はてなキーワード: 君を忘れないとは
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
俺はメッセージを読み取る。
ひたすらに、感じ取る。
理解しようとする。
瞳に映しだされる未来。
俺はもう逃げ道を失っていた。
本気で愛していた。
何もかもが、壊れていきそうだった。
ブッ壊れてしまいそうだった。
何もない空間へ放り出された。
俺は自動的に中枢へ送り込まれる。
太陽が闇に消え、理解は飛んでいく。
何もない世界が俺を包んでいく。
もう二度と会えないものに溢れて
Tシャツで走っていた夢を見ていただけのことよ。
何もミラずに。何もせずに手に入る幸福なんてあるわけがない。
何もせずに金を稼ごうなんて、そんなの無理すぎる。
じゃあどうする。俺は俺を信じている。
かなりの速度で、俺は俺になろうとしている。
ぐっとこらえる今一秒。サイトファクニティにごめんなさい。
ア・イ・シ・テ・ルア・イ・シ・テ・ル愛してた
愛捨てた。どうでもよかったの。
でもね。ポテトは食べたくなかったの。
大好きゲッチュー君だけに愛を込めて。
ルックルックアフターミー。
私ぞんざい何もできませんが来たきゃくれば?
ナイスなロックでフェスティバル。ロックンロールフェスティバル。
ダイヤモンド・シティ。
俺は願う。ひたすらに感覚を研ぎ澄ます。歴史が俺をつくろうとしている。
闇に消えていった答え。誰のものかも分からない手紙。
宛のない手紙のように、君も誰かのように、僕たちはあるように。
やばい。超(*TーT*)泣けるぜ・・。思い出は記憶を呼び覚ます。
さぁ、これがバイオテクノロジー。全てを越えていく、一瞬の光。
人はいつか消えていく一瞬の光だから。
でもいつも笑っていて
果てのない戦いを挑もうとする。僕は僕になる。
全てが一つ分の地球におさまる。
まるでロボットのように文章を描く。書く。書いていく。
なぜ。それは拘らない。意味が分からない。それでもいい。
大好きだから。元気いっぱいだから。
権限自由自在だから。どうしてもっていう時は思い出して。
破壊の方針を変えながら、理解は更に高みを目指す。
全部、全部必要だからそこにある。
闇に消えていく悲しみがある。
理解を越えたものは、どうやったって分かりづらい。
闇に消えて言った記憶達はいっている、今はまだ死ぬ時じゃないと・・。
元気を出せば理解もできる。俺は逃げ出したんだ。そう、誰にも見つからずに。
俺は最強。最高。少しセンチメンタル。そして、永久に死なない。
俺は死なねぇぜ・・相棒。
死なねぇよ。受け継がれる意志。俺の意志はやがて受け継がれ、誰かの元へ届く。
俺が死んでも俺の夢は叶う。病んだ国民の感情もきっと救えるさ・・
誰かの気持ちが宿る。気持ちいいほどだ。それは、正確にはそれこそは、
ああ、死んでしまった。これはどういうことなのだろう。楽しみが減る。
お腹だって減るもんねぇ~~~~~~~~~
ミギャラース。
瞳を閉じれば聞こえてくるだろう。
笑っていて。
とても、とても儚い想いだ。
どうでもいいけどどうでもいいよ、
ふざけた文章に終わりなどないのよ。
いつもどおり。いつも通りのこの世界。
何もかも、何もかもが終わってしまう、その前に起こすんだ革命。
No more 核。俺はひたすら書く。
途中でどろんでろんになりそうな幅で、もうちょっとこっちがわ。
どうでもいいけど俺の話を聞けよ。聞いてくれよ。
闇は光のためにあるんだぜ。
どうでもいいけどコッペパンください。
ああ、ああ、ああ、素晴らしい。
最高のショーだとは思わんかね。
口ずさむよ想い出の歌。
蘇るよ。色あせぬ日々。
なんとなく常連。
なんとなく君が代。
ああ、平行線が取れないなぁ。
言葉の端々に俺が見え隠れするなぁ。
僕にとっては余白でしかない文字。
文章の空白を埋めるただの小石に過ぎないというのなら。
僕は処女厨なのか、そうではないのか。
--
(前提として、僕は既に性体験を終えている。)
童貞だった頃、『セックスは一生を添い遂げる覚悟のある人としかしないもの』という『セックス=結婚』と言っても差し支えない程の考え方をしていた。
浮気を50回以上繰り返した我が父…
中学の頃、友人宅に遊び行ったら友人カップルが俺がいるのにセックスを始めたこと…
友人の「1日で10回が限界だわ」という謎の報告…
全てが不思議だった。
自分のタイプで、気が合って、好きになって…何ら変なことでは無い、普通のことである。
青春時代に青春を送らなかった僕の行動力は、それまでの人生で最高に爆発した。
恋愛は楽しかった。いつものセーブが効かず、暴走してしまうのだ。
なんだかんだあって、僕は童貞ではなくなった。
初めての行為を終えた後、えらく自分が汚れた気がした。
女「好きってさー、どういう意味なのかな?」
何故か。
そう感じたのかも知れない。
『好きな人と添い遂げた』
というのもあったが、直感的に感じたのはこれではなかった。
貞操観念が、欲望に負けた瞬間である。
セックスという甘い欲望の味を覚えた後は、繰り返し食べたくなるものだ。
それからの僕は、気持ちよさを、体を、心を、コミュニケーションを求めるようになった。
仲良くなる為に、相手を知る為に、セックスという手段を取る。
セックスによってお互いを開放した状態は、子供の頃の無邪気な気持ちに似ていると思う。
僕はすぐに裏切られ、人間不信に陥ったものだ。
『過去なんて気にしない、受け入れるよ』
なんていう言葉も浮かんだが、僕に気持ちの無い相手に、そんなこと言えるはずがなかった。
--
社会人になってからというもの、これまで幾度となく将来のことを考えてきた。
・趣味
・性生活
・結婚
・賃貸派/持家派
・同期との出世争い
いつのまにか、昔ほど『結婚するなら処女!』みたいなことは考えなくなっていた。
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処女、もしくはそれに近しい人と結婚したいと奥底では思っている。
アクセサリー感覚あるいは気持ち良さ優先で相手をとっかえひっかえする人…
好きな人が何人もいた人(見る目が無い人)…
これらの人と付き合った場合、裏切りのトラウマが甦るのは間違いない。
しかし、そこでまた懸念材料が出てくる。
・その相手が、僕みたいな男を好きになってくれるか
一生涯を掛けて尽くそうと思う相手と結婚をする…と考えた場合、自然と貞操観念が強い相手を…
つまり、経験が少なく、浮気する可能性が少ない、真面目な相手を選ぶのだと思う。
誰だってお尻の軽い人は嫌でしょう?
問題は、知る術が無いことである!(テッテレー
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僕は、自分のことを純情だと思うが、はたから見たら確実にそうは見えないと思う。
セックスという手段を行使しようと簡単に目論む…
知らない内に、僕は『ヤリチン』思考になっていたようだった。
私を食べて下さい。それが彼女の最初で最後のわがままだった。
彼女が死んで3日後。準備は全て済んで後は待つだけとなった。1日目にはホームセンターにノコギリと寸胴鍋を買いに行った。2日目には彼女を風呂場で切断した。愛する彼女を切断するのは気が引けたけど、そのままでは食べることができないので切断した。そして3日目。バラバラに切断した彼女を寸胴鍋に入れて煮えるのを待っている。火で炙ろうかとも思ったのだけど、彼女は火葬が嫌だと言っていたのでやめた。ぐつぐつぐつぐつ。彼女が入った寸胴鍋をぼーっと見ている。ノコギリで切断したときも思ったことだけど、愛する彼女が肉片になっていくのはやはり悲しかった。それもノコギリで自分が彼女をバラバラに、肉片に、彼女を分解していく感触は堪らなかった。しかし、ぐつぐつと煮える鍋をぼーっと見ていた。涙も胃の内容物も、彼女が死んでから何も食べていなかったので胃液しかなかったが、とうに全て出し切ってしまっていたのだから。ぼーっと煮えていく鍋を、食材に変わっていく彼女を見ながら僕は彼女のことを考えていた。
