はてなキーワード: 茂木とは
ネットイナゴの攻撃から身を守るための対策を考えてみた。ここでのネットイナゴというのは、揚げ足の取りプロで矮小化の天才で炎上の愛好者で、でもあんまり賢くないので劣等感を抱えている人間を想定してみる。いるのかそんなやつ。
まずは、真っ白で格式が高い権威。格式が高いのが必要で真っ白が条件。脱税とかセクハラした経歴があるともうダメ。 噂でもアウト。そういうはひたすら突っ込まれる。主張がいくら論理性・妥当性の点で堅牢だとしても、人間的欠陥がある時点で却下される。そういうのあまりにもバカっぽいけど考えないためには便利な方法。というか、最強の詭弁の一つだと思う。権威に関しては、東大アレルギーの人間がちょこちょこいるので、海外の大学や東大以外の高学歴だとなおさら良い。「海外の大学」とかいってる時点で俺の知性が疑われてしまう。マカチューセッチュ……そういうのしらねーもん。自分で頭髪を整えているという茂木さんは典型的な被害者。美容室にいこうよ。まあ煙が立っているだけでも推定有罪で突っ込まれるから、むしろ有名人はネットイナゴを飼い馴らす遊びを覚えた方が楽しそう。その気持ちは百鬼久作。ケサランパサランなんていなかったんや!
次に 、主張が分かりやすくないこと、隙のある大ざっぱなフレーズを使用しないこと。普通、本質さえ押さえていれば分かりやすいことに越したことはないし、例えちょっと粗雑でも核心を突いたフレーズは良いことだと思うんだけど、ネットイナゴはそういった脆い部分を狙ってくる。「○○○だってよww」と説明がないと誤読されるような主張、三行以内でまとめられるな主張はダメ。ひたすら論拠と長文と数値とソースを読めで埋める。岩石の巨兵のように攻撃力を捨ててまで防御に徹するのだ。ゴブリンの突撃兵の出番はない。例えが懐かしいですね。
おまけに、はてなダイアリーか個人ホームページなどに引っ込む。匿名でのコメント欄は廃止する。でも、Facebookの社交的なコメントは目立つように表示する。twitterはちょっとダメ。うかつに発言するとtogetterが容赦なく編集してくる。晒される。石を投げられる。しかも、あそこはみんなと一緒ならデマでも踊れる愉快な人間が多い。赤信号は渡れないくせに! しかも、中にはフォロワー数を戦闘力として判断する過激な戦闘民がいたりするし良いことない。はてブは俺にとってはトラウマなので論外。由来、ネットでの論争は観客の「なんとなく」の印象で決まってしまうから、その印象を(俺にとっては)頭が良い人ばかりのはてな民に任せるのが良いだろう。大型掲示板の原住民や話題に飢えているついったらーよりかは幾分かは公平な審判を下してもらえると思う。ピエルルイジ・コッリーナさんほどのジャッジは期待できないとしても。
それと、あんま露出しない。露出するなら身だしなみに気を付ける。人間像は浮びあがらせてはいけない。ハゲてもいけない。仮想敵にすらなり得ないようにする。facebookは活用してもfacebookに登録するな。あんなのリア充の巣窟だ。全く批判されないような美男美女とかガッキーとか佐々木望とか向井理以外にはありえない。俺はというと、伊東遥が好きなのですがね。お世話になっています。
しかし、この防御策は大手まとめブログに扇情的にまとめられたら意味ない。そもそも扇情的にまとめられないことはあんまりない。だから、敬愛する岩崎夏海さんはもう僕たちだけのハックル先生ではなくなった。まとめブログのサーチライトに照らされてしまうと、ネットイナゴが呼吸ができないほどに周囲を覆い尽して、可愛い顔したハムスターが美しくない溝鼠を総動員させてくるから、そのときはパソコンをそっと閉じてコーヒーでも淹れて飲むことにしよう。窓を擦る夕日はいつでも綺麗でその美しさを奪うような虫はそこにはいない。
ホリエモンとか茂木とか韓流アイドルとか小沢とか上地とか、みんな露骨に嫌いすぎじゃね?
2chでもはてなでもtwitterでもどこでも、「こいつ大嫌い」とか「韓国死ね」とか「人間のクズ」とか、あげく「諸悪の根源」とか、平然と言う人がたくさんいるように見えるんだけど、お前どんだけそいつのこと嫌いなんだよって感じがするのは俺だけ?
そいつに対して強い嫌悪感抱いてるとしても、黙ってればよくね?
匿名で2chとかに書いてスッキリするのはまだわかるとしても、固定IDとか実名で、「私の立場は反○○です」みたいなことを堂々と言っちゃうのはどういう意味があんの?
そもそも、会ったこともなければ、直接自分がなにかされたわけでもない他人のことをどうして心の底から嫌いになれるのか、俺にはさっぱりわかんないわ。
あと、そういうひとって、右翼だの左翼だの犯罪者だの在日だの、それが確定的かどうかは別にするとしても、ある一部分の性質をみて、それをその人のパーソナリティのすべてだと思ってる(ように発言する)やつが多くない?
いわゆる『決め付け』とか『レッテル貼り』みたいなことなんだけど、「こいつは過去に右翼的発言をしたことがあるから、きっとこの件についてもそういう意図が含まれているに違いない」ってな感じで、自分が知らない他の可能性なんかがまったく見えなくなっちゃうのも、わかんない。
人間なんだからさ、根っからの二次元オタクが三次元女性に恋をしてリア充になることだってあるだろうし、金ばっかり稼いできた人が本当の善意で寄付したりすることなんていくらでもあると思うんだけど、なぜか「二次元オタクは恋愛弱者で生身の女性のことなんて理解していない」とか「金持ちが自分の利益にならないことをするわけない」とか、本気で思う人がいて、更にそれをわざわざ糾弾する人がいるってのがふしぎ。
次に下らないことではない、公共放送なんだから云々という議論が白熱しやすい話題にうつるけど、これも俺からすれば「こんなこと複雑でもなんでもない」と思う。
なぜなら、NHK以外の放送局は最初から「みんなに見てもらえるような番組編成」を第一に考えているわけではなく、その時間帯やテレビを見る人たちの流行や求めるものに応じて流すものを決めているのは誰の目にも明らかだから。
いや、これは単純だと思う。(市場のシステムにおける)民間会社である以上、利益があがるプログラムを組むこと、これがNHK以外の放送局におけるプリミティヴな動機でしょう。
で、そうすると利益の追求によって倫理的な問題を起こしてしまう可能性を含む。これを内部から考えるのがコーポレート・ガヴァナンスの議論で、今回はたまたま外部から視聴者によって疑問がおこされただけだと思う。
したがって、
それが普通の態度なんだよ。それが岡村が言う「見たくない奴は見なきゃいい」なんだよ。彼がああいうことをわざわざタレントというデリケートな言葉遣いが重要な職業でありながら言ったのは、この状況がよほど「不自然」に思えたからなんだろう。つまり、自分の好き嫌いを拡声器で街中に向かって叫ぶことを「正しい」と感じている人たちへの強烈な違和感があったということ。
それと、これでもう二回目のデモが起きたみたいだから言うけど、はっきり言ってあのデモの光景は、クレーマーやモンスターペアレンツが一つの場所に集合してぎゃーぎゃーわめいてるのとかなーり近いw
クレーマーもモンスターペアレンツも自分たちの行動が正しいと考える「自分勝手な理由」を持っているけど、韓流デモ参加者もおんなじように自分勝手な理由を持ってる。
やってることは同じだよね。クレーマーは企業、モンスターペアレンツは学校といういずれも自分を「お客様」として扱ってくれる人たちに対して傍若無人に振舞う。デモ参加者も、「視聴者」というお客様として視聴者に逆らえないテレビ局にクレームをつける。俺はこれを弱いものいじめだと思うんだけど、こういうのやってて恥ずかしくないんかなぁとほんと思う。
というように個人の嗜好を主軸に行動を起こしているとは僕は思わない。
もちろん、個人の視点(perspective)によって意見を起こしているのは当然。私たちは一市民として声を上げる権利を有する。
振る舞い、行為を「どうやって」実現していくかの言説は良いと思う。
個人的には一回目に『散歩』といったのはカッコヨカッタなーと思うけど。
今回のデモは知らないけど、前回は韓国そのものを批判したりフジテレビが韓国に乗っ取られていると叫んだ人までいるようだ。ここまでくると、根底には単なる韓流批判だけではない何かがあるのでは?と思う。そう思う人たちがたくさん出てきたのも不思議ではない。
脳科学者の茂木がこのデモの真意を明確に人種差別と表現したみたいだが、俺もその線が怪しいと思ってる。
もちろん、真実は分からないが、単に「韓流を流されるのが嫌」という理由で何千人も集まるほど日本人って恥をしのばない民族だったっけと思うとそういう風に考えるのも間違いではないような気がしてくる。
隣人とケンカするのはどこの国でもよくあること。互いのいいトコ、悪いトコよく見えてしまうし。
でも日本人の排他的な態度が背景に透けて見えるのはそうだと思う。ただこれをメインにもってくると議論がよく分からなくなる。
痛快だったのは『チャングンソク(? ちょと名前たしかでない…)誰だー』『誰だー』と叫んでいたと。
うーん、偏った人が偏ってない人間のフリをしている、まさにネット○○と同じ感じがする。彼らより冷静っぽいのが救いだけど。
韓流デモに自分は批判的、というかあいつら馬鹿だろと思ってる立場から書くが、そう思う理由は一つ、
「何でこんなことでデモしてる自分を正当化してんの?」ってこと。
これはあなたが書いているように、(1)「もっと重要な問題があるだろう」に当てはまる。それについてのあなたの批判も理解できる。しかし言わせてもらう。
これは批判者が「自分だって下らないことをしている」のはぜんぜん問題にならないということ。次元が違うから。
この次元の違いを偏った視点からものを見ているあなたは理解出来ていないと思うよ。
それは、「自分の個人的感情でデモを起こすような馬鹿ばかしさ」を批判者が批判しているということ。
あなたが思ってるような、「領土問題とかを棚上げしてデモしてる」のが問題ではないんです。ここが間違いなんだよね。
あなたの論理で言う「どっちもどっち」は当てはまらない。なぜなら、デモしてる人は「くだらないことをデモをしてまで主張している」のに対し、批判者はあくまでも「個人的な声の届く範囲でくだらない個人の見解を発信している」から。
つまり、批判者をどっちもどっちとか五十歩百歩というように同じ舞台に引き摺り下ろすためには、批判者たちが「韓流デモに反対するデモ」をやらなければならない。そこまでやれば、はじめて「あいつら結局デモを馬鹿にしながら自分たちもデモしてんじゃん。馬鹿だなぁ」ということになるんだよ。
次に下らないことではない、公共放送なんだから云々という議論が白熱しやすい話題にうつるけど、これも俺からすれば「こんなこと複雑でもなんでもない」と思う。
なぜなら、NHK以外の放送局は最初から「みんなに見てもらえるような番組編成」を第一に考えているわけではなく、その時間帯やテレビを見る人たちの流行や求めるものに応じて流すものを決めているのは誰の目にも明らかだから。
俺はNHKばっかり見て民放をほとんど見ないが、その主たる理由は「テレビ局が流すものを自分が見たいと思ってない」からだ。以前マルモリダンスが話題になったとき、あの二人がたくさんの番組に出ていたが、俺はあのドラマを見ていなかったし主題歌に興味もなかったからあの手のインタビューや特集は一切見なかった(今はマルモリダンスにはまってるけどね笑)
それが普通の態度なんだよ。それが岡村が言う「見たくない奴は見なきゃいい」なんだよ。彼がああいうことをわざわざタレントというデリケートな言葉遣いが重要な職業でありながら言ったのは、この状況がよほど「不自然」に思えたからなんだろう。つまり、自分の好き嫌いを拡声器で街中に向かって叫ぶことを「正しい」と感じている人たちへの強烈な違和感があったということ。
ここで話を戻すが、つまり、批判してる人が「そんな下らないことで・・」と言ってるのは、単に「領土問題とか他にもあるだろ」という風に言いたいだけではないの。
そのさらに奥にあるのは「自分が韓流ドラマ嫌いなだけなのに何千人も集まってデモ起こして、領土問題とか政府の隠蔽デモとかと同じような価値があるといいたげな態度が気持ち悪い」ということ。
批判者の声があまり強くないのは、彼ら自身も韓流ドラマにはあまり興味が無い、もしくは嫌いだからだろう。俺も最近個人的興味として録画してはいるが、以前は全く興味無かった。
デモをしてる人とデモを批判してる人には共通点がある、だから批判されにくい。でも、そこにはれっきとして批判されるべき理由があり、それが「そんな下らないことでデモなんか」ということなのだ。
これを理解しないと、いつまで経っても「くだらなくはない!公共の電波を使って韓国のドラマを垂れ流すのは云々」と外れまくった反論を延々と続ける羽目になる。
それと、これでもう二回目のデモが起きたみたいだから言うけど、はっきり言ってあのデモの光景は、クレーマーやモンスターペアレンツが一つの場所に集合してぎゃーぎゃーわめいてるのとかなーり近いw
クレーマーもモンスターペアレンツも自分たちの行動が正しいと考える「自分勝手な理由」を持っているけど、韓流デモ参加者もおんなじように自分勝手な理由を持ってる。
やってることは同じだよね。クレーマーは企業、モンスターペアレンツは学校といういずれも自分を「お客様」として扱ってくれる人たちに対して傍若無人に振舞う。デモ参加者も、「視聴者」というお客様として視聴者に逆らえないテレビ局にクレームをつける。俺はこれを弱いものいじめだと思うんだけど、こういうのやってて恥ずかしくないんかなぁとほんと思う。
(追記)
最近はヤフーとかでK-popのニュースがあると、コメントで「テレビで韓国ネタが出るとすぐチャンネル変える」と書いてる人がいるけど、
それでいいんだよ。それが本来の態度。自分に興味がないことを見る必要は無い。チャンネルを変えるか、消せばいいだけ。
デモをしてる人たちってのは、それだけではダメだと思ってる。それだけではなく、「街中でデモを起こしてみんなに俺が韓流嫌いであることを知ってもらいたい」と思ってる。
今回のデモは知らないけど、前回は韓国そのものを批判したりフジテレビが韓国に乗っ取られていると叫んだ人までいるようだ。ここまでくると、根底には単なる韓流批判だけではない何かがあるのでは?と思う。そう思う人たちがたくさん出てきたのも不思議ではない。
脳科学者の茂木がこのデモの真意を明確に人種差別と表現したみたいだが、俺もその線が怪しいと思ってる。
もちろん、真実は分からないが、単に「韓流を流されるのが嫌」という理由で何千人も集まるほど日本人って恥をしのばない民族だったっけと思うとそういう風に考えるのも間違いではないような気がしてくる。
韓国嫌いの感情がかなり昔からあるのは以前ネトウヨだった俺が調べて分かってる。バカチョンもその名残だしな。
だから、韓国と個人的感情が結びつくとデモすら起こってしまうということを今回の例は示しているんじゃないだろうか。つまり、日韓友好のためにはうわべだけでは到底ダメだということ。
http://anond.hatelabo.jp/20110519020819
忘れたい具体的な明確な失敗みたいなのって、俺はそんなにないんだけど。
たまに、過去のちょっとした失敗を1人思い出して、「あーっ」て叫びたくなってる。
恥ずかしすぎて半笑いになってる。
会社でも、山手線の中でも、おかまいなしに急に来るから困っちゃう。
あれ何なんだろうな?俺だけ?
きっとじいさんになっても、1人「あーっ」ってなるんだろう。嫌だな。
元増田の忘れたい失敗がどんなレベルかわからない。すげえ重いレベルだったらごめん。
俺は「脳」の奴が原因だと思う。
こんな事言うと、茂木とか言う人の本とかテレビとかに影響されてそうだけど、一切見てない。
これまでの人生を考えると、感覚的に脳から「失敗」についての情報を忘れないように、連絡がくるイメージを持ってる。
携帯のアラームみたいな機能が、脳には組み込まれてんじゃないかな。
それが、スヌーズ機能のように一定期間で、警鐘をならし続ける。
「あんな嫌な思い、お前またしたくないよな?」と脳から言われてる気がする。
PK外した選手だってすげえ悔しくて、次のPK外さないように練習するんだ。シンプルに考えると。
こうやって、人は成長していくんじゃないかな?
何度も脳が警鐘を鳴らしても、それを上回る欲望があったら、クスリとか常習犯になっちゃうんだろうけど。
後は、「他人の脳」に元増田の失敗が残っているかどうか。これも重要だな。
失敗を思い出したとき、一見、すげえ色んな人からクスクス見られてるような辱めにあってる、嫌な気分なんだけど。
結局「脳vs俺」みたいな「俺天下一武道会」だと思うんだ。
俺の失敗って、他人にとっては大きな存在じゃないんじゃないかな。
「他人が元増田と同じ失敗をしないための情報」として処理されているんだと思う。
そこに付随していた辱めてやろうっていう他人の感情は時と共に無くなって、ただの情報に変わって行く。
だから、元増田が思ってるほど他人にとってはたいした事ないものなんだ。
俺くらいおっさんになってくると、むしろ寂しいけどね。他人の中でただの情報になっちゃうなんて。
ニヤニヤ見ている観客なんてひとりもいない。
めんどくさくなったら、富樫先生みたいに休載しちゃえば良いんじゃない。
オレが日本の法律関係者に訴えたいことは、民法の「連帯保証」に関する条項の一日も早い削除。銃よりも多くの人の命を奪い、鎖よりも多くの人の自由をうばっている。こんな前近代的な制度を放置しているのは、国際的な恥である。
銀行等が同内容の合意を求めることは止められないだろー。
その合意がただちに無効になるわけでもない。
茂木サンの主張に従うなら、求めるべきは「条項の削除」ではなく「規制条項の追加」じゃないか?
銀行や不動産貸主の多くが、契約時に連帯保証人をつけることを求める慣習が存在する、という意味での「制度」は
別個のものだ。
とりあげられている問題のうち、「連帯」のつかない保証なら回避できる問題が、どの程度あるんだろう。
連帯保証と単純保証も混同して扱われてて、無駄にツッコミどころを増やしている。
茂木サンは「連帯保証人制度は~」という重々しげな論じかたをしてるけども、
言いたいことは「貸し手は(連帯だろうが単純だろうが)保証人を求めるな」ってだけなんじゃないか?
この点について思うのは、
「保証人を求める貸し手」よりも「保証人になってくれと頼む借り手」の方が悪質だということだ。
・・・という書き出しで、
貸し手批判ロジックを
と単純化して、
①と②はつながらないんだよー、ってことを書こうと思ったけど、
自分の直感とあまりにあわないので、続ける気力がわかないや。
いう切実な問題とともに、人生を見つめなおす必要がでてきた。
年も若くない。31になった今後どうやって生きてくんだ。
三連休、寂しさもあいまって鬱々とした気分でいる。
重ねて、心が明るくなるようなビジョンが出てこない。
熱い志しを語っていた。
すげぇよ。すげぇビジョンだ。でも、あんたにしか描けない。
何も積み重ねてこれてない、自分には当然、そんな
ビジョンなんて描けない。
ことができない。
でも、一般ピープルが「事を成す」ことなんてできるのか?
その人のサイズにあった「事を成す」でいいのかもしれないけど、
俺になんかできるのか?
・人を救うような革命は起こせない。
・人の生活を便利にするような革命を起こすことができない。
がんばれば、近所のおばあちゃん達の介護を頑張って
人の役にたつことができるかもしれないけど、
もう一つテンションがあがらない。
幸せな家庭を築いて、まぁ楽しく生きるのが積の山か。。
立派な人が語る、人生の熱さとは無縁の生活だ。。
むなしいぜ、俺の人生。
しょうもない映画を最後まで見てもしょうがない、
前半の20分でやめときゃよかったという糞映画。
・そんな中、いろいろ考えてた時に思いついたことが、
少々、ハイになってきた。
それは、日常の中で「ヒーハー」を求めて生きるということ。
「ヒーハー」とは、ブラックマヨネーズ小杉がテンションあがった
ドット出る。
自分の生活でも、心の中で「ヒーーーハーー」が適切な瞬間がいくつも
あの体験が「ヒーーーハーー」だ。
「ヒーハーー」が起こるには、2パターンある。
自分にとっては快な状況になり「ヒーーハーーー!」
いつ勃発するかわからない。
もう一つは、偶発的ではなく、
自分から発動できる「ヒーーハーーー!」だ。
それは、少し挑戦的な事柄をやり遂げたときに「ヒーハー!」が
発動する。
「自分ができなかったことができると、脳内でドーパミンが放出され、
強化学習が成立する。」ってやつ。
フロー理論でいうところの、自分が能動的な姿勢で、自分の能力を駆使して、
感じるというのにも繋がる。
日常のなかで、この「ヒーハー」を求めて行動するようにする。
「ヒーハー中心の生活」を目指す。
「ヒーハー」が多い人生はきっと実り豊かな人生なんでないかな。
結果としておもろいものになっているのでは?
さて、僕は女の人のコミュニケーションが苦手でコンプレックスでも
あるのだけど、「ヒーハー」の視点から見れば、そこには
埋蔵されまくっていることになる。
TO BE HeaaaaaaHA!!!!!!!!
茂木健一郎氏のブログエントリーで気になる点があったので指摘したいと思います。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
まず、前提として私は茂木氏の主張には賛成です。
茂木氏は、日本での行き過ぎた標準化の弊害として、突出した能力が育ちにくいと述べています。それの対照的な例として、アメリカの個人の得意な分野を伸ばせるシステムに言及しています。茂木氏の要点としては『学力における個性と、標準化のバランスをどのように見るか。この点においてアメリカと日本の大学入試は、異なる思想に基づいている。』(本文より)ということです。
しかし、茂木氏の説明にはあまりにも説得力が欠けており、この人は実はあまりきちんと考えずにこのエントリーを書いたのではないかと考えてしまいます。
その理由は、日本の大学入試問題とアメリカのSATという試験を比較対象にしているところです。
SATとは、日本でいうセンター試験のようなものです。「ようなもの」と書いたのは、SATとセンター試験とは大きく異なる点がいくつかあるからです。
*SATはセンター試験のように大学入学のためだけの高校範囲の理解度をはかるものではなく、言語能力と数学の基本的な能力をはかるものです。
*センター試験は大学入試の前の一発勝負ですが、SATは何年生からでも何度でも受けることができ、大学に応募するときには一番高い得点を採用することができるので、どちらかというとTOEFLやTOEICによく似ています。
*東京大学というのは言わずと知れた日本の一番学問的な偏差値の高いところですから、学生に高い思考能力を求めるのは当然です。東京大学以外の大学では一問一答式のお粗末な入試問題を出すところも多いのですが、そのことには触れられていません。
ですから、個別の大学の大学入試問題とSATを比較し、求められる思考能力のレベルに言及し悦に入るのは明らかに的外れなのです。
日米どちらのシステムがいいというのは一概には言えません。教育を受ける個人によっても違うでしょう。
日本は多岐にわたる教科すべてで高いレベルを求め、いわゆる知識的にはAll roundedな人間を育てようとしますが、アメリカでは得意な分野の教科を重点的にとれるなど、個人の特性にあわせた教育が行われるよう配慮されています。私の感覚では思考能力を育てる教育をしているのはアメリカのほうです。アメリカでは小さいときから著述式問題を解かせ、表現能力を養うほか、学年が上になると論理的な文章を書くトレーニングを繰り返し行います。知識を吸収し、正しく物事を理解するアプローチを取る日本より、批判的な視点が養われると思います。どちらにもメリット、デメリットはあるのです。
茂木氏の指摘に、日本のやり方では高校の範囲で足止めされてしまい、能力が伸ばせない学生が出てくる、とありますが、果たして本当にそうでしょうか。
アメリカには国で統一された標準のカリキュラム、というものはありませんが、この分野ではここまで理解しているのがふさわしいとされる基準はあり、高校でそれ以上のレベルの授業をオファーしているところはほとんどありません。必修の科目も多く、レベルの高い高校では学生は日本の学生のように日々勉強に追われています。大学入試は日本のように一発勝負ではなく、課外活動も含めた高校生活すべてが見られるので、アメリカの学生はいい大学に行くために日本の学生以上に多忙です。茂木氏の『アメリカのSATは簡単だが、同時に、高校生の時から非可換代数や無限集合論に精通した学生をつくるかもしれない。』という主張の根拠はどこにあるのでしょう。
確かにアメリカは才能を伸ばす教育をしているので、数学が良くできる生徒は大学の講義をとれたり、夏期の数学キャンプに参加したりして自分の能力を伸ばすことができます。それはあくまで自主的に自分の時間にしているのであって、日本の学生だって趣味で高等数学を勉強しようと思えばいくらでもできます。
茂木氏は学校というものに期待をしすぎているのではないでしょうか。優秀な学生は、特に高校生にもなれば、人の手を借りなくても自分でさっさと知識を探し吸収していくでしょう。日本の教育は比較的受動的な学生を育てるので、どうやって自分自身で次のレベルに進むか分からない、という問題があるかもしれませんが。
まあ落ち着きたまえ。気に障ったのならすまん。ごめんなさい。
ごめんね、喧嘩売るつもりはなかったんだ。
ただ、はてな民とかを中心に「日本の大学はアメリカ様から見ればカス」みたいなことを言う奴が多くてイライラしてたもんで、そういう奴の言い分と似てるように見えたからつい噛みついてしまった。
そういう奴って何か、ちょうどワールドカップやってるからサッカーにたとえて言うと「自分は高校の部活レベルでもサッカーやったことないくせに、ヨーロッパの威を借りて日本サッカーを馬鹿にしてる自称サッカーファン」みたいに見えるんだよね。他人事なら「痛い奴」ですむんだけど、自分が「Jリーガー」の立場だからちょっと頭に来るんだよね。「確かにレアルやバルサには勝てないかもしれないが向こうの二部よりも下みたいに言われたくはない」「お前らどんだけ選手の良い悪いがわかるんだ」とか思うわけよ。レベル的な意味ではサッカーより野球の方が多分たとえとしては近いと思うけど(日本プロ野球にも超一流選手はいるけど数ではメジャーに圧倒されてるし、資金的な面が主な理由で人材を引き抜かれ気味という意味で)。
そういうこと言ってる奴に限って、自分が高校や大学で勉強してなかったことの言い訳に「日本の大学受験が悪い、大学教育が悪い」とか人のせいにしてるからね。どう考えても日本とアメリカの大学の差を客観的に評価できるほど(たとえば自分の専門分野の世界的な状況を把握した上で、同じぐらいの見識を持った他分野の人の話を聞けるほど)能力ないだろと思うことが多いから。
サッカーの場合はワールドカップとかで勝てばその手の自称ファンとか評論家を黙らせられるけど、学問の世界の場合はノーベル賞とか、そういう一部の分野に限られた、しかも多分に人脈とかがつきまとう賞の数ぐらいしか一般人には判断基準がないわけで、そう思われても仕方はないと思うんだけど、未だに昔の「ゴーマン・リポート」なんて信憑性の低い資料の印象がつきまとってるんだから、つくづく日本人は舶来信仰が強いんだなと思うよ。
まあ落ち着きたまえ。気に障ったのならすまん。ごめんなさい。
なんか日本の制度のほうが優れてるって読めたから、書いてみただけだよ。茂木の話とは分けるべきだな。
ただ、
大学院ってのは指導教官で選ぶべきものだし、そのために東大の学部から地方大の大学院に行くという選択肢だって普通にあるんだよ。就活で不利になるかもしれないというのだけがちょっと問題だけど。
指導教官で選ぶのはリスクがあるのでは? 移っちゃうかもしれないからね。
だったら、その大学院が目指す研究分野の拠点になってるかどうかのほうが重要だと思う。
だから、
ただし、化学や生物の実験系みたいに金やコネが強力にものを言う世界(有り体に言えば生臭い世界)では米国の方がいいという話も聞くね。そもそもネット内外で「日本の大学はダメ、米国に行け」と言っている人はその分野の人が多い。
というのは、十分理にかなってると思う。
ttp://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100122/plc1001221034007-n1.htm
鳩山由紀夫首相は22日午前の衆院予算委員会で、「朝三暮四の意味を知っているか」と尋ねられ、「よく知ってます」と前置きした上で「朝令暮改」の意味を説明、とんだ赤っ恥をかいた。
自民党の茂木敏充幹事長代理が、麻生前政権が昨年4月に成立させた平成21年度第1次補正予算の一部を鳩山政権が執行停止した一方で、第2次補正予算案に停止した事業を盛り込んだと批判する狙いで、朝三暮四の意味をただした。
ところが首相は「朝決めたことと夜決めたことがすぐ変わるという意味で、あっさりと物事を変えてしまうことだ」と自信満々に語った。
朝三暮四は、猿にトチの実を朝に3つ、暮れに4つ与えると言ったら猿が少ないと怒ったため、朝に4つ、暮れに3つやると言ったら喜んだという中国の故事。茂木氏は「朝と夕で数を変えることでごまかすということだ」と政府を批判した。麻生太郎前首相は漢字の読み違いを連発し、「漢字が読めない首相」として内閣支持率低下の一因になった。
インターネットの発達で、紙の本や雑誌は滅びる――そういわれてから何年たつだろう。そしてそろそろ事態が動きはじめたかと思われる節がある。まずグーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出した。コンテンツはこれでかなりの蓄積ができた。またリーダー機器の面では、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーを発表し、一定の成功を収めている。流通も、アマゾンの電子ブック販売や、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。
だがその過程で、電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。それを示す事件が最近立て続けに起きている。
アマゾン・コムのキンドル用に、オーウェル『1984年』『動物農場』の電子ブックを買った人は、6月に驚愕した。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。いったん買った本や雑誌やソフトが、自分の本棚やパソコンから勝手に消し去られるなんて、これまでは物理的にもありえない!
アマゾンは、この対応について平身低頭し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ自体に多くの人が戦慄した。そしてその舞台がまさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた『1984年』だったとは、なんたる運命の皮肉か。
一方アップルは、オンラインのiTunesストアで販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、たいへん神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと普通の英語辞書がこれを理由に改変を要求され、ストアへの出店を拒否された。アップルは対応のまずさを認めたものの、方針にはいまのところ変化はない。
わが国では動画投稿サイト、ニコニコ動画が同様の問題を示した。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがなんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。
当然ながら彼らはそのコンテンツについて何の権利ももっていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴは、この無根拠な抗議にあっさり応じて、問題の動画を削除してしまった!
ニワンゴの経営陣でもある西村博之がこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。
ネットは著作権無視の違法コピーが横行する面ばかり取りざたされることが多い。でもじつはデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回取り上げたケースが如実に示しているように。
これはネット法学の第1人者ローレンス・レッシグの10年前からの主張だが、それが急激に現実味を持ち始めている。紙媒体では物理的にできなかったことが、デジタル媒体では平気でできてしまう。そのとき、いま当然と思われている権利や自由があっさり破壊されかねないのだ。
いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消して、ほとぼりが冷めるのを待つ、というのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。ブログの罵倒合戦くらいならそれでもいい。
だがデジタルメディアが紙媒体を置き換えるなら、紙媒体で建前にしても重視されている規範をどう維持するのかも考えるべきだ。目先の個人的な快・不快なんかより重要なことが世の中にはあるんだから。デジタルコンテンツも、それを考えざるをえなくなりつつあるのではないか。そしてそれを私企業の倫理だけに任せられないとしたら、どんな規制がありうるだろうか?
じつは今年、そのヒントになりそうな出来事がもう1つあった。脳科学者の肩書で各種メディアに頻出している茂木健一郎が、ネット上のボランティア執筆による百科事典ウィキペディアでの自分に関する記述に文句をつけ、それをかなり我田引水なかたちで大幅に書き直した。それに対して項目執筆者たちはひるむことなく、ウィキペディアの執筆ルールに基づいて茂木の苦情に形式的には対応しつつ、ほぼ従前の記述を復活させて、誠実な対応とメディアとしての中立性を見事に両立させたのだ。
こうしたネット上の自主的な倫理や規範も多少の可能性があるのでは? むろん、それがどこまで公的な権利保護の規制を補完代替できるかとなると、まだまだ考える必要はあるのだが。
茂木健一郎氏の本はどうも読んでてひっかかることが多い印象だったのだが、きょう「思考の補助線」という本を読んでてその理由が少しわかった気がした。
たとえば96ページに
「ITがネットワーク化の拡張をメルクマールとして発展していく中で、必然的に標準化の事態が進むという状況がある」
という文があるのだが、これは
で充分なはずである。また同じページに
「今日において、世界の多様性を握りつぶすことにつながると懸念される契機には、さまざまなものがある」
と書いてあるが、これは
という意味なのだろうか。
どうも、難しそうな文を書くことによって自明な話をわかりにくく記述しているように見える。内容についてはともかく、茂木氏は文章は上手なのかと思っていたのだが、とんだ誤解だったのかもしれない。