと思っちゃう。自分は部外者として外に置き、中の国民によきにはからえと命じる。そうじゃない。他人事ではいられないはずなのに。
社会が悪いと言う時には、その社会を作ってきた一員としての反省と、その社会を少しずつでも変えていく決意がなければならんのです。なのに、自分ではない漠然とした誰かが悪いという風に怒って済ませている。良くて、やり場のない怒りのやり場として、行政の不作為や都会の無関心という藁人形を作って叩いている。悪くすれば、責任を誰でもない有耶無耶に拡散してしまっている。
またこの話か。
これってあれだろ、ペンタゴンに突っ込んだのは旅客機じゃなくてミサイルだった、んで旅客機は本当は撃墜されてアメリカ沿岸のどこかに沈んでるとかいう与太話だろ。
ペンタゴンの傍には高速道路通ってるんだわ。んで旅客機が突っ込んだ時間帯は午前9時頃で、何百人も旅客機を見てるんだわ。あと、あの近辺は大小合わせて何十社とテレビ局や新聞社、通信社がひしめいていたりするんだよね。だから直接の目撃者やその関係者含めて数万人は下らないはずなんだけどね。当たり前だけど、ペンタゴンからは飛行機の残骸が大量に見つかってるし、そのうちの一部は新聞やテレビで写真・映像付きで報道されてる。
当時俺はアメリカにホームステイしてて、その家の親父の弟が偶然現場に居合わせてパニック気味に電話掛けてきたのを覚えてるし、しばらく後の検証番組でも一番最初の通報が「大変だ!国防総省にエアバスが墜落した!」って放送されてたんよ。その辺をその映画は全く触れてないだろ。
そもそも、NY同時多発テロが本当に米政府の自作自演なら、遺族の一人や二人が当時野党だった米民主党に「俺の家族はブッシュに殺された!」と駆け込んで来てもいいはずなんだけどね。未だにそういう話を聞いたことがない。当時のオバマやクリントンもグルだったんかね。
つい5,6年前までは日本人にとって中韓なんて、ラーメンマンとキムチだっけ?のどうでもいい国でしかなかったはずが、今や立派な仮想敵国。
してないしてない(笑)。地球の裏側へ届く核ミサイルを何百発と持ってるのはアメリカくらいだよ。それについこないだだって「これ以上南シナ海でヤンチャしてたら俺も黙ってねえぞ」と中国にメンチ切って中国のメンツ潰したばかりだし、昨日はグアムにグローバルホークの配備も決定した。太平洋全域を無人偵察機で監視する気満々。覇権を諦めた国のやることじゃねえわな(笑)。
小沢は中国の犬と言われているけれども、別に中国が好きなわけじゃなくて、アメリカの覇権が終わる今、国是を考えて、最善の策を取ろうとしてるに過ぎないと思う。
小沢一郎ってのは、徹頭徹尾「選挙のプロ」でしかないよ。政策とか理念なんてものはゼロ。その辺の土方のオッサンと同レベル。カネと権力を集める事しか考えてない。本当にアメリカの覇権が終わると考えているのだとしたら目玉が節穴にも程があるし、ぶっちゃけ独裁国家の傘下に入ろうなんて正気を疑われるレベル。自国民ですら大虐殺しても政権交代してないような国が、余所の国の人間をどんだけ大切に扱ってくれるかっちゅー話。
面白いな、増田がチラ裏って書いているから俺の書き込みも「ふーん、そんな意見もあるのか」程度で読んで欲しい。
以前アニメを語っている人が、
「アメリカとかフランスとか外国が舞台のアニメでも、日本人が作って日本向けに放送している作品って、
登場人物はその国の人間の容姿をしているけど、中身は徹頭徹尾日本人なんだよね」
って言っていた。
空気を読むとかお金とか性とか仕事への価値観が、本当に舞台となった国の価値観で描写されていたら、
日本人の視聴者はついて行けないから、どうしても「中身は日本人」にせざるを得ないわけだ。
そして増田の書いたことへ繋げると、
ライトノベルだからって、世間に支持されるのは、大衆が支持をする物語は、
学生の容姿をして、中身も学生のまんまだったのがケータイ小説で、社会人が読んだらせせら嗤っていたわけで。
結局公的な発言からは目をそらしたまま、自分に好意的な研究科の発言「だけ」抜き出して「好きなように」歴史を弄んでるだけ。
高宗の伊藤評「日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。」はどう受け止めてるの?
エルヴィンの「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はオットー・フォン・ビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである」も大嘘?
当時、そちらの言うとおり併合に対して好意的な世論だったら、高宗の評価はともかく、エルヴィンの評価は伊藤の評価を下げる事になるよね。