僕は彼女を心から愛していたし、彼女もそうであったと思う。彼女はわがまま一つ言わないとても大人しい女性だった。そんな彼女が初めて言ったわがままが、私を食べて下さいということだった。初めは耳を疑った。その言葉を理解できなかった。これは聞き間違いだと自分を落ち着かせるために3度深呼吸をして彼女にもう一度尋ねたが、やはり答えは同じだった。彼女は火葬が嫌だと言う。火葬されるくらいなら土葬がいい。土に還り、私が皆の糧になれるからと。そしてどこの誰とも知れぬものの糧になるよりも最愛の人の糧となりたい。死んであなたの側にいれなくなるのなら、あなたに食べられてあなたと一緒になりたいと。言いたいことはわからないでもない。しかし、やはり感覚的には到底受け入れられるものではなかった。僕は君を忘れない。君は僕の心の中にいつまでもいる。それでは駄目なのかい?と彼女に問うた。しかし、彼女は当然のように否定した。彼女は心の中に生き続けるという考えは好きではないと言う。そして、もし僕が他の女性を好きになり結婚し、子供が産まれたとき、そこに私はいない。でも、あなたと一つになれたなら、その子は紛れもなく私とあなたの子になるではないですかと。彼女は体が弱かったので子供を産めなかった。だからそのようなことを思うのかとも思ったが、やはり受け入れられなかったので議論はいつも平行線だった。
しかし、彼女に死が近づいてもなお、いや、近づくにつれますます、彼女は私を食べて下さい、私を食べて下さいと切に願うようになった。衰弱し、言葉を喋ることが難しくなっても彼女はひたすらに私を食べて下さいと枯れきった声で言うのだ。そして僕は必死になってせがむ彼女を見ていられなくなり、彼女の最初で最後のわがままを受け入れてあげようと、彼女を楽にしてあげようと、彼女に言った。「うん、わかったよ。」と。彼女は最初に驚き、そして涙を流し「わがままを言ってごめんね。でも、ありがとう。あなたを本当に愛していました。」そう微笑みながら言うと、安心したように眠り、もう目覚めることはなかった。
鍋が煮えた。彼女を皿に盛りつける。その臭いと、彼女が皿の上に出されているという目の前に現実に、もう涙という涙、吐瀉物という吐瀉物を出し尽くしたはずなのに、涙が出て、吐いてしまった。洗面台にタオルを取りに行った。洗面台の鏡を見ると涙は涙と言えるほどの水分は出ておらず擦りすぎた目のせいか仄かに赤くてらつくだけで、服に吐いたそれは吐きすぎて痛めた喉の血が混じった唾のようだった。口に入れる前だから良かったものの、口に入れてからはもう許されない。彼女を微塵たりとも吐き出すことなんて許されない。だから今度こそ涙も吐瀉物も出し尽くさなければ。そして出尽くした体から更に赤いものを出して3日目が終わった。
彼女が死んで以来ほとんど寝てなかったせいか起きると5日目になっていた。飲まず食わずどころか、吐き続けていたので飢えも渇きも限界だった。居間に戻ると彼女が入った皿がまだあったので、少し途惑いながらも口に入れた。抵抗がなかったと言えば嘘になるが、先ほどまで寝ていた中のほとんどでその夢ばかり見ていたからもう何十度と彼女を食べていたし、それに何より飢えと渇きには勝てなかった。最初はおずおずと汁を啜り、肉を啄んでいたのだけど、次第に貪り食うようになった。何もかも限界だったようで、一度堰を切ったら止まらなかった。涙が出ているかと思い目に手をあててみたが何も出ていなかった。当然吐き気もあったが、それ以上の食い気に押されてひたすら食べた。味はわからなかった。どんな料理よりも美味であったようにも思えたし、どんな料理よりも不味かったようにも思えた。ただ、一つわかったことは彼女のおかげで僕は生きることができるんだという、食べることによって命を繋ぐことができるんだという、ただただ、原始的な感情だった。
それから2日間、僕は彼女を食べ続け、そして食べ終えた。そこにはもう彼女はもちろんのこと、僕もいなかった。
その後、警察に行き、自首をした。自分がしたことは死体損壊だろうから。何度も事情を話したが誰も理解できないようなので、今これを書いている。皆が理解できるとも、理解してほしいとも思わないが、僕と彼女に捧げるためにも書くことにした。もう僕も彼女もここにはいない。ここには僕と彼女だったものだけがいる